負け犬
うざい。
隣で酒を煽る先輩を横目で見ながら、僕は申し訳ないと思いつつも、本音の部分で毒づいていた。
「なぁ、吉良。あれ、反則だよな。あれってねぇよなぁ」
同意を求められても困ります。
「何で、お子さまがああなっちゃうわけ?」
檜佐木先輩…、それ本人の耳に入ったら氷漬けですよ?
「そりゃ、あの容姿で見つめられて、『好きだ』なぁんて囁かれたら、ころっといっちゃう気持ちも理解らねぇでもないけどさぁ」
理解るんだ…?
「だからって、反則だろう?」
相槌に困って視線を彷徨わせると、僕の前にいた阿散井くんが何とも微妙な苦笑を浮かべて首を横に振った。
はぁ…。今日もヤケ酒に最後まで付き合わされるのか…。
勘弁してくれと思うが、見捨てるのも情において忍びがたく、僕は阿散井くんとともに無言のうちに腹を括った。
最近、檜佐木先輩は失恋をした。
元来、粘着質気質なところのある檜佐木先輩はまだ完全に諦め切れていないようだけれど、僕や阿散井くんに言わせれば、可能性はゼロ。さっさと諦めた方がきっと幸せになれるはず、というくらい完膚なきまでの失恋だ。
相手は言わずと知れた十番隊副隊長の松本さんだ。
「護廷の華」と称される華やかにして妖艶な美貌の松本さんは、僕らが霊術院の学生だった頃から、噂でだけはその名を知っていた。もちろん、とてつもない美人、としてだ。とはいえ、実際に彼女の美貌を目の当たりにしたのは僕が上位席官になってからのことだ。隊長格ともなれば霊術院の講師も務めるし、公の場にも出てくるので他隊といえど顔は知っている。だが、平隊士や下位席官の間は他隊上位席官と顔を会わせる機会はそうあるものではない。彼女は死神としては僕らよりもずっと先輩で、僕らが霊術院に在学中にはすでに十番隊の第三席だったから、美貌の噂は耳にしていても、その実像を拝むことは出来なかったのだ。
噂だけで「美人だ、美人だ」と煽られた場合、想像が底なしに膨らんでしまって期待が凄まじく大きくなるから、実際に会ってみると、あれ? な~んていうことも少なくない。だが、松本さんの場合は噂通りというか、想像の上をいく美人だったから、期待外れでがっかりなんてことは全くなかった。それどころか、あれだけの美人なのに取り澄ましたところなんて全然なくて、大声で笑うし、大口開けておやつは食べるし、ずっと地位が下の僕なんかにも親切にしてくれたし、いい人だなぁと感動すら覚えたものだ。雛森くん一筋の僕でさえつい見蕩れるほどの色香を放っていた松本さんに、年上好みの檜佐木先輩がやられないはずもなく…。
初めて顔を合わせた日から、三十年近く。檜佐木先輩はひたすらに松本さんに片想いを続けていたのだ。もちろん、最初は遠くから眺めるだけの憧れの存在だった。けれど、檜佐木先輩の地位が上がり、松本さんの席次に近づくにつれ、隊が隣同士だったこともあって、松本さんと檜佐木先輩の距離はどんどん近付いていった。これなら檜佐木先輩の想いも近いうちに成就するんじゃないか、なぁんて楽観視していた僕や阿散井くんの見通しは、けれども、砂糖菓子よりも甘かった。松本さんは、傍から見ている限りではこれ以上分かり易い男はいないだろって笑っちゃうくらいあからさまな、まるで鶴の求愛ダンスを見るような先輩の言動に潜む想いに全く、全然、これっぽっちも気が付かなかったのだ。
理由は二つ。
