風こそかをれ 〜式子内親王で七話〜
《冬獅郎と乱菊 〜叛乱の数年後〜》
天あまつ風氷をわたる冬の夜の 乙女の袖をみがく月かげ *1
美しい衣装に身を包んだ乱菊は、同様の煌びやかな衣装を纏い緊張の面持ちでいる部下たちににこりと笑いかけた。
今年、新年の賀会の輪番は十番隊だった。出し物に苦悩する隊首に、日舞でも踊りましょうか、と提案したのは乱菊自身である。彼女は数十年前にも一度、賀会で舞いを披露したことがあった。前の隊長の下で三席を務めていた時代である。彼女の舞台は大好評で、賀会自体は成功に終わったのだが、その後が大変だった。乱菊を見初めた貴族からの求愛が殺到し、前の隊長は断りを入れるのに多大な苦労を強いられたのである。そのことは、冬獅郎も聞き知っていた為、当初は、
「部外者の目のあるところでは、おまえの舞いは封印だって聞いているぞ」
と反対した。だが、乱菊から、
「今はあたしと隊長の仲は護廷公認でしょう? 上級貴族に準ずる身分の護廷隊長の恋人に求婚してくるような貴族はいませんよ」
と説明されて納得した。それに、乱菊が言うには、数十年前の求婚騒ぎも、数が多かったので骨折りだっただけで、断ること自体は難しくはなかったらしい。というのも、ほとんどが側室として乱菊を求めたものだったからだ。いくつかあった正室の話も、当主を引退した歳の離れた隠居の後妻だったり、素行の悪い一族の持て余し者の青年に美人妻を与えて懐柔しようという意図を孕んだものだったりで、要するにまともな縁談ではなかったのだ。考えてみれば当然で、朽木白哉が戌吊出身の女を娶った時にも、瀞霊廷中が騒然としたくらいだ。上級貴族が流魂街最貧区出身の女を当主正室として家に迎え入れるなど、生半な覚悟では出来ることではない。だとすれば、護廷の副隊長であり、護廷隊長の恋人でもある今の乱菊に対して、かつてのような失礼な求婚を行う貴族はいないだろう。
面倒な求愛がないと予測できれば、副官としても、恋人としても、自慢の女を見せびらかしてみたいという男の見栄めいたものは冬獅郎といえどもあったわけで。
他に良い出し物も思いつかなかったので、乱菊の案は採用された。それでも、乱菊を独演で舞台に上げるのは
そんなわけで、本番の賀会の日を迎えたのだ。
他隊の隊長格や瀞霊廷の重鎮、上級貴族の当主らが列席する舞台に上がる隊員たちは、さすがに緊張の色を面に漂わせている。
「大丈夫よ。いっぱい練習したもの」
と乱菊は緊張を解すべく、柔らかな力加減で部下たちの背中を叩いた。
賀会は屋外に設えられた能舞台で、日暮れてから執り行われる。周囲にはあかあかと数多くの篝火が焚かれ、幻想的に舞台を照らしていた。まず、囃子方が入場し、舞台背面に座した。笛と鼓が響く中、乱菊を中心とした五人の舞姫が衣装の袖を翻し、舞台に登場する。
ちらちらと風花が舞った。演出として、小雪をちらつかせることは打ち合わせ済みで、冬獅郎が氷輪丸を使ったのだ。
舞台の背後の西空には糸のように細い繊月が夕闇に浮かんでいる。月と、降り惑う風花と、色艶やかな袖を高く大きく廻して舞台を彩る花のような舞姫と。
完成した雪月花に、観客たちは息を呑んで見入っていた。
《ギン 〜叛乱の四十五年前〜》
日に千たび心は谷に投げ果てて あるにもあらず過ぐる我が身は *2
伸ばした手は、ほんの掌一つ分だけ距離が足りなかった。
あともう少しだけ。掌一つ分だけ伸ばせれば、掴まえられたのに。
ただ指先だけが掠めて、彼女はすり抜けた。すり抜けて、墜ちていった。
捜索隊は、瀕死だった彼女は集まっていた虚に食われてしまったと結論付けて捜索を打ち切ったが、ギンはどうしても納得出来なかった。彼女が死んだなど、認めることなんて出来なかった。
だから、捜した。帰還命令も無視して現世に留まり、必死に探し続けた。
けれども、彼女は見つからなかった。
自隊の隊長に拘束され、力ずくで尸魂界に連れ帰られたギンは、じっと自分の左手を見つめた。右手に握った神鎗で虚の攻撃を斬り裂きながら、ギンは左手を彼女に伸ばしたのだ。
救援に駆けつけた彼が中級大虚を倒した時、安堵したように、嬉しそうに微笑した彼女の顔が忘れられない。直後に彼女は気を失って、中級大虚の霊圧に魅かれて集まっていた虚の群れの中に墜ちていった。
左手は指先を掠めた彼女の熱を覚えているのに。
届かなかった。掴めなかった。
彼女を護れなかった 。
