今ひとたびの 〜和泉式部で六話〜
《冬獅郎 〜叛乱終結から数年後〜》
梅の香を君によそへてみるからに 花のをり知る身ともなるかな *1
くん、と鼻をひくつかせた冬獅郎は、
「近くに梅が咲いているみてぇだな」
と傍らの副官を顧みた。
「あら、そうです? どこかしら?」
首を傾げた乱菊だったが、ほどなく、少し歩いた民家の庭先に薄紅の梅が咲き匂っているのを認めた。
「すご〜い、たいちょ。よくあんなところから分かりましたね」
感嘆する乱菊に、
「けっこう香っていたぞ?」
と冬獅郎は答える。
「そうですかぁ? あたしも結構匂いには敏感な方ですけど、気付きませんでしたよ」
「おまえの鼻は食い物の匂いに敏感なんだろ?」
くつくつと笑みを漏らす冬獅郎に、乱菊はむう、とふくれっ面を作る。
「なんです、それ? まるであたし、食欲大魔神みたいじゃないですかっ?」
「違うのか?」
「違いますとも! 花とかの情緒はたいちょよりずーっとあたしの方が感受性豊かなんですから!」
乱菊はむきになって主張する。その点は否定しきれないので、冬獅郎は口角だけをわずかに上げて笑んでみせた。
「梅の香りは好きなんだ。だから、敏感になっているのかもな」
冬獅郎は告げた。
「あたしも梅の花の香りって好きですけど…」
「花の香りの中じゃ一番好きだ」
「へぇ、そうなんですね」
と乱菊は感心した様子で頷いた。
彼女は知らない。
冬獅郎が梅の香が好きな理由を。
乱菊を識る以前、梅は数ある花のひとつに過ぎなかった。香りだとて、いい匂いだと好ましくは感じていたが、例えば、沈丁花や木犀や薔薇といった芳香のある花たちの中で格別に好きという訳ではなかった。
乱菊を識って、彼女を愛して、梅は冬獅郎の中で特別になった。
厳しい冬を耐え、春の訪れを知らせる花。甘酸っぱい、けれども、どこか凛とした気品のある香りは、彼女の髪から漂う香りとよく似ていた。
梅の香が好きなのではない。乱菊の香りを愛しているから、よく似た花の香りも好ましく感じるのだ。
《白哉 〜緋真の葬儀後〜》
白露も夢もこの世もまぼろしも たとへて言へば久しかりけり *2
つい数日前まで緋真が臥せっていた部屋は、布団も、彼女を慰めていた花も片付けられて、空っぽになっていた。
侍女が襖を開け放し、部屋に風を入れてしまった為に、もう緋真の匂いすらも残ってはいない。
五年。
白哉が緋真とともに暮らした年月はわずかに五年を数えただけだった。
百年と持たずに生を終える現世の人間にとってさえ、五年という年月はそれほどには長くない。まして、千年単位の命をもつ尸魂界生まれの貴族にとっては、泡沫のような儚い時間だ。
脆く消えゆく夢まぼろしの住人さながらに、緋真は白哉の前に現れ、あっというまに消え失せてしまった。
けれど、夢よりも淡やかなその年月は、白哉にとって、花火の煌めきにも似た鮮烈な日々でもあった。
眸を閉じれば、瞼の裏に蘇るのは彼女の優しい微笑み。
耳を澄ませれば、聴こえてくるのは、
「白哉さま」
と呼ぶ、珠のごとく涼やかな声。
わずかに五年。
けれど、一生分と胸を張って言い切れるほどに、深く彼女を愛した。
この想い出があれば、生きてゆける。
白哉は静かに、主のいなくなった部屋を出た。
《乱菊 〜叛乱の数年前〜》
人もがな見せも聞かせも 萩の花さく夕かげのひぐらしの声 *3
ねぇ、隊長。
今日は夕焼けがとってもきれいなんです。
じぃぃーい、じぃぃーい、と煩かった油蝉もめっきりと鳴き声に勢いがなくなって、代わりに蜩が声を響かせています。
蜩って、何だかちょっともの悲しいですよね。
油蝉とか、真夏のあっつい時に鳴いているのを聴くと、暑苦しさが嫌が応でも増幅されて殺意さえ覚える時があるんですけど、同じ蝉の仲間なのに、蜩の声はメランコリックで、一人で聴いているとちょっと寂しくなっちゃいます。
そうそう、卯ノ花隊長から萩の花を頂きました。もう、萩の咲く時期になったんですねぇ。まだまだ暑い暑いって思ってたけど、そういえば朝晩はめっきりと過ごしやすくなりました。
隊長。
以前、福寿草の群落にあたしを連れて行って下さったことがあったでしょう。
あたし、あの時、すごく嬉しかった。あんなに見事な群落、初めて見たこともあったけど、何よりも、隊長が息を呑むくらいにきれいなあの風景をあたしにも見せたいと考えて下さった。そのことが嬉しくて。嬉しくて、たまらなかったんです。
ねぇ、隊長。
きれいなものは大好きな人と一緒に見ると、もっときれいに感じるものなんですよ。
真っ赤に染まった、見事な夕焼け。
一人で見るより、隊長と見たかった。
蜩の声も、一人で聴くより隊長と聞きたい。
討伐は、まだかかりますか?
