Shall We Dance the Fox-trot?
入室許可を得て執務室に入ると、イヅルは不在でギンだけがいた。
桃はきょと、と大きな黒い眸を瞬かせた。
「あ、えっと、吉良く…、吉良副隊長は?」
「つい、今しがたやけど、緊急救援要請が入ってなァ。ちょぉっと厄介そうな相手やったし、イヅルに行って貰たんや」
ギンの返答に桃は納得すると同時に、困惑した。
近々、三番隊と五番隊で合同討伐が行われる。管轄地の境界付近で極端に虚の出現が頻発している地域があり、この際、大規模な討伐を行って一気に掃討してしまおうと、隊首同士で話がまとまったのだ。出現している虚は雑魚レベルといえ、数だけはそれなりに多い為、指揮を三番隊副隊長のイヅルが執り、桃が副指揮官として補佐することになっていた。今日は、その為の打ち合わせの約束で三番隊を訪れたのだ。
「討伐の計画はボクも報告を受けたし、了承しとるよ。日もそんなにないことやし、ボクから計画を説明するわ。細かいところでよう分からへんかったら、後でイヅルに確認して貰うてことでええかな?」
ギンの提案に桃は頷いた。他隊とはいえ、上官であるギンに異を唱える理由は見当たらなかったからだ。だが、本音を言うと気詰まりだった。桃はどうもこの三番隊隊長が苦手だったのだ。
嫌いというわけではない。確かに八年前の叛乱の際には確執があったのは事実だ。だが、藍染の呪縛が解けるのと足並みをそろえるように、ギンに対する桃の憎悪は薄れてしまった。特に裁判の証言を知らされてからは、彼の動機に対しては共感と同情さえ覚えた。また、ギンは叛乱の刑を終え隊長に復帰してから、桃にも正式に謝罪していた。もちろん、謝罪を受けたからといって、直ちにわだかまりが消えたわけではない。しかし、プライベートでは姉とも慕い、公の立場では敬愛する上司でもある絢女の恋人であり、親友とも呼べる仲のよい同期のイヅルが尊愛する隊長である男に向かう感情が穏やかになるのに、それほど長い時間は必要ではなかった。
桃がギンを苦手だと感じるのは、純粋に相性の問題だ。絢女やイヅルといった、ギンとも桃とも親しい第三者が同席していれば、彼らの存在が緩衝材になるのか、ごく普通に接することが出来る。だが、二人きりだと、どうにも緊張してしまうのだ。
「ほんなら、あっちで打ち合わせしよ」
とギンは執務室の端に据えられた接客用のソファを指した。
「はい」
と応じて、ソファに向かおうとした桃は粗相をした。無意識で緊張して動きが硬くなっていたのだろう。執務机に積まれた書類に袖を引っ掛けて、ばらばらに落としてしまったのだ。
「すみません!」
慌てて床にばらけた書類を拾い集めようとした桃の手が止まった。書類に混じって、台紙に貼り付けられた若い女性の盛装写真を認めたのだ。それは明らかに見合い写真で、近くに釣書も落ちていた。
覚えず、咎める眼差しを向けた桃に、ギンは苦笑を浮かべ、
「ボクの見合いやあらへんよ」
と告げた。
「じゃ…?」
「部下に持ち込まれたん」
確かに五番隊でも、絢女の許に部下の席官に対する見合いが持ち込まれることはある。
「来てももちろんその場で断るけどなァ。そもそも、ボクには見合いなんて来ィへんよ」
桃はきょとんと黒曜石の瞳を瞬かせた。
「どうしてですか? 絢女隊長がいらっしゃるから?」
「いいや。相手の女が上級貴族とでもいうんやない限り、貴族が恋人がおるからて遠慮するわけないやん。ボクに見合いが来ィへんのは最貧区の出身で、その上、叛乱に加担した罪人やからや。貴族なんて体面の塊やからなァ。こんな脛に傷がありまくりの男なんて、いくら隊長いうても家に入れるのんはよう出来ひんて」