ギンは左手から目を上げた。
彼のいる谷底に、もう日の光は届かない。
《ルキア 〜朽木家養女になって数年後〜》
はかなしや枕さだめぬうたたねに ほのかにまよふ夢のかよひ路 *3
呼ぶ声が聞こえる。
「ルキア、こっちだ。急げ!」
いつもは快活で底抜けに明るい声が、焦りを滲ませて彼女を呼んでいる。
「追いつかれるぞ!」
待ってくれ。何故だか足が重いんだ。重くて、上手く走れないんだ。だから、待って。置いて行かないで。
置いて行くな。お願いだから、私を置いて行くな!
「恋次 !!」
叫んだ自分の声でルキアは目を覚ました。
ゆっくりと体を起こし、彼女はそのまま俯いて唇を噛みしめた。
今日は討伐で大きな戦闘があって、疲れ切って家に戻った。そのせいで、夕食後、自室に引き上げた途端、糸が切れたように眠り込んでしまったのだ。布団も敷かず、畳に直に横たわっての転寝で着衣は見事に皺になっている。
夢を見た。
子供の頃、戌吊で浮浪児だった頃の夢だ。同じような境遇の子供たちが集まって助け合いながら暮らしていた当時、治安の悪い戌吊では食べ物は盗みでもしないと手に入らなかった。盗みは悪いことだが、それは秩序が保たれている場所での話である。無法がまかり通る地では生きる為には多少の悪事には手を染めなければ死ぬしかなかった。子供たちで徒党を組んで、かっぱらいや盗みを働いて。そうやって得た僅かばかりの食べ物を独り占めすることなく分け合って生きて来た。
仲間の子供たちの中でも、恋次は一番体格が良く、腕っぷしも強くてすばしっこかった。一方、唯一人の女の子だったルキアは小柄だった分、恋次たちには潜り込めないような隙間に入り込めるという点だけは役に立っていたが、それ以外では非力で体力も劣っていたし、恋次に比べると足も遅かった。
役に立つことよりも、足を引っ張る方が多かったルキアのことを恋次はいつも見捨てずにいてくれた。食料を盗んで逃走中に転んで足を挫いてしまったルキアを負ぶって逃げたこともある。
だから、ずっと一緒にいられると思っていた。彼に見捨てられる日が来るとは思っても見なかった。
ここは寒い。
戌吊では想像することも出来なかったようなふかふかで上等な布団に身を横たえて眠っても。
手触りの滑らかな正絹の着物に身を包んでも。
飢えることなど考えられない、豪華で凝った料理を食べて、腹は満たされても。
桜が満開の麗らかな春の日でも、紅葉の赤が目に染みる穏やかな小春日でも、いっそ、うだるように暑い蝉の合唱が響く日であってさえ。
ここは寒い。
白哉に養女にと打診された時、恋次と離れたくなくて、引き止めて欲しくて相談した。行くなと反対されることを期待していたのに、彼は笑みを浮かべて、
「良かったな」
と言った。貴族の娘になれば、もう飢えることもない。冬の寒さに凍えることもない。病で医薬も届かぬまま死んでしまうこともない。だから、
「…良かったな」
邪気なくそう告げられれば、本当の気持ちなど言えはしなかった。
「私は足手まといだったのか…」
実際、足手まといだったのだろう。戌吊にいる頃もずいぶんと迷惑をかけた。先ほどの夢のように逃げ遅れたルキアを助ける為に、決死で戻って来てくれたこともある。仲間内で霊力のある子供は恋次とルキアだけだったから、二人で死神になろうと霊術院の門を叩いたが、そこでも恋次は特進級、ルキアは一般級だった。彼はきっと足手まといのルキアに困っていて、それでも根が優しいから見捨てられなかっただけなのだ。
だが、ルキアが朽木家の養女になってしまえば、もう庇う必要はない。足を引っ張られる懼れもない。だから、
(これで良かったのだ)
ルキアはそう思い込もうとしていた。
養女の話が本決まりになった後で、養女というのは表向きで亡くなった奥方の身代わりの人形にされるのだ、と教えられた。教えた者が誰だったかは覚えていない。ただ、白哉の
近くにいるのに決して交わらない心。見えているのに、ルキアを映そうとしない眸。白哉から与えられるのは底なしの拒絶だけだった。
ここは寒い。
戌吊にいた頃は貧しくて、飢えと病との綱渡りのような生活だったけれども、それでも温かかった。
「恋次…」
届かなくなった想いを、遠くなった日々を象徴する名を小さな声でルキアは呟いた。
恋次、ここは寒いんだ…。
おまえは凍えてはいないか? あの頃のように、馬鹿みたいに笑っているか?