まだ、戻れませんか?
卯ノ花隊長から頂いた萩の花。とても瑞々しくて風情があるんですよ。花瓶に活けて執務室に置いています。
この花が色褪せないうちに、きれいでいるうちに、帰って来て下さい。
《ギン 〜三番隊隊長就任後〜》
などて君むなしき空に消えにけむ あは雪だにもふればふるよに *4
「あ、雪」
討伐の帰り、部下の一人が呟いた。
垂れ込めた厚い雲から、降ってきたのは地に落ちると同時に儚く消える泡雪だった。
「冷えると思ったら降って来たかぁ」
「こういう日は熱燗できゅっと一杯、といきたいよな」
「お、いいな」
無事に討伐を終えた心安さから軽口を叩く部下たちに、
「ちょっと用事を思い出してん。今日はここで解散にしよ」
とギンは告げた。
「しかし…」
「報告書は明日でええ。今日は疲れたしなぁ。確かに冷えるし、一杯ひっかけて帰るとええ」
物分かりの良い上司の発言に顔を見合わせた部下たちは、ややあって、
「お言葉に甘えます」
「失礼いたします」
と、ギンの命令を受け入れてその場で解散した。
ギンは一人になりたかった。
先ほどの討伐で救った少女のことが、頭を離れなかった。
年の頃は、現世の人間でいえば、十一、二歳といったところだろう。どこにでもいる平凡な顔立ちの少女だった。
けれど、その少女は虚に襲われた時、まだ幼い子供をギュッと胸に抱きしめて、自らの身体を盾に護ろうとしていた。
すんでのところを救われ、自分を助けてくれた死神に縋りついて大泣きをしていた彼女の姿は、決して褪せることのなくギンの心に焼き付いている少女に重なって仕方がなかった。
彼女が身を挺して庇った幼子は実の弟だという。どうやら、事故か災害かに遭って、姉弟一緒に尸魂界に流されてきたらしい。
「だって、おっかぁと約束したもん。耕太の面倒を見るって…」
泣きじゃくりながら、少女はギンに訴えた。もう、顔も、名前さえ思い出せなくなってしまった母親と約束したから、たった一人の肉親だから、自分はどうなっても弟を護るのだ。そう言い切った少女の頭を撫でて、
「よう頑張ったなぁ。えらかったなぁ」
とギンは誉めた。彼の声音は、近くにいた部下たちがぎょっとするほどに優しい慈愛に満ちていた。
(この娘を助けられただけでも、今日の討伐は大成功やったわ)
ギンは思った。
温かく満たされた心は、しかし、降る泡雪によって哀しさを呼び覚まされた。
(あの娘は助けられたのに…)
一番大切な少女は護れなかった。
死覇装の袖に雪が降りかかる。
黒の上に鮮やかな白の華を咲かせ、一瞬にして溶け崩れてゆく泡雪は、護れなかった少女によく似ていた。
(絢女…)
声に出さずにその名を呟く。
雪は積もることなく降りしきっていた。
《恋次 〜霊術院三年生の頃〜》
わが魂のかよふばかりの道もがな まどはむほどに君をだに見む *5
元気でいるか?
