いつかへの約束
帰宅した冬獅郎は乱菊の髪を一房手に取るなり、
「この髪。伸ばすのにどれくらいかかった?」
といきなりな問いを発した。乱菊はきょとんと見返した。
「はい? あの、どういうことですか?」
戸惑った様子で問い返され、冬獅郎も流石に唐突だったかと反省し、言い直した。
「いや、な。おまえと初めて流魂街で会った時、髪はもっと短かっただろう?」
嗚呼、と乱菊は頷いた。まだ、冬獅郎が西流魂街で祖母と暮らしていて、ただの
初めて彼と遭ったあの頃、乱菊の髪は一番長いところが項にかかるかという程度のショートヘアだった。
「俺が十番隊隊長に就任して再会した時、おまえの髪は今と同じ、腰まで伸びていた」
「ええ」
「そこまで伸ばすのにどれくらいかかったんだ?」
冬獅郎の質問に、乱菊は笑みを浮かべた。
「三十年です」
と彼女は答えた。
「冬獅郎さんと出逢った直後、正確には、冬獅郎さんが霊術院に入学された直後から伸ばし始めて、ずっと切ってなかったんです。ですから、三十年」
「そうか…」
考え込む素振りの冬獅郎を不思議そうに見遣り、乱菊は続けた。
「本当は隊長と再会した後、切っちゃうつもりだったんですよ」
「はぁ? 勿体ねえ」
思わず口にした冬獅郎に、乱菊の微笑が深くなった。
「あの時も同じことを仰いましたねぇ」
「あ?」
「ずいぶんと伸びたから切ってしまおうと思っている、ってあたしが言った時、綺麗なのに勿体ないって。だから、あたし、短くするのは中止にして、その代わりにそれ以上伸ばすのを止めることにしたんです」
「俺、そんなことを言ったか?」
記憶にない。だが、言ったかもしれないと、冬獅郎は思った。当時の冬獅郎は「恩人」という認識で乱菊に好意を持っていた。彼女の助言がなければ、彼は無自覚なままに大好きな祖母を衰弱死させていたかもしれないのだ。取り返しのつかない事態に至らなかったのは、乱菊が彼の溢れ出した霊力に気付いてくれたからこそだ。とても感謝していたし、彼女の美貌についても、何の下心もない分だけごく素直に「美人だ」と感じていたような気がする。同様に、彼女の髪のことも自然な感情で綺麗だと思い、口にしていたとしても不思議ではない。冬獅郎にしてみれば、他意のない言葉だったから、記憶に残っていないのだ。美しい花に感嘆して「綺麗だ」と言ったのをいちいち覚えていないのと同じ道理である。
「ええ。仰いました」
と、乱菊は自分の髪を手に取って弄んだ。
「願いが叶ったから、本当は切るべきだったんですけどねぇ、あんまり綺麗だと誉められたから、自分でも惜しくなっちゃったんです」
「願い?」
冬獅郎が怪訝に鸚鵡返す。
「何を願っていたんだ?」
「不安だったんですよ」
と乱菊は告げた。
冬獅郎に死神になるよう勧めた、その結果が不安だったのだと、乱菊は述懐した。
彼の霊力は流魂街で一介の魂魄として転生を待つには、途方もなく強かった。無意識に零れ出す力に、何の霊力もない
だが、彼女は死神として長い経験があるだけに、死神の負の部分もよく知っていた。なまじ霊力の使い方を覚えてしまったが故に、驕り、自らの欲望の赴くままに力を使用して破滅した者も多いのだ。
澄んだ眸をしたあの時の少年が、そんなふうに変貌してしまうとは考えたくなかった。だが、高い理想で死神を志しながら、力に溺れ、堕ちた者を、彼女は何人も知っていた。あの、際立って強い霊力の少年がそうならないとは限らない。
「だから、闇に引き込まれることなく、真っ直ぐなままで死神になったあの子と再会出来ますようにって、願掛けしたんです。まさか、あたしの隊長になって再会するとは思ってなかったですけどね。霊術院を卒業して直ぐに一番隊の上位席官になったっていうのは知っていたから、上位席官なら、案外早く会えるかしらって楽しみにしていたんです。だけど、結局、三十年かかっちゃいましたね」
「九席だった頃は他隊の隊長格と会わないでもなかったんだ」
