5つのキスのお題
お題配布サイト「5つのキスのお題配布所」さまよりお借りした「長めのタイトルその3」の五題に沿ったキスにまつわる小噺です。CPは例によって拙宅捏造。オリキャラ、マイナーCPありなのでご了承下さい。
《優しいキスで目覚めさせて 〜叛乱の1年後〜》
乱菊が昼御飯から戻って来た時、十番隊隊長は昼寝の真っ最中だった。
弁当を食べたり、連れ立って外の食堂に出向いたりと、昼休みも共に過ごすことが多い乱菊と冬獅郎である。だが、今日は、乱菊は七緒や絢女と約束していた。久しぶりの仲良しの女友達との食事を楽しみにしていた乱菊を快く送り出した上司兼恋人は、彼女が用意しておいた弁当を使った後、昼寝を決め込んだらしい。
いつもは乱菊の占領下にあるソファは、端から端まで冬獅郎に占拠されている。時計を確認すると、昼休みは残すところ半刻を切っていた。
他人の気配に敏感な冬獅郎だが、乱菊のことは信頼しきっているせいか、近くに寄っても眠ったままだ。
乱菊はチラッともう一度、時計に目を走らせた。
冬獅郎と恋人の関係になった時、二人で約束したことがある。勤務中は
二人は十番隊の統括官である。上に立つ立場として、けじめをつけようというのが冬獅郎の言い分で、乱菊もそれを是とした。十番隊の部下たちは二人の関係に好意的だ。というよりも、むしろ積極的に応援している気配が濃厚で、理解ある部下たちに冬獅郎も乱菊も感謝していた。だが、上司である二人が色惚けして、勤務中にいちゃいちゃしているようなら、風向きは変わって来るだろう。乱菊だって、自分が席官の立場だったとして、苦手な事務処理に格闘したり、討伐に身体を張っている最中に上司が仕事を放り出して乳繰り合っているとなるとやっていられないと呆れる。部下たちの好意と信頼を裏切らない為にも、けじめは確かに必要だった。
さて、そういうわけで、勤務中の
(これって、チャンスよね)
と乱菊は無意味に辺りに視線を配った。抜き足差し足で足音を忍ばせ、ソファに接近を試みる。白雪姫も、眠り姫も、王子さまの接吻で目を覚ますが、たまには王子さまを起こすお姫さまがいたっていいじゃないの、と要はすやすやと気持ちよさそうに眠る冬獅郎にそそられてしまったのだが、乱菊に自覚はない。
ソファに辿り着いた乱菊は傍らにしゃがみ込むと、息を潜めたまま、真上から冬獅郎を見下ろした。
伏せられた長い銀色の睫毛。窓からの陽射しにキラキラと輝く銀の髪。目覚めている間は滅多なことでは消えない眉間の皺もすっかり失せさせて、彼は安らかな眠りの中だ。
(本当に隊長って、眉間の皺さえなければ、王子さま系よね)
と乱菊は改めて思った。
几帳面な彼のこと。きっと目覚ましを設定して、時間きっちりに起きられるように準備しているに決まっている。彼が目覚めてしまえば勤務時間だ。その前に、と刻々と時を刻む時計を気にしながら、乱菊は冬獅郎に顔を近付けた。
彼の薄い唇にそっと自分自身の唇を押し当てる。ちろ、と舌先で軽く彼の唇を舐めた途端、いきなり、背中に腕が回った。
(!?)
咄嗟に反応できずにもがく彼女をしっかりと捕えたまま、冬獅郎の舌が口腔に侵入してきた。
(!!)
