花酔


 夜桜を見に行く約束をしていた。
 昔、まだ流魂街にいた頃に見つけたとっておきの桜。乱菊の他には幼馴染と親友しか知らないその桜を冬獅郎にも見せたくて、花の季節になったら見に行こうと、まだ寒いうちから早々に約束をしていた。苦手な事務仕事も頑張って、仕事が終わらないせいで行けないという事態にならないようにしていたのに。
 今年は急に暖かくなったせいか、花が咲き始めたと思った途端に一気に開花してしまった。丁度その頃、十番隊の管轄地で虚の出現が相次ぎ、討伐任務が立て込んでいた。討伐任務が続くと、理の当然として、書類仕事が滞ることになる。その上、悪いことは重なるもので、桜が満開を迎えるのを待っていたかのように天候が崩れ、ずっと雨夜が続いた。お天気のよい日はまるで仕事が終わらず、出かけられる時間に仕事が上がった日は雨に祟られして、延び延びになってしまった花見の約束。そして、昨日。春の嵐と呼びたいような土砂降りの雨と横殴りの風に見舞われて、瀞霊廷の桜はほとんど散ってしまった。
 冬獅郎に見せたかった北流魂街の山中にある桜の古木も、間違いなく散ってしまっただろう。八日ばかり前に見に行った親友の話では、その時にすでに九分咲きの見頃だったそうだから。
 今日は昨日とうって変わった上天気だったが、風はやっぱり強かった。昨日の雨でも散らずに残っていた桜が薄紅の雪になって舞い散るさまを、乱菊は一日、執務室の窓から眺めていた。一緒に桜を見に行きたかった人はいない。強力な虚が現れたとの報せに、討伐に出向いてしまった。もの寂しく、何故だか惨めな気分になって、仕事を終えてからも仲のよい副官仲間と呑みに行く気にさえならず、乱菊は一人、副隊長舎でぼんやりとしていた。
 愛しい男はまだ帰って来ない。
 半刻ほど前に、討伐の片がついたと連絡があったからもう少ししたら戻るだろうけれど。

 いつの間にか転寝をしていたらしい。
 優しく肩を揺すられて、乱菊はうっすらと目を開けた。
「ただいま、松本」
 帰りを待ちわびていた男の姿があった。
「おかえりなさい」
 慌てて背筋を伸ばし、出迎えの挨拶を告げる。
「こんなとこで転寝してると風邪ひくぞ」
「へーきですよぅ」
と乱菊が笑うと、冬獅郎は、
「松本。こんな夜遅くで悪いがちょっと出かける。付き合え」
と告げた。
「え?」
「けっこう冷えているからな。暖かい格好をしておけ」
 言われて、乱菊は長羽織を纏い、さらにショールを巻いた。
「隊長、どこに行かれるんです?」
 先に立って副隊長舎を出る冬獅郎の背中に問いかけると、
「現世」
と、彼は一言で答えた。

 穿界門を抜けて現世に降りた途端、冷たい風が吹きぬけ、乱菊はぶるっと身震いをした。
「寒いか?」
 気遣うように問いかける冬獅郎に、
「そうでもありません。瀞霊廷よりは冷えてますけど」
と乱菊は笑みを向ける。
「ずいぶん寂しい場所なんですね?」
 周りを見回して、彼女は呟いた。
「田舎だからな」
と冬獅郎は答えた。
 辺りは尸魂界の夜のように暗く、少し離れた場所にぽつぽつと民家の明かりが見えていた。任務にせよ、遊びで出かけるにせよ、乱菊が降りる現世はたいていもっと賑やかな場所だった。もちろん、人が暮らしている以上、都会であろうと田舎であろうと人死には出る。そして、そのうちのごく僅かな者は何らかの原因で魂葬されないままで虚になってしまう。だから、田舎だからと言って虚がいないわけではない。しかし、都会の方がどうしても虚の出現率は高いし、隊長格が出向かなければならないほどの性質の悪い虚は餌の多い都会に流れる傾向があるから、任務で田舎に降りることなど滅多にないのだ。まして、非番の日にわざわざ、流魂街によく似た現世の田舎に遊びに降りるなどしない。だから、乱菊は現世というのは華やかで、夜でもネオンが輝いていて明るい場所という認識でいた。
