Virgin Kiss
吉良イヅルは勤勉な青年である。毎朝、始業時間の二刻前には出勤し、その日の仕事の段取りを整えて、始業と同時に業務を開始する。もちろん、ただ勤勉なばかりでなく極めて有能。護廷十三隊の副隊長の任に就いているので、戦闘能力も優れているが、彼の真価は卓越した事務処理能力にある。何しろ、隙あらばさぼる、面倒な仕事は可能な限り部下に押し付け必要最低限の事務仕事しかしない、という信条の男の副官を務めているのだ。単に書類を捌くだけでは、市丸ギンの副官などこなせない。
さぼりがちな隊長を管理し、叱咤激励し、宥めすかし、時には恫喝してきっちり仕事を終わらせる、という手腕において、八番隊の伊勢七緒と三番隊の吉良イヅルは双璧とされていた。では二人のうちどちらが優れているかという問題になると、現在のところ、イヅルを支持する者の方が多い。というのも、八番隊隊長の京楽春水は何だかんだで七緒に惚れており、さぼりにしたって動機の半分以上は彼女に甘えているだけというのが大方の見方だからだ。七緒が本気で困るようなさぼり方は、春水はしないのだ。一方、イヅルとギンは男同士である。ギンには日番谷絢女という歴とした女性の想い人がおり、イヅルにも雛森桃という恋人がいる。つまり、イヅルとギンは純粋に上司部下。従って、さぼりはギンの方が深刻であると見做されていた。事務処理能力に関しては十三隊の副隊長の中にあって筆頭との呼び声も高い男なのである、吉良イヅルは。
その勤勉にして優秀な副隊長が、朝から憂いた表情で物思いに耽り、仕事の捗りが悪いとなると、周囲の者が心配するのは当然である。
さぼる気満々で出勤してきたギンも、副官の異変にはすぐに気が付いた。そこで逃亡を中止して観察していたのだが、長く観察したところで結論は同じで、イヅルは明らかに弱っていた。
だが、ギンが判断する限りでは体調が悪いというのではなさそうだ。元来が神経質なところがある青年なので、胃痛くらいは起こしているのかもしれない。だとしても、それは肉体の病から発しているのではなく、精神的な負担が肉体に現れたということになるだろう。
(桃ちゃんとけんかでもしたんか?)
とギンは推察した。
昨日、イヅルは非番だった。そして、付き合い始めてから初めて非番の日程を合わせることが出来た桃とデートに出かけると、ギンは聞いていた。デートが上手くいったのなら、真面目なイヅルは、元気いっぱい、ばりばりと仕事をこなしているに違いない。仮に仕事が手につかないという事態が起こったとしても、浮かれて、であるはずだ。しかし、イヅルは凹んでいる。完全に萎れてしまっている。とすれば、昨日のデートで何らかのトラブルが発生したと考えるのが、一番可能性が高いだろう。
イヅルと桃は霊術院入学以来の仲の良い同期なので、付き合いはかれこれ五十七年に渡るが、恋人同士になったのはほんの一月前のことだ。霊術院時代から続くイヅルの長の片想いに終止符が打たれたことについては、裏でギンの策謀があったりもしたのだが、そこはこの際関係ない。問題なのは、ただ今現在、イヅルが精神的に撃沈しているという点に尽きた。
「イ~ヅ」
とりあえず、猫なで声でギンは呼びかけてみた。一ヶ月前、策略を用いて二人を交際まで漕ぎ着けさせたのは、他ならぬ彼自身である。イヅルたちに対しては、それなりに責任を感じている。第一、三番隊の通常業務はイヅルの裁量で回っているのだ。ギン自身、本気を出しさえすれば凄まじい事務処理能力の持ち主であるのだが、イヅルが頑張ってくれるならばそれに越したことはない。このまま、彼が水底に沈んでいたら、確実に仕事は滞り、ギンはさぼり返上で職務に努めなければならなくなるではないか。
副官を真剣に想いやる気持ち三割、仕事が増えるのを厭う心情七割であるが、何はともあれ、イヅルを浮上させるのが急務である。その為には、まずは事情聴取だ。彼が落ち込んでいる真実の事情を明らかにしないことには、対策の講じようがない。
「なんや元気がないみたいやけど、どないしたん?」
まずは直球で尋ねてみる。
「あ、いえ、別に何ともありません」
この答えは予想済み。
「別に、やあらへんで? 今朝から、ようさん溜息ついて、ぼんやりして、何やしらん悲しそうな顔までしとるのに、別にとかないわ。どないしたんや?」
と畳みかければ、
「申し訳ありません」
と謝罪が返って来た。
「私的な感情を仕事の場に持ち込んでしまいました」
この返答も真面目な彼らしいと言えば彼らしい。
「イヅル、ちょっと休憩しよう」
滅多に出さない隊長の威厳をここぞとばかりに全開にして、提案という名の命令を繰り出せば、副官は逆らうことも出来なくて。促されるまま、接客用のソファに隊首と向い合せに腰を下ろした。
「昨日、桃ちゃんと何ぞあったんか?」
