蝉時雨
アスファルトの道路の上に陽炎が立っている。照りつける太陽に、額の汗を拭いながら、
「よく、蝉時雨っつーけどよ」
と、冬獅郎は傍らの乱菊に話しかけた。
「時雨なんて可愛いもんじゃねぇぞ。現世の蝉は」
「そうですねぇ。むしろ、蝉土砂降り?」
「あ〜、そっちの方が感じが出ているな」
氷雪系の斬魄刀の持ち主だけあって、寒さには滅法強いが暑さには弱い冬獅郎は、尸魂界の夏とは一味も二味も違う現世の暑さにぐったりとしているようだった。
「大丈夫ですか、隊長?」
「大丈夫だ」
「ああ、見えてきましたよ」
乱菊が指差した先に、巨大なブロンズ像があった。
「でかいな。鎌倉大仏と同じくらいか?」
「ちょっと小さいかもです」
冬獅郎が十番隊長に就任して初めての夏。
乱菊から提出された「現世許可願い」に、冬獅郎は眉を顰めた。現世には尸魂界にはない文物が色々とあり、乱菊はしょっちゅう「現世許可願い」を提出しては買い物や現世の娯楽を楽しんでいたので、今回もその類だと思ったのだ。
「行くなとは言わねぇが、少し控えたら…」
口にしかけた小言は途切れた。乱菊が提出した許可願いに記入されていた日付と場所は、重い意味を持っていた。目的欄は空白になっていて書類としては不備だったが、冬獅郎は黙って隊首印を押した。
それから、毎年。
夏が巡る度、乱菊は同じ日、同じ場所に「現世許可願い」を提出し続け、冬獅郎は許可印を押し続けた。ローテーションの関係でその日が非番とは限らなかったが、よほどに手の離せない仕事や討伐でも入っていない限り、乱菊はたとえ半刻ほどの短い時間であっても、必ずそこに赴いていた。
そして、今年、いつものように「現世許可願い」を差し出した乱菊に、冬獅郎は、
「今年は俺も連れて行ってくれねぇか」
と、頼んだ。
「行って、楽しいところじゃありませんよ」
「だろうな」
「現世はとんでもなく暑いですし…」
「知ってる」
「隊長、どうして?」
「一緒に行って何が分かるわけでもねぇだろうがな。見たいと思ったんだ」
冬獅郎の言葉に、
「ありがとうございます」
と、乱菊はふんわりと微笑んだ。
そして、今、冬獅郎は乱菊が訪れ続けた地に立っていた。
目の前の巨大な銅像は現世の高名な彫刻家の手によるもので、右手で天を指差し、左手を水平に伸ばし、半跏の姿勢で台座に腰掛けている。天を指す右手はこの地に落とされた忌まわしい爆弾の脅威を、左手は平和を示しているのだ、との乱菊の説明に、冬獅郎は無言で頷いた。
ブロンズ像の手前には、水しぶきを上げる噴水のある泉がある。
「水を欲しがりながら亡くなった人たちを慰める為の泉です」
と、乱菊は告げた。
のどが乾いてたまりませんでした。
水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。
どうしても水が欲しくて とうとう油の浮いたまま飲みました。
泉の前面に据えられた石碑に刻まれた、重たい碑文を読む。
「ここは、爆心地だったんですよ」
と、乱菊は語った。
「あたしたちが魂葬に降りた時、ここは一面の焼け野原で何にもありませんでした。いたのは、一瞬で体を灼かれて、…自分が死んだことさえ認識できないほどの一瞬の間に命を奪われて、途方に暮れる大勢の
六十年ほど前の八月九日、長崎に一発の爆弾が投下された。プルトニウム239による「原子爆弾」と呼ばれる新型爆弾は、たった一発で七万を越す人間の命を奪い取った。
「でもね、隊長。このあたりにいた人たちはむしろ幸せだったんですよ」
「…」
「本当に一瞬で死んでしまったから、苦痛を感じる暇もなかったですから。爆心地から離れるほど、一瞬で死ねなかった人は多くて…」
全身に火傷を負い、水、水と呻きながら死んでいった人々。怪我もなく、爆弾投下直後は元気に他人の介抱をしていたはずなのに、突然、髪が抜け落ち得体のしれない苦痛にもだえながら死んでいった人々。そして、いっそ、死んでしまえたら楽だろうにと、死神の乱菊でさえ感じてしまう大怪我を負いながら、死ねずに生きている人々。
