嫦娥奔月


 空には満月。背後には薄野。
 煌々とした月光の下、天女が舞う。
 ふわり、ふわりと袖がひるがえる。
 低い、張りのある声が紡ぎ出す調べに乗って、女は嫦娥じょうが
*1 に舞を奉納していた。
 女の手にしていた扇が月を横切るように空間を滑り、そして、捧げるように両手で掲げて停止した。同時に、謡いも消え、薄野で鳴く蟲の声だけが辺りに満ちた。
 女は月に一礼すると、謡いを行っていた男に向き直り、男にも一礼した。彼はぱちぱちと手を叩き、
「見事だ」
と、嫦娥に代わって女の舞を褒め称えた。
「ありがとうございます」
 男が坐す毛氈に腰を下ろした女に、男は盃を差し出す。
「ありがとうございます、隊長」
 もう一度、今度は酒の礼を述べて酒盃を受け取った乱菊は、大振りな盃になみなみと満たされた酒を一息で呑み干した。
「おーいしい!」
 無邪気な声に、冬獅郎の頬に微かに笑みが浮かぶ。
「これですか? とっておきのお酒って?」
「ああ。銘柄、分かるか?」
と、冬獅郎の謎かけに乱菊は首を傾げた。
 冬獅郎は乱菊の酒盃に酒を注いだ。今度はゆっくりと味わって、乱菊は酒を呑む。舌を潜らせ、咽喉の奥で転がすようにして味を確かめながら嚥下すると、
「もしかして、『暁月夜あかときづくよ』?」
「正解だ」
と、冬獅郎は目を瞠った。
「酒に関するおまえの記憶力は驚異的だな? 五十年以上前に一遍、呑んだきりなんだろ?」
「半分は推理です。お月見にわざわざ用意するお酒なら、月に因んだ銘柄のお酒かなって」
「なるほど」
 乱菊は徳利を取り上げると、冬獅郎の盃に酌をした。
「ああ、ありがとう」
と注がれた酒を干した冬獅郎は、
「確かに名だたる銘酒だけのことはあるな。うまい」
と深く頷いた。

 昨晩は中秋の名月であった。十五夜の月を愛でる古くからの伝統行事である。季節の行事ごとを熱心に行う護廷では月見という名の宴席が設けられ、乱菊は総隊長の求めで舞を奉納していた。
 十五夜というと満月と考えがちだが、実をいうと必ずしもそうではない。月の軌道が真円でないこと、陰暦の朔日ついたちの決定方法の関係から、朔から望までの日数は実は約十四日~十六日の幅がある。その為、「中秋の名月」と呼ばれる陰暦八月十五日は必ずしも満月ではなく、月齢からすると十四夜の場合も多いのだ。
 今年の中秋の名月も十四夜であった。
 気持ちよく酔った宴席からの帰り、微かに欠けた月を見遣りながら、
「せっかく舞を奉納するなら、満月が良かったな」
と呟いた乱菊に、
「それなら、明日、二人で舞を奉納するか?」
と、珍しくも冬獅郎が言い出した。
「二人でお月見ですか?」
 乱菊は目を輝かせて賛意を示し、どうせならば、と瀞霊廷のはずれに広がる薄野原で月見がしたいと提案したのだ。