再び、直球の問いを投げる。もちろん、遠回しに誘導尋問を繰り返して、搦め手から白状させるのも、ギンにとってはお手のものである。しかし、イヅルの様子からして、そんな回りくどい手段を取るまでもないと判断したのだ。強気に、何もかもお見通しだという態度で攻めまくれば、さして抵抗はせずにしゃべり出すだろうという予測があった。
「いえ、そんなこと…」
「あったんやな?」
「…」
「イヅル、返事しィ」
「…それは」
口ごもる副官にもう一押し。
「ボクだけやない。みんな、イヅルの様子がおかしいのん気ィ付いとって、心配しとうねや。イヅル、桃ちゃんと何があったん?」
上司ばかりでなく、部下にまで心配をかけていると悟って、ついにイヅルは陥落した。
「こんな個人的な感情で仕事が疎かになってしまい、申し訳ありません」
詫びるイヅルに、
「ロボットやないんやから、それは仕方ない。イヅルはほんま真面目やから、公私混同や考えとるかしらんけど、何でもないってふりされて、気ィ付かんうちに壊れてしもうたら、そっちの方がおおごとや。とりあえず、わだかまっとるコト、ぶちまけてしまい」
と努めて優しく重ねる。イヅルは訥々と話し始めた。
彼の話を要約すると、こうである。
昨日、揃って非番を取ったイヅルと桃は芝居小屋に行ったり、買い物をしたりして、楽しい一日を過ごした。いつもよりもちょっと高級でお洒落な料亭で夕飯を済ませ、お酒が入ったこともあってほろ酔いのいい気分で桃を五番隊の隊寮に送っていく途中に問題は発生した。イヅルが語るところによると、話している途中で、何だかとてもいい雰囲気になったのだそうだ。これならいける。イヅルは己の直感を信じ、積年の想い人に口接けた。
そして、惨敗した。
桃は思いっきり彼を突き飛ばし、泣きながら走り去ったのだ。
「不意打ちで吃驚したんと違うか?」
とギンは応じた。
「ボクかて、たまにやけど、絢女に
一人で納得しようとするギンに、イヅルは陰鬱な溜息で応じた。
「市丸隊長…」
「ううん?」
「絢女さんから『気持ち悪い』って言われたことあります?」
「 」
ギンは思わず開眼した。まさか、と思いながらもおそるおそると、
「桃ちゃん、そないなこと言うたん?」
「 」
沈黙は言葉より雄弁な肯定だった。
(鬼か、桃ちゃん!!)
この場にいない五番隊副隊長に、ギンは全力で突っ込みを入れた。
単に突き飛ばされただけであれば、先ほどギンが述べたように、突然で吃驚したとか、心の準備が出来ていなかったとか、照れ隠しで思わず暴力的な態度に出てしまったとか、いくらでも前向きな解釈が出来る。しかし、「気持ち悪い」とまで言われてしまったら、それはもう、凹んで当然だろう。しかも、イヅルと桃は昨日今日の付き合いではない。六十年近く仲良しの友達に甘んじ続け、ようやく想いが通じ合ったと信じた女性からそんなふうに言われてしまったら、斬魄刀でばっさりと袈裟懸けに斬られたも同然である。ショックの余り、寝込んでしまったとしても不思議はない。むしろ、
(偉い、イヅル。その状態でよう出勤してきた。副隊長の鑑や)
とギンは副官を称賛せずにはいられなかった。
「市丸隊長…」
半分泣きそうな顔で、イヅルは続けた。
「やっぱり雛森くんが僕を好きだなんて勘違いだったんでしょうか?」
「や…、そんなことはない、思うねけど…」
ギンには珍しく語尾がごにょごにょと小さくなってしまったのは、「気持ち悪い」という発言が持つ、強烈な破壊力のゆえだ。
「僕の縁談で友達づきあいが出来なくなるってショックを受けて、それで、友達を失くしてしまう寂しさを『恋』だと勘違いしたのかもしれません。雛森くんにとって、僕は気の置けない友達でしかなくて、やっぱり藍染隊長のことを忘れられないんですよ」
「イヅル、そんな急いで結論出さんと…」
「きっとそうです…。雛森くんは藍染隊長が忘れられないんです。もしかして、藍染隊長以外の男なんて生理的に受け付けないのかもしれない」
「そんなことない、て。イヅル、先走るのは止め、な?」
放っておけば、ずぶずぶと自虐の沼に沈みかねないイヅルを引き止めたい。だが、有効な慰めを思い付かないまま、繰り言のような彼の言葉をただ否定し続けていたギンは、ふと違和感を覚えた。
(何…? 何か変や)
ギンは否定を中止して、イヅルの言に神経を集中させた。
「雛森くんはやっぱり藍染隊長でないと駄目なんですよ。僕じゃ、代わりになんてなれないんです」
「…」
「藍染隊長以外、彼女は受け入れられないんですよ」
「…」
いつの間にか、「かもしれない」が断定になってしまっている。しかし、彼の口ぶりはまるで、桃と藍染が肉体関係にあったと確信しているかのようだ。
(イヅル、桃ちゃんとおっさんのこと、誤解しとるんか…?)