もう、夢でしか会えない。
《絢女 〜叛乱の五十年前〜》
忘れてはうちなげかるる夕べかな 我のみ知りて過ぐる月日を *4
遅番の夜勤に備えての仮眠を終え、絢女は遅めの食事の支度をしていた。
冬場ならとっくに真っ暗になっている時間帯だが、夏至を過ぎ本格的な夏に足を踏み入れ始めたこの時期は日暮れが遅い。黄昏始めた空を台所の窓越しに眺めながら、絢女は淀むことのない手付きで玉葱をみじん切りにしていた。
その視界の端に、銀色が映る。目を瞬いた絢女は、私服で副隊長舎から出て行く自隊の上官を認めた。
行き先は、多分、女のところ。遊里なのか、素人の娘を茶屋に連れ込むのか、それは分からないが、女のところだと判断したのは彼の着物が暗い色合いだったからだ。
銀色の髪に、木賊色の眸。陽の光がぎらつくような屋外で討伐や鍛錬で活動していても、元々の色素が薄い男はあまり日焼けというものをしない。だからなのか、彼には藤色や裏葉柳、甕覗きといった淡い色合いの着物が良く似合った。本人もそれは自覚しているらしく、絢女や乱菊と呑みに行く日や、非番で出掛ける日はそういう色合いのものを身に着ける。だが、女絡みの外出時には意図してなのか、無意識なのかは分からないが、黒っぽい闇にまぎれそうな着物ばかりを選択する傾向があった。
そんな、他の者なら見過ごしそうなことにまで気が付いてしまうほどに、絢女は彼を見ていた。
「行かないで」
そんなことを言う権利なんて絢女にはない。だが、もし告げれば、彼が好きだから他の女のところになんて行かないで欲しいと正直に吐露すれば、彼はきっとその願いを聞き届けてくれるに違いない。彼が絢女に対して好意を抱いていることを、聡い彼女は気が付いていた。想い合っているのに、それでも両想いにならないのは、絢女も、彼も、お互いに気持ちを打ち明けようとしないからだ。
(あの子を守らなきゃいけないの…)
誰よりも大切なたった一人の弟。その弟を邪まな目的で狙っている者がこの尸魂界のどこかにいる。
守る為という大義名分の下、絢女は弟を八十年にも渡って結界空間に封じ、その年月と成長を歪ませてしまった。しかし、未だ黒幕の手掛かりも得られず、弟は安心して暮らせないでいる。それなのに、姉の自分が色恋にうつつを抜かすなどあってはならないことだった。それに、この気持ちを打ち明けてしまったならば、彼は自分に協力しようとするだろう。しかし、弟のことで彼を危険に巻き込むなど許されない。困難でも、これは絢女が一人でなんとかすべき問題なのだ。
だから、気持ちは伝えない。蓋をして隠してしまう。彼は同じ隊の上官で、同期入隊の友人で、それ以上ではないのだ。
こんなに玉葱が目に沁みるのは、包丁の切れが鈍っているからだ。
(包丁、研ぎ直さなきゃ…)
と心で呟きながら、絢女はもうひとつ、玉葱を手に取った。
《冬獅郎 〜叛乱の数年後〜》
梅が枝の花をばよそにあくがれて 風こそかをれ春の夕闇 *5
深夜と呼べる時間帯。冬獅郎は十番隊寮へと家路を急いでいた。
彼の身体からは白粉の匂いが漂っている。最前まで妓楼にいた為、侍っていた女の移り香だ。その甘ったるい香りが不快で、早く風呂に入って落としてしまいたかった。
今宵は接待の宴席だった。護廷に多額の寄附を行っている貴族をもてなす為のものである。この手の宴席はおおむね、遊女や芸妓の侍る遊里の妓楼で開催された。この為、女性隊長は宴席には呼ばれない。また、貴族の頂点に立つ四大貴族の当主である白哉にも声がかからない。彼が出席するともてなされる側である貴族たちが委縮するからだ。どう考えても接待には不適当な十一番隊、及び十二番隊隊長も頭数に入っていない。そんなわけで出席可能な隊長が限られている上、貴族からの寄附は護廷の重要な財源のひとつなので隊長として無下にするわけにもいかず、冬獅郎は毎度毎度、いやいやながらも律儀に宴席に出掛ける羽目に陥っていた。無論、妓楼に泊まるような真似などしない。貴族たちがいい具合に酔って気に入った花魁を伴って寝所に移り始める頃合いを見計らって、彼は妓楼を辞するのだが、ただ酒を呑んでいるだけでも侍っている妓から辟易するほど香りが移ってしまうのである。
妓楼の女たちからべたべたとしなだれかかられるのは、正直なところ迷惑だ。彼女たちは色香を売るのが商売だから仕事でやっているわけだし、
この手の気疲れする宴席の後は、一刻も早く恋人に会いたい。白粉のように人工的で強い匂いではなく、仄かに匂い立つ乱菊の香りを胸いっぱいに吸い込みたい。
知らず足早になっていた彼の歩みを、吹き抜けた一陣の風が止めた。
風は冬獅郎に纏わりついていた娼妓の匂いを吹き払い、代わりに愛しい女の香りを届けたのだ。
再び、風が吹き、ふわりと乱菊の香りが冬獅郎の鼻先を掠めた。
その源を確かめたくて、冬獅郎は風が吹いて来た方角に足を向けた。
ふわり、ふわりと優しい香りが漂ってくる。
「ああ…、やっぱり梅か」
暫く進んだ後、民家の庭先に咲き誇る紅梅を認め、冬獅郎はふっと笑みを浮かべた。
乱菊の髪からは梅の香りに良く似た匂いがする。甘酸っぱいのに、どこか凛とした気高さを感じるその香りが、冬獅郎はとても好ましかった。
それに、と彼は思う。
乱菊を譬えるのには満開の桜だとか、薔薇だ、牡丹だと華やかな花の名ばかりが挙げられる。確かに外見だけで判じるなら、その喩えは的を射ているだろう。だが、心根まで含めて擬するのなら、梅が近いのではないかと冬獅郎は密かに考えていた。桜に負けず劣らず美しい花のくせに、満開であっても桜ほど主張しない一歩下がった控えめさといい、きりりとした風格を感じる枝振りといい、
(実は酒の材料になるしな)
と独り言ちて、彼は密かに笑った。
(すまない)
心の中だけで謝って、道に張り出した枝から花のついた小枝を折り取る。
優しく香る花を大事に握りしめて、風呂に入って白粉の匂いを落としたら、この一枝を花簪にして乱菊に飾ろうと、冬獅郎は決めた。
《烈 〜四番隊隊長就任間もない頃〜》
玉の緒よ絶えなば絶えね ながらへば忍ぶることのよわりもぞする *6
勤務を終えての護廷からの帰路、
「烈ちゃん」
と声を掛けられて、烈は振り向いた。
烈が護廷に入隊する前からの知り合いで、彼女を妹のように可愛がってくれていた京楽春水と浮竹十四郎が並んでいた。
「今、お帰りですか、卯ノ花隊長?」
十四郎が微笑む。
「はい。今日は珍しく早く上がれましたの」
救護を担う四番隊は何やかんやで多忙で、隊長職を奉じて間もなく不慣れな烈は遅くなることが多かった。
「そうですか。良かった。ずいぶんと忙しそうだから、身体を壊しやしないかと心配していたのですよ」
もう定時の勤務時間は終わっている。隊の違う春水と十四郎が連れ立っていることからしても、二人も仕事は終わって夕飯を取りに出掛ける途中なのであろう。勤務中こそ「卯ノ花隊長」と烈を呼び敬語で話す春水は、勤務時間外なれば今しがたのように「烈ちゃん」と昔ながらの気安い呼び名を使ってくれる。けれども、十四郎は頑なに隊長に対する敬語を崩そうとしない。病持ちの彼の役に立ちたくて、護廷四番隊に入隊したはずなのに、却って遠ざかってしまった距離が烈には寂しかった。