 美しい望月とさわさわと風に揺れる薄野を愛でながら呑む酒は、格別だった。
 乱菊が重箱に詰めて携えてきた肴をつまみながら、注しつ注されつ酒を楽しむ。仲のよい仲間との宴会の場では浴びるような酒の呑み方をする酒豪の乱菊であるが、冬獅郎と二人きりの酒席では彼のペースに合わせてゆっくりと味わう呑み方をする。実のところ、冬獅郎は乱菊よりもずっと酒は強い。彼女が宴席でいつもしているような大量の酒を流し込むような呑み方をしても二日酔いもせず、翌日も平然と業務をこなすことが出来る。だが、彼はぐいぐいと速いペースで酒を煽るよりも、ゆっくりと味わうのを好んでいた。
 薄野を渡る風の音と蟲の声だけが響く中、酌み交わす酒。
 冴え冴えと明るい月光に、乱菊の頬がほんのりと上気しているのが見て取れた。
「松本」
「何です?」
「きれいだ」
 思わず吐露した素直な賞賛に、
「な、何を言い出すんですか、もうっ!?」
と真っ赤になる女が愛しい。
「たいちょ、酔っているんですか?」
「かもな」
 酒に、ではない。月の光と目の前の天女のような女に酔っている、と冬獅郎は感じていた。
 腕を伸ばして引き寄せれば、抵抗することなく、乱菊は彼の腕の中に納まった。
「松本」
 左手で乱菊を抱えこみ、右手で彼女の髪を弄びながら、冬獅郎は呼びかけた。
「はい」
 眸を上げて、下から覗き込むように見返した乱菊に、
「月に昇ってしまうなよ」
と冬獅郎は告げる。
「かぐや姫なんて柄じゃないですよぉ」
 乱菊はけらけらと明るい笑い声を上げた。
「おまえはどっちかというと、かぐや姫より嫦娥だな」
 夫に愛想を尽かし、ただ一人、仙薬を飲んで月に昇った天女。
「つまんねぇ男に囚われるより、さっさと月に逃げちまう女だ」
と、冬獅郎は断言した。
「そのあたしをがっちり捕まえている隊長は、何なのでしょうね?」
「おまえに逃げられないように必死になってる哀れな男だ」
 うふふ、と乱菊の口許が弧を描いた。
「嫦娥もねぇ、旦那さんが隊長みたいないい男だったら、月になんて行かなかったでしょうに」
「そりゃ、どーも」
 軽い答えに、乱菊はふと問いたくなった。
「ねぇ、たいちょ?」
「ああ?」
「もしも、あたしがほんとうに嫦娥で、隊長が嫦娥の夫だったとしたら…」
「ああ」
「あたしが月に行ってしまったとしたら、どうします?」
「んなもん、追いかけるに決まってるだろ」
と、冬獅郎は当然という顔で答えた。
 嫦娥伝説にはいくつかのヴァリエーションがある。夫に不満を抱き、彼が西王母から得た仙薬を一人で飲んで月に昇った、という伝承が一番古いようだ。この伝承には夫を裏切った罪で蟾蜍ひきがえるになった、というオチがつく。だが、やはり、月には蟾蜍より美女という心理が働いたのか、後になって、嫦娥を擁護する伝承が現れた。嫦娥が夫を裏切ったのは夫がどうしようもない乱暴者で心優しい彼女はそれに耐えられなかったからだ、という説。裏切ったのではなく、夫が人々を苦しめている十の太陽を射落とすのに必要な弓矢を得る為に帰れないと承知で自ら月に赴いたという説。悪人に奪われそうになった仙薬を護ろうとして、薬を飲んでしまったという説。
 どの説にも共通するのは、嫦娥はただ一人、月にある広寒宮にいる、という点だ。
「惚れた女なら追いかける。愛想を尽かされて逃げられたのなら、追いかけても帰ってきてくれるかは望み薄かもしれねぇがな。自分の犠牲になって月に行ったってなら、どんな手を使ってでも追いかけて取り戻す」
 「広寒宮」という名前からして寒々しいところにたった一人で置いておくなど、そんな残酷なことが出来るものか。
 そう言い切った冬獅郎に、再び、乱菊の唇が弧を描いた。
「やっぱり、嫦娥は月には行きませんよ」
と、彼女は言った。
「旦那さんが隊長みたいな人だったら、絶対に、月になんて行けません」
 微笑む唇に、冬獅郎は自らの唇を重ねた。
 含まれていた酒が口移しで、乱菊の咽喉に流し込まれる。ごくん、と嚥下した酒は先ほどまで呑んでいた銘酒と同じものであるはずなのに、強烈な甘さを湛えており、ただ一口で乱菊を酩酊させた。
「たいちょ…」
 乱菊の眸が潤みを帯びた。
「暑い…です」
「そうか…」
 季節は仲秋。薄野を吹き渡る風はひんやりと涼しく、暑いはずがないのに暑い。
 冬獅郎の吐息が乱菊の頬にかかった。酔っているからか、その息はひどく熱いように乱菊は感じた。
「たいちょ…」
 今一度呼びかけると、答えの代わりに耳朶を甘噛みされた。
 彼の熱を直に膚で受け止めて、乱菊はようやく、「暑い」のではなく「熱い」のだと悟った。
 熱は内部から沸き立っていた。秋の夜風さえ冷ますことの出来ない熱さに身体の芯が侵されて、ぐずぐずと疼きはじめる。
 ゆる、と手を持ち上げて、冬獅郎の首に腕を絡ませ、唇を合わせる。待っていたかの如く、冬獅郎の舌が差し入れられ、ぬるりと乱菊のそれに絡みついた。
「ふ…、…ん…」
 熱さに耐えかねて手を伸ばしたはずなのに更なる熱が与えられ、乱菊の芯がますます疼きたつ。
「たいちょ…」
「ああ」
「…熱い…」
「俺もだ」