寝起きとはとても思えない動きで、縦横に口中を犯されて、
「…は…」
と乱菊は唇の隙間から悩ましげな吐息を零す。
直後、けたたましい電子音が鳴り響いた。
「終了〜」
笑いを含んだ表情で冬獅郎は乱菊を解放すると、傍らのテーブルに置いていた伝令神機を操作して電子音を止めた。
乱菊は呆然と、半身を起こした隊首を見つめた。
「…起きてらしたんですか?」
「うん、まぁ。おまえが部屋に入って来てすぐに」
としれっと冬獅郎は答える。
「何で寝たふりなんか!?」
「まだ昼休みが終わっていなかったからな」
「それだけ?」
「ん〜。つーか、松本が何か企んでいるっぽい顔をしていたから、何をするつもりか気になって」
乱菊はぐっすり眠っていると信じていたが、彼はしっかりと目覚めて、薄目を開けて彼女を観察していたというのだ。口悔しくなって、
「…勤務中の接吻は禁止、だったでしょう?」
と自ら仕掛けたことを棚に上げて糺せば、
「まぁ、昼休みだし、いいだろ」
もし咎められたら返すつもりだった言い訳を、他ならぬ冬獅郎からあっさりと告げられて、乱菊はへなへなとその場に崩れた。
「おーい、どうした?」
ひらひらと目の前で手を振ってみせる男を、乱菊は涙目で睨んだ。
「隊長に怒られるかもって、ドキドキしてたのに」
「怒鳴られたかったのか?」
「そうじゃありません!!」
と乱菊は深く溜息を吐いた。
「隊長は真面目だから、絶対に『約束を破った』って怒ると思ったんです。そしたら、昼休みだし、勤務中じゃないって言いくるめようって思っていたのに…」
「あー、なるほど。怒られることを想定して、誤魔化すところまで楽しみにしていたわけだ?」
「ううっ」
敗北感を漂わせてしゃがみ込んだままの乱菊の頭を、よしよしと子供にするように撫でる冬獅郎の方は上機嫌だ。
「しっかり昼寝もしたし、気持ちよく目が覚めたし、さーて午後からも頑張るぞ」
とわざとらしく気合を入れる隊長を横目に、乱菊は力なく立ち上がった。
《魔法を解くカギはキスだけ 〜叛乱の数年前〜》
ずっと集中していた研究は一段落がついたとみえる。
地下の「勉強部屋」で伸び伸びと大の字に横たわり、気持ちよさそうに眠りこけている喜助を黒猫は眺めていた。
(緩みきっておるのう)
黒猫が気配を完璧に殺していることと、他人が容易に侵入できない結界に阻まれた地下空間であることから安心しきっているのだろう。敏感なこの男にしてはぐっすりと寝入っている。もう少し眠らせてやるか、と黒猫は傍らに丸くなった。
ここは地下だから、陽の光は射さないはずである。だが、この怪しげな
くはぁ、と大あくびをして、前肢を突っ張らせた彼女は、もぞりと姿勢を変えて再び丸くなった。ぽかぽかの陽射しは作りものといえど、なかなかに心地が良くて、黒猫もすぐに柔らかな微睡みに沈み込んだ。
優しく背を撫でられて、黒猫は目を覚ました。傍らでは喜助が胡座をかいて、覗き込んでいる。
大きく伸びをした黒猫はもう一度、豪快にあくびをした。直後、ぽん、と彼女は組んだ喜助の足の中心に飛び乗った。
「研究は上手く運んだか?」
黒猫が人語を発した。驚くでなく当たり前の顔付きで、
「いえ、もう一息って感じなんですけどねぇ」
と喜助は返した。
「なんじゃ。煮詰まってふて寝しておったのか?」
「気分転換と言って下さいよ」
「言い換えたところで、事態は好転せぬぞ」
と黒猫は辛辣だ。
「あと、もう一息。ホントにもう少しなんスけどねぇ」
そのもう一息の突破口が見つからないと、横溝某原作のミステリー映画に出て来る高名な名探偵そっくりの風体をした男は、劇中の名探偵のように頭を掻き散らした。
「汚い。フケが飛ぶ」
と黒猫は不満を述べる。
「気分転換にご協力願えませんか?」
喜助はまずは下手に頼んでみた。
「ふて寝で気分転換したのじゃろう」
黒猫は素っ気なく答えると、彼の足の間に身を落ち着けたまま、再び丸くなって睡眠態勢に入ろうとした。そうはさせじと、喜助は彼女の前肢に指を差し入れて持ち上げた。
「なんじゃ? 儂は眠い」
ぶらんと後肢を中空で揺らして、黒猫は不服そうだ。
