眠り姫の眠る場所
気の張る隊首会から自隊の執務室に戻ってみれば、自称「美人で有能な副官」がソファの上で寝こけていた。
テーブルに中身が半分ほど残った湯飲み。ソファとテーブルの間に現世の雑誌が転がっている。執務をさぼって雑誌を読みふけっているうちにぽかぽか陽気につい転寝といったところだろう。
「ったく…」
執務中に机の上でつい、というならまだ可愛げもあるが、こうも堂々と寝ているのは上に立つ者としても、部下としてもどうだろう。即座にソファから突き落としても、非難されるいわれはないと冬獅郎は思ったりもするのだが、乱菊があまりにすよすよと気持ち良さそうに眠っているので毒気を抜かれてしまった。
「あと
と呟いて、冬獅郎は執務机に就いた。この辺りが副官に甘いと言われる所以だとの自覚はたっぷりとある。
ずいぶんと昔のことだが、乱菊が余りに無防備に眠るので、冬獅郎は注意したことがある。そもそも、執務中に昼寝することを注意すべきなのだが、その点に関してはすでに山ほどの小言済みである。
「おまえな。鍵も掛かってない部屋でぐうすか寝るのって無防備すぎだろ?」
「許しもないのに執務室に入る不心得な隊員が十番隊にいるとでも?」
「いや、その点は信用してる。だが、他隊の連中も来るし、窓から不心得者が入って来ないとも限らないだろうが」
「そういう奴には血の制裁を下してやりますよ」
不敵に笑う乱菊に、冬獅郎は、
「おまえが強いのは知ってるがな。寝こけている間に押さえ込まれでもしたら、反撃できねぇだろうが」
と反論した。
「大丈夫です。あたし、眠りは浅い性質でして。人が来たら、すぐに目が覚めます」
きっぱりと断言する乱菊だったが、
「誰が眠りが浅いって? 俺が側に立っても、怒鳴られるまでぐうすか寝てたくせに」
「それは、隊長だからです!」
「はぁ? 意味がわからねぇ」
とその場は終わった。
だが、実際に乱菊の眠りは浅く、他人が側に寄ると目が覚めるというのは事実らしかった。
その会話があって、数日後、例によって乱菊がソファで眠っているのを、冬獅郎は放置してみたのだ。そうやっておいて、人が入ってきた時に起こして、それ見たことかと改めて注意する心積もりでいた。最初の訪問者は五席だったが、彼女が執務室の前に立ったとほぼ同時、乱菊はむくりと起き上がった。五席が訪いを入れる前のことだ。五席の女性死神は、乱菊と仲が良かった。時々、呑みに行っていたし、非番が合う日にはよく一緒に買い物に行ったりしているのを冬獅郎は知っていた。だが、乱菊はその五席の気配に目を覚ましたのだ。
その時は偶然かと思った。けれども、幾度か、同じように試してみたのだが、自隊の部下であれ、他隊の隊長格や席官であれ、乱菊は必ず覚醒した。恋次でも、修兵でも、桃でも、京楽でも、勇音でも、一角でもだ。
例外は、七緒とやちる。この二人の場合は目覚めなかった。最も、この二人に反応しなかったのは納得がいくことだった。七緒は特に乱菊と仲が良く、互いの部屋に頻繁に泊り合う仲だ。やちるの場合、男所帯である十一番隊に乱菊が泊ることはさすがになかったが、彼女に懐いているやちるの方はしょっちゅう十番隊副隊長舎に泊っていた。
乱菊の眠りが浅いのは、よくよく考えてみれば、当然だった。彼女は流魂街最貧地区の出身なのだ。
冬獅郎が流魂街の最貧地区のありさまを目の当たりにしたのは、死神になってからのことだ。討伐の為に幾度か訪れたのだ。実際に目にした最貧区は噂で想像していたよりも何倍も荒んでいた。食料に乏しく、力あるものが弱者を制圧し、犯罪がはびこっていた。それに加え、虚の出現が突出しているのも最貧区だった。最貧地区の住人は誰も彼も、暗い、淀んだ表情をしていた。
いくら乱菊に護廷の副隊長にまでのぼりつめるほどの霊力があったとしても、そんな物騒なところでぐっすり眠れるわけがない。最貧区にいた頃はまだ子供であったことを考慮すれば、尚更だ。生き延びる為には、眠りの浅さや、他者の気配に敏感であることは絶対に必要なことだったのだ。