第一の理由は、松本さんが見かけによらず、とてつもなく鈍かったことだ。僕が長年想いを寄せる雛森くんと鈍さの点ではどっこいだろう。もっとも、雛森くんは他人のことも含めて恋愛関係全てにおいて激ニブであるのだが、松本さんは他人のことはものすごく敏いのだ。あれだけ、人のことは感づくのに、何で自分自身のこととなるとさっぱり勘が働かなくなるのかは謎だが、とにかく、こと自分の恋愛関係になると超絶に鈍くなる松本さんは、分かりやすい檜佐木先輩のアプローチを華麗にスルーし続けた。
第二の理由は、僕の上司である市丸隊長の存在である。松本さんと幼馴染である市丸隊長は彼女に近付こうという男という男に圧力をかけてまわっていたのだ。市丸隊長の本命が松本さんというのは広く知れ渡っていたし(僕はひょんなことからそれが事実でないことを知ってしまったが、阿散井くんにさえ打ち明けずに胸にしまっていた)、既にデキているという噂も根強かった。
はっきり言おう。市丸隊長を敵にまわして松本さんを奪おうなんて、並の男に出来るもんじゃない。同格の隊長だって下手したらドン引くこともある市丸隊長の邪悪な霊圧 松本さん絡みで男を牽制している時の市丸隊長の霊圧は、冗談抜きで邪悪としか形容できないものだった に曝されて、席官ふぜいが耐えられるわけがない。市丸隊長の無言の圧力に、檜佐木先輩の腰が引けてしまったとしても、それはどうしようもないことだろう。いかんせん、相手が悪すぎる。
そんなわけで、真っ向から告白することも出来ず、傍目には丸分かりの想いを肝心の当人だけには気付いてもらえず幾星霜。
そうこうしているうちに、思わぬ伏兵に、松本さんは掻っ攫われてしまったのだ。
伏兵の名は、日番谷冬獅郎。
そう。松本さんの直属の上司である、日番谷隊長だ。
実際の話、日番谷隊長と松本さんがくっついたと知れ渡った時、護廷は文字通り、上へ下への大騒ぎとなった。
だって、日番谷隊長は今でこそ、人間で言うと二十歳前後くらいの外見年齢に成長しているけど、ほんの半年ほど前まで見かけは小学生だったのだ。松本さんはもちろん、童顔の雛森くんと一緒にいてさえ弟にしか見えなかったくらいだ。
松本さんと日番谷隊長は互いに信頼しあっているのが良く分かる、息の合ったコンビぶりを発揮する上司部下だったし、プライベートでも松本さんが日番谷隊長の世話をあれこれと焼いていることは周知のことだった。松本さんはその豊満な胸の谷間に日番谷隊長の顔を挟むというとてつもなく羨ましい(いやいや)というか、過剰なスキンシップを取ったりもしていた。だけど、それに色が含まれているなんて考えてもみなかった。だって、大人の男なら鼻血を噴き出してもおかしくないような松本さんの胸を、「神々の谷間」とさえ讃えられる特別製のクレヴァスを、ちびっこだった日番谷隊長は「暑い、重い、息苦しい」で済ましていたのだ。二人の佇まいはまるで年の離れた姉弟で、恋愛感情があるなんて思ってもみなかった。
それなのに、日番谷隊長が成長した途端、二人は電光石火の早業でデキてしまった。
成長した日番谷隊長の美形っぷりに目の色を変えた女性死神たちがアプローチする暇さえなく。
松本さんに憧れる男どもが警戒心を抱く暇さえなく。
発覚した当初は、やっかんだ外野からかなりひどい噂も流れたりした。
松本さんが色仕掛けで
だが、そんな噂はそれほど長続きはしなかった。というのも、姿かたちは変わっても、十番隊の二人は相変わらずの掛け合いを繰り広げていたからだ。不思議なもので、以前は姉弟のじゃれあいにしか見えなかったそれが、長年連れ添った熟年夫婦のものに映った時、くだらない憶測は急速にリアリティを失ってしまった。
おまけに、松本さんに対する中傷に業を煮やしたか、日番谷隊長のお姉さんである絢女さんが、
「乱菊以外の女の人から『