言われてみれば尤もなのであるが、面と向かって納得するわけにもいかず、桃は書類を集めることに没頭するふりでごまかした。
「きれいな方ですね」
桃は拾い集めた書類を元通りに机に積み上げながら言った。他隊に持ち込まれた見合い話に興味があるわけではないが、黙っているとますます緊張しそうなので、世間話のつもりで話しかけてみたのだ。
「やっぱり、婿養子のお話ですか?」
隊を通じて持ち込まれる見合いのほとんどは、跡取り息子のいない上級貴族もしくは裕福な中級貴族が格下の貴族出身の優秀な死神を婿養子に望むものである。同格の貴族間の縁組であれば、隊に話を持ち込むまでもなく、家同士で話が纏まるからだ。よほどに優秀で将来性が見込める場合に限り、流魂街出身者にも婿養子の話が来ることもないではないが、貴族は流魂街出身者を蔑んでいるので、これはかなり例外的だ。後は貴族のぼんぼんが美人の女性死神を見初めて、見合いを持ち込むケースが何件かあるくらいだろうか。
「うん」
と、ギンは桃の問いを肯定した。
「上級貴族の姫さんの婿取りや。向こうさんは大乗り気やけどなァ。話を持ち込まれた当人は全然乗り気やないん」
「恋人がいるからですか?」
「いいや。恋人はおらへん。ただ、ずーっと片想いしとる娘ォがおってな。その娘のこと、諦められへんみたいやからな」
とギンは溜息をついた。
「ものすご、ええ話やねんけどな。この嬢さん、」
ギンは見合い写真の娘を人差し指の腹でコツコツと叩くと、
「おっとりして、気立てのええ娘ォらしいねん。遣いに来た家令のじいさんも偉ぶったトコのうて、ちゃんとした対応やったし、朽木はんや京楽はんに訊いてもなかなか評判のええ家やし、ここやったら、入り婿しても大丈夫そうやねんけどなぁ」
護廷十三隊に属する死神は、基本的に護廷の死神であるというそれだけで尊敬を受ける立場である。少なくとも、ただ瀞霊廷で生まれただけの一般人の下級貴族よりも、たとえ流魂街出身の平隊員であろうとも、死神の方が格上と見做されていた。しかし、上級貴族となるとそうはいかない。流魂街出身か下級貴族出の死神の場合、上位席官の地位に就いて何とか公には対等に振る舞えるくらいだ。更に私的な場でも対等な扱いを受けようと望むなら、最低でも五席の地位が必要だ。
向こうから護廷での地位望みで婿に迎えたくせに、格下の出自だからと婿を見下す上級貴族は、残念ながら非常に多い。勿論、婿の死神としての立場を尊敬し、彼を立てる家だって多いから、一概に上級貴族はと決め付けることは出来ないが、尊大な上級貴族が多数存在していることはまぎれもない事実だ。そういう家に婿に入れば苦労するのは間違いない。だが、ギンは、今回持ち込まれた縁談については、その心配はないと見ているようだ。
確かに、入り婿先が驕りのない家風で、しかも相手が気立てのよい美しい娘となると、将来の当主の地位が約束される婿養子はかなり美味しい話である。両想いの恋人がいるならば話は変わって来るが、片恋の為に蹴るのはいかにも勿体ない。この縁談を断れば、晴れて両想いになるという保証でもあるのなら別だが。
「それは確かに、とってもいいお話そうですね。断るなんて勿体ないなぁ」
と桃は感じたまま、素直に口にした。
「せやろ? それにな…。彼の片想い歴なァ、かれこれ六十年近うなるんや」
桃は目を丸くした。
「…それって、脈なしじゃ?」
彼女の容赦ない一言に、ギンは苦笑を落とした。
「まぁ、普通に考えたら脈なしやろなァ。けどなぁ、脈なしでも諦められへん気持ちもよう分かるねん」
