髪に触れる手 ~いつかへの約束 後日譚~
窓の外では油蝉が大合唱を繰り返している。果てることなく続くその声に、
「あちぃ…」
と冬獅郎は溜息を零した。
ただ暑いばかりでなく、天気が崩れる予兆なのか、湿度も高いらしい。死覇装や髪が膚に纏わりついて不快だ。
「あちぃ」
手拭いで額の汗を拭い、ついでに首筋も拭う。首に張り付いていた髪が離れると、風が通り、心持ち快適になった。
「あー、髪が首に掛かってるから暑いんだな」
と彼は遅まきながら悟った。
彼が髪を伸ばし始めてから二年半が経過した。伸ばし始める前から長めだった襟足部分は首下を過ぎて背中に掛かり始めている。耳の後ろあたりの横髪は肩上すれすれというところだ。この長さなら何とか一つに纏められるのではないかと、冬獅郎は考えた。現在、副隊長会議で不在の副官も、夏場の暑い時には髪を束ねて項に風を通していた。束ねてしまえば、髪が首筋に張り付くこともなくなるし、風も通る。
「えーと、何か紐なかったか?」
がさごそと抽斗を漁って、彼は書類を束ねる為の黒い紐を見つけ出した。
「これで何とかなるかな?」
紐を机に置き、まず両手で両脇の髪を丁寧に撫でつけて真後ろに向かって引っ張る。後ろで一つに纏めると、左手でその状態を保持したまま、右手で書類紐を纏めた髪の根本に引っ掛けた。左手の小指と薬指で紐の一方の端を押さえ、もう一方の端を右手で引いて、彼は髪を束ねようとした。
「ありゃ?」
紐がずるっと髪を滑ってすっぽ抜けた。
「あー、失敗か」
独り言ちながら、再挑戦する。やはり、すっぽ抜けた。何度か試みて、ようやく結べたと思ったら、顔を上げた途端に背後に紐がぽとりと落ちてしまった。途端に広がった髪が首に纏わりつく。
「ちくしょう」
誰に対してともつかず悪態をつきながら、むきになって髪を纏めようと、冬獅郎は足掻き続けた。
「たいちょ、何してらっしゃるんです?」
不意に声を掛けられて、冬獅郎は顔を上げた。目の前に副官がいた。会議から戻ったらしい。いつもなら、執務室に入る前に霊圧で帰って来たことを察知出来るのだが、髪との格闘に熱中する余りに彼女の霊圧に気付き損ねたようだ。
「見て分からねぇか?」
冬獅郎は答えた。暑さと思い通りにならない自分の髪に苛立っていたせいで、ひどく不機嫌な声音になってしまった。
「書類紐で髪を結ぼうなんて無理ですよ」
と乱菊はその不機嫌をふわりと受け止めた。
「あたしくらい髪が長くても、書類紐じゃ滑ってしまって上手く結べません。隊長なんて、今、一番、中途半端な結びにくい長さなんですから」
穏やかな彼女の笑みに苛立っていた心が、すっと解された。
「暑いんだ。一つに結んでしまえばましかと思ったんだが」
と訴える冬獅郎に、
「あたしが結んで差し上げます」
と乱菊はにっこりと微笑んだ。
彼女は自分の抽斗から、櫛と元結を一本取り出した。彼女が夏場や修練の際に髪を纏めるのに使っているものだ。金髪に馴染む山吹色の元結を冬獅郎に示して、
「帰りに隊長の髪に馴染む色の元結を買いに行きましょう。とりあえず、今はあたしの元結で我慢して下さい」
と乱菊は告げた。
「ああ」
冬獅郎の背後に廻った乱菊は、彼の髪をざっと手で纏めた後、櫛を使って丁寧に梳いていった。地肌を通ってゆく櫛の刺激が気持ちいい。項の下に、彼の髪を捧げ持つ乱菊の手の体温が伝わってきて、勤務中にもかかわらず、甘ったるいような、むず痒いような心持ちになって来た。
「ちょっと髪を引っ張ります。痛かったらおっしゃって下さい」
息が掛かるほど近くで囁かれ、ぞく、と彼が気付かれないほどに震えた直後、乱菊の手がぎゅっと冬獅郎の髪を引いた。中途半端な長さの髪を纏める為か、かなりしっかりと引っ張っている。だが、その痛みはむしろ有り難かった。意図せずに刺激されてしまった官能から、冬獅郎の意識を取り戻してくれたからだ。
冬獅郎の髪を左手で強く引いたまま、乱菊は元結を髪の根本に三重に巻き付け、きゅっと引っ張って締めた。緩みがないことを確認してから、端と端を交差させて、しっかりと元結を結わえた。