 しかし、冬獅郎に連れられて来たこの場所は、乱菊がよく降りていて「現世」と言われればイメージする場所よりもずっと流魂街に近かった。
 空を見上げると、たくさんの星が瞬いている。
 冬獅郎に先導されて少し進むと、夜闇の中に大きな建物のシルエットが見えた。
「あれは…?」
「寺だ」
「お寺、ですか?」
 どうやら、冬獅郎はその寺に向かっているらしい。現世の寺になんて、一体、何の用があるのだろう。訝しみながら付いて行った乱菊だったが、山門を潜り、本堂の前に出て言葉を失った。
 大きな枝垂れ桜が本堂前の庭一杯に枝を下ろしている。枝には薄紅の花がたわわに咲き誇り、まさに桜の幔幕のようだった。
「樹齢四百年だそうだ」
 冬獅郎が教えた。
「すごい…。山桜ならともかく、枝垂れ桜でこんな大きな木、初めて見ました」
「綺麗だろ?」
「…きれい…です」
 少し離れた地面から桜に向かって、控えめに照明が当てられており、淡い光に浮かび上がる花は幻想的に美しかった。
「おまえが連れて行ってくれるはずだった桜に行けなかったからな。姉さまに頼んで確認してもらったんだが、おまえの桜はもうほとんど散ってしまっていて、行ってもがっかりするだろうって…」
 冬獅郎の姉であり、乱菊の親友である絢女は風を操る斬魄刀を所有しており、古木と意思の交感が出来る特殊能力があった。弟に頼まれた彼女は風を遣って、かの桜の花の様子を尋ねてくれたのだ。
「一番きれいな姿を松本に見せられなくて、桜も残念がっているそうだ。来年は是非、見に来て欲しいと桜が言っていたと、姉さまから言付かった」
「そうですか…」
「おまえの桜は来年の楽しみに取っておくとして、夜桜を見に行く約束だけは果たしたくてな。今年はここで勘弁してくれ」
 行きたかった桜は本当に見事な山桜の古木で、満開のさまはまるで桜色の小山のようだった。樹の下に立つと、頭上は一面の薄紅で、全身が桜に染まってしまいそうな錯覚を覚えるほどだ。
 流魂街にいた頃に、絢女と一緒に見つけた。四十六年前に絢女が行方不明になるまで、絢女と幼馴染のギンも誘ってよく花見に出かけた。絢女が行方不明になった後は、毎年、一人で桜の許を訪れて親友の無事を願掛けしていた桜だった。叛乱の片がついてから、まだ寒くて、ようやく花芽がぽつりと見え始めたくらいの時期に絢女と一緒に行ってみた。最早、古馴染となった桜は絢女と乱菊の訪問を喜び、乱菊に恋仲の男が出来たと知って、男を見たいから花の時期に是非にも連れて来いと梢を揺らした。
 乱菊が恋人とともに桜を訪れるのをどんなに楽しみにしていたか、冬獅郎は理解していたのだ。
 花の時期を逃してしまったのは、決して冬獅郎のせいではない。間が悪かっただけのことだ。それでも、夜桜を見に行くという約束を心に留めてくれ、こうして代わりの桜を見せてくれた冬獅郎の優しさに、乱菊は自らの幸せを想う。
 代わりの桜が山桜でなく枝垂れ桜であるのも、冬獅郎の気遣いだろう。同じ山桜であれば、どうしてもあの桜と比べてしまう。北流魂街の、乱菊にとっては特別なあの古木に劣っていても勝っていても彼女を傷つけると心を砕き、山桜ではない、けれども、乱菊が美しいと充分に喜べる桜を探してくれたのだろう。
「すごく、本当にすごく綺麗です。隊長、ありがとうございます」
 山桜よりもやや濃い薄紅が、現世の照明と本堂の瓦屋根から顔を覗かせている半月に映えているのを、乱菊はうっとりと見つめた。
 冬獅郎も美しい桜と、その花を嬉しそうに見上げる花に劣らず美しい女を満足そうに見比べていたが、
「松本、久しぶりに一差し、舞ってみないか?」
と声をかけた。
 日本舞踊をよくする乱菊の舞は優美で、冬獅郎は彼女が恋人になる以前から、時折、舞が見たいと乱菊に強請ることがあった。乱菊も冬獅郎に踊りを披露出来るのは嬉しいらしく、いつも二つ返事で舞っていた。