片想い歴百四十年のギンだけに、説得力も半端ではない。思わず頷きそうになって、桃は慌てて打ち消した。
「市丸隊長とお姉ちゃんは特別です。大体、市丸隊長の場合、脈なしなんかじゃなかったじゃないですか。お姉ちゃん、言えなかっただけで、ずっと市丸隊長のことを好きだったんですから」
「それがボクに伝わらへんかったから、脈なしや思て、ボク、荒れとったん」
「でも、でも、市丸隊長。市丸隊長の方もお姉ちゃんに好きって言えなかったんでしょ?」
「そ、やね。言えへんかった。ま、言わんでも、ばればれやったみたいやけどな」
「でしょ? やっぱり、市丸隊長の場合は特別なんです。普通、六十年も片想いなんて、絶対脈なしですよ」
「そやろなァ。ここは心を鬼にして、この話、勧めたった方が彼の為なんやろなァ」
「と思います」
と桃は頷いた。少なくとも、これが自分の部下に持ち込まれた縁談なら、振り向いてくれない相手を想うよりも、現実に目を向けろと絢女ともども説得するだろう。
「ああ、かんにん。こんな話で来たんやなかったな。打ち合わせや」
とギンは席を立った。桃も頷いて従う。世間話、それも結婚とか恋愛に関する話を交わしたせいか、桃の強張りは解けていた。
(これならいけそう)
と、桃は内心でほっとしていた。
討伐計画は几帳面なイヅルらしく、綿密に練られていた。代理で説明するギンもよどみなく、イヅルとの間の意思疎通がきちんと取れていることをしっかりと示している。へらへら笑って仕事をさぼっている姿ばかりを見せられているが、やっぱり彼も隊長なのだ、と桃は珍しくギンに対する尊敬の念を覚えた。
「一通りの説明は終わったけど、意見とか、質問とかある?」
「あ、はい。あの、ここの隊員の配備なんですけど…」
「お、ええとこに気ィついたなぁ。ボクもここはちょっと気になっとんやけど」
「うちの十五席が流水系なんです。この配備なら、十四席を下げて、代わりに流水系の十五席を入れた方がうまくいきそうです」
「ええ意見や。ここは流水系の能力者がおる方がええな。彼、鬼道もいける?」
「むらがありますけど、破道は得意のはずです」
「そうか。ほんなら、ここは五番隊の十五席と入れ替えな」
「はい」
他にもいくつか意見を交わし、桃の提案を容れて計画や要員配備を微修正して打ち合わせを終わった。
「これでええやろ。後の細かい詰めはイヅルに確認してな」
「はい。ありがとうございます、市丸隊長。お手を煩わせて申し訳ありません」
桃が計画書の写しを手に辞そうとしたところ、
「桃ちゃんにいっこ、お願いがあんねけど」
とギンが言い出した。
「はい? あたしに?」
桃はきょとんとギンを見詰めた。
「あ、絢女隊長に言伝てですか?」
「いいや」
ギンはかぶりを振った。
「さっきの縁談なんやけど」
「え?」
もう終わったと思った話を蒸し返され、桃は目を丸くした。
「桃ちゃんからも説得してくれへんかなぁ」
「え?」
丸まった眸が更に見開かれた。
「あ…、あたしの知ってる人に来た縁談…なんですか?」
「うん。イヅルに来た話や」
「…え?」
知らず、腕が弛緩し、音を立てて、討伐の計画書が床に落ちた。
「吉良…くん?」
呆然としたまま、桃はのろのろと計画書を拾い上げた。
「うん。イヅル。ほんまのこと言うと、イヅルに縁談が持ち込まれたん、今回が初めてやないんや。ただ、本人は乗り気やないし、相手もなァ、尊大で鼻持ちならん家やったり、相手の嬢さんがどう考えてもイヅルには合わへんやろうって女やったりしたから、ボクも今までは断るのに反対せんかったん。けど、今回ばかりはなぁ。嬢さんも誰に聞いても評判のええ娘ォやし、相手の家も護廷の副隊長に婿に入って貰えるんならって、礼を尽くしてくれてはるし、こんなええ話、そうは転がってこんからなぁ」