上位席官は自隊はむろん、他隊の隊長格との接触もそれなりにある。事実、冬獅郎にしても、乱菊にしても、五席以上ならば護廷の全席官の顔と名前を把握しているし、十席以上の席官も七割方は知っている。
「うっかり、卍解出来るのを総隊長に気付かれてから、あんまり、外に出して貰えなくなったんだよな。京楽と浮竹と卯ノ花くらいだったな。あの頃の俺とそれなりに接触があった隊長格は」
「総隊長の秘蔵っ子だったんですねぇ、隊長って」
「その言い方、止めろ」
乱菊はくすくすと笑いながら、
「それで?」
と問うた。
「あたしが髪を伸ばすのにかかった期間を聞いてどうなさるんです?」
乱菊は逸れてしまった話題を戻した。
「もしかして、冬獅郎さんも髪を伸ばそうと考えていらっしゃるとか?」
冗談のつもりだった。彼の髪については、三年ほど前に伸ばすことを提案して、
「鬱陶しいから、絶対に嫌だ」
とにべもなく一蹴されていたのだ。ところが、
「そのつもりだ」
あっさりと肯定が戻され、乱菊は、
「へっ?」
といささか間の抜けた声を上げてしまった。
「悪いか? おまえも前に、髪を伸ばせって俺に勧めたことがあったろう?」
「ええ、覚えています。でも、隊長、あの時は絶対に嫌だって断固拒否だったじゃないですか」
「まぁな。だが、ちょっと思うことがあってな。おまえが髪を伸ばした時と同じだ。願掛けで伸ばす」
と、冬獅郎は告げた。
その日、冬獅郎は非番だった。
隊長ともなると、非番でも何やかやと用事が入っていることが多いのだが、その日は全く予定がなかったので久しぶりに流魂街の祖母を訪ねることにした。姉の絢女から祖母の家に行くなら届けて欲しいものがあると頼まれていたことを思い出し、五番隊に寄ると届けものは布団だった。先日の非番の際に絢女も老婆の許を訪れていたのだが、その時に日干しされているものを目にして、布団がかなりくたびれてきていることに気がついたのだ。
「おばあちゃんには真綿のお布団は重くてつらいんじゃないかと思って」
と気遣った絢女が用意したのはふかふかの羽毛布団だった。それにムートンの敷布まで添えてあった。
教えられた寝具店で絢女が注文した布団の一式を受け取って、冬獅郎は祖母の許に向かった。思いがけず大荷物になってしまったが、祖母の喜ぶ顔を思い浮かべると苦にはならなかった。
実際、祖母は新しい布団に大喜びした。
「こんなに軽いのにあったかいお布団があるんだねぇ」
と布団を抱えてその軽さに瞠目する祖母に、もっと早く気が付いてやればよかったと、姉に先を越されたことを少しだけ悔しく感じた。
冬獅郎自身が土産に用意した栗甘納豆を茶請けに、近況を語っていた時だった。
「冬獅郎や、松本さんとはどうなっているんだい?」
と祖母が真顔で問うてきた。
「どうって?」
「結婚の話は出ていないのかい?」
咄嗟に冬獅郎は答えに詰まった。ややあって、
「いずれは、とは話している。けど、まだ、具体的には…」
と彼には珍しい歯切れの悪い口調で答えた。
「ばあちゃんは冬獅郎の花嫁さんと桃の花嫁姿を見たいんだけどねぇ。まだ、無理かい?」
「…桃はもうしばらくかかるだろうな。あいつのことを大切にしてる
意図的に桃のことだけを返答した冬獅郎に、
「冬獅郎は?」
と祖母は重ねた。答えあぐねていると、
「松本さんみたいに気立てのいい別嬪さんをいつまでも待たせるものじゃあないよ。松本さんなら、引く手
と畳み掛けた。
乱菊との結婚には、客観的に見て何ひとつ障害はない。祖母は乱菊との結婚を心待ちにしているし、実姉の絢女も、姉妹同然の桃も、二人の仲を後押ししている。乱菊に言い寄る男にことごとく圧力を掛けて廻っていた厄介な兄貴分であるギンも、どういうわけか、冬獅郎のことは黙認だ。十番隊の部下たちなど、交際を明らかにした時に万歳三唱して喜んだくらいである。乱菊、もしくは冬獅郎に横恋慕している連中が悔しがってはいても、しょせん、全くの外野だ。二人の関係はすでに護廷公認だった。反対する者はおらず、それどころか、まだ結婚しないのかとせっつかれる始末なのに、冬獅郎は結婚に踏み切れないでいた。