と公言するに至って、女性死神たちは日番谷隊長を諦めざるを得なくなってしまった。
絢女さん帰還以来の日番谷隊長のシスコン…、じゃない、お姉さん孝行ぶりはすでに護廷中に知れ渡っていた。日番谷隊長が敬愛してやまない絢女さんに、松本さん以外は弟の嫁と認めないとまで言われ、十番隊の二人の熟年夫婦のような貫禄ある結びつきを目の当たりにしたら、そりゃあ、しゃしゃり出る隙なんてないと悟らざるを得ないだろう。
一方、氷雪系最強の斬魂刀の主にして、十番隊隊長。しかも、超絶美形という、能力、地位、外見、三拍子揃った日番谷隊長に並の男たちが対抗できるわけがなかった。
しかも、だ。幼馴染にして松本さんの昔の男、と信じられていた市丸隊長があっさりと日番谷隊長と松本さんの仲を認めてしまったのだ。市丸隊長は松本さんを妹として大事にしていたに過ぎず、本命は絢女さんであったことは裁判の証言から知れ渡っていたから、松本さんを巡る修羅場なんて展開はさすがにないのは分かっていた。だけど、日番谷隊長が最愛の女性の弟だったと判明したからか、これまでの嫌がらせの数々に対する詫びの気持ちからか、市丸隊長は松本さんと日番谷隊長の仲について、びっくりするくらい何一つ干渉しなかった。これまで、市丸隊長に散々に脅されて、この上もない恐怖を味わったであろう男性陣が「今まで圧力をかけまくって牽制していたのは一体何だったんだ?」と問い詰めたくなるくらい、いっそ、すがすがしいほどの黙認っぷり。
残されたのは松本さんに恋焦がれていた男たちの累々とした屍の山 。
そして、その山の頂で、未だ息の根が止まらず悪あがきしているのが、僕の隣で苦い酒を煽っている檜佐木先輩というわけだ。
気の毒だ、とは思う。
けれども、仲のいい十番隊の二人を日々見せつけられ、幸せそうな松本さんの笑顔を目の当たりにするにつけ、檜佐木先輩が付け入る隙なんてこれっぽっちもないよなぁ、と悟ってしまうのも事実。
檜佐木先輩と同様に松本さんに片想いをしていた射場さんは、斑目さんと綾瀬川さんを相手に一晩中呑み明かして、一度だけ男泣きに泣いたそうだが、その後はすっぱりと諦めた様子でごく普通に振舞っている。もしかしたら、内心はまだ未練たっぷりなのかもしれないけど、少なくとも、表面上は未練を感じさせないあたりが漢意気ってものなんだろう。
「阿散井~。反則だよな」
「あー、確かにあの成長の仕方って反則かもしれませんね」
「だろ? お子さまだと油断させといて、ずるいよなぁ」
「そうスねぇ」
阿散井くんの面倒見のよさを、今更ながら噛みしめる。いつ果てるとしれない先輩の繰り言に、律儀に相槌を打っているあたり、本当に偉いよ。
僕はもうそろそろ限界。さっきから、眠くて眠くて仕方ない。
でも、ここで潰れてしまったら、阿散井くんは僕と先輩の二人を担いで帰らなきゃならない。それはいくらなんでもあんまりだと思うから、必死に瞼を開こうとしていると、不意にひやりとした霊圧が近付いてきた。
この霊圧は…。
「なんや、イヅル。こんな時間まで呑んどったんか?」
やっぱり、市丸隊長だ。
市丸隊長はくだを巻いている檜佐木先輩を一瞥した後、
「イヅル、眠そうやな?」
と僕に対して話しかけられた。
「大丈夫です」
「大丈夫やなさそうやで? イヅルが二日酔いで潰れてしもたら、仕事、まわらへんやん」
いえ、市丸隊長が真面目に仕事をしてくれさえすれば、僕なんか潰れたって全然大丈夫なんですけど。
「檜佐木くん、阿散井くん。悪いけど、うちのお持ち帰りさせて貰うで。明日、使い物にならへんかったらかなわん」