桃の動揺など気付かぬふりで、ギンは続けた。
「親友の桃ちゃんからも説得されれば、イヅルかて考える、思うんや。頼まれてくれへん?」
「あ…の…」
「うん?」
「吉良くんが六十年も片想いしている女の子って…?」
「イヅルから聞いたことないん? せやったら、ボクが勝手に教えるわけいかへんな。イヅルに訊いて」
「…あ…、はい」
どこか覚束ない足取りで執務室を出ていく桃を、ギンは微かに笑みを浮かべて見送った。
どうやって、自隊に帰って来たのか、桃はほとんど記憶がなかった。
「おかえりなさい」
と迎えた絢女が桃の様子を一目見て、慌てて、席を立って彼女を支えた。
「どうしたの? 桃ちゃん。顔色、真っ蒼よ」
と彼女をソファに座らせる。
「気分が悪いの? 何があったの?」
三席に命じて水を持って来させ飲ませると、ようやく、桃は人心地ついたようだ。
絢女は桃が無意識で抱きしめていた計画書を外すと、テーブルに置いた。
「四番隊に行く?」
絢女の問いに、桃はふるっと首を振る。絢女も桃の様子を観察して、これは体調が悪いわけではない、と悟っていた。何か精神的な衝撃を受けて、茫然としているというのが正解だろう。だが、合同討伐の打ち合わせに三番隊に赴いて、何が衝撃だったというのか。
「打ち合わせは済んだの?」
と絢女はまず尋ねてみた。
「はい。吉良く…、吉良副隊長が不在だったので、市丸隊長と打ち合わせて来ました」
「不在?」
「緊急討伐で出たそうです」
「ああ、そうなのね? それで、ギンから何かきついことでも言われた?」
絢女の問いに慌てて、桃はかぶりを振った。
「いいえ。とても丁寧に説明していただきました」
「じゃあ、どうして、桃ちゃんはそんなにショックを受けているの? それとも、帰り道で何かあった?」
優しく問われ、桃はとうとうイヅルの縁談のことを告白した。
「あたし…、その縁談が吉良くんにだって全然考えていなかったから…」
だが、言われてみれば、尤もなのだ。
イヅルは瀞霊廷で産まれた下級貴族の出である。長男ではあるが、両親はむろん、近しい親戚も亡くなっており、辛うじて遠縁の親戚筋が残っているくらいの家だ。後々揉めそうな恋仲の女性もおらず、しかも、副隊長。婿養子の候補として考えるなら、かなり理想的だろう。これが初めて持ち込まれた縁談ではないというのも、指摘されてみれば、さもありなんといったところである。
「だのに…、吉良くんに来た話じゃなくて、別の誰かに来たと思い込んでいたんです。でも、市丸隊長のおっしゃる通りですよね。こんないいお話なら、そりゃ、三席とか四席とかじゃなくて、吉良くんですよね」
「そうね…。イヅルくんに、以前にもいくつも縁談が来ていたのは私も聞いているわ。お婿候補としては、彼は相当に条件がいいもの。上流貴族に婿養子に入ったからって擦り寄って来そうな妙な縁戚はいないし、本人は真面目で物堅い人柄だし、おまけに副隊長だしね。護廷の実力者を一族に迎えたい貴族にとって、副隊長は相当に魅力的な地位のはずよ」
絢女の言葉に、桃は項垂れていた顔を上げた。
「前にも、そんなに来ていたんですか?」
「私が聞いている限りでも、両手の指じゃ全然足りないくらい。尤も、半分以上は、本人に報せずにギンが握りつぶしていたけどね」
「半分以上?」
「ええ。ああ見えて、ギンはイヅルくんのこと大切にしているから。どう考えてもイヅルくんが不幸になりそうな縁組は最初から、ギンの一存で断っていたの」