「久しぶりですねぇ」
 冬獅郎の言葉に乱菊は嬉しそうに笑みを零した。昨年の夏、護廷三隊長による叛乱が発生し、情報収集のための現世派遣、瀞霊廷防衛の為の帰還、叛乱者との決戦に勝利後の諸々の後始末、とこの数ヶ月もの間、舞などすっかり忘れていた。
「踊るのなら、着替えてくればよかったですね。こんな普段着じゃ、桜に失礼かしら」
「悪い。そこまで気が廻らなくてすまなかった」
 乱菊は花見に着てゆく着物を揃えていた。石畳を敷き詰めたような市松地紋の淡い虹色
*1 の無地の着物に、青香あおきこう *2 とごく淡い鳥の子色のぼかし縞の地に黒紅梅と灰桜の糸でわざとかすれたような技法で更紗紋様の花柄を織り出した全通名古屋帯をあわせ、あふち *3 の縮緬にたっぷりと桜の刺繍を施した半襟を桜割小紋柄の襦袢に縫いつけて、いつでも着替えて出かけられるように衣文掛けにかけて準備していた。
 そのことを知っていたのに、失念して着替えさせなかったことを詫びる冬獅郎に、
「でも、隊長に着替えるように言われていたら、お花見に行くんだって予想しちゃって、この桜も身構えて見ていたかもしれません。訳が分からないままで連れてこられたから、吃驚して、感動も大きかったし、織姫がよく言っていた『サプライズ』ってやつですよ」
「現世でも、ここら辺りはまだ寒いから桜もしばらく持ちそうだ。今度、明るいうちにもう一度連れてきてやるから、その時、用意していた着物を着て見せてくれ」
「はい」
 乱菊はふんわりと笑うと、巻きつけていたショールを外して両手に持った。
「たいちょ、謡いをお願いします」
 姉の絢女と幼馴染の桃を除けば、副官である乱菊しか知らないことだが、冬獅郎は謡いが出来る。流魂街で冬獅郎と桃の面倒を見てくれていた祖母は常磐津や長唄が好きで、非常に得意としていた。三味線も得手だったから、絢女などは、
「おばあちゃんは現世に生きていた頃は、長唄のお師匠さんだったかもしれませんね」
と言っていたものだ。冬獅郎は桃と一緒に、祖母から謡いを仕込まれた。先輩の隊長格に面白がって披露させられるのがいやで周囲には厳重に口止めをしているが、隊長舎や副隊長舎で乱菊に個人的に舞を望む時にはいつも謡いを行っているので、隊寮に住み暮らす十番隊士の中には察している者がかなりいるらしい。乱菊としても、薄々ばれているのだから十番隊の部下たちには披露してやってもいいのではないかと考える反面、冬獅郎が自分の舞の為だけに謡ってくれるという立場が心地よくてつい秘密のままにしていた。
「『桜狩』と『西行桜』、どっちがいい?」
「そうですねぇ。今日は『西行桜』の気分です」
「わかった」
 冬獅郎は平らな庭石に腰掛けると、背筋を伸ばし、張りのある声で謡い始めた。
    九重に、咲けども花の八重桜
    いく代の春を重ぬらん
    しかるに、花の名高きは
    まづ初花を急ぐなる…
 一向に踊り始めない乱菊に、冬獅郎は不審気に謡いを止めた。
「どうした、松本?」
と尋ねると、乱菊は夜目にも真っ赤に上気した顔で彼を見返した。
「あ…、えっと…その…。すみません」
「あ?」
「だって…、その…、素敵で」
「ああ?」
 今まで、彼女の前では散々謡いを披露してきた。今更、何を言っているんだと言いたげに目を眇める冬獅郎に、
「だって、声変わりしてから初めてじゃないですかぁ」
と乱菊はふるふると小刻みに震えながら、大声を上げた。
「…そういえば、そうだな」