「はぁ、お願いします」
「キミらも明日、非番と違うな? 余計なお世話かしれんけど、そろそろ切り上げた方がええ思うで」
市丸隊長の言葉に、助かったとばかりに阿散井くんが乗った。
「そうスね。確かに、明日の仕事に差し支えますね。先輩、切り上げましょう」
「あー」
のろのろと先輩は立ち上がった。
「ほら、しっかりして下さい」
と、阿散井くんに支えられて檜佐木先輩は店を出る。
その背中を見送った市丸隊長が苦笑を零したのを認識したのが、僕の意識の最後だった。
結局、僕は、こともあろうに市丸隊長に担がれて隊寮に戻るという、みっともない醜態を演じてしまった。
二日酔いに痛む頭を押さえつつ出勤すると、
「やっぱり、二日酔いか?」
と市丸隊長が可笑しそうに笑った。
「申し訳ありません」
「まぁ、あんだけ呑んどったら予想ついたしなぁ」
「あの、昨日はすみませんでした。副隊長舎まで連れ帰って下さったのでしょう?」
「イヅル、完璧に落ちてしもとったしな。どうせ帰る場所は一緒やし、気にせんでええ」
「申し訳ありません」
市丸隊長は、昨晩は京楽隊長に誘われて呑んでいたのだそうだ。
こめかみの辺りを押さえながら、僕は執務机に就いた。仕事が手につかないというほどまでにひどい二日酔いではないが、頭は重くてはっきりしないし、何だか胸焼けもする。いつもなら、四、五枚の書類が捌ける時間を費やして漸く一枚を仕上げた僕に、
「イヅル、つらいんなら、帰ってもええよ」
と市丸隊長が優しいことをおっしゃって下さった。
「ありがとうございます。ですが、二日酔いでいちいち休んでいたら、下に示しがつきません」
「真面目やな、イヅルは」
「いえ、限度をわきまえずに量を過ぎたのは僕の落ち度ですから」
「檜佐木くん、見捨てられへんかったんやろ?」
市丸隊長はお見通しという顔で、
「難儀やなぁ」
と続けられた。
僕は思わず瞬きして、隊長を見返してしまった。市丸隊長のことだから、きっと辛辣な言葉が続くのだろうと予想していたのに、それ以上のことは何もおっしゃらなかったからだ。
僕の不躾な視線に気がついたのだろう、市丸隊長は目をいつにも増して細められ、皮肉っぽい笑みを浮かべられた。
「イヅルの今、考えとること当てたろうか?」
「は、あの…?」
「もっときついこと言う思てたのに何も言わへんなぁ」
「…」
「図星?」
僕は仕方なく頷いた。
「申し訳ありません。失礼なことを…」
「別に失礼やない。ボクの日頃の言動からしたらそないなふうに考えるのが当然や」
皮肉な笑みを消し、淡々と市丸隊長はおっしゃった。
「まぁ、そない簡単に諦められるもんやないやろ。その程度の気持ちなんやったら、ボクに脅された時に諦めとるやろしな」
「そうですね…」
相槌を打ちながら、僕は気が付いた。ほんの一月ほど前にようやく想いが成就されたけれど、市丸隊長はそれこそ百四十年もの長きに渡って、たった一人の女性を諦められなかった方なのだ。その市丸隊長が、諦められない檜佐木先輩を嘲るはずがなかった。自分の浅はかさに内心で溜息をつきながらも、この際、気になっていることを質してしまおうという気持ちが擡げ、
「市丸隊長、ひとつ伺ってもいいですか?」
と切り口上に尋ねてみた。
「何?」
「日番谷隊長には他の男にしたみたいな脅しをかけようとなさらないのは、日番谷隊長が絢女隊長の弟さんだからですか?」
「それとこれとは別や」
と市丸隊長は答えられた。
「いくら絢女の弟やいうても、乱菊を幸せに出来ひんしょうもない男やったら認めへん。邪魔したる」
きっぱり。
言い切った!