最貧区の実態をつぶさにその目で見て、冬獅郎は自分がどれほど恵まれていたかを思い知った。彼の暮らしていた潤林安は西流魂街一番区という瀞霊廷に最も近い場所にあった。死神の本拠に近いだけあって治安がよく、食料も豊かで、商売で富んだ住民も多かった。また、潤林安で虚が出たという話は聞いたこともなかった。潤林安と最貧区とでは天と地ほどの差がある。最貧区なんかに流されていたら、どんなに綺麗な魂の持ち主でも荒んでしまう。
そう感じていた冬獅郎は己の副官が最貧区の出だと知って、心の底から驚いた。あんな荒廃した、吹き溜まりのような場所を生き抜いた彼女の魂が少しも穢れていないことに驚嘆した。他人を思いやる優しさや弱いものを庇う気高さは、最貧区では生きる為の枷にしかならない。にもかかわらず、乱菊はその魂の輝きを損なわなかったのだ。
まるで蓮の花のようだ。と、冬獅郎は思った。泥中からまっすぐに茎を伸ばし、大輪の美しい花を咲かせるが故に、現世では浄土に咲く花と信じられている蓮華と、最貧区にあってなお、心の美しさを損なわなかった乱菊はとてもよく似ていた。
彼女は本当に心を許した相手でなければ、他人のいるところで眠ることが出来ない。そして、自分の気配で彼女が目覚めない以上、少なくとも七緒並みの信頼を冬獅郎は得ているのだ。彼はそれを誇らしく感じた。
だから。
その日、目にした光景は、冬獅郎にとってかなり衝撃的なものだった。
仕事が山積みで五日ほど残業が続いていた。カリカリしているのを自覚していた。
余裕がなくなっている冬獅郎に気付いたからだろう。乱菊は気分転換に花を見に行こうと誘った。
「去年、桐の花がすごく綺麗に咲いているところを見つけたんです。もう咲いているはずです。見に行きましょう!」
「おまえ、正気か? この書類の山が目に入らねぇのか?」
「入ってますよ。でも、書類、飽きちゃったんです」
「飽きようが、何だろうが、処理しなけりゃ終わらねぇだろうが!」
乱菊の言うことが正しかったのだ。
苛々していた。まるで、余裕もゆとりもなくなっていた。集中力も、能率も落ちていた。花を見に行くというのは一見時間の浪費と思えても、強張っている心を解きほぐし、集中力や余裕を回復させる意味では理に適ったことだったのだ。
だが、隊長職に就いてようやく二年目の冬獅郎には、それがまだ呑み込めていなかった。
「ふざけるな!」
と怒鳴った冬獅郎に、乱菊は、
「隊長の分からずや! バカ! おたんこなす!!」
と、どこのガキだ、と突っ込みを入れたくなるような捨て台詞を残して、隊舎から逃亡した。
冬獅郎は追いかけなかった。ぐうたらで我儘な副官を捜す暇があったら、書類を一枚でも余計に捌いた方がいいと思えたのだ。
けれど、乱菊のいなくなった執務室は必要以上にしんと静まり返っていて、余計、苛立ちが募った。何枚も書類を反古にしてしまって、一向に作業は捗らなかった。
とうとう諦めて、冬獅郎は乱菊を探しに出た。逃げ出す直前に彼女が言っていた、「桐の花が綺麗な場所」という言葉を手がかりに。
そうして、見つけた。
見つけてしまった。
満開に花を咲かせた桐の木の下で眠る乱菊と、その傍らに腰を下ろし、彼女を見つめている市丸ギンの姿を 。
乱菊は眠っていた。ギンの手は乱菊の髪を撫でていたのに、起きる気配すらなかった。
「乱菊ちゃんと市丸くんは幼馴染なんだよ」
ギンの嫌がらせに困じ果てていた冬獅郎の相談に乗ってくれた京楽と浮竹から、それを教えられた。
自分が「若い」というより、客観的に見て「幼い」のに隊長になったのが気に食わないのだろうか。
そう尋ねた冬獅郎に、京楽も浮竹も、
「うーん。市丸に限ってそれはない、な」
と首を捻りながらも断言した。