「気分転換すれば、突破口のアイディアが浮かぶ気がするんスよ」
「気のせいじゃろう。でなければ、願望が生み出した錯覚じゃ」
「かもしれません。でも、試してみる価値はあると思うんスよねぇ」
「しつこいのう」
と彼女はあくまで邪険だ。しかし、本気でその気がないときにはそれこそ情け容赦のない蹴りが来ることを承知している喜助は、のらりくらりと押し続けた。
「眠いと言うに」
「さっきしっかり寝ていたじゃないスか」
「まだ足りぬ」
「まぁ、そうつれないことは言いっこなしで」
しばらく、押し問答を続けていたが、喜助はついに実力行使に出ることにしたらしい。黒猫の耳許に唇を寄せ、軽く耳を食んだ。
彼にぶら下げられたままの黒猫の身体が、一瞬、小刻みに震えた。
「感じたんですか?」
と熱を込めた声音で囁き、喜助は更に首筋に唇を進めた。
端から見る者がいれば、どん引きする光景だろう。猫を相手に睦言を囁き、女にするように、舌を遣いながら唇で愛撫しているのだから。しかし、ここは喜助が作り上げた地下空間で、覗き見る者は誰もいない。
「ねぇ。そろそろ承知して下さいよ」
とうとう、喜助は黒猫に口接けた。挿し入れた舌でネコ科の鋭い歯を舐めると、ふる、と獣は身を竦めた。ざらついた舌を絡めて、喜助は黒猫と深い接吻を交わした。
唐突に、彼が支えていた猫が質量と体積を増した。絡まったままの舌もざらつきが失せ、柔らかく喜助に纏わりついた。
「…はぁ…」
唾液の糸を引いたまま、唇が離れた。
喜助の腕から黒猫は消え失せ、代わりに膝上で全裸の美女が婉然と笑っていた。
「しょうがないのう」
口調と金の瞳は最前の猫と同じだ。だが、声は一オクターブ高くなり、若い女らしいものに変化している。
「研究が上手くいったら、焼肉食い放題で手を打ってやる」
と彼女はいかにもしょうがないという顔つきで、喜助の首に両腕を回した。
「了解ッス、夜一サン」
呟きながら、喜助は黒猫だった女に再び接吻を落とした。
《貴方のキスは煙草の香り 〜叛乱終結後1年半〜》
濡れ縁で紫煙をくゆらすギンを、絢女は室内から眺めていた。
彼がいつから喫煙を習慣付けたものか、絢女は正確には知らない。少なくとも、五番隊で同僚だった時代には吸っているのを見た記憶がないので、絢女が大虚に襲われて行方不明になっていた四十五年の間に莨の味を覚えたのだろう。
付き合い始めて間もない頃だったが、三番隊の隊長舎を訪れた絢女は直前まで彼が吸っていた莨の残煙に盛大に噎せてしまったことがあった。それ以来、煙が苦手な絢女を慮って、ギンは室内では喫煙しなくなった。必ず縁側に出てから莨に火を付ける彼の心遣いに、絢女は感謝していた。
煙にどうしても慣れることが出来ないので、喫煙中、絢女は決して彼に近寄らない。けれども、彼の喫煙習慣自体は別に厭うていなかった。吸い過ぎは体に良くないことは、もちろん知っている。だが、ギンはいわゆるヘビースモーカーとか、チェーンスモーカーとか呼ばれるような吸い方はしていないのだ。一日に三、四度。多い日でもせいぜい五回程度、気分転換にふかしているのを咎める気にはならない。それに、実を言うと、彼が莨を吸っている姿を絢女は好んでいた。例えば、煙管を持ち上げる所作だとか、紫煙を吐き出す時の表情だとか、灰入れに灰を落とす仕草だとか それらに男の色気が漂っているようで、絢女は目にする度に動悸を覚えた。一服するギンを鑑賞するのは、絢女の密やかな楽しみでもあった。
ゆったりと莨を吸い終えたギンは、灰入れの上で逆さまにした
庭に植えられた山法師の葉がそよいでいる。きっと、莨の煙は既に風に散らされているはずだ。
絢女は立ち上がると、硝子戸を開けて濡れ縁に出た。
「どうしたん?」
ギンの問いに、
「ええ…」
答えになっていない曖昧な相槌を返し、絢女は彼の隣に腰を下ろした。ギンは不思議そうに僅かに首を傾げている。
思った通り、煙はもう感じなかった。ただ、彼からは莨の香りが常よりも濃く漂っていた。
ぎゅっと拳を握りしめて密かに気合を入れ、絢女は下ろしていた腰を浮かせて膝立ちになった。上半身を捻って身体の向きを変える。それから、両の手を伸ばしてギンの顔を挟むと、彼女は素早く彼の唇に自身のそれを重ねた。