「冬獅郎、結婚しない理由は絢女さんかい?」
祖母の言葉に、冬獅郎ははっと面を上げた。
「ばあちゃん…」
「そうなんだね?」
冬獅郎が姉の絢女に向ける尊愛は一般的な兄弟以上のものがある。生まれた時から母親代わりに面倒を見てもらい、人間だった冬獅郎が謀略に巻き込まれて死んだ時には彼を護ろうとして共に命を落とし、尸魂界に流されてからは全てを賭けて彼を庇護し続けてくれた人だ。絢女に対しての敬慕が深いのは当然だった。
それが自己満足に過ぎなくとも。冬獅郎は姉の幸せを見届けたかった。
「冬獅郎の気持ちは分かるよ。だけどねぇ、絢女さんは冬獅郎に待ってほしいとは考えていないよ。冬獅郎と松本さんの幸せを一番願っているのは他の誰でもない、絢女さんなんだよ。絢女さんにとっては、冬獅郎の幸せが絢女さんの幸せなんだから」
「分かってる。俺の独りよがりなんだ。でも、な。分かってて、それでも、姉さまを差し置いて幸せになるのは嫌なんだ。姉さまがちゃんと幸せになって、俺の出る幕なんてなくなって、それからでないとって」
祖母はひとつ、息を吐いた。
「…絢女さんの恋人の市丸さんって…」
「ああ?」
「ばあちゃんは会ったことはないけど、桃や松本さんに話しは聞いているよ。ずいぶんと厄介な事情を抱えている人なんだってねぇ」
冬獅郎は頷いた。
「あいつは罪人で、罪を償って護廷に復帰を許されたんだ。あいつは姉さまのことが好きで、どうしようもないくらい大切で…、だのに、姉さまに自分は相応しくないって思い込んでいるんだ」
絢女をその手に抱いた今でも、ギンは自分に引け目を感じている。
「本当に厄介な奴なんだ…。だけど、姉さまは市丸とじゃねえと幸せになれない。あいつしか姉さまを幸せに出来ない。なのに、あいつはそれを全然分かっちゃいねえんだ」
憮然となった冬獅郎に、祖母は再び溜息を落とした。
「そんな人だから、絢女さんは市丸さんって人のことを好きなんじゃないのかい?」
祖母の眸が柔和に冬獅郎を見つめている。
「罪を犯さない人なんていやしないよ。だけどね、罪を罪だとも分からない人や、罪だと分かっていても平然としていられる人はいる。市丸さんはそうじゃないんだろう? 自分の罪をちゃんと分かっていて、そのことで苦しんでいる人なんだろう?」
「…まぁな」
「だからこそ、絢女さんは市丸さんが好きなんだよ」
と祖母は言った。
「絢女さんは優しい人だよ」
贈られたばかりの真新しい布団にちらと視線を投げ、祖母は続けた。
「こんな老いぼれを気遣ってくれる本当に思い遣りのある優しい人だから。そんな人が罪を罪とも思わないような人や、犯した罪に平然としていられる人を好きになるはずがないんだよ」
「分かってる…」
と、冬獅郎はぼそりと吐き出した。
「困ったねぇ…。市丸さんは自分の罪にちゃんと向かい合える人で、だからこそ、絢女さんは市丸さんを好きなのに、市丸さんはその罪のせいで絢女さんを幸せに出来ないなんて…」
祖母は栗甘納豆を一粒手に取ると、美味しそうにゆっくりと咀嚼した。
「願掛け…でもしようかね」
彼女の言葉を冬獅郎は不審げに反芻した。
「願掛けって? 何を…」
「市丸さんが自分の罪を乗り越えて、一日も早く、絢女さんを幸せに出来るように。そうして、冬獅郎が心置きなく松本さんと幸せになれますようにって、ばあちゃん、願掛けしようと思うんだよ」
思うところがあったのだろう。暫し考え込んでいた冬獅郎は、
「願掛けってどんなふうにするんだ?」
と尋ねた。
「断ちものをするんだよ」
祖母は答えた。
「願いが叶うまで、これこれのことをしませんって誓うんだよ」
一般に断ちものは日常生活に支障のない範囲で、自らに不自由を課すことで願掛けとするものだ。茶断ち、酒断ち、甘いもの断ちといった好物を断ったり、禁欲を課したりすることで為されることが多い。