「あ…、つまり、市丸隊長は日番谷隊長なら松本さんを幸せに出来ると…」
「そう思とる。大体、冬獅郎はんがしょうもない男やったら、もっと早うに手を打っとる。乱菊の気持ちが取り返しがつかんようになる前に、どんな汚い手を使ってでもさっさと冬獅郎はんを引きずり下ろしとるわ」
うわぁ、さすが、市丸隊長。
この黒い笑みの前に、檜佐木先輩も射場さんも敗れ去ったのだ。
って、あれ…?
えっと、松本さんの気持ちが取り返しがつかなくなる前に…って、あれ?
「…市丸隊長?」
「ん~?」
「あの、気持ちが取り返しがつかなくなる前にって、その、どういう意味です?」
まるで、ずいぶん昔から松本さんの心が日番谷隊長に向いていた、みたいなおっしゃられようだ。
「イヅルは、…ああ、檜佐木くんもやけど、いっこ、ものすご大きな勘違いしとるで」
「勘違い?」
何を、どう勘違いしているというのだろう?
首を傾げた僕に、
「冬獅郎はんに口説かれて乱菊が絆されたて、そう思とるやろ?」
「違う…のですか?」
だけど、好きだと言ったのは日番谷隊長の方だって、松本さんから直に聞いた。伊勢さんも頷いていたし、それに…、
「好きや言うたんは冬獅郎はんかもしれへん。けどな、惚れたんは乱菊が先や」
はいぃ?
「もっとも、乱菊は自分の恋愛関連になると途端に脳の回線がどっかでぶち切れて、」
すごい言われようだ。
「有り得へんくらい鮮度のええ大トロになるから、」
いえ、寿司ネタではないのですが…?
「自分では見事なまでに自覚してへんかったけどな。お兄ちゃんはお見通しや」
お兄ちゃんって。
お兄ちゃんって、自分で言ったよ、この人!
瞬間、僕の脳内にシスコンの両巨頭、朽木隊長と日番谷隊長の姿がよぎった。そこに市丸隊長が加わり、シスコン三羽烏と呼ばれる日も近い。僕は確信した。
良かった。僕の想い人が松本さんでなくて本当に良かった。ついでに、雛森くんの幼馴染が常識的な日番谷隊長でよかった。神さま、ありがとう。…別に神さまなんて信じていないけど、ついそう呟いてしまいたくなるほど、市丸隊長はすっぱりと開き直って、松本さんの兄の椅子に腰を落ち着けたらしかった。
「乱菊はあれで結構、古風やし、見掛けによらず尽くすタイプやからなぁ。おまけに、本人に自覚がないだけに、打算なしで純粋に冬獅郎はんに尽くしとった」
と、市丸隊長は続けられた。
「あんだけのええ女に尽くされて、心の動かん男なんておれへんやろ?」
はぁ、まぁ、確かに。その点は納得です。
「乱菊に尽くされて、絆された冬獅郎はんも惚れた。見かけは子供でも、冬獅郎はんの方がそういう感情には敏かったから、自覚したんは冬獅郎はんが先や。ほんでも、冬獅郎はんは自分が子供やいうことにコンプレックス持っとったみたいやし、自分では乱菊とは釣り合わへん考えて黙っとった。それが、思いがけず急に成長して、乱菊と釣り合わんこともない、くらいまで大きゅうならはったんや。そうなったら、もう遠慮はいらへん。ボクが
「…なる…ほど…」
「いくら乱菊が本マグロの大トロなドニブでも、無自覚とはいえ惚れとった男に『好きや』言われたら、なんぼなんでも、自分の気持ちに気ィ付くわ。したら、冬獅郎はん、拒む理由なんてないしな」
「…確かに」
つまり、日番谷隊長と松本さんは互いに想い合っていて、日番谷隊長が成長したら、くっつくのは必然だったと。