「確かに、冬獅郎くんほど若くして隊長、て言うのは異例中の異例だよ。だけど、市丸くんもかなり若いうちに隊長になった口でね」
「前後して、白哉も隊長に就任したんだが…。二人は年が近かったし、実力だって伯仲していて、だのに隊長就任で叩かれたのは市丸だけだったんだ」
「白哉くんには実力に加えて、四大貴族の当主という地位があったから誰も文句をつけられなかったんだよ。その分の妬みやそねみが全部、流魂街のそれも最貧区出身の市丸くんにいってしまってねぇ」
「その妬みまじりの批判を、市丸は実力で捩じ伏せたんだ」
と、二人は語った。
「市丸くんの前任の三番隊長は上級貴族出身でね。同じ上級貴族出のボクがこんなこと言うのもナンだけど、家柄を鼻にかけた人でさぁ。隊士の処遇ひとつ取っても、家柄で露骨に差別していたんだ。流魂街出身や下級貴族出の隊士はずいぶん不満を溜め込んでたんだよ」
「市丸は実力がないのに高い地位についている連中を容赦なく降格させた。代わりに、前隊長の下で冷や飯を食っていた流魂街出身や下級貴族出の隊士を引き上げた。かといって、自分が流魂街出身だから、前の隊長と逆に流魂街出身者を依怙贔屓するというわけでもなくてな。貴族でも実力のある奴はきちんと評価したんだ。前の隊長の時の三番隊は雰囲気がどんより淀んでいたが、市丸が隊長に就任してからは活気が出てきたし、実績も段違いに上がったな」
「うん。そういうわけだから、冬獅郎くんが若いのに隊長になったのが気に食わなくて嫌がらせ、ってことはないと思う」
と、京楽は結論づけた。
「でしたら、俺を認めてないってことですか? 隊長を務めるほどの力はないと…」
「冬獅郎の実力は文句のつけようがないだろう」
「そうだね。あれだけ隊士を公平に評価出来る市丸くんが、冬獅郎くんの実力を過小評価してるとも考えにくいね」
だとしたら、純粋に日番谷冬獅郎という存在が気に食わない、としか考えられない。ギンの嫌がらせは、初めて会った隊長就任の日から始まっていた。そして、冬獅郎にはその日、ギンを不快にさせるような言動をした覚えはこれっぽっちもなかった。だから、何が原因という訳でもなく、ただただ相性が悪いということなのかもしれない。
「冬獅郎くん」
「はい」
「市丸くんの態度は不可解だし、気になるから、ボクたちからもさりげなく注意しておくよ。理由も出来れば聞き出したいと思っている」
京楽は続けた。
「ただ、もし、それでも収まらなくて、腹に据えかねるようだったら、愚痴はボクと浮竹がいくらでも聞いてあげるからさ、」
「松本君の前で市丸を悪くいうのだけは押さえてくれないか」
と浮竹が後を引き取った。
「どういうことですか?」
もとより、乱菊に愚痴るつもりはなかった。だが、わざわざ二人が念を入れたことが気になって、冬獅郎は質した。
「乱菊ちゃんと市丸くんは幼馴染なんだよ」
と、京楽が答えた。
「冬獅郎くんと桃ちゃんの関係と一緒だよ」
「冬獅郎も最貧区には行ったことがあるだろう? あの荒んだ場所を二人で助け合って生き抜いてきた、戦友みたいな間柄なんだ」
冬獅郎は絶句した。乱菊はこれまで一度だって、ギンと親しげな様子を見せたことはなかった。酒豪で、呑み仲間は大勢いる乱菊だったが、彼女がギンと呑んだという話も聞いたことがない。唖然とする冬獅郎に、京楽は溜息をついた。
「四十年くらい前までは、乱菊ちゃんと市丸くんは本当に仲が良かったんだよ。しょっちゅう、一緒に呑みに行ったりもしてたしね」
「それじゃあ、何で今は…?」
「もう、三十、五年…くらい前になるな…。あの二人にとって、とてもつらくて痛ましい事件が起こってな」
「それからだよ。二人の間に亀裂が入ったのは。最初は小さな綻びだったのが、少しずつ時間をかけて取り返しがつかないくらい広がってしまったんだね」
「事件って?」
尋ねた冬獅郎に、浮竹も京楽もかぶりを振った。