 すでにすっぽりと腕に納まっていた女を引き寄せ半身を隙間なく密着させると、冬獅郎は三度、乱菊と唇を合わせた。
「…ん…」
 互いに求め合い、絡まりあう舌。強く吸い上げれば、冬獅郎の背中に廻った乱菊の指に力が籠もる。
 ぴちゃ、と口腔の中で淫靡な音が洩れ、乱菊の背がぴくりと身動いだ。
 彼女を抱きしめていた両の腕のうち、左だけを背に残して、冬獅郎は右手を密着している身体の間に捻じ込んだ。
「…あ…」
 正確には身八つ口から差し入れられた彼の手は、乱菊の豊かな胸に直に触れた。
「まだ、何もしてねぇんだけど…」
 冬獅郎はぽつりと呟いた。
 頂上の果実は、彼が触れる前から硬くしこっていた。人差し指で軽く転がすと、
「…はぁ…」
と乱菊の唇から火傷しそうに熱い吐息が洩れて、冬獅郎の首筋を撫でた。
 ゆるゆると指先だけで、果実を弄う。
「…ん…、は…」
 冬獅郎の着物をきつく握りしめていた乱菊の手が離れた。おや、と訝しむ間もなく、その手は彼の腰に下がり、帯の結び目を解いた。
「…たいちょお…」
 乱菊の眸が満月の光を受けて妖しく輝く。
 どくり、と身体の中心が大きく脈を打ったのを、冬獅郎ははっきりと感じ取った。
「熱くて…、気が狂いそう…」
 乱菊の訴えに、
「俺も、だ」
と告げながら、彼女の帯を解く。緩んだ帯の隙間に手を差し入れて伊達締めも解くと、冬獅郎は乱菊の胸元を大きく開いた。月光に照らし出された雪花石膏アラバスターの膚に、冬獅郎が舌を這わせると、乱菊の身体はぶるぶると小刻みに震えて身悶えた。
「たいちょ…」
「ああ…」
「…嫦娥が…」
 彼女は先ほどまで話題にしていた月の女神の名を呟いた。
「嫦娥がどうした?」
「…寂しいって…」
「そうか…」
 嫦娥に想いを馳せた乱菊が同調しているのか、それとも月の女神の孤独な心が彼女に降りてきたのか…。
「それなら、俺たちで慰めてやろう」
 冬獅郎の唇が再び乱菊の膚に押し付けられた。彼女の腕を掴んで半身を支えたまま、冬獅郎は鎖骨の窪みを吸い上げた。
「…んっ…!」
 身を竦める乱菊の膚を、熱を帯びた唇が降りてゆく。なぞられた部分が焼け火箸を押し付けられたように、かっと熱くなり、
「ああっ!」
 堪らずに乱菊は喘いだ。
 冬獅郎の右手が乱菊の袖を掴んで引き下げると、着物が肌襦袢ごとずり落ちた。帯が更に緩んで前が完全にはだける。
 彼は左の乳房を手で捧げ持つと、果実を口に含んだ。
 ぴく、と乱菊は身体を震わせ、
「…たいちょ…」
と彼の髪を引っ張った。
「何だ?」
「…この着物…、お気に入り…なんです…」
 一昨年の彼女の誕生日に、冬獅郎が贈った着物である。京鼠色の地に桔梗・女郎花などの秋の七草を裾模様に配し、秋草の向こうに満月を描き出した柄が、月見にはぴったりだと選び出してきたのだが。
「分かってる…」
と冬獅郎は囁いた。
 気に入っている着物を汚したくはないという女心をいじらしいと思う。
 冬獅郎は緩みきった帯を引き抜くと、着物を取り去り、傍らに置いた。多少、皺が寄ってしまうかもしれないが、悉皆屋に持っていけばきれいに皺をのばしてくれるだろう。辛うじて、襦袢が引っかかっているだけになった乱菊を膝上に乗せると、
「…あたしばっかりは…、や…です…」
と小さく呟いて、彼の着物を引き下ろした。
「乱菊…」
「…はい」
「本格的に嫦娥に憑かれたみてぇだな」
「かもしれません」
「…慰めてやるよ」
 告げると、冬獅郎は彼女の下肢に手を伸ばした。一方の乱菊は頭を屈め、彼の胸元にちろちろと舌を這わせ始めた。
 淡い繁りから谷間に指を滑らせると、とろりとぬめりを帯びた蜜が彼の指を迎え入れた。「熱くて気が狂いそう」という言葉通りにとろとろと零れ落ちんばかりに溢れる蜜に、冬獅郎は僅かに息を呑む。蜜に塗れた小さな芽に指をかけると、それだけで、
「ひぃっ、ああ!!」
と悲鳴が上がり、内腿が痙攣を起こした。
 ゆっくりと、冬獅郎の指が花芽にも似た乱菊の敏感な部分を弄び始める。
 堪らずに乱菊は冬獅郎の胸元から顔を上げた。彼の肩におとがいを乗せ、銀色の後れ毛を噛み締めると、彼は左手で彼女の背骨を撫で上げながら、右の中指をずぶずぶと火陰ほとにのめらせた。
「…あぁん…、たいちょぉ…」
 さらに激しく蜜があふれ出し、彼女の腿を伝って、冬獅郎の着物に滴った。
「たい…ちょ…」
 着物の下で存在を主張している彼の分身に乱菊の手が伸びる。そっと布ごしに触れると、びく、と冬獅郎の身体が跳ねた。
 火陰を掻き乱す男に呼吸をあわせるかのように、乱菊の指が彼の牡をゆるゆると慰む。
「乱菊…」
 眉間に深い皺を刻んで、冬獅郎が呼びかけた。
「手ぇ、放せ」
「や…です」
 恍惚の表情を浮かべて首を振る乱菊に、
「手、放せ。やるから」
と、冬獅郎は重ねた。
「欲しいんだろう?」
 こく、と乱菊は頷いた。潤んだ瞳が切なげに揺れた。
「たいちょ…、欲しいです…」
 月の女神に憑かれた女が懇願する。
「欲しい…」
「やるから、手を放せ」
 今度は素直に手が離れた。
 蜜にまみれた着物を横に引いて、冬獅郎は自らの前を開けさせた。先走りの精が下帯を湿らせているのを認め、苦笑が浮かんだ。