と感じたところで、ギンの脳裏に閃くものがあった。
「イヅル」
ぶつぶつと自虐を繰り広げている副官を、ギンは強い口調で遮った。
「いっこ確認したいねやけど、桃ちゃんに
「…はい」
とイヅルは首肯した。
「そうか。初めてか」
ギンは頷くと、続けた。
「そんで、イヅル。まさか初めてのチューでいきなり舌を挿れたりとか、してへんな」
「 してません」
イヅルは答えたが、ギンは細い目を更に細めて皮肉っぽい表情を浮かべた。
「今の間ァがなんや、気になるんやけど…」
「…」
「ほんまに挿れてへんのやな?」
畳み掛けられて、イヅルは力なく返答した。
「挿れていません…。というか、その前に突き飛ばされて…」
「つまり、挿れようとしたわけや」
「…はい」
はぁ、とギンはわざとらしく、殊更に大きな溜息をついて見せた。
「それはイヅルが悪いわ。桃ちゃんみたいな奥手な娘ォが、初チューでいきなり舌なんか挿れられたりしてみ。そら、頭真っ白なってもうて、『気持ち悪い』くらい口走るわ」
彼の断言に、イヅルは目を丸くした。
「あの…、市丸隊長…」
彼に皆まで言わせずに、
「桃ちゃんと藍染はんは何もないで」
とギンは答えを先回りした。
「見とって分からへん? 経験済みであの鈍感さと奥手さは有り得へん」
「それは…、ですが…」
「何や? 一応、藍染はんの側近やったボクの言うことを疑うん? それとも、何ぞ証拠でもあるんか? 桃ちゃんと藍染はんがそういう関係やったいう証拠が?」
ここまで強気に言い切れば、いつものイヅルなら不承不承でも納得するはずだった。だが、彼は頑なに首を横に振ると、
「市丸隊長、誤魔化さなくてもいいんです。僕は分かっていますし、それも承知で雛森くんのことが好きなんです。だから、嘘はいりません」
と言い募った。
「何で嘘をつかな、あかんねや。さっきも聞いたけど証拠でもあるん?」
イヅルはぎゅっと拳で袴を握りしめた。
「…阿散井くんから聞きました」
「何を?」
「藍染隊長が、雛森くんは藍染隊長なしでは生きていけないと…、そういうふうに仕込んだ、と話していたと」
「…」
ギンは無言になった。無言になったが、心の中では、
(あんのボケ犬がっ!! ふざけるんは眉毛だけにしとかんかい!!!!)
と力一杯罵っていた。
恋次が桃と藍染の関係を誤解したことは仕方がない。当時の桃の藍染への傾倒ぶり。ギンがイヅルにしたように、東仙要が修兵にしたように、利用するだけ利用して棄て置いても差し障りがないにもかかわらず、敢えて手の込んだ策謀を巡らせてまで桃を殺そうとしたという事実。そして、むやみに思わせぶりな藍染の言動。それらを鑑みれば、たいていの者は、藍染は桃に手を付けており性的に調教していたと想像してしまうだろう。恋次が下劣な感性の持ち主だったから邪推したのだ、と責めるのは酷というものだ。誤解せずにいられないように仕向けられたのだから、下劣なのは恋次ではなく藍染である。だか、
(それをイヅルに話すか?)