そうだ。今日の口ぶりでも、相手の女性の
「それで? 桃ちゃんは何がショックだったの?」
と絢女は静かに問い掛けた。
「あたし…、吉良くんのこと親友だと思ってたんです。だけど、何にも知らなかったんだなぁって」
「ええ」
「吉良くんに六十年近く片想いしている女の子がいることも、いっぱい縁談が来てることも知らなくて、何だか…」
その意中の相手が自分だとは少しも考えていないところが、桃の桃たる所以である。だからこそ、イヅルは六十年もの片恋を強いられたわけだが。
「もやもやする…」
「そう…」
ギンもずいぶんと思い切った荒療治を試みたものだ、と絢女は心の中で苦笑した。
彼もいい加減苛立っていたのだろう。親友というぬるま湯のような関係にどっぷりと浸りきっている桃にも、さしたる障害もないというのに、ぬるま湯のような関係を失ってしまうことを懼れて、鈍い彼女にも理解できるように告白することが出来ずにいる己の副官にも。この状況に至ってなお、桃がイヅルを親友だと感じるのなら、いみじくも桃自身が告げたように、全く脈はない。桃のことはさっさと諦めて降って来た縁談に乗ってしまうのが、長い目で見てイヅルの為だろう。だが、もし…。
「桃ちゃん」
「はい」
「今日はもう上がっていいわ」
「え…」
桃ははっと、縋っていた絢女から身体を起こした。
先ほどまでの己の醜態に思い至り、桃はかっと頭に血が上った。今は勤務中だ。それなのに、隊務とは全く関係のない私的な感情に思い煩っていた。どこまで、自分は進歩がないのだろうと、桃は自己嫌悪した。
「もう大丈夫です」
立ち上がろうとした桃を、絢女は制した。
「今日は暇だし、書類はあらかた片付いたからいいのよ。それより、大事な討伐を控えて、イヅルくんとの間がぎくしゃくされる方が困るの」
絢女は桃を見つめた。
「これは隊長命令よ、雛森副隊長。今日は上がりなさい。その代わり、部屋で落ち着いてそのもやもやと向き合って、気持ちを整理するの。分かった?」
強い口調と視線で命じられては、逆らえなかった。
「はい」
と返事をし、桃は悄然と副隊長舎へ引き上げて行った。
副隊長舎の居間の隅で膝小僧を抱えて蹲り、桃はぼんやりと考え続けていた。
気持ちを整理しろ、と命じられたものの、思考は一向にまとまらない。胸の奥のもやもやは治まるどころか、時間の経過とともに膨らんでいた。
「吉良くん…、誰に六十年も片想いしてたの…?」
桃が霊術院の同級生としてイヅルと出会ったのは、五十七年前だ。だから、彼の片想いはその前後から始まっていたのだろう。
「松尾さん…、それとも、久我さん…」
霊術院の同期だった少女たちを順繰りに思い浮かべるが、どの娘もしっくりと来ない。
「それとも、幼馴染の誰か?」
瀞霊廷で産まれたイヅルは、廷内に死神ではない友人が幾人もいる。桃の場合、流魂街の人々は死神を畏怖しているし、霊力があって今だ成長を続けている彼女に対して、流魂街の友人たちは幼いままということもあって、死神になって以来、壁の向こうの幼馴染とはすっかり疎遠になってしまった。だが、死神になれるほどではなくともそれなりの霊力を持つ瀞霊廷内の住人を幼馴染とするイヅルは、今でも子供の頃の友人と親交がある。その全員を知っているわけではないが、皆、自分の幼馴染が護廷の副隊長まで上り詰めたことを自慢にも、心強くも思っている気のいい連中で、桃は羨ましく感じたものだ。イヅルの幼馴染の中には、幾人かの女性もいた。中の一人、二人は、確かもう結婚しているはずで、
(もしかして、吉良くん…、その中の誰かのこと…?)