     月の光は人を狂わせる。

 狂っている、と冬獅郎は思う。
 嫦娥に取り憑かれた乱菊はむろん、自分もまた狂っていると冬獅郎は感じていた。
 膚を滑る夜風は、こんなにもひんやりとしているのに。

     熱い。

 熱くて、熱くて、気が狂いそうだ。

 滾るだけ滾り、猛るだけ猛った冬獅郎のものが、乱菊の秘め処を割った。
「あ、ああ!!」
 仰け反った彼女の胸が、頤が、月光に余すところなく暴かれる。
 一息で身体の奥まで貫かれ、乱菊の咽喉から歓喜の悲鳴があふれ出す。

 寂しい。

 乱菊の歓喜のその先に、すすり泣く女が見えた。

 寂しい。
 寂しい。

 淋しい…。

「たいちょ…」
 乱菊は冬獅郎の背中に縋った。
「もっと、抱きしめて」
 乱菊は願う。
「ああ」
「もっと、強く」
「ああ」
「嫦娥が淋しいって…」
 彼女の訴えに、
「分かってる」
と、男は応じた。
 いつにも増して激しく腰を蠢かせ、乱菊は貪欲に冬獅郎を求めていた。
 彼女の身体をきつく、きつく抱きしめたまま、冬獅郎もまた狂ったように腰を突き動かした。
「…ひぁ、あ…、たいちょ…、たいちょ…」
「…乱菊、らん、ぎく…」
「…あ…、あぁ…ん、たいちょ…、…あン…」
 乱れる乱菊の啼き声に圧倒され、蟲たちが声を潜めた薄野を、ざわざわと夜風が渡っていく。
 風に揺られる薄のざわめきに淫靡な水音が混じり込み、
「…あ、ふ…。たい…ちょ…」
 乱菊のよがり声が激しさを増した。

