ねんねこ山のうさぎ


 救護病棟でベッドに横たわる十一席と十四席の言葉に、乱菊は形の良い眉を顰めた。
「子守唄を唄ってったっていうの?」
 十一席が頷いた。
「はい。きれぎれでしたが、あれは確かに子守唄でした」
「どんな?」
「『ねんねん、ねんころろ』と聞こえました」
と、今度は十四席が答えた。
「それから、『山のうさぎ』とか『耳が長い』とか…」
「ああ、『おめめが赤い』も聞こえました」
 現地駐在の森本から手には負えない強い虚が出没していると、応援要請があったのは一週間前のことだ。虚はその強さによって、「甲・乙・丙・丁・戊」の五段階にランクが分けられている。技術開発局の霊波分析の結果、かの虚はランク「丙」と判定された。確かに、現地駐在の隊士では持て余すレベルの虚だった為、隊長は十一席と十四席の二人に討伐を命じた。
 だが、二人は討伐に失敗した。虚は技術開発局の判定以上の能力を持っていたのだ。二人は虚の放った炎で火傷を負い、虚は取り逃がしてしまった。
 十一席と十四席で力が及ばなかったことで警戒した隊長は、上位席官の討伐派遣を決定した。第三席の乱菊を責任者に、六席と九席が同行する布陣である。虚の情報を得る為に、見舞いを兼ねて訪れた乱菊たちに十一席と十四席は炎の中で子守唄を聞いたと告げたのだ。
「子守唄か…」
 森本からの報告によると、その虚は子供、特に乳幼児を主に襲うということだった。子守唄を唄っていたという事実と重ね合わせると、幼い我が子を遺して死んだ母親が子に想いを残す余りに虚化したといったところなのだろう。
「気の重い相手ですね…」
 九席の竹添が呟いた。
 虚は様々な執着から現世を離れられなかった霊魂の成れの果ての姿である。生前から邪悪で執着心が強い人間だった場合や、強烈な憎しみや怨みを抱えて死んだような場合、死後、即座に虚化するケースもまれにある。だが、大部分の虚はもともとはごく平凡で善良な人間で、死の直後は現世に強い未練があるだけの単なる整だった者だ。だが、霊魂は現世では不安定で瘴気に侵されやすい状態にある。この為、なんらかの心残りや手違いで現世に留まり続けてしまった魂魄は、徐々に瘴気に穢されて悪霊化してゆく。そして、最終的に大きな風穴が開き、因果の鎖が消滅して虚と化してしまうのだ。
 理性を完全に失い、ただ邪悪な悪霊として暴れる虚ならば、討伐する側の死神も割り切って冷徹に対処出来る。だが、今回の相手のように、虚と成り果ててしまった理由が朧気にでも推察される場合は、討伐も気が重くなってしまうのはどうしようもないことだった。
「確かに気の毒な事情がありそうな虚ね」
と、乱菊も頷いた。
「でも、だからこそ、早く討伐して人に戻してあげないと」
 竹添が想像したように、幼い我が子が気がかりで現世に留まってしまったがゆえに虚化してしまった母親であるのなら、幼い子供を襲う現在の状態は、本来の彼女にとっては不本意な苦しみに満ちた状態であるはずだ。
 討伐とは、一度死んだ虚をもう一度殺すことだ。与える苦痛を思うと気が滅入るが、幼い子供たちを救う為にも、虚にこれ以上罪を重ねさせない為にも、一刻も早く討伐しなければならなかった。