分からない。だが、ちくちくと胸の底が痛い。
(綺麗なお嬢さんだった…な)
しげしげと眺めたわけではないが、見合い写真の娘は公平に見て、並み以上の容姿をしていた。貴族の姫君らしく上品で、豪華な晴れ着もとても似合っていた。上級貴族の一人娘となると、蝶よ花よとちやほやされて育った高慢な者も少なくないが、その姫はよい意味で世間知らずのおっとりとした人柄らしい。少し神経質なところのあるイヅルにはのんびりとしたお嬢さんの方がきっと合っているのだろう。そのお嬢さんと結婚ということになったら、イヅルも上級貴族の一員、そして、いずれは当主ということになる。
(そうなったら、もうあたしなんか、近寄れないね…)
いくら同僚の副隊長だからといって、流魂街出身のしかも女がイヅルにまとわりついていれば、婿に入った先の家も不愉快だろう。おっとりとした世間知らずのお嬢さんであっても焼餅くらい焼くだろうし、今までのように「親友だ」と親しくすることが許されないことは、桃にも理解できる。むしろ、親友なればこそ、彼の幸せの為には節度をもって、距離を取るべきなのだ。
だが、
(淋しいよ…)
桃は自分の膝がしらに頭を埋めた。
一緒に呑みに行って馬鹿騒ぎをしたり、非番の日に現世に遊びに行ったり。これまで彼と過ごしてきた楽しかった思い出が次々と甦り、桃は唇を噛みしめた。彼が婿養子に入ってしまえば、もうそんなことも出来なくなる。
あの縁談が誰に持ち込まれたものかを知らなかった時にギンに言ったように、この話はイヅルの将来の為にはとても素晴らしいものだ。六十年も彼に応えない女のことなど諦めて、この縁談を真剣に考えた方がいい。桃の理性はそれが
(あたし、自分勝手だ…)
桃が藍染に裏切られ傷付いていた頃、イヅルは彼女を一生懸命に励ましてくれた。彼自身、敬愛していた隊長に捨て駒にされ、心に深い傷を負っていた。それなのに、隊長が叛乱という形で出奔してしまった三番隊を支えるという重責をこなしながら、不甲斐なく寝込んでしまった彼女に対して、細やかな気配りをしてくれた。あの時、同僚や部下の温かな支援があったればこそ、桃は暗闇を抜け出せたが、その中でも最も心を砕いてくれたのは、幼馴染の冬獅郎を除けば、イヅルだったと感謝している。彼から受けた恩義を顧みれば、彼の将来の為に一番良い道を勧めるのが友として正しいあり方だ。それなのに、
(吉良くん…)
彼が自分の手の届かないところに行ってしまうのが淋しい。悲しい。彼の穏やかで優しい笑みが自分に向けられなくなってしまうのが、たとえようもなく悔しい。
「駄目です、市丸隊長…。あたし、吉良くんを説得なんて出来ない」
傍にいて欲しいと、ずっと傍にいて、笑い掛けて欲しいと願っているのに。
傍に 。
「あ…」
桃は顔を上げ、茫然と中空を見つめた。
「あたし…」
その時、居間に面した中庭から、
「桃ちゃん」
と呼ぶ声がした。隣接した隊長舎から庭越しに入って来た絢女が、柔らかな笑みで佇んでいた。定時で仕事を終えて隊長舎に戻ったばかりなのだろう。死覇装に隊長羽織のままの姿で、彼女は桃を覗き込んだ。
「少しは落ち着いた?」
「はい」
と桃は躊躇いがちに肯いた。絢女は僅かに目を細めると、
「イヅルくんが来ているわ」
と告げた。
「え?」
「討伐から戻って、すぐに打ち合わせに来てくれたのよ。桃ちゃんは体調が悪くなって早引けしたって伝えたんだけど、それなら、お見舞いしたいって…。どうする?」
今日は帰って貰って下さい。咽喉まで出掛かった言葉を、桃はぎりぎりで飲み下した。いつもいつも、自分は逃げてばかりだ、と感じたのだ。八年前から少しも進歩していない。自分に都合の悪いことから目を背け、周りの優しさに甘えて悪びれもしない。そんな自分がとても嫌だった。
「お姉ちゃん…」
「なぁに?」
「お姉ちゃんは昔、市丸隊長に『好き』って言えなかったでしょ?」
「ええ」
「後悔してる?」
「ええ」
と絢女は首肯した。
「意気地なしのあの頃の自分は、今でも嫌いよ」
「そっか…」
桃はほんの少しの間、息を詰めた。それから、
