吾が戀止まめ


 細く開けておいた窓から、ぬるい風が渡ってきて、冬獅郎は目を覚ました。
 傍らで眠る女を起こさぬよう、そっと寝床を出て、窓辺から外を確認する。耳を澄まさねば聞き取れぬほどの密やかな音を立てて、小糠雨が降りしきっていた。
「雨の日は髪がまとまらないんですよ」
といつも女は愚痴っている。彼女は豊かに波打つ髪を、たいてい自然のままに下ろしていた。もっとも、自然のままに、と思っているのは冬獅郎だけで、女に言わせると、
「無雑作に下ろしてるみたいに見えるかもしれませんけどねぇ。うっとうしく見えないように、ちょうどいい感じにするには色々と大変なんですよ」
 なのだそうだ。
 冬獅郎には豊穣を感じさせる毛量も、女にとっては多すぎて扱いにくいそうだ。
 雨の日は湿気を含んで髪は重くなるから却ってまとまりやすいのではないか、と冬獅郎は思うのだが、そういう訳でもないらしい。いつも「うまくまとまらない」とぶつぶつ言いながら手入れをしている彼女を見ているので言えないが、冬獅郎は雨の日の彼女の髪が好きだった。
 彼女の髪からは、甘い花の香りがする。春に先駆けて咲く梅の香に似た、甘酸っぱいような、凛とした品のある馨だ。
 雨の日。殊に細かい、しっとりと湿った霧雨の日は、彼女の髪の香りはかぐわしさを増す。触れると、常よりもひんやりとして持ち重りがする、その手触りも、冬獅郎には好ましかった。
 足音を殺して、女の傍らに戻ると、先ほどの風が乱したのか、彼女のふっくりとした唇に金糸が一房、掛かっていた。
 手を伸ばし、そっと払ってやると、
「…うん…」
 女は長い睫毛を震わせた。
 起こしてしまったかと少し慌てたが、彼女はほんの僅かに身動ぎをしただけだった。穏やかな寝息とともに、白い胸は規則正しくかすかな上下動を続けていた。
 現世には「美人は三日で飽きる。ブスは三日で慣れる」という格言があるらしいが、それは誤りだと冬獅郎は思う。
 三日で飽きる美人なんて、よっぽど上っ面だけの中身のない女なのだろう。逆に、三日で慣れられるブスは、外見の不器量を補って余りある気立てのよさや、愛嬌があるはずだ。
 彼の目の前で眠る女は、まず間違いなく、誰もが認める美女であるが、冬獅郎は彼女に飽いたことは一度たりともない。
 初めて出会った日からはすでに五十年以上の歳月が経った。彼女が副隊長を務める隊の、長らく空席だった隊長の地位に冬獅郎が就いて、日々の大部分の時間を共に過ごすようになってから、二十数年。こうして、肌を合わせる間柄になってから数えても十年もの歳月が流れたというのに、飽くどころか、ますます彼女に溺れゆく自分を自覚させられる。
 原初、男女はひとつの肉体を共有し完全な球形をしていた。その完全な球形が二つに引き裂かれたがゆえに、男女は互いに失われた半身を求め彷徨うのだ。そう説いたのは、ギリシャの哲学者プラトンだったか…。
 もし、本当に球形をしていた自分が引き裂かれてしまったとしたら、引き裂かれた半身はこの女だと冬獅郎は信じる。
 愛しい。
 日々を重ねるごとに、いとおしさは積もりゆく。飽きるなど有り得ない。
 彼女が、彼の半身であるのなら、飽きようはずもない。
「『ひさかたの天つみ空に照れる日の 失せなむ日こそ吾が戀止まめ
*1 』か…」
 昔、この古謡を初めて耳にした時、大袈裟な、と思った記憶がある。けれど、今の冬獅郎はこの歌に、心から共感していた。
 この身が朽ちて、魂が輪廻の流れに還っても。
 冬獅郎が冬獅郎でない、別の誰かに生まれ変わっても。
 彼の魂は、きっと、彼女の魂を求め、捜し続けるだろう。

 出会えて、良かった。

 冬獅郎は女を起こさぬように細心の注意を払いながら、彼女の隣りに再び臥した。
 金の髪を一房手に取ると、そっと口接ける。
 霧雨に応えて、艶を増した髪は、梅の香がした。


*1 詠み人知らず 『万葉集』より

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2009.05.16