自分一人の胸にしまっておけず、修兵か一角あたりに相談したというなら、まだ分からなくもない。だが、桃を想い続けているイヅルにわざわざ教えなくてもいいだろうと、ギンは恋次の無神経さを呪った。
(これやから、脳ミソ軽量の筋肉単細胞は好かんねや)
と声には出さずに吐き捨てると、ギンは改めてイヅルに視線を固定した。
「藍染はんと桃ちゃんの間に肉体関係はない」
彼はもう一度、曲解する余地のない直截な言葉を用いて告げた。誤解は解いておかなければ、イヅルも桃も不幸になる。そして、それが出来るのは、藍染の側近だったギンだけだ。
「そもそもあのおっさんは真性の同性愛者や。せやから、女の子には物理的に勃たへん」
イヅルの目が眼球が転げ落ちてしまうのでは、というほどに見開かれた。
「…同性…愛…」
ギンは鼻先でせせら嗤って続けた。
「そう。いわゆるガチホモ、いうやつ。
相手を務めさせられた数にはギン自身も含まれている。そのことは裁判の証言から、イヅルも薄々と察していた。もちろん、追究するような馬鹿な真似はしない。綺麗さっぱりとスルーして、素知らぬふりを通した。
「藍染はんにしてみたら、桃ちゃんは丸め込みやすい楽な相手やってん。何しろ、超がつくくらい奥手やからなァ。『君を信頼しているよ、大切なんだ』とかあの胡散くさい微笑み付きで囁いてやったら、ころっと信じ込んでしもたもんな。藍染はんが手ェ出さへんのも、大切にされとるからやてひとつも疑わへんかったし。そういう意味では気の毒やったんは桃ちゃんよりか、むしろ、ハリベルやったなァ」
ギンが出して来た名前に、イヅルは記憶の抽斗を探った。
「ハリベル…、というと、日番谷隊長が倒した
「せや、あの、乱菊に負けず劣らずの巨乳ちゃんや」
「気の毒と言いますと…」
「あん
「…どうした…って?」
分からないとかぶりを振ったイヅルに、冷笑を浮かべて、ギンは教えた。
「要に相手をさせてん」
「え…」
「もちろん、鏡花水月を遣うて、ハリベルに藍染はんやと思い込ませた上でや」
「…そ…れは…」
イヅルは絶句した。
「なぁ、可哀想や思うなぁ。要に散々、
「…」
「桃ちゃんは奥手やったおかげで、そんな目ェに遭わんで済んだんや」
かつての側近だったからこその赤裸々な発言に、イヅルは落ち込んでいたことさえ頭から吹っ飛んで、ひたすら瞠目している。
「ボクの見たとこ、桃ちゃんは間違いのう処女や。おまけに、冬獅郎はんやら、絢女やら、流魂街のおばあちゃんやらに寄って集って純粋培養されたから、あないに鈍うて奥手に育ってしもたんやね」
とギンは結論した。
「でな。話を戻すけど、奥手でなーんも分かってぇへん
「…思います」
イヅルは項垂れて、ギンの意見を追認した。そんな副官に、藍染を語っていた時の辛辣さを消して、ギンは穏やかに続けた。
「ここから先はイヅルと桃ちゃんの問題やから、口出しはせぇへん。けどな、いっこだけ忠告しとくと、あの娘はイヅルの予測を軽く飛び越してしまうくらい、はるかに奥手でお子さまやとボクは思う」
「…そうかもしれません」
「イヅルは六十年近く桃ちゃんに片想いしとって、ようやっと、両想いになれたんや。色々思うところもあるやろ。逸る気持ちもよう分かる。せやけどなァ、イヅルの気持ちだけで突っ走ってしもたら、お子さまの桃ちゃんはついていけへん。戸惑って、混乱して、昨日みたいなことにもなるやろ。イヅルが桃ちゃんのことを本当に大切に思うなら、きついかしれへんけど、あの娘のペースに合わせてやることも必要やで」
「はい」
イヅルが納得した様子で頷いたので、ギンはソファから立ち上がった。
「ほんなら、休憩は仕舞いにしよ」
そう言って、執務机に戻る上司に、
「ありがとうございました」
とイヅルは深々と頭を下げた。
イヅルは五番隊の隊寮に向かってとぼとぼと歩いていた。
桃を怯えさせたまま、放置は出来ない。きちんと謝って、それからイヅルのことをどう思っているのか改めて問い質そうと決心したものの、一人になると思考は悪い方へ悪い方へと流れていく。