「会うわ。吉良くんは玄関?」
絢女が自分が呼んでくるからと玄関に廻ったので、桃はそのまま居間で待っていた。ややあって、イヅルの控えめな、
「おじゃまします」
という声が響き、絢女の後ろからひょっくりと彼が顔を覗かせた。彼を案内すると、絢女は即座に隊長舎に引き上げてしまった。
「あの…、気分はまだ悪いの?」
「ううん。早引けさせてもらったし、ずいぶんいいの。吉良くんこそ、討伐から戻ったばっかりなんでしょ? 疲れているのにごめんね」
「いや。約束していたのに留守して悪かったね」
イヅルは見舞いにと買い求めた白桃を差し出した。
「ありがとう」
とそれを受け取り、桃はじっとイヅルを見つめた。
「どうかした?」
彼女の視線に気付き、イヅルが心配そうに見つめ返した。
「やっぱり気分が悪いのかい? お見舞いなんて却って迷惑だったかな?」
桃は首を横に振った。それから、思い切って、
「吉良くん、お見合いするの?」
と切り出した。
イヅルの眸が見開かれる。
「どうして、それ…」
「市丸隊長から伺ったの。その…、すごくいい話なのに、吉良くん、気乗りしてないって」
「うん…」
「それでね、あたしからも説得して欲しいって頼まれたの」
きっちりと正座した膝の上に乗せられたイヅルの掌が痙攣した。
「雛森くんもあの話、受けた方がいいと思うのかい?」
イヅルの声は動揺を隠しきれずに僅かに震えていたが、いっぱいいっぱいに気持ちを張り巡らせていた桃はそれに気付かなかった。
「客観的にはすごくいいお話だと思う」
と桃は答えた。
「そう…か…」
イヅルは拳で袴を握りしめた。知らず俯いてしまった彼の頬を掠めて、続ける桃の声が抜けてゆく。
「でも、あたしはダメ…。吉良くんを説得なんて出来ない…」
え、と顔を上げたイヅルの目に、泣き出す寸前の顔をした桃が映った。
「吉良くんが上級貴族のお婿さんになってしまったら、もう今までみたいに一緒に遊びに行ったり、お買い物に付き合ってもらったり、ずっと当たり前に出来てたことが出来なくなっちゃうんだって。ただの同僚としてしか付き合えなくなるんだって。そう思ったら、淋しくて、淋しくて…、あたし…」
「雛森くん…」
「だけど、もし、吉良くんがお見合いを断っても…、それは、ずっと好きだった誰かの為…なんだよね…」
「…」
「友達だったら、吉良くんの将来のことを考えて、お話を受けるべきだよって説得しなくちゃいけないのに、あたし、出来ない…。だけど、やめておいた方がいいとも言えないの」
身勝手で我儘。きっとイヅルは桃に呆れ果てるだろう。それとも、桃の醜さを先から承知で付き合ってきた彼は、いつものように「しょうがないなぁ」と許すだろうか。
「あたし…、ずっと吉良くんを独り占めしていたかったの。今まで、全然、気が付いてなかったけど、あたし、吉良くんにずっとあたしを見ていて欲しかったの」
言ってしまった、と桃は思った。もう「親友」にさえ戻れなくなってしまう一言を。けれども、醜い自己中心的な自分の願望に気付いてしまって、素知らぬふりはもう出来なかった。彼が縁談を受けても、六十年焦がれ続けた誰かの為に断っても、それを疎ましく感じる自分がいる以上、友達ではいられない。これまで、友達のままでいられたのは、彼に特定の女性の影がまるでなく、実質的に桃の方を向いていると無意識の内に信じ込んでいたからだ。だが、彼に想い人がいると知ってしまった。どうあがいても独り占め出来ないのなら、いっそ、見限られたかった。
「その様子だと、僕がずっと好きだったのが誰か、市丸隊長から聞いていないんだね」
「…聞いてないよ。市丸隊長は、吉良くんが言わないことを勝手に教えるわけにはいかないって、おっしゃってた」
「そうか…」
「吉良くん、言わないで」
とうとう、桃の両眸から涙が零れ落ちた。
「誰だか聞いてしまったら、あたし、その人のことを憎んでしまう。その人は悪くないのに、恨んでしまう。言わないで。お願いだから、言わないで…」