日番谷隊長が劇的な成長を遂げられたので、時期が早まってしまったけれど、檜佐木先輩はどっちにせよ振られる運命にあったと。
そうおっしゃりたいのですね、市丸隊長…。
「あの、市丸隊長」
「何や?」
「最後にもうひとつだけ伺いたいのですが」
「うん?」
「松本さんはいったい、いつから日番谷隊長のことを?」
「ああ、冬獅郎はんが隊長に就任しはって、半年過ぎた当たりにはもう兆しが見えはじめとったな。そのくらいの頃は、ボクも妙やな、思うくらいのもんやったけど…。隊長就任から二年目までには、完全に惚れとった」
隊長就任の直後からって、だって、日番谷隊長はまだ全然、子供で。面と向かって言ったら氷漬け確定だけど、小学生サイズで、男だとか、恋愛対象だとか、そういう相手になり得るような感じじゃ…。あ、でも、そうだ。さっきの隊長のお話からすると、松本さんは市丸隊長が虚圏に去られる前から日番谷隊長に惹かれていたってことだから、当然、小学生サイズってことで。え? やっぱり、松本さんは日番谷隊長が子供の姿の頃から好き…、え? あれ?
「子供やったんは見かけだけ、やないん?」
僕の狼狽ぶりに哀れみさえ感じさせる声音で、市丸隊長はおっしゃった。
「イヅルかて、昔、言うてたやないか。見かけ以外子供とは思えへん、話だけ聞いとったら、自分の方がよっぽど年下の若輩者いう気ィがしてくる、て」
「はい…、覚えています」
「魂のレベルで惚れてもうたら、子供やとか、大人やとか、美男子やとか、不細工やとか、そんなん瑣末的でどうでもええことや」
市丸隊長が立ち上がられた。
「乱菊は冬獅郎はんの魂に惚れたんや」
おっしゃりながら、執務室の入口に歩み寄ると、いきなり、扉を引いた。
市丸隊長の動きを怪訝に見守っていた僕は眼を瞠った。
「!?」
扉の向こうに立ち尽くしていたのは、檜佐木先輩 。
「そういうわけやからな、檜佐木くん」
「…は…い…」
「諦められへんのはしゃあないし、イヅル相手に愚痴るんも大目に見たるけどな」
「…ええ」
「うちの乱菊を、冬獅郎はんの顔によろめいた尻軽馬鹿女呼ばわりするのはやめてんか」
市丸隊長は僕に背を向けていらしたので、表情は見えなかった。
だけど、滲み出す霊圧だけで、どんな顔をしているのか、はっきりと想像がついてしまった。
間違いなく、笑っている。見るものの背筋を凍らせる冷笑だ。
その冷笑と、邪悪な霊圧に曝された檜佐木先輩は、まさに蛇に睨まれた蛙。
…でも、檜佐木先輩が松本さんを尻軽馬鹿女呼ばわりなんて、そんなはずは…。
「そりゃ、あの容姿で見つめられて、『好きだ』なぁんて囁かれたら、ころっといっちゃう気持ちも理解らねぇでもないけどさぁ」
思い出した。
あの一言が、市丸隊長の地雷を踏んだのか。
「うちの乱菊」って…。
市丸隊長、完璧にお兄ちゃんモード・スイッチオン状態だ。
檜佐木先輩、すみません。僕は自分の身が可愛い臆病者です。今の市丸隊長を宥めるなんて、僕の手には余ります。骨は拾ってさし上げますから、市丸隊長の気が鎮まるまで存分に霊圧を浴びて下さい。
とぼとぼと、檜佐木先輩が帰ってゆく。
足取りは重く、背中には哀愁が漂っていた。
その打ちひしがれた背中に、僕はそっと手を合わせた。
ご愁傷様です。
迷わず、成仏してください。