藍染と性関係はなかったにしても、彼女はやっぱりあの男のことを忘れかねているのではないか。あるいは、藍染とはかかわりなく、イヅルに対して不信と嫌悪感を抱いたかもしれない。
どんよりとした考えに囚われていたイヅルは、道の角で、向こうから歩いて来た者とぶつかりそうになった。
「すみません!」
「ごめんなさい」
ほぼ同時に発せられた謝罪。その声に覚えがあって、相手を検めると、ぶつかりそうになったのは桃だった。
「雛森くん…」
「…吉良…くん」
イヅルを認めた桃の身体がぱきんと氷結した。謝らなくてはと思うのに、桃の強張りを目の当たりにして、イヅルは言葉を失ってしまった。桃は桃で、声を出せないまま、酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせていた。砂時計があれば砂が落ち切ってしまうほどの時間、二人は互いに見つめあったまま膠着していた。
「吉良くん…」
先に言葉を回復させたのは桃の方だった。
「ごめんなさい」
それが昨晩逃げ出したことに対するものなのか、終わりにしようという意味なのか量りかねて、イヅルはただ、桃を見つめていた。
「昨日、逃げ出しちゃって…」
「ああ、うん…」
と相槌を打った後、イヅルははっと我に返って、
「僕こそごめん! 雛森くんの気持ちも考えないであんなことして!!」
と慌てて謝罪した。
「…怒ってないの?」
桃が尋ねる。
「悪いのは僕だよ。雛森くんこそ、怒っていないのかい?」
「何であたしが怒るの? 悪いのはあたしなのに」
と桃はしょんぼりと呟いた。
昨晩、唐突な口接けに混乱した桃は、逃げ出したその足で姉とも慕う絢女の許に駆け込んだ。
五番隊隊長舎には、乱菊と七緒が遊びに来ており、仲の良い女だけで宴会の真っ最中だった。取り乱して、泣きながら飛び込んできた桃に、最初はイヅルに無体なことでもされたのかと、絢女たちも気色ばんだ。だが、桃を宥めすかして話を聞き出した三人は、全員が桃ではなく、イヅルに同情を寄せたのだった。
彼女たちもイヅルの積年の片想いについては、よくよく承知している。桃とイヅルが交際を始めた時には、心の底からの祝福を送ったものである。友達ではなく、恋人に関係を進めたのだ。
「それは、恋人なら
と七緒。
「あんたねぇ、一緒に遊びに行くだけだったら、友達だった頃とひとつも進歩ないじゃない」
と乱菊。
いちいち尤もだった。
ずっと藍染のことを引き摺っていた桃は、男性と交際するのはイヅルが初めてだ。だが、いくら
「吉良、今頃、凹んでるわよ」
「ですね。
と乱菊と七緒に変わりばんこに説教されて、桃はとんでもないことをしてしまったと身を縮めていた。彼女は「気持ち悪い」と口走ったことを全く覚えておらず、従って、その事実は乱菊たちに伝わらなかった。もし、それを記憶していて乱菊たちに打ち明けていたら、非難はもっと激しかったかもしれない。
「桃ちゃん」
乱菊と七緒の説教の間、呆れ返った顔で桃を眺めていた絢女が、
「イヅルくんに
と真正面から問いかけた。
「え…?」
「嫌だったの? それとも単純に吃驚しただけ?」
桃は答えられなかった。嫌だったのか、そうではなかったのか、自分でもよく分からなかったのだ。
「
いつも優しい絢女にぴしゃりと言い切られて、桃は茫然となった。
「吃驚して逃げて来ちゃったんだったら、それはまぁ、仕方がないかもしれない。でもね、桃ちゃんに逃げられたことで、乱菊たちが言うように、イヅルくんはすごく傷ついたと思うわ。ちゃんと謝らないと、取り返しがつかないことになるわよ」
昨晩は結局、一睡も出来なかった。
夜が明けたら、朝一番に謝りに行こうと寝床の中で決心していたはずなのに、いざとなると足が竦んでどうしても動けなかった。
謝りに行くか、さもなければ別れろと、三人の中で一番過激な意見を述べた絢女は、ぐずぐずしている桃に何も言わなかった。桃が自分自身で考え、結論を出すべき問題だと考えていたからだ。出勤はしたものの、仕事が手につかