憂愁のサトゥルヌス


 見知った男の霊圧を感じて、冬獅郎はひょいとその店の暖簾をくぐった。
 客が七人も入ると満員御礼となる、カウンターだけの小料理屋だ。入って来た冬獅郎に女将よりも先に、先客が軽く手を挙げて挨拶した。
「いらっしゃいませ」
 女将の声を聞きながら、
「独りか?」
と尋ねると、
「見ての通りや。冬獅郎はんこそ、独りなん?」
とギンは問い返した。
「さっきまで、堀田と一緒だった」
「ああ、慰労しとったんや」
 堀田は十番隊の第三席であるが、三日後に引退を控えていた。十番隊では一番古株の隊士で、引退理由も老齢の為だった。隊を挙げての送別会は一昨日に済ませてあったが、今日は冬獅郎が個人として、彼を労いたかったのだ。「生き字引」と異名を取るほどに隊務のこと、護廷のしきたりや決まりごとに詳しかった彼は、実力はあっても経験値が絶対的に乏しかった冬獅郎をずいぶんと助けてくれた。乱菊と共に若輩の隊首を盛り立ててくれた堀田には、言い尽くせないほどに、冬獅郎は感謝をしていたのだ。
 高級料亭で差しつ差されつ、しみじみと酒を酌み交わし、冬獅郎が隊長に就任してからの思い出を語り合った。あの時は苦労した、あの時は楽しかったと、二十数年にも渡る年月を振り返れば、歳若い隊首を支えてくれた堀田の慈愛が改めて身に沁みた。
 温かさと一抹の寂しさを胸に堀田と別れ、帰宅途中で、馴染みのある霊圧を感知し、覗いてみたのだ。
 ギンの隣りに腰を下ろし、女将に熱燗を注文する。
 夜も遅い時間だが、自宅に戻ったところで独りなので、冬獅郎は帰宅を急いではいない。ギンも同じなのだろう。
「今日は三番隊長舎に泊まりか?」
と尋ねると、うんと頷いた。
 ギンと冬獅郎の実姉である絢女が正式に結婚してから、まだ一年にもならない。それ以前からほとんど通い婚状態ではあったのだが、婚姻を期に二人は家を買い、夫婦として同居を始めたのだ。本来であれば帰るのはその家であるはずだが、ギンは隊長舎に泊まる心積もりでいた。というのも、今晩は乱菊と七緒が揃って泊まりがけで遊びに来ているからだ。乱菊だけであれば、今更、気を遣う間柄ではないが、七緒はギンがいると遠慮するだろう。仲のよい女同士の楽しみに水を差すのも申し訳ないし、どうせ絢女を女友達に取られてしまって独り寝であるなら隊長舎の方が気楽でいいと、絢女には帰らないことを伝えていた。
 乱菊たち三人は明日は揃って非番で、朝から現世に買い物に出るのだ。つい先日、元気な男の子が産まれたばかりの十四郎・烈夫婦への出産祝いの調達である。また、絢女は現在妊娠中で数ヶ月後に出産を控えている。そこで、自分自身の為にも、妊婦・新生児の為の現世の便利グッズをあれこれと入手したいという思惑もあるらしい。
「大丈夫なのか、現世に行ったりして?」
「現世の妊婦で言うたら、六ヶ月くらいらしいねん。安定期に入ったし、さほどお腹も膨らんでへんから義骸に入っても問題ないて、虎徹はんからも許可を貰うたて言うとった。乱菊と伊勢はんも付いとるしな」
「冷静だな。俺なら、心配で絶対に現世なんかには行かせたくないが」
「冷静いうわけでもないん。ほんまはやっぱり心配やし、行かせとうはない。けどなぁ、絢女、ものすご楽しみにしてたん。それやのに、反対なんかしたらしょげてしまうもん。虎徹はんかて、無理せんように気ィ付けるんやったらええ、言うとるのに、ボクが頭ごなしに駄目やとは言えへんよ」
「そうか…」
と冬獅郎は不承不承頷いた。絢女はギンの妻であると同時に、冬獅郎にとっても大切な姉なので、彼自身からして心配なのだ。だが、確かに心配だからとむやみに行動を制限するのは理不尽だろう。
「確かに、虎徹が許可しているのなら仕方ないな。しかし、寒いのに大丈夫か?」
「ショッピングモール言うん? 大きな建物にいろんなお店が入っとるところ」
「ああ」
「そこで全部買い物を済ますって言うとった。建物の中は空調が効いとるし、疲れたら休めるところもようさんあるいうし、温い格好していくそうやし…」
と連ねたギンは、冬獅郎というよりも、自分自身を安心させようとしているらしい。
「もう赤ん坊が動くのとか、分かるようになったのか?」
 冬獅郎は話題を変えた。
「うん。よう動いとるみたいや。時々、お腹触らせて貰うけど、絢女のお腹ごしでも動いとるのわかるで」
「へえ」
「霊圧もちょっとずつ強うなっとる」
「そうか」
 ギンの言葉が止まった。その横顔にそこはかとない愁いを認め、冬獅郎は眉を寄せた。
「不景気な面しているな。姉さまを友達に取られたくらいで、そう落ち込むな」
「そんなんやあらへんよ」
「じゃ、何だ?」
「んー。何て言うか…。男にもマタニティ・ブルーってあるのんかなぁ?」
「はあぁ?」
 何を言っているんだ、こいつは。という顔つきで半眼になった冬獅郎に、ギンは曖昧な笑いを向けた。
「たまーにな。怖くなるん」
「何がだ? まさか、まだ、夢から醒めるのが怖いとか思っているのか?」
「いいやぁ。それはほとんど克服出来たし、もう大丈夫やねん…けど…」
 ギンは言葉を濁した。
「父親になるのが不安なのか?」
 思いついて、冬獅郎は問うてみた。

 ギンは過去に重い業を負っている。それは彼が自らの意志と判断に基付いて突き進んだ結果、背負ったものだ。しかし、そこに至る根本の原因部分に冬獅郎は少なからず関わっており、決して表面に浮かべるような真似はしないが、幾らかの負い目を感じているのは確かだ。それ故にこそ、ギンの憂いが気にかかる。冬獅郎にとっても甥か姪になるはずの子供は、否応なしに父親の業を引き継ぐのだ。ギンはそれを案じているのかもしれない。そう考えての問いだった。
「…そうやね」
とギンは肯定を返した。
「怖いんかもしれへん」
 ずいぶんと素直に認めるようになったものだと、冬獅郎は思った。
「なぁ、冬獅郎はん」
「何だ?」
「虐待されて育った子ォは大きゅうなって、自分が親になった時にやっぱり子供を虐待してまうことが多い、いう話、聞いたことない?」
「知っている。『負の連鎖』と言われているな」
 沈黙してしまったギンの横顔を、冬獅郎は見つめた。いつもの読めない笑みの向こうに横たわる不安をきっちりと読み取れるようになった辺り、俺もこいつに慣れてきたな、と考えながら、冬獅郎は言葉を継いだ。
「おまえが子供を虐待するような糞親になったら、俺が始末してやるよ」
 こともなげに告げられた一言。見返すギンに、
「二度と姉さまを泣かせるような真似はしないって誓いを破るわけだ。成敗するのは俺の義務だろうが」
と続ける。ふっ、とギンは薄い微笑を貼り付けた。
「確かに、そうやね」
「ま、どっちかというと、おまえはベタ甘の親馬鹿になりそうな気がするけどな」
「…どうやろ?」
「いや、親馬鹿だろう。特に女の子だったら、絶対だ」
 冬獅郎は断言した。
 ギンが不安を感じる心持ちは理解出来ないでもない。具体的な記憶は失っているとはいえ、彼の幼少期は頑張って可能な限り楽観的な予想をしたとしても、かなり悲惨なものしか想像出来ない。絢女に出会い、ようやく安心して生活出来る場所を与えられたのも束の間、藍染によってその幸せを砕かれ、挙句に流れ着いた先は流魂街最貧区である。彼の子供時代は絢女と過ごした数年、下手をしたら一年にも満たなかったかもしれない短い間を除けば、惨めな泥を啜るような日々の積み重ねなのだ。愛情の掛け方が分からず、自らの虐待体験を子供になぞってしまう「負の連鎖」の親になりそうな要件は充分だ。

 けれども    

「市丸。おまえはもうちょっとくらい自分を信用していいと思うぞ」
 よほど意外だったのだろう。ギンはまともに冬獅郎を見据えてきた。臆することなくその視線を受け止め、冬獅郎は継いだ。
「俺は覚えてねぇけど、人間の子供だった頃は、おまえは俺のことをそれなりに可愛がっていたんだろう?」
「…と思う」
「で、無邪気で純真だった頃の俺も、それなりにおまえに懐いていたみてぇだな」
「多分…」
「なら、大丈夫だろう」
「…なんで、『なら大丈夫』なん? 根拠が分かれへん」
「『絢女の弟』を可愛がれるのなら、『絢女の子供』なら尚更、可愛いはずってことだ」
 意表を突かれた様子で、ギンは僅かに目を瞠った。
「あのな、産まれて来る赤ん坊はおまえの子供には違いないが、まず、その前に姉さまの子供だろう? 市丸が姉さまの子供を虐待するとは思えねぇんだよ、俺は」
「ああ、そっか…。絢女の子供か…」
 ギンは深く息を吐いた。

 彼はもう忘れてしまったのかもしれない。
 冬獅郎は思った。あの叛乱の裁判の際に自分が言った言葉を。

 ひどいめに遭うとるなら、助け出してやりたかった。

 彼はずっと捜していたのだ。藍染に攫われてしまった「若さん」を。すぐ近くにいる冬獅郎が捜している当の相手だと気付かないままで、藍染配下の破面の中に「若さん」がいないかと、或いは役立たずと捨てられた者の中に紛れてはいないかと捜し続けていた。
 乱菊のことだってそうだ。最貧区で乱菊と共に暮らしていた頃、彼は時に自らの手を汚してでも彼女を護り続けたのだ。
 いびつで、屈折している部分があることは否めないが、ギンはちゃんと人の愛し方を知っている。

 だから。

 冬獅郎は繰り返す。
「大丈夫だ」
と。ギンが自分で考えているよりも、むしろ、周りの方が彼を信用しているのだ。
「そやね…。大丈夫か…」
 ギンは小さく頷いて、猪口の熱燗を飲み干した。

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2014.02.07