ただ触れるだけの
けれども、滅多にない絢女からの口接けに、ギンは細めるのが習い性になった眸を目一杯見開いて驚いている。
不意打ち成功だ。
嬉しくなった絢女は、更に左手を持ち上げて、ギンの前髪を軽く払った。彼女が膝立ちしているので、いつもと異なり見下ろす位置にあるギンの額に軽く口接ける。そのまま、彼女はもう一度、ギンの唇に接吻を落とした。
最初と同じで触れるだけ。しかし、心持ち長く口接けた後、そっと離れようとした途端、ギンの腕が腰に巻きついて来て、彼女はぐいと引き寄せられた。
その一瞬後には、絢女は胡座を組んだギンの膝上に尻餅をついて納まっていた。
「あっ…」
見上げたギンの顔はいつもの冷静さを取り戻している。余裕綽々といった風情で、
「珍しく、積極的やねぇ」
「しとうなった?」
と彼は囁いた。ぞくり、と震えを覚えた直後、絢女は反射的にぶんぶんと勢いよくかぶりを振った。
「どないしよ? ボクはしとうなってしもたけど」
にやりと嗤った彼に、
「今は駄目!」
と絢女は思わず叫んでしまった。既にギンの掌で転がされていることには気付いていない。
「やって、煽って来たんは絢女やで。責任は取って貰わんとなァ?」
「だって、まだ明るいわ」
「明るかったら、したら駄目いう決まりでもあるん?」
「でも、晩御飯の支度をしていないもの」
「晩御飯より、絢女が食べたいのん」
「だけど、お風呂も入っていないじゃない」
と反論していったが、
「せやったら、これから一緒にお風呂に入ろ?」
と言われて、絢女は絶句した。最早言葉もなく、ひたすら首を横に振り続ける彼女を見下ろし、ギンはにんまりと悪い笑みを浮かべた。
「ほんなら、お日さんが沈んで、晩御飯を食べて、お風呂も入ってからならええの?」
動きを止めた絢女は、じっと探るようにギンを見つめた。
「ん?」
と応えを促す彼に、絢女はおそるおそる呟いた。
「きつくしないのなら…」
掌中に落ちてきた彼女に、ギンの笑みが柔らかなものに変化する。
「もちろん、優しゅうするけど」
「…本当に夜まで待ってくれる?」
まだ警戒しているらしく、絢女は探る眼差しを崩さない。
「うん」
とギンははっきりと頷いた。絢女がほっとして、身体を弛緩させた途端、
「せやから、今はこれで我慢しとくから」
と彼は宣言した。
「え?」
瞬きする暇もなく、三度、唇が重なった。ギンが口接けて来たのだ。
触れるだけの絢女の
「…ん…ふ…」
絡め取られた絢女の口中に、微かに莨の味が広がった。
《ぶつかる眼鏡が邪魔ね 〜叛乱終結後2年半〜》
初めて
イマドキの高校生(もう卒業してしまったが)の男女交際としては、これはとろくさい進展状況と言えるかもしれない。尤も、最初の二ヶ月半は、雨竜の「試しに付き合って欲しい」という依頼にたつきが応じた形のお試し期間だった。たつきの方が友人から彼氏に雨竜を昇格させられるのか心許ないままの始まりだっただけに、嫌われたくない雨竜が必要以上に慎重になっていたという面はある。
お試し期間を終えたのはクリスマス。受験シーズン本番突入直前だった。たつきはスポーツ推薦で早々に合格を決めていたが、国立医学部狙いの雨竜はセンター試験とそれに続く二次試験を控えていた。そうなると、お互いに自重するから、気が付いたらば、手を繋ぐのが精一杯という前世紀の高校生のような清らかさで卒業を迎えてしまった訳だ。
隣県の体育大学に進学したたつきは、大学の近くのアパートで一人暮らしを始めた。自宅からだと通学に時間が掛かりすぎて不便だったのだ。進学後、最初のデートは互いの学校を案内しようということになって、まず雨竜がたつきの大学を見学に来た。そして、帰りに寄った彼女の部屋で初めての口接けは交わされた。
晴れならば、近所の運動公園でテニスをしようと約束した日曜日、土砂降り雨に祟られて、雨竜とたつきは部屋でDVD鑑賞をしていた。