その三日前の八月六日には、広島にウラニウム原子爆弾が落とされていた。当時、広島は六番隊の管轄区域だったのだが、あまりの死者の数に六番隊だけでは対応できず、五番隊と七番隊が魂葬の応援に出ていた。現場指揮官として広島に降りた五番隊の三席は乱菊の親友だった。現世に降りたまま、戻って来ない親友を案じ、連絡を入れた乱菊の声に、部下の前で泣く訳にはいかなかった彼女は気が緩んだのか、泣きじゃくりながら、広島は地獄のようだと訴えた。乱菊は黙って彼女が落ち着くまで話を聞いてやったが、翌日になって十番隊の管轄地だった長崎にも原爆が投下されてしまった。現場指揮官としてかの地に降り立って、親友が訴えた「地獄のような」光景が誇張でもなんでもなく、むしろ控えめにしか話していなかったことを乱菊は悟った。
苦痛のうちに死んでいった人々が虚と化してしまわないように、乱菊たちはそれこそ不眠不休で魂葬に当たった。乱菊が現世を離れ、尸魂界に戻れたのは、月が変わり、秋口に入ってからのことだった。
それから毎年、乱菊はこの地を訪れないではいられなかった。
焼け野原にバラックが立ち並び、バラックがちゃんとした住宅になり、地方小都市として復興してゆくさまを、乱菊は見つめ続けてきた。ただ、見つめるだけ。それ以外にどうすることも出来なかったし、それでどうなるわけでもなかった。どうして、自分がこの地にこだわり続けるのかも、乱菊は理解していなかったが、それでも訪れないではいられなかった。
「そろそろ、戻りましょうか?」
隊長・副隊長が揃って現世に降りているのだ。あまり長居は出来ない。そう考えた乱菊が、冬獅郎に声をかけた直後だった。
「死神さん」
と、呼びかけられたのは。
驚いて振り返ると、品のよい老婦人が二人の背後に佇んでいた。夏用の絽の着物をまとい、日傘を差したやせぎすの婦人だった。若い頃はさぞかし美しかったと察せられる整った面差しをしていたが、右の顎下から首筋、そしておそらくは背中にかけてまでだろう、火傷の跡がケロイドになって残っていた。
冬獅郎たちは義骸に入ってはいなかった。死神のまま、現世に下りた二人は一般人には見えるはずがない。にもかかわらず話しかけてきたその婦人を、
「あなた、生霊ね」
と乱菊は看破した。
「ええ」
と老婦人はあっさりと肯定した。
「今日、ここにいれば死神さんに会えると思って、ずっと待っていたんですよ」
「え?」
「毎年、いらしてたでしょう。ですから、待っていました」
と、彼女は微笑んだ。
「私、本当はもう死んでいるはずだったんです。でも、どうしても、あなたにあの世に送っていただきたくて、今日まで粘ってしまいました」
「あの、どうして…?」
「あの時はとてもたくさんの人が亡くなったから、死神さんは覚えてらっしゃらないでしょうね…。私の両親と兄は、原爆が落とされた日に死んでしまって、死神さん、あなたに『魂葬』でしたっけね…、あの世に送っていただいたんですよ」
と、老婦人は語った。
乱菊の魂葬が見えたというのなら、この女性には霊力があったことになる。見返す乱菊に、彼女は続けた。
「『お母さんたちと一緒に逝く、私も死なせて』って、小さかった私は泣き喚いて。その時に死神さんはおっしゃったんです。『つらくても命が終わるまでは、生きなきゃダメ』って」
「…」
「あの世というところは極楽ではない…と。この世と同じように霊魂が一日一日を暮していて、そして、時が来れば、再びこの世に新しい命として生まれてくる場所なんだ、と。だから、この世で一生懸命生きることが出来なかった魂は、あの世に行っても一生懸命生きるなんて出来やしない。どんなにつらくても、前を向いて歩ける魂にだけ、幸せになる権利があるんだって。そう、おっしゃいました」
「そう、ですか」
覚えていない乱菊は、戸惑っていた。
「つらくても、一生懸命生きていれば、きっと会えるって、死神さんは教えて下さいました」
「会える?」