「乱菊ちゃんが話さないのに、ボクたちが勝手にしゃべるわけにはいかないよ」
「本当は、松本君と市丸が幼馴染だってことも、俺たちが言うべきじゃなかったのかもしれない。だが、市丸が冬獅郎にあんな態度を取っていたら、松本君は言いたくても言えないだろうし…」
「乱菊ちゃんがそんなこと言うはずないから、例えばの話だけど、乱菊ちゃんが冬獅郎くんに向かって桃ちゃんの悪口を言ったとしたら、冬獅郎くんは腹が立つだろうし、つらいだろう?」
「すっかり疎遠になってしまったけど、市丸は今でも松本君のことを大切にしている。松本君だって彼をずっと気にかけているんだ。冬獅郎が不用意に市丸を悪く言うようなことがあれば、松本君が傷つく」
と、浮竹は言った。
「分かりました。教えて下さってありがとうございます」
冬獅郎は二人に謝した。
遠目であったし、ギンは俯いていたので、表情は見えなかった。だが、霊圧は普段の彼からは信じられないくらい柔らかかった。
乱菊の髪を撫ぜる手つきも愛しげだ。
冬獅郎は立ち竦んだ。もし、ギンが霊圧に気付いて顔を上げなければ、きっと冬獅郎はそのまま踵を返して立ち去っていただろう。
面を上げ、冬獅郎を認めたギンは冷たい哂いを口許に浮かべた。挑発するようにじっと視線を固定させるギンを前に、逃げることなど出来なかった。
「てめえ、何してやがる」
「見て分からへん? 花と別嬪さんを愛でとるんや」
「…」
「ええ陽気やしなぁ。散歩しとったら、別嬪さんが落ちとったから、拾て帰ろうかどうしようか思案しとったとこや」
「松本は物じゃねぇ」
「知っとるよ」
にやりと、ギンは嘲笑った。
「よう眠って…。余裕のない隊長さんに付いて、よっぽど気疲れしとるんやなァ」
反論しようとして、言葉が出てこなかった。悔しさを押し殺し、ギンを睨む冬獅郎に、
「おお怖ァ」
と、ギンはわざと大袈裟に身震いした。
「せっかく綺麗な花と別嬪さんに囲まれてええ気分やったのに、興が削がれてしもた」
ゆらり、と彼は立ち上がると、冬獅郎には目もくれずすたすたと立ち去ってしまった。
取り残された冬獅郎は拳を握り締めたまま、その場に佇んでいた。彼もギンも、乱菊を起こしたくなくて霊圧を押さえたままで小競り合っていた。そのせいで、乱菊は二人の争いに気付くことなく、安らかに眠っていた。夢でも見ているのか、その頬には微笑が浮かんでいる。
もし。
もし、今、自分が髪に触れたら、彼女は目を覚ますだろうか?
乱菊の穏やかな寝顔を見下ろし、冬獅郎は昏い想念に囚われた。彼の脳裏には先ほど目にした光景が消せない残像となっていた。
眠り続ける乱菊。そして、いとおしげにその髪に触れていたギン 。
もし、彼女に触れて目覚めてしまったら、冬獅郎は乱菊にとってギン以下の者だと烙印を押されたも同然だ。
それが怖かった。
頭では、彼がギンより信頼されていなくても当然だと理解っていた。京楽は、乱菊とギンは冬獅郎と桃の関係と一緒だと言った。しかし、二人はあの荒廃した、無法地帯の最貧区を助け合い、庇い合い、支え合って生き抜いた仲なのだ。飢えの不安も、人買いに攫われる恐れも、虚に襲われる恐怖も知らず、優しい祖母に庇護されて、ぬくぬくとただ仲良く暮らしていただけの冬獅郎と桃とは比べものにならない絆があって当然だと思うし、あるはずだと確信している。たかだか二年足らず、乱菊の上官を務めただけの冬獅郎では太刀打ち出来ないし、また、それを恥じる必要もない。
理解っていた。
けれど、怖かった。
マツモトニシンライサレルモノデアリタイ。
竦んだまま動けずにいる冬獅郎の前で、乱菊の瞼がゆっくりと持ち上がった。
茫洋とした空色の眸が徐々に焦点を結び、冬獅郎を捉えた。
「たいちょ」
乱菊は身体を起こすと、嬉しそうに笑った。
「来て下さったんですね」
にこにこと無邪気に微笑む彼女に、
「花、きれいだな」
と冬獅郎は告げた。先ほどまで捕まっていたどす黒い感情を、彼女に気付かれたくはなかった。
