櫛に流れる


 微睡みから目覚めると、鏡台に向かう女の背中が目に入った。
 乱菊は一心に髪を梳っていた。障子越しに差し込む朝の陽射しが、彼女の髪をきらきらと輝かせている。
 行儀悪く手枕に寝そべったまま、冬獅郎は髪を整える乱菊を眺めていた。

    その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
*1

 これは明治の歌人、与謝野晶子の処女歌集に収められた有名な短歌で、若い娘の梳ると流れ落ちるような黒髪に青春の輝きを重ねて歌い上げたものだ。「その子」とは与謝野晶子自身を指す自己讃美の歌だというのが定説である。これで讃えられている、癖のない、滝の流れのような黒髪    例えば、七緒や桃のそれのような    というのも確かにたいそう魅力的だが、冬獅郎には、やはり、乱菊の黄金に輝く髪の美しさが好ましかった。
 たわわに実った小麦畑。甘い香りのアカシアの蜂蜜。燦々と降り注ぐ春の木漏れ日。
 乱菊の髪は、いつでも冬獅郎に豊穣を連想させる。
 見つめる冬獅郎の視線に気が付いたのだろうか。乱菊がふと、彼を振り向いた。
「何、見てらっしゃるんですか?」
 乱菊の問いに、
「髪…。綺麗だと思って」
と冬獅郎は衒いもなく口にのぼせた。
「何、言ってるんですか、もうっ!?」
 直球で誉められることに慣れていない乱菊の頬が、朱を刷いた。
「ずいぶんと熱心に梳かしているんだな。まぁ、それだけ綺麗な髪だと、梳かし甲斐もあるってもんだろうが」
「そんなんじゃないですよ」
 火照ったまま、乱菊は呟いた。
「寝癖が取れなくて必死だったんですから」
「寝癖?」
 緩やかに波打つ彼女の髪のどこに寝癖があるだろうと、冬獅郎はしげしげと改めて眺めたが、よくわからなかった。だが、まぁ、本人が寝癖がついていると主張するのだから、多分、彼女にしか分からない、そして当人にとってはひどく気になる寝癖がついているのだろう。
「ふうん」
と寝そべったまま呟く冬獅郎に、乱菊は紅潮を深くした。
 彼に腕枕されたまま寝入ってしまって癖がついたのだ、とは口に出来なかった。乱れてはだけた夜着の隙間から零れて見える、すでに子供のものではなくなった胸板に、不意に昨夜の情事のあれこれが甦って来て、乱菊は一人で狼狽えた。ぽつりと見える紅い痕は、乱された乱菊自身が残したものだ。
「朝御飯の準備をして来ます。隊長ももう着替えて下さい」
 冬獅郎の視線に耐えられず、乱菊は立ち上がると閨を抜けた。寝癖が残ったままの髪はどうにも気になるが、後で水で濡らして整えようと心に決め、彼女は逃げるように台所に向かった。彼女の背中を、くつくつと忍び笑う冬獅郎の声が追いかけていた。

    朝ねがみ誰が手枕にたわつけて 今朝は形見とふりこして見る
*2


*1 与謝野晶子 『みだれ髪』より
*2 津守国基 『金葉和歌集』より(358番)

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2012.01.09