 逃げて、逃げて、逃げ続けていた。
 自分では到底敵わない相手だと分かっていたから、森本に出来ることは逃げることだけだった。
 間もなく、上官が討伐に降りてくるはずだった。そうなれば、出迎えない彼に不審を覚え、きっと捜してくれる。助けに来てくれる。それまでは、と、彼はひたすら逃げ惑っていた。
 だが。
 足が縺れた。
「うっわ!」
 倒れた森本に、虚が歓喜の声をあげ襲い掛かる。
(だめだ!)
と、彼が絶望に息を呑んだ時、
「縛道の六十一、六杖光牢」
 詠唱破棄の縛道が虚の動きを封じた。
「松本三席!」
 金の髪を靡かせて、戦いの女神が庇うように森本の前に立った。
「無事か!? 森本」
「福富六席、竹添九席…」
 乱菊に一呼吸遅れて、森本の傍らに立った二人の上官は部下の腕の中で火がついたように泣き叫んでいる赤子を認めた。
「その赤ん坊は?」
「ほんの二時間ほど前に火事で死んだ子供です。あいつの格好の標的だから、気付かれる前に魂葬しようとしたんですが、間に合わなくて」
「よく頑張ったな、森本」
と竹添が若い隊士を労い、乱菊が掬い上げるようにして赤子を抱き取った。
 見知らぬ男に抱きかかえられ、訳も分からないまま鬼ごっこさせられたことで泣き喚いていた赤ん坊は母親の胸に似た柔らかな女の胸に移ったことで安心したか、泣き声が弱くなった。
 光の帯に貫かれ、身動きを封じられた虚が咆哮する。吹き上がった業火が死神たちを襲ったが、福富の結界に阻まれて届かなかった。
 竹添と福富が斬魄刀の柄に手をかける。虚に斬りかかろうとする部下たちを乱菊は目で制した。
 乱菊の眸が虚を見据える。やがて、彼女は虚を見つめたままで、赤子をあやすように優しく揺すりながら、子守唄を歌い始めた。
    ねんねん、ねんころろ
    ねんねこ山のくろうさぎ
    なぜにお耳が長うござる
 虚の咆哮がひときわ激しくなった。身悶えた体から、炎が吹き上がる。
 しかし、炎にも、咆える虚にも、まったく動ぜず、乱菊は子守唄を続けた。
    母さまのぽんぽにいた時に
    枇杷の葉、榧の実、茅の葉を
    たくさんたくさん食べたゆえ
    お耳が長うなってござる
 その時、だった。
 福富たちは乱菊の歌声に被さるように響く、かすかな振動にも似た声を耳にした。
    ねんねん、ねんころろ…
    ねんねんころろ、ねんころろ…
「虚が…」
「…唄って…?」
 結界の外で燃え盛る炎が勢いを増し、オレンジ色の火の粉を吹き上げた。
 空に向かって吹き上がる火柱の向こうに、降り注ぐ火の雨が見えた。
「これ…は?」
 子守唄に更にサイレンの音が重なった。飛行機の爆音が火の爆ぜる音に紛れて、低く低く響いてゆく。

    ねんねん、ねんころろ
    ねんころ山のしろうさぎ
    なぜにおめめが赤うござる

「これは…、空襲?」
「ああ、空襲だ」
 十年ほど前まで、世界中の国を巻き込んだ大きな戦があった。
 第二次世界大戦と呼ばれるその戦では、戦争に駆り出された兵士はむろんのこと、夥しい数の民間人が命を落とした。
 戦時国際法によれば、「非戦闘員は保護対象であり、これを無視して危害を加えることは戦争犯罪である。全ての文民は人道的に取り扱われる権利があり、女性はあらゆる猥褻行為から保護される」とされている。しかし、この国際法は現実には絵空事に過ぎない。敵地の主要な町を無差別攻撃することは連合国も、枢軸国も当たり前のように行っていた。占領した土地で兵士が女を暴行することも頻繁にあった。日本兵が中国人女性や南方の島にいた白人や現地女性に暴行を働いたことは知られている。敗戦国になったが故に泣き寝入りとなってしまったが、満州開拓団として移民した日本人女性が中国人やソ連兵に強姦された事例も、占領中に英米兵に日本やドイツの女性が暴行された事例もいくらでも見付かる。
「非戦闘員は保護対象」
 国家のエゴがぶつかり合う戦争において、このような国際法など絵に描いた餅ほども意味がない。
 編隊を組んで日本本土に飛来したアメリカの爆撃機は、どう考えても軍事目標などのない民家のひしめく一角に焼夷弾の雨を降らせ、逃げ惑う民間人に機銃掃射を浴びせた。