「ええ。お母さんたちはいなくなってしまっても、大切だと思える人にはいつかきっと出会える、って」
老婦人は少女のように日傘をくるくると廻した。
「出会えたのか?」
それまで、黙って、婦人と乱菊を見守っていた冬獅郎が初めて口を開いた。婦人は頷いた。
「ええ、会えましたよ。私の旦那さまに」
「そうか」
「無口で不器用な人だったけど…。こんな醜いケロイドがあるのに、私のことを好きだって言ってくれた人です。心配していたけど、子供も産まれました。私は原爆のせいで、ずっと病弱でしたけど、娘は幸い、元気に成人してくれました。今では孫もいます」
「そうですか…」
「細く長くっていうんでしょうかねぇ。この歳になるまで、病弱ながらも生きてきたんですけど、ポンコツの私の体は、さすがに、もう
とむしろさばさばとした口調で、彼女は続けた。
「だけどねぇ、もう死ぬって分かった時、あの世に送られるなら、どうしても、あなたに送っていただきたいと思ってしまって。…九日まで頑張れば、あなたに会える、送ってもらえる、そう思いついてしまって…」
生きろ、と励ましてくれた、大切な人に会えると諭してくれた死神だから。毎年毎年、あの怖ろしい爆弾が落ちた日に、忘れずにこの地を訪れてくれる死神だから。どうしても、乱菊に魂葬されたかったのだ、と婦人は笑った。
「隊長…」
乱菊は上司を窺った。
現在、長崎を担当しているのは九番隊だ。本来であれば、九番隊の現地駐在の死神に連絡して、魂葬させるのが筋である。しかし、乱菊に魂葬されたくて、消えかけた命の火を必死に保ってきた老婦人を前にして、断ることは出来なかった。
「魂葬してやれ。東仙には、俺から話しておく」
と告げた冬獅郎に、乱菊はほっとして笑みを浮かべた。
「あんたの本体はどこだ?」
尋ねた冬獅郎に、婦人は長崎大学の大学病院がある方角を指差した。
婦人に先導され、大学病院に向かう。
病院の敷地内に入ると、蝉の声が一層大きくなったような気がした。
「ここも蝉の声がうるせえな。病人にはつれぇだろう」
と、独り言ちた冬獅郎に、
「蝉の声を聴くと、暑さが増すようでうんざりするって人は多いですけどねぇ。私は蝉の声を聴くと、嬉しくなるんですよ」
と、老婦人は笑った。
シャアシャアとうるさいくらいのクマゼミの声が降ってくる木立の下に佇み、
「生きてる、生きてるって、私には聞こえるんです」
と、彼女は続けた。
「原爆が落ちた当時、ここは汚染されてしまって、『七十年間は草一本、木一本も生えない』って噂されていました。けれど、草はちゃんと芽吹いたし、木は大地に根を張って…。蝉の声を聴くと、死んだと言われたこの土地が、『生きている』と叫んでいるように思えるんです」
婦人の病室に行くと、本体はやせ衰えてベッドに横たわっていた。
鼻にチューブが差し込まれ、腕にも点滴の管がつながっている。傍らに、娘なのだろう、中年の婦人が座って、ぼんやりと母親を見守っていた。
「いったん、本体に戻って下さい」
「はい」
す、と老婦人の生霊が本体に飲み込まれる。
同時に、最期の命のありどころを示すかのように、心臓が大きく脈打ち、 そして、止まった。
「お母さん!」
母親の異常に気付き、娘が医師を呼びに病室を飛び出す。
乱菊の前に、因果の鎖が切れた状態の老婦人の魂魄が現われた。
「娘さんが戻ってくるのを待ってなくていいんですか?」
「もう、お別れは済んでいます」
婦人は静かに答えた。
乱菊は頷くと、老婦人の額に「死生」の刻印を押した。
ゆっくりと、老婦人の魂魄が消えてゆく。乱菊たちの前から、完全に消え去る直前、彼女は、
「ありがとう」
とお辞儀をした。
病棟を出ると、再び、蝉の声に囲まれた。
わんわんと響く、耳鳴りにも似たその声に、冬獅郎は呟いた。
「生きてる、生きてる、か…」
人の身勝手で、灼かれ、穢された大地は、それでもなお、
尸魂界に戻る冬獅郎と乱菊を、蝉時雨の声が追いかけていた。
生きてる、生きてる。
生きてる、生きてる。
生きてる、生きてる。