 叛乱が発生する前。舞を所望した冬獅郎が彼女の踊りの為に謡っていた頃、彼は子供の姿をしていた。意識しないでも自然に声を低めて話すのが癖になっていた冬獅郎だったが、謡いの時にはうまく声を低められず、子供っぽい響きになるのは如何ともし難かった。だが、行方不明だった姉と再会し、諸般の事情で急成長を遂げた現在の彼は、現世の人間なら十八~二十歳くらいと判断される外見である。完全に大人の男とまでは言い切れないが、少なくとも子供とは誰も言えなくなった。もちろん、声変わりも終わっている。
 初めて耳にした艶のある低音の謡いに、乱菊はぞくぞくと震えを覚えた。舞うどころでなく聞き惚れてしまった彼女に、冬獅郎は、
「しょうがねぇな」
と苦笑を洩らした。
 彼は乱菊を手招くと、傍らに座らせた。
「一通り謡うから、この声に慣れろ」
「はいぃ…」
 情けなさそうに上目遣いで返事をする乱菊に再び苦笑しながら、冬獅郎はもう一度、謡い始めた。
    九重に、咲けども花の八重桜
    いく代の春を重ぬらん
    しかるに、花の名高きは
    まづ初花を急ぐなる
    近衛殿の糸桜
    見渡せば柳桜をこきまぜて
    都は春の錦燦爛たり
 ちらと、傍らの女に視線を向ければ、目を閉じてうっとりと聞き惚れている。そっと手を伸ばして肩を引き寄せると、びくんと震えるのが妙に可愛らしい。
    清水寺の地主の花
    松吹く風の音羽山
    ここはまた嵐山
    戸無瀬に落つる滝つ波までも
    花は大堰川
    井堰に雪やかかるらん
*4
 謡いを終えたと同時に、ほうっと乱菊の長い溜息が洩れた。
「たいちょー」
「何だ?」
「絶対に、他の女の子の前で謡ったりしないで下さいね」
「とりあえず、女に限らず、松本の前以外で謡う予定はねぇけど?」
「絶対に、だめですからね」
 乱菊は念を押した。その眸が幾分潤みかかっているのを見て取り、冬獅郎は乱菊をさらに強く引き寄せると、ぽってりとした唇を食んだ。
「ン、あ…」
 驚いて身を捩る乱菊に、
「その顔、反則」
と囁いて、身体をしっかりと拘束する。
 強く唇を吸い上げたまま、身八つ口から差し入れられた手が、ふんわりと乱菊の乳房を押さえた。外気に晒されて冷え切っていた掌の冷たさに、びくんと身体が跳ねる。やんわりと動き始めた掌に、乱菊はいやいやと首を振った。
「だめ…、たいちょ…。だめです」
「却下だ、と言ったら?」
 耳朶に息を吹きかけながら意地悪く囁き、冬獅郎は乳房を強く掴んで捏ねた。
「や、だめっ…!」
「却下」
「だめです。たいちょ…、ここ、お寺ですよぅ…」
 乱菊は必死に抗った。口接けと乳房への愛撫だけで、彼女の身体にもすでに火は点いていたのだが、ここが寺の境内であると言う事実が流されることをかろうじて塞き止めた。現世の人々にとって、信仰の場所。死者の想い出と向き合うはずの場を、死神である自分たちが穢してはならないと、冬獅郎が先に進むことを拒んだ。
「悪い。確かに、ここはまずいな」
 冬獅郎も死神。しかも、乱菊の上司である隊長職にある者だ。すぐに意を悟り、そっと掌を乱菊の着物から引き抜いた。
 彼は立ち上がると、半ば力が抜けたようになっている乱菊を両手で掬い上げた。
「たいちょ…」
「戻ろう」
 腕の中の女の額に唇を落とすと、彼は囁いた。
 こくり、と乱菊は頷いた。桜色に咲き誇り、揺れる花に名残惜しそうに一瞥をくれる。それから、眸を閉じて、自分を抱きかかえる男に身を委ねた。


*1 紅花で染めたごく薄い紅色。
  光の加減で青味や紫味を帯びて見えることからこの色名がついた。
*2 薄茶色がかった青緑色。
*3 樗(栴檀)の花色のような赤味を帯びた極薄い藤色。
*4 菊崎検校作曲の長唄。歌詞は京の花の名所尽くし。
  地歌・箏曲ほーむぺーじ掲載「西行桜」より歌詞を抜粋させていただきました。

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2010.04.08