    父さまのお帰り待ちわびて
    夕焼けこやけを眺めてた
    夕焼け色に目が染まり
    おめめが赤くなってござる
    ねんねん、ねんころろ…
    ねんねんころろ、ねんころろ…

 降る火の雨に逃げ惑い、一組の母子が死んだ。

 綿入れの防空頭巾など、町そのものを燃やし尽くす業火の前では何の役にも立たなかった。火に巻かれ、大火傷を負って、母親は死んだ。彼女が背に負っていた赤子は煙で呼吸が出来ず、焼かれる前に命を落とした。
 一緒に死ねればよかったのだ。
 せめて、赤子とともに死ぬことが出来たなら、我が子を抱きしめて尸魂界へ送られたのなら、母親は虚になりはしなかった。
 母親は即死できなかった。大火傷に呻き、苦しんだ揚句の果てに、ようよう息を引き取ったのは空襲から何日も経ってからのことだった。
「十年…子供を捜し続けたのか?」
 おそらくは魂葬されてしまって、すでに現世にはいない我が子を    
 捜して、捜して、捜して、捜し出せずに闇に蝕まれ、虚となった。

 再び、虚が咆哮した。六杖光牢の帯が引きちぎられそうに揺らいだ。
 けれども、悪霊の醜い吼え声の向こうに、死神たちは母親の慟哭を確かに聞いた。
    ねんねん、ねんころろ…
    ねんねんころろ、ねんころろ…
「森本」
 乱菊が部下を呼んだ。
「は、はい、松本三席」
「この子を」
 乱菊は自らの胸に抱き取っていた赤子を若い隊士の腕に戻した。
「あたしがあの虚を斬る」
「はい」
「あんたはそれと同時にこの子を魂葬しなさい」
「松本三席…」
「いい、魂葬の呼吸を間違えるんじゃないわよ。あいつとこの子、一緒に尸魂界に送るんだからね」
 乱菊の意図を悟り、森本は真剣に頷いた。
「竹添は結界を保持して。虚の炎から赤ん坊を護るの」
「はい」
「結界を解く間合いは、分かっているわね」
「当然です」
 力強く請け負った竹添に、乱菊は笑みを洩らした。
「福富はあたしの補佐」
「はい」
「行くわ! 福富、結界を解放!!」
「はっ!」
 福富が結界を解放したのと、竹添が森本と赤子を護る新たな結界を閉じたのとは同時だった。
「唸れ、灰猫!」
 乱菊の斬魄刀の刀身が崩れた。灰のような微粒子と化した灰猫が、虚の周りで渦を巻く。
 虚が狂乱の雄叫びを上げた。人であることを失った化け物の悲鳴。だが、その悲鳴の底で、子守唄は響き続けていた。
    ねんねん、ねんころろ…
    ねんねんころろ、ねんころろ…
 森本は自らの斬魄刀の柄を赤子の額に向けたまま、真剣な表情で乱菊の動きを見据えていた。
 平和を取り戻した現世で、不幸な事故からたった一人で死んでしまった稚けない赤子。庇護してくれる温かな母親の腕から引き離されたこの小さな命は、あの哀れな母親の光となるかもしれない。
 乱菊が握りこんだ柄を僅かに上げた。
 勢いよく振り下ろす。
「き、ぐぎゃぁぁぁ!!!!」
 断末魔の叫びが辺りを満たす。
 同時に、あやまたず、森本は赤子に死生の刻印を施した。
 炎が消える。
 結界が消滅する。
 塵のように、虚の体が崩れゆく。
 けれど。

    ねんねん、ねんころろ
    ねんねこ山のくろうさぎ
    なぜにお耳が長うござる

 薄れてゆく赤子の魂魄を、別の朧げな影が抱き上げた。

    母さまのぽんぽにいた時に
    枇杷の葉、榧の実、茅の葉を
    たくさんたくさん食べたゆえ
    お耳が長うなってござる

     子守唄が聞こえる。

「逝ったわね…」
 ぽつりと乱菊が呟いた。
「はい…」
 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、嗚咽しながら森本が頷いた。


《参考サイト》
  子守唄について
  NPO法人日本子守唄協会
  赤ちゃん倶楽部
  戦時国際法について
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2010.09.18