「他には、髪を切らないとか、逆につるつるに剃ってしまって、願いが叶うまで伸ばさないとかする人もいるねぇ」
と祖母は教えた。冬獅郎は彼女を見つめ、
「ばあちゃん」
「何だね、冬獅郎?」
「甘納豆断ちしようとか、今、考えなかったか?」
と質した。
祖母は僅かに目を瞠った。しかし、すぐにくしゃくしゃの笑みを浮かべ、
「かなわないねぇ、冬獅郎には」
と肯定した。
だが、冬獅郎にしてみたら笑う段ではない。自分の独りよがりな想いで乱菊を待たせていることさえすまなく感じているのに、祖母が大好物の甘納豆を断ってしまうなど、申し訳ないの二乗である。
「ばあちゃん、駄目だ」
「何でだい?」
「その…、俺はばあちゃんが甘納豆をおいしそうに食べているのを見るのが好きなんだ。それに、桃だって、姉さまだって、ばあちゃんが甘納豆が大好物なのを知っているから、土産に買ってくるだろう? それを食べなかったら、二人とも変に思うぞ」
「それもそうだねぇ」
と祖母は困った顔になった。
「願掛けは俺がする。もともと、俺の我儘から始まっているんだ。俺が願掛けするのが道理に合うだろう? ばあちゃんは今まで通り、甘納豆を食べて、お茶も飲んでいてくれよ」
彼の懇願が余りに必死だったので、祖母は断ちものを止めることを了承した。
茶断ち。
(駄目だ、休憩の時に乱菊の茶を飲めないんじゃ、業務に支障をきたす)
酒断ち。
(これは隊長職には無理な相談だな)
隊長職は仕事上の付き合いで外せない宴会や接待も多いのだ。そんな席では飲まないわけにはいかない。それに乱菊と晩酌を楽しめないのも業腹だ。
禁欲。
(無理、無理、無理。絶対に無理だ)
頭を剃る。
(勘弁してくれ…)
祖母の家を辞し、隊寮に戻る道すがら、冬獅郎は願掛けの為の断ちものをどうするか吟味していた。
色々と考えた末、候補に残ったのは甘納豆断ちと髪を伸ばすことだった。
「どうすっかなぁ」
祖母の影響で冬獅郎も甘納豆が大好物である。それを知っている乱菊は茶請けに甘納豆を用意していることが多いし、他の隊長格からも頻繁に贈られる。
(やっぱ、不審がられるか…)
冬獅郎は自分の髪を一房、手に取った。
「この髪、伸ばすのにどれくらいかかるんだ?」
現世であれば、ショートカットの女の子がロング・ヘアにするには一、二年というところだろう。腰までを目指したとしてもせいぜいが五年だ。だが、子供の成長が現世に比べて格段に遅い尸魂界では、髪や爪が伸びる速度も現世の何倍もかかるのだ。
(そういや、昔、あいつから髪を伸ばすことを勧められたな)
と冬獅郎は思い出した。
三年ほど前だが、閨語りで、
「髪を伸ばしたたいちょ、見てみたいなぁ」
と妙に夢見る乙女な目付きで、乱菊が呟いたのだ。
「きっと、お伽噺の王子様みたいに素敵ですよ」
乱菊の想像するお伽噺の王子様とやらが一体どんなものなのか、具体的に尋ねる勇気はなかった。ただ、浮竹や白哉を見ていても、髪が長いのは鬱陶しそうな気がして嫌だったので、即座に提案を却下した覚えがある。
(髪を伸ばすか…)
見たいと言っていたくらいだから、乱菊は反対しないだろう。真意を姉に悟られて、彼女に負い目を感じさせてしまうのを避けることが冬獅郎には一番の重大事なのだが、長髪の男は護廷に多いので、髪を伸ばしたからと言って不審を抱かれることもないだろう。尋ねられても、乱菊から強請られたからだとか、イメージチェンジだとか、絢女が納得しそうな言い訳はいくらでも出てくる。
それに…。
「それに?」
冬獅郎から髪を伸ばすことを決意するに至った事情を説明された乱菊は、僅かに小首を傾げて恋人を見返した。
「他に何かあるんです?」
乱菊の問いに冬獅郎は頷いた。
「伸ばすのは腰までだ。それ以上は伸ばさない」
意味を解しかねている乱菊に、冬獅郎は分かり易い言葉に言い直した。
「俺の我儘に付き合わせるのは、俺の髪が腰まで伸びるまでだ」
乱菊は目を瞠った。