「はい、出来ました」
首筋に触れていた温みが離れた。惜しむ気持ち半分、ほっとするのが半分に仲違いした自分の感情を押し隠して、
「ありがとう」
と礼を述べる。髪が膚に纏わりつかなくなった分、確実に快適になった。乱菊が渡してくれた手鏡で確認すると、極太の筆先のようにぴょこんと纏まった己の髪が確認できた。
「やっぱり、あたしの元結だと目立っちゃいますねぇ」
「確かにな。でもそう変でもないだろう」
「ですねぇ。少なくとも書類紐よりはまともです」
「悪かったな。結ぶのに書類紐くらいしか見付からなかったんだ」
憮然とした顔を作ってみせる冬獅郎に、くすくすと笑いながら、
「お茶をお持ちしますね」
と乱菊は給湯室に消えていった。ややあって戻って来た彼女は、冬獅郎の前に冷やした麦茶を置くと、
「明日も、あたしが髪をちゃんと纏めてあげますから安心していて下さいね」
とひどく嬉しそうな顔で囁いた。
その日から、冬獅郎の髪を纏めて一つに括るのが、乱菊の朝の日課となった。
さらに一年が経過した頃には、肩上すれすれだった横髪も肩下まで伸び、冬獅郎一人でも楽に括れるようになった。だが、乱菊は彼の髪を結ぶことを朝のひと時の無上の楽しみとしているらしく、一度、冬獅郎が自分で纏めてしまった時にはすっかり拗ねてしまい、機嫌を取るのに大層難儀したものだ。
今朝も、乱菊はいそいそと冬獅郎の背後に廻り、彼の髪を手に取った。
彼の髪に櫛を入れ、きらきら光る銀の髪に指を滑らせる。この髪に触れられるのは自分の特権だと思うと、乱菊はどうしてもこの時間は手放せなかった。譬え冬獅郎自身であっても、乱菊の特権を奪って欲しくなかった。
少しずつ、少しずつ、確実に伸びていく彼の髪を愛おしみながら、彼女は束ねる。満願成就して、彼が髪を切る日まで、この髪を束ねる役目は誰にも譲れないと、乱菊は決めていた。
******************************************
「髪に触れる手」
この作品には色々と経緯があります。まず、「接吻までの距離 Part2」を読んで下さった"ひらひら"管理人のひのかさまから、拙宅大人隊長の容姿設定をご質問いただきまして、叛乱から十年後の時点で大人隊長の髪は肩甲骨あたりの長さまで伸ばしていること、そして髪が伸びているのは「いつかへの約束」に書いたように願掛けである、ということをお答えしました。その際に「隊長の髪は乱菊さんが毎朝括っているんですよ」という裏設定も話のついでにお伝えしたんですね。でもって、この裏設定に興味を持ってくださったひのかさまの方から「描いてみたいけれど、ネタ元ではいつ頃話が出ますか?」と更にご問い合わせがありまして。これに対しては、「長編の最後の方で出す予定ですが、(私自身が)待ちきれなくなってその後の小噺の方で書くかもしれません。ネタ元が拙宅であることさえ明記して下されば(これは後で私がUPした時に事情を知らない方から問題視されないように用心の為)、ひのかさまが先に描いても構いませんよ」とお返事いたしました。先に描いても構わないと申し上げたのですが、ひのかさまからは私がUPするまでは自粛するとご連絡を頂きまして、とりあえず話はいったんそこで終わっていたのです。
で、先日UPした「明日、花の咲く場所」第11話にて、市丸兄さん、ついに日番谷姉にプロポーズ。これに対して、市丸さんプロポーズお祝い(祝・日番谷隊長&乱菊さん結婚前進)として、自粛するとおっしゃられていた隊長髪括りネタの漫画を頂いたのです。
ご自分では下ネタだとおっしゃっておいででしたが、さすがはひのかさま。私の方も思いっきり萌えを刺激されまして、こんな素敵な作品を頂いたのだから、早急に髪括りネタをUPせにゃあってことで、書き上がったのがこちらのお話であると。まぁ、そういう経緯でございます。
市丸さんプロポーズお祝いで頂いていた漫画は、これのUPと同時に宝物蔵格納。そちらの漫画の方は「接吻までの距離 Part2」同様に、叛乱から十年後前後の設定です。ひのかさま、改めましてありがとうございます。