雨の中をレンタルショップに出向くのも億劫だったので、雨竜が撮り溜めた名画コレクションの中から、お勧めのヒッチコックのサスペンスを見ることにした。相当に古い映画であるが、流石に名画と呼ばれる作品だけはある。下手なアクション映画よりもハラハラドキドキが続き、たつきは予想外にのめり込んでしまった。
「面白かったぁ」
見終えた後のたつきの感想に、雨竜は嬉しそうに笑った。自分が好きなものを、彼女も好んでくれたことに喜びを感じたのだ。
「でも、雨竜がオールドシネマ・ファンって意外。普通、あたしらの年でこんなの見ないよね」
「師匠…、あ、いや、祖父が好きだったんだ。子供の頃、祖父と一緒によく見ていたから刷り込みかもしれないね」
「ふーん、そっかぁ。ねぇ、他にお勧めのはないの? 貸してよ」
目を輝かせて強請る彼女の屈託のない笑顔に、不意に雨竜は接吻をしたくなった。
0から1はとてつもなくハードルが高かったけれど、1から2、2から3とどんどんハードルは低くなってゆく。初めての接吻に漕ぎ着けるまでは半年も掛かったけれど、その後、もう幾度か口接けを交わしているので、躊躇いは感じなかった。
そっと右手で彼女の顔を上向かせる。たつきが目を瞠ったのは、雨竜の意思を悟ったからか。そのまま、重ねようとした唇は、たつきの掌に衝突して、本懐を遂げられなかった。
「…」
今度は雨竜が瞠目する番だった。拒まれると考えていなかった彼はショックの色を隠せないまま、反射的に、
「ごめん」
と謝罪していた。たつきが慌てたように、
「嫌だったんじゃないんだ」
と言い訳をする。
「だから、そんな落ち込んだ顔をしないでよ」
「落ち込んでいないよ」
雨竜は答えたが、
「いいや、どう見ても落ち込んでる」
とたつきは信用しなかった。彼女は溜息をひとつ落とした。それから、指を持ち上げて、雨竜の眼鏡のブリッジ部分を摘んだ。
「?」
雨竜が怪訝に戸惑っている隙に眼鏡を抜き取り、たつきはことんとそれをテーブルに置いた。
「…眼鏡…」
「え?」
「顔に当たるんだ」
らしくもなく俯いて、彼女はぽつりと呟いた。
「…ごめん。その…痛かったかい?」
思いがけない言葉だった。これまでも、接吻の度に彼女に痛い思いを強いていたかと狼狽する雨竜に、
「別に痛いわけじゃないよ。当たるっていっても軽くだし、これくらい、どうってことない。ただ…」
たつきは先を言い淀んで、言葉を止めた。上目遣いで窺うと、彼がまだ不安そうな顔をしているのが分かった。たつきはもう一度溜息を吐いた。
「痛くはないよ。だけど、気になって集中出来ないのが嫌なんだ」
我ながら大胆な発言だと、言ってしまってから後悔した。だが、雨竜を立ち直らせるには、効果絶大であった。彼は短く息を呑み、それから、もう一度たつきの頬に手を添えた。俯いていた彼女の顔を上向かせると、たつきは自分自身の台詞に狼狽えた様子で、顔を真っ赤に熟れさせていた。
「たつき」
小さく名を呼ぶと、びく、と肩を震わせた後、彼女はゆっくりと瞼を伏せた。
静かに唇が触れ合う。
雨竜は左腕を彼女の背中に回し、軽く抱き寄せた。
「…ん」
くぐもった声が漏れ、たつきは右手で雨竜のシャツを掴んだ。唇を重ねたまま、雨竜が僅かに角度を変えた。
柔らかな彼女の唇を思うさま堪能した後、名残惜しく離れる。彼女は顔を上気させたまま、ぼうっとしていた。
「集中…、出来た?」
「…」
言葉は出なかったが、微かに首が縦に振られた。接吻を終えた時に、彼女がこんなにぼんやりとしているのは初めてのことだ。
(眼鏡、本当に邪魔だったんだ)
テーブルにひっそりと置かれた自らの眼鏡を横目で見やり、次からは必ず眼鏡を外そうと雨竜は心に誓った。
《苦しいほどのキスの嵐 〜叛乱終結後4年〜》
こつんと窓ガラスが叩かれた音に、織姫は急いでカーテンを引き、通りに面した窓を開けた。足場のない窓外から、黒尽くめの着物を身に纏った男がひらりと侵入して来て、織姫の部屋に立った。
「わりぃ、井上」
織姫の恋人である死神代行の青年は手傷を負っていた。今宵の相手は、かなりの難物であったらしい。織姫は心得た様子で頷くと、彼をベッドに腰かけさせて、
「双天帰盾。私は拒絶する」
と六花の盾を発動させた。