「あの、それって…」
「姉さまの幸せは見届けたい。姉さまと市丸が納まるとこに納まってから、心置きなく乱菊を妻にしたい。その気持ちは変わらねえけど、だからって、おまえをいつまでも待たせるのも嫌なんだ。だから、腰までだ」
「冬獅郎さん…」
「俺の髪が腰帯にかかるまでは、俺の我儘を許してくれ。だが、そこまで待っても、姉さまと市丸の決着が付かないなら、姉さまの嫁入りを見届けるのは諦める。その時は改めて正式にプロポーズするから…」
彼が期限を切ったのは、乱菊との将来をそれだけ真剣に考えている証だ。
「髪が伸びる速さがおまえと同じくらいだったとしても、三十年かかってしまうが、待ってくれるか?」
「はい」
と乱菊は頷いた。
「三十年と言わず、百年でも二百年でも待ちますよ。あたしの未来は隊長と一緒にいること以外にあり得ませんもの」
きっぱりと言い切った彼女の額に、触れるだけの感謝を込めた口接けを落とす。くすぐったそうにそれを受け入れた乱菊は、艶やかな表情を浮かべた。
「おかげで待つ間の楽しみが出来ました。長髪の隊長って、きっと中世
以前はお伽噺の王子だと言ってはいなかったか。冬獅郎は疑問に思ったが、お伽噺の王子と中世欧羅巴の騎士の違いがよくわからなかったので、追究しないことにした。乱菊はうっとりと視線を宙空に漂わせた。
「きっと、サー・ランスロットとか、トリスタンとか、白鳥の騎士のローエングリンとか、不死身のジークフリートみたいに凛々しくて、かっこいいんだわ」
夢見心地な想像に浸っている乱菊に、
「妄想に浸っているところに申し訳ないんだが」
と冬獅郎は突っ込みを入れた。
「おまえが今言った連中って、全部、悲恋の主人公じゃねえか。不吉すぎるって!」
サー・ランスロットは「アーサー王と円卓の騎士」の物語で知られるケルト伝説の人物である。忠誠を誓った主であるアーサー王の王妃・グィネヴィアとの不倫の恋で有名だ。トリスタンも円卓の騎士に名を連ねているが、本来は別個の伝承の主人公である。誤って飲んでしまった媚薬の効果で叔父であり、主でもあるマルク王の妻となるべき女性・金髪のイゾルデとの不倫に苦しみ、愛する女と同じ名の白き手のイゾルデを妻とするも、彼女の嫉妬により絶望のうちに死を迎えるのだ。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」はこの悲恋物語を下敷きに書き上げられたと言われている。
白鳥の騎士ローエングリンはワーグナーのオペラの主人公だ。聖杯を守護する神性を持つ王の息子で、彼自身も神性があったらしい。「正体を問うてはならない」という戒めを妻が破った為に彼女の許を去らねばならなくなり、妻は後悔と悲嘆の余りに死んでしまうという結末である。
ジークフリートはドイツの伝説の英雄で、竜の血を浴びることで不死身となった。しかし、背中に張り付いていた菩提樹の葉により、その一箇所だけは竜血の洗礼を受けずに不死身を得られなかったのだ。グンター王の妹・クリームヒルトを妻とするも彼女とグンター王妃ブリュンヒルドとの諍いからグンター王の恨みを買い、唯一の弱点である背中を槍で貫かれて命を落とすのである。
どの人物も英雄譚の主人公だけに、乱菊の言うように勇気と智略に優れた美形として描かれている。だが、恋愛関係面に限ると、不幸この上ない境遇だ。乱菊との結婚を願掛けしている冬獅郎としては、引き合いに出すのは願い下げの面子ばかりである。
「だって、中世欧羅巴の騎士でハッピーエンドの主人公を思いつかなかったんですもの」
と乱菊は言い訳した。
「いいじゃないですか、騎士みたいにかっこいいって言いたかっただけなんですよ」
「大体、何で中世欧羅巴の騎士が出てくるのかが、そもそも疑問なんだが」
「だって、隊長ってば、銀髪で白皙の貴公子じゃないですか。それに、何だかんだ言って、フェミニストでしょ? やっぱり、騎士ってはまりますよ」