しゃくりあげながら訴える桃を、イヅルは無言で眺めていた。桃の突然の告白は夢ではないかと思えるほどに嬉しかった。だが、有頂天にならずに冷静さを保てたのは、ここに至ってなお、イヅルの想い人が他ならぬ自分自身である可能性にちらりとも思い及んでいない桃の鈍感さに、呆れるのを通り越して、心の底から感嘆してしまったからだ。
イヅルは溜息をひとつ落とした。そうして、おもむろに告げた。
「雛森くんだよ」
「え?」
桃が涙と鼻水でぐずぐずになった顔を上げた。
「あたしが? 何?」
「だから、僕がずっと片想いしてた相手」
「 え?」
その瞬間の、
「う…そ…」
「ほんと」
「嘘! だって、そんな素振り…っ!?」
「肝心の君以外にはみんなに気付かれていたんだけどね」
とイヅルは嘆息した。
「…みんなって?」
「阿散井くん、市丸隊長、絢女隊長、日番谷隊長、乱菊さん、檜佐木先輩、京楽隊長、浮竹隊長、卯ノ花隊長、朽木隊長、狛村隊長、砕蜂隊長、射場さん、大前田さん、雀部副隊長、虎徹副隊長、伊勢さん 」
とイヅルはほとんど全員の隊長格の名を挙げ、それでも収まらずに続けた。
「 斑目さん、綾瀬川さん、虎徹三席、小椿三席、伊江村三席、朽木さん…」
「嘘…」
「何ていうか…、ここまで気付かれていないと、落ち込みたくなるんだけど…」
これには、イヅルも苦笑しか出ない。一方、桃の方は衝撃の余り、涙も引っ込んでしまった。呆然としたままで、
「シロちゃんも…、絢女お姉ちゃんも知ってたの?」
と呟く。
「ああ」
「どうして、何も…」
「それは市丸隊長と同じ理由だろうね。僕が言わないことを、勝手に伝えるわけにはいかないってことだよ」
「吉良くんはどうして言ってくれなかったの?」
「…八年前までは、雛森くんは藍染隊長に夢中で、僕のことなんて眼中になかっただろう?」
苦さを滲ませたイヅルの答えに、桃は絶句するしかなかった。確かに、霊術院一年生の時の虚事件で藍染に救われてから、叛乱の際に手酷い裏切りを受けるまで、桃は藍染以外見えていなかった。彼だけが心を占めていた。
「それから後は、臆病だったから、だな。何も言わなければ友達でいられる。だけど、言ってしまって君に拒まれたら、友達でさえいられなくなるから…。雛森くんに振り向いて欲しいくせに、振られて、友達としての居場所さえ失くしてしまうのが怖くて、言えなかったんだ」
桃の両の眸に新しい涙が盛り上がって、零れた。
「吉良くん!」
腕の中に飛び込んできた少女を、イヅルはそっと抱きしめた。
揃って執務室を訪れ、頭を下げるイヅルと桃を、ギンはわざとらしく殊更に細めた目で見遣った。
「で? 桃ちゃんと付き合うことになったから、あの話、断ってくれとそういうんやな?」
ギンの嫌味っぽい確認に、桃はしょんぼりと項垂れてしまった。その彼女を庇うように立って、イヅルが言った。
「はい。色々と気にかけて下さった市丸隊長には申し訳ないことをしてしまい、心苦しいのですが…」
「ごめんなさい、市丸隊長!」
桃が勢いよく謝罪すると、深々と頭を下げた。
「せっかくの吉良くんの良縁、潰してしまって…。でも、でも、あたし…」
眸を潤ませた桃に、
「ああもう、泣かんでええて」
とギンは手を振った。
「心配せんでも、この話、とっくに断っとるから」
しれっと告げられた言葉に、
「は?」
森閑とした沈黙が、暫しの間、その場を支配した。
やがて、
「 とっくに?」
「断ってる ?」
気の抜けた声で三・五番隊副隊長は呟いた。三番隊隊長はといえば人を喰った晴れやかな表情を浮かべ、咽喉の奥でくくくと笑っている。彼は片手で件の見合い写真を摘み上げると、
「この嬢さんなァ。性格、めっちゃ悪いねや」
と嘯いた。
「 はい?」
「癇癪持ちで、高慢ちき。見てくれはまぁ、そこそこやけど、こんなん嫁はんにしたら、イヅルなんて三日も持たんと胃ィ壊して倒れてまうで。こんな縁談、勧められへんからなァ。ボクの一存で断っといたわ」
「 」
「イヅル、六十年越しの片想い、実って良かったなぁ」
「 」
「ボクのおかげやで、感謝しィ」
堪えきれない様子で、三番隊隊長はくぐもった忍び笑いを漏らし続ける。躍らされた哀れな二兎は、ひたすら唖然と見つめるばかりだった。