     追いかけて来て欲しかった…。

 乱菊の視界が滲んだ。
 生理的な涙に、胸が引き絞られるような切なさが混じった。

     追いかけて来て欲しかったのに…。

 追いかけて来ては貰えなかった嫦娥の孤独が、乱菊の胸をかき乱した。
「たいちょ…。もっと…」
 求めても応えてくれない嫦娥の夫。
「…もっと、たいちょ…」
 求めれば、それ以上を与えてくれる冬獅郎。
 揺さぶられ、どろどろになるほどに熱した楔で掻きまわされ、乱菊は呼吸が止まってしまいそうなほどの高みに突き上げられた。
「…あ、は…」
 燃え盛る炎のように熱い吐息が吹き零れ、乱菊は冬獅郎の背に縋った腕に力を込めた。
「たいちょ…」
「…月に…」
 耳許で、冬獅郎の声がする。
「一人で月に昇るな…」
「…たい…ちょ…」
「行くなら、一緒だ」
「…行き…ませんよ…」
 一人でなんて、絶対に。

 この人の背中を護るのが、あたしの生きている意味    

「…はぁ…ふ…」

 この人の傍で生きていくのが、あたしの幸せ    

 決して月に奔ったりしない。
 もしも、月に昇るのならば、その時は…。

「あぁーっ!!」
 熱湯よりも更に熱い飛沫が胎内に迸り、同時に、乱菊の目の前に光が弾けた。
 眩いほどの月光で視界の全てが覆われ、身体が浮遊する。

 月に昇る…。

 だが、一人ではないと、確かに乱菊は感じていた。
 傍にいる。
 大切な人が。
 誰より愛しい男が。

「もしも、あたしがほんとうに嫦娥で、隊長が嫦娥の夫だったとしたら…」
「追いかけるに決まってるだろ」

 乱菊を決して一人にはしないと、約束してくれる人がいる    

 彼女が我に返った時、満月は天頂近くに昇っていた。
「気がついたか?」
 優しい声が間近に聞こえ、乱菊は首を巡らせた。
 彼女の身体は毛氈の上に横たえられており、冬獅郎の着物がかけられていた。
 そして、冬獅郎は襦袢一枚で彼女の傍らに胡坐を組んで座っていた。
「隊長…」
 呼びかけに、冬獅郎はつと指を伸ばして、乱菊の頬に触れた。
「大丈夫か?」
「はい…」
 乱菊はそろりと身体を起した。掛けられていた着物が滑り落ち、白い膚が月光に曝された。
 落ちた着物を引き上げて羽織り、
「すみません…、気を失っていましたか?」
と確認すると、
「ああ」
と、冬獅郎は頷いた。
 柔らかく乱菊を見つめていた彼の表情が翳った。その変化に乱菊が首を傾げた時、
「済まない」
 彼は謝罪を口にした。
「何が、です?」
「月に狂わされたらしい。無茶をした」
 意識を飛ばしてしまうほどに激しく彼女を責め立てたことを謝っているのだ。
 ふ、と乱菊は微笑を浮かべた。
「狂わされたのはお互いさまです」
「だが…」
 それでも気に病んでいるらしい男にもう一度微笑みかけると、
「嫦娥じゃなくてよかった…」
と、乱菊は彼の胸に撓垂れかかった。
 彼女の身体を両腕で抱き込み、
「嫦娥にはしねぇ」
と、冬獅郎は答えた。
 冴え冴えと闇を照らす望月の下、蟲の声と風にざわめく薄の音だけが二人を包んだ。

    夕月夜 心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも
*2


*1 中国神話における月の女神。姮娥こうがともいう。
*2 湯原王 『万葉集 巻8』より(1552番)

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2010.09.26