それを言うなら、乱菊こそ高貴の姫君だ。
彼女なら、眠れる森の美女だろうと、白鳥の湖のオデット姫だろうと、金髪のイゾルデだろうと、喩えて不自然ではない。
(しかし、こいつを喩えるなら、やっぱり「ニーベルングの指輪」のブリュンヒルデだな)
「ニーベルングの指輪」はドイツの民間伝承や神話を下敷きにワーグナーが書き上げた四部作の長大なオペラである。ブリュンヒルデはこのオペラのヒロインで、北欧神話の主神ヴォータンと知恵の女神にして大地母神エルダの間に産まれた。死した英雄をヴァルハラ宮に導くヴァルキュリアであり、ヴォータンにとって最愛の娘だった。ところが、父ヴォータンの命令に背いてジークムンドとジークリンデの兄妹(それと知らずに愛し合い、ジークリンデは孕んでいた)を救おうとした為に神性を奪われ、岩山で炎に護られて眠りに就いていた。誰であれ、眠りを覚ました男のものになることをヴォータンから宣告されていたが、同時にヴォータンは最愛の娘がつまらぬ男の妻になるのを良しとせず、恐れを知らない真の英雄でなければ超えられない炎の壁で彼女を囲ったのだ。
彼女を目覚めさせたのは、ジークフリート。ブリュンヒルデが父に背いても護ろうとしたジークムンドとジークリンデの間に生まれた息子で、恐れを知らない英雄だった。彼は眠るブリュンヒルデの姿に生まれて初めて、「恋慕」という名の恐れを知ったとされる。
戦いの女神ヴァルキュリア。父であり、最高神でもあるヴォータンに背いても自らの信念を貫く強さ。恐れを知らぬジークフリートに恐れを抱かせるほどの美貌。
どこをとっても、ブリュンヒルデは乱菊に近しい。唯ひとつ、問題なのはブリュンヒルデとジークフリートも悲恋だという点だ。ジークフリートは謀略によって口にした忘れ薬によってブリュンヒルデを忘却し、グンター王の妹に求愛。あろうことか、グンター王の求めに応じて、ブリュンヒルデを王の妃として岩山から連れ出したのだ。裏切りに憤ったブリュンヒルデはグンター王の奸臣ハーゲンにジークフリートの弱点を漏らしてしまい、彼はその弱点を突かれて死を遂げる。死の間際、彼は全てを思い出し、ラインの乙女たちから真相を知らされたブリュンヒルデは自ら燃え盛る炎に身を投じて、ジークフリートの後を追うのである。
冬獅郎がそのことを告げると、
「ブリュンヒルデに喩えて貰えて光栄です」
と乱菊は微笑んだ。
「それにジークフリートは死の間際ってとこがあれですけど、ちゃんとブリュンヒルデを思い出したんでしょ?」
「解毒薬を飲んだからな」
と苦々しげに冬獅郎は答えた。
「大体、忘れ薬の効果で記憶を失ったのは仕方ないとして、目の前にいる女にほいほいと結婚を申し込むってのが腹が立つ」
「あたし、忘れ薬じゃなくて媚薬だって聞きましたよ。記憶を失ったのは副作用で、他の女性を愛した記憶は媚薬の作用の邪魔になるから消してしまうってことらしいです」
「なるほど。真実の愛に偽りの愛は勝てないから、その前に排除しちまうってことか。その説なら、まぁ許す」
冬獅郎は乱菊の手を取った。そのまま跪いた彼に、
「ちょっと、隊長、何してらっしゃるんですか!?」
と慌てて乱菊もしゃがみ込もうとした。それを制し、冬獅郎は乱菊を見上げた。
「おまえがブリュンヒルデなら、俺は絶対に忘れない。例え忘れても、必ず思い出してみせる。俺の心はおまえのものだ」
「冬獅郎さん…」
「姉さまが幸せになるのを見届けるまで…、それが叶わなくても、この髪が腰に届くまでだ。それ以上は待たせない。だから、おまえも俺を信じていてくれ」
彼女の手の甲に誓いを込めて、口接ける。誓いを終えた冬獅郎が立ち上がると、入れ替わりに乱菊が跪いた。
「あたしの心はあなたに捧げています」
彼が先ほどしたように、乱菊も冬獅郎の手に接吻をした。
繋げたままの手を優しく引き上げて、冬獅郎は乱菊を立たせた。交わしたばかりの宣誓をより確かなものにするかのように、二人は愛しい相手を抱きしめ合った。