「お食事に出られるのですか?」
「そうだよ。烈ちゃんも一緒に行く?」
こだわりなく春水は誘ってくれたが、烈はゆるゆるとかぶりを振った。烈を護廷隊長として扱う十四郎を見るのはつらかったし、彼も気づまりだろうと遠慮したのだ。
「家には今から帰ると連絡してしまいましたの。ですから…」
「そうか。じゃ、また今度ね」
「ゆっくり休んで下さい、卯ノ花隊長」
「はい。ありがとうございます」
二人と別れ、再び家路を辿る烈の心は乱れていた。
十四郎にとって、烈は唯の知り合いの少女でしかなかった。ずいぶんと可愛がって貰った記憶はあるが、人懐こい彼にとっては妹と接するようなものだったのだろう。女としては、見られていなかった。
初めて会った日から、烈の心は十四郎に囚われたまま。けれども、彼の眸に女としての烈は映ってはいなかった。
いつまで、心を隠し続けられるだろう。
どれほどの年月が経てば、この想いを捨てられるのだろう。
年若くとも「四」の文字を染め抜いた羽織を纏い、いつでも毅然と立っていようと誓った烈の肩は、彼女自身気付かぬうちに下がっていた。重たい足を引き摺って、烈は家路を進む。
いつまで、と誰にも答えられない問いを抱きしめて。
《夜一 〜瀞霊廷逃亡時〜》
君ゆゑやはじめもはても限りなき うき世をめぐる身ともなりなむ *7
背負っているものが重かったというわけでは、断じてない。窮屈だったのは確かだったけれども。それよりも、この男が傍にいなくなる方が夜一には切羽詰まった問題だった。
この男は居心地が良かった。四大貴族の当主にあるまじき奇天烈で自由奔放な
渡り鳥は小枝を咥えて大海原を超えて行くのだ、というのは現世の伝説である。飛ぶことに疲れた時には咥えて来た小枝を海に浮かべてその上で羽を休めるのだそうだ。それはあくまでお伽噺で、実際に渡り鳥が小枝を咥えて渡りを行うことはない。大海原は小枝ひとつで羽を休められるほど、優しくはないのだ。けれども、どこか人の心を捉えるところがあったから、まことしやかに語り継がれているのだろう。
夜一にとって、この男は渡り鳥が咥える小枝のようなものだった。彼女は自由に飛べる。どこへでも行ける。それでも、海原で休む為に小枝が手離せない渡り鳥のように、夜一も彼がいてくれないと困るのだ。
理不尽に陥れられた仲間の窮地を見過ごせなかったという性分もある。けれども、何よりも切実だったのは彼が夜一の傍からいなくなることだったのだとは、一生教えてやらないが、どうせ彼は承知しているのだろう。夜一を理解しているという点では、彼に勝る者などいないから。
ある意味、囚われているのかもしれない。狭い虫籠に閉じ込められた蝶は逃れようと足掻くが、広い温室に放たれれば優雅に羽ばたくのに似ている。彼が夜一を閉じ込めた檻は広すぎて、夜一には認識できない。だから、捕らわれたことを頭の隅で自覚していても、気にすることなく勝手気ままに振る舞えるのだ。
彼がいない世界なんてつまらない。だから、助けた。現世でも、地獄の底でも、彼がいるのならスリリングで楽しげだ。
「ま、これからもよろしくな」
傍らに眠る男に、夜一はにやりと笑いかけた。
*1 新勅撰集1111
*2 式子内親王集
*3 千載集677
*4 新古今集1035
*5 式子内親王集
*6 新古今集1034
*7 新千載集1034