朽木の家は、よくしてくれているか? 流魂街出身だからって苛められちゃいねぇよな。
一足早く、死神になったんだよな。学院の課程、ほとんどこなさねぇまま死神になっちまったわけだけど、おまえ、負けず嫌いだし、努力家だし、俺なんかと違って物覚えもいいし、大丈夫だよな。
俺の方は相変わらずだ。今日も教官に怒られちまった。鬼道がなっちゃいねぇってさ。
あんな呪文みてぇな詠唱、雛森も、吉良も、よくすらすらと暗記できるよな。俺の方は、詠唱の途中で思いっきり噛んじまって、不発。やっと噛まずに言えたら、威力は申し分ねぇんだけど、狙ったトコに当たらねぇでさ、壁に大穴開けちまった。
浅打を振り回す方がよっぽど楽だっての。鬼道なんて、ほんとうに向いてねぇよ。
なぁ。
幸せでいるか?
笑っているか?
一人ぼっちで泣いたりしてねぇよな?
俺みたいな野良犬にひっついて生きるより、大貴族のお姫さまになった方が何不自由なく暮らせていいだろうって…。
そう思ったから、
「いい話じゃねぇか」
って笑って送り出したけど、この頃、俺、おまえの笑顔を思い出せねぇんだ。
なぁ、俺は間違ってないよな?
行くなって引き止めちゃいけなかったんだよな?
おまえが幸せになれるなら、それでいいって諦めたつもりだった。
でもな、おまえの笑った顔を、俺はどうしても思い出せねぇ。
幸せでいるか?
笑っているか?
俺のことなんか、もう忘れちまったか?
会いてぇよ。
今更、女々しいっておまえ、笑うか?
けど、やっぱり会いてぇ。
夢でもいいから、会いてぇ。
おまえが幸せに笑っているのを確かめてぇ。
そしたら、俺も安心して、ちゃんと諦められる。
会いてぇよ。
ルキア…。
《緋真 〜死の直前〜》
あらざらむこの世のほかの思ひいでに 今ひとたびの逢ふこともがな *6
間もなく、私の命は消えてしまう。
「馬鹿を申すな。きっと癒える」
白哉さまはずっと励まして下さったけれど、自分の身体のこと。もう余り時間がないことは、私自身が一番よく知っている。
ずっと、私につきっきりでいて下さった白哉さまは、今はご不在だ。緊急の救援要請が入って、仕方なく行ってしまわれた。
白哉さまはお強い。
此度の討伐もきっと難なく片付けて無事に帰られると信じている。けれど、私の命が尽きるその時に、間に合って下さるだろうか。
心残りはたくさんある。
妹を、ルキアをとうとう見つけられなかった。
私の身体が弱いばかりに白哉さまの御子を、大切な跡取りとなる子を身籠ることも叶わなかった。一族の反対を押し切って私を妻に迎えて下さった白哉さま。いつも、暖かな慈愛で私を包み込むように愛して下さった白哉さま。ただ甘えてばかりだった私がたったひとつ白哉さまの為に出来ること、それが御子を身籠ることだったのに、私はそれさえも果たせずに消えゆこうとしている。
我儘で、無力で、白哉さまにご迷惑をおかけし通しだった私。
それなのに、まだ私は白哉さまに望んでいる。
会いたいと。
命が尽きるその時まで、傍にいてほしいと。
聞き分けのない子供のように願っている。
早くお帰り下さりませ。
どうか、最期にもう一度だけ、お姿を見せてくださりませ。
愚かで我儘な私には勿体ない凛々しいお顔を、温かな声音で私の名を呼ぶその声を、どうか今一度だけ…。
そうすれば、私は安らかに逝ける。
白哉さまの面影を胸に抱いて、輪廻の流れを渡ってゆける。
白哉さま。
どうか…。
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