「そうでしょー! ね、たいちょ、来てよかったでしょ?」
「花なんか見ずにぐうぐう寝てたくせに」
「隊長がいらっしゃる前にたっぷり見ました。隊長がなかなか来ないから、待ちくたびれて眠っちゃったんです!」
と乱菊は主張した。
「気持ちよさそうに寝てたな」
冬獅郎の言葉に、
「ええ、気持ちよかったです」
と悪びれずに乱菊は答えた。
「いい夢をみていたんですよ」
「どんな?」
「覚えてません。でも、あったかくて優しい感じが残っているから、きっといい夢だったんです」
彼女の返答に、冬獅郎の心が軋む。
いい夢を見たのはギンが傍にいたからじゃないのか。
咽喉元までせり上がってきた言葉を、冬獅郎は飲み込んだ。
それから数日後のことだった。
隊長会議から戻った冬獅郎は、執務机にうつ伏せて眠る乱菊を認めた。
傍らに立ってもぴくとも動かない乱菊に、先日の苦い想いが甦る。あの時のように、冬獅郎が立ち尽くしていると、不意に、
「焦らないでいいのよ、冬獅郎」
と優しい声が頭の中に甦った。
昔、言われた。
彼がまだ流魂街に祖母と暮らしていた頃、冬獅郎を訪ねて来る女から諭された。
「焦ったってろくな結果は出ないわ。余裕がなくなって、落ち着いていれば見えることも見えなくなるだけよ」
と彼女は言った。
「おまじないを教えてあげる」
彼女は掌で冬獅郎の目を塞ぐと、
「ゆっくりと百、勘定してごらんなさい」
言われた通り、百まで数えた冬獅郎に、
「はい。それじゃ、大きく深呼吸して」
と彼女は続けた。冬獅郎が素直に深呼吸をすると、彼女は彼の目を覆っていた掌を外した。
「冬獅郎、ほら、空を見て。青くて吸い込まれてしまいそうでしょ?」
小さな冬獅郎の身体を背中からすっぽりと抱きしめて、歌うように彼女は紡ぎ出した。
「ね、あなたのいる世界はこんなにきれいなの。だから、焦らなくても大丈夫。私も、おばあちゃんも、桃ちゃんだっているわ。冬獅郎がどんな道を歩もうと、まっすぐで優しい心を失くさなければ、世界はいつだって笑いかけてくれるのよ」
冬獅郎は目を閉じた。教わった通りに、百まで数えて深呼吸する。それから、ゆっくりと目を開けると、きらきらと、きらきらと、窓から差し入る陽の光を浴びて輝く蜂蜜色が目に入った。
「ほら、ね。世界はちゃんときれいでしょう」
微笑む彼女の幻が見えた。
「 姉さま」
何を恐れていたのだろう。
冬獅郎は思った。彼がこの蜂蜜色の髪に触れて乱菊が目覚めたとしても、卑下する必要などないのだ。冬獅郎に対する信頼がギンに対するそれよりも劣っていたとしても、それは今の話だ。未来永劫に変わらないわけではない。
彼が乱菊に対して誠実であれば。彼女を心から信頼し続けていれば。
いつかきっと、乱菊が彼の傍らで安心しきってぐっすりと眠る日が来る。
冬獅郎はそっと手を伸ばして、髪に触れた。
あと一刻だけ。
見逃すのはそれだけのつもりだったのに、ふと気が付いたら、たっぷり
「人の気も知らねぇで…」
もう古い昔になってしまったあの時、乱菊は目を覚まさなかった。それは、冬獅郎に心を許していた証なのか、それとも、彼が余りに慎重に触れた為に触れられたことに気付かなかったのか。
冬獅郎は後者だと思っている。
立ち上がり、ソファの傍らに立つと、眠る女の金の髪を一撫でする。目覚めようとしない乱菊に、腹に息を深く吸い込んで、
「起きろ、松本!!」
声の限りに怒鳴りつけると、乱菊は弾かれたように飛び起きた。
「た、たいちょ。お帰りなさい」
上目遣いで窺う乱菊に、わざと素っ気なく、
「松本、茶」
と命じる。
「はいはい、ただいま」
給湯室に飛んでいく乱菊を見遣り、冬獅郎は咽喉の奥で笑いを噛み殺した。
彼女が茶を淹れて来たら、先ほど浮竹から貰った久里屋の芋羊羹を出してやろう。
春の空は青く晴れ渡っていた。
*1 約15分
*2 約30分