死神化した霊体の一護は通常ならば窓をすり抜けられる。その代わり、ベッドも抜けてしまうので腰かけることは難しい。だが、この部屋は持ち主である織姫の霊力によって霊子構造が強化されているので、霊体の一護でも、普通に肉体にある時のように触ったり、腰掛けたりが可能なのだ。浦原喜助の解説によると、ある程度以上の霊力の持ち主はその霊力によって霊子を引き寄せるらしい。従って、その人物が日常的に過ごす場所 例えば、自宅であるとか、勤務先であるとか に備え付けの器物は霊子構造が強化されるので、霊体にも触れられるようになるのだそうだ。特にこの町は重霊地であるので、そもそもが周辺地域よりも霊子が濃い。その上、織姫はかつて尸魂界転覆を狙った藍染が誘拐したほどの霊力の持主だ。ベッドが幽霊でも座ったり横たわったり出来るようになるのも、蛇口を捻って水を飲むことが可能になるのも必然だった。
「分体する虚だったんだ」
と一護はもの問いたげな織姫に解説した。
「それも、五体分裂って多すぎだろう?」
以前、尸魂界で特殊能力を持った虚の討伐記録を閲覧させてもらったことがあるが、四体分裂が最多記録であった。一護が相手をした虚は分裂の最高記録更新者だったわけだ。分体した虚は一体一体は弱体化するが、小さくなった分だけスピードが増し、小回りが利くようになる。ちょろちょろと侮れない速度で動き回り、挟撃を繰り返す虚の討伐は、護廷隊長級の一護といえどもなかなかに骨折りであった。
「卍解出来れば、瞬殺だったんだけどな」
出来るだけ現世での卍解は避けるように。これは護廷から言い渡された注意事項である。そもそも、護廷の隊長格からして、現世で討伐の際はその霊力が現世に悪影響を及ぼさないようにと、限定霊印で霊力を20%に制限されるのだ。それなのに、隊長級の一護が霊力限定されないのは、彼が現世に生きる人間で死神代行であるからだ。それだけに、限定なしの一護の卍解は周囲にとてつもない影響を与える。説明を受けた一護はどうしてもやむを得ない場合を除き、始解で闘うように努めていた。
「終わったよ」
と織姫は双天帰盾を解いた。彼の負傷は浅手とはいえなかったが、拒絶が困難な深手でもなかった。綺麗に癒えた傷に、
「サンキュー、井上」
と一護は感謝する。
「いえいえ、お安い御用ですぞ」
微笑む織姫を、そのまま一護は抱き寄せた。霊体の彼が織姫を抱きしめられるのもまた、彼女の霊力のゆえである。
「
尋ねる一護に、織姫は頬を染めて頷いた。
戦闘、ことに手傷を負うほどの戦いではアドレナリンが大量放出される。この戦闘による興奮状態の影響なのか、織姫に治癒して貰った後、一護が彼女を抱きしめ、接吻したがるのは、二人が恋人関係になってからはお約束の展開であった。
「井上、好きだ」
照れ屋で、滅多なことでは言葉を与えることが出来ない一護だが、興奮状態のこの時だけはすんなりと吐き出せる。
「あたしも好きだよ、黒崎くん」
返した彼女に一護は口接けた。
本音を言えば、接吻だけではもの足りない。もっと先へ進みたいという欲望は、健康な若い男として当然のように存在していた。実際、触れることが可能なのだから、出来ないことはない。だが、一護は自重する。浦原喜助から、霊体の一護と性交渉を行うことは、織姫に多大な負担をかけることになると聞いていたからだ。
「…くろ…さきくん…」
一護の腕の中で、織姫が弛緩した。
「井上…」
彼女の名を呟きながら、一護は接吻を繰り返した。
先に進むわけにはいかないのだから、せめて、彼女の唇だけは満足のいくまで貪りたかった。離れたかと思うと、充分に息継ぎする暇さえままならないほどの性急さで、次の口接けを繰り返す一護に、織姫の息が上がって来た。
「黒崎…くん、苦しいよ…」
音を上げた織姫の訴えに、名残惜しげに一護は彼女を解放する。織姫はとろんと潤んだ眸で、かろうじて倒れ込まずにベッドに腰かけていた。
「井上、悪い。後でもう一遍、来るから」
織姫が素直に頷いたのは、嵐のような口接けで、彼女自身が火照っていたからだ。
「待ってる…」
彼女の呟きに、照れと喜びの入り混じった微笑を返し、一護は器子の肉体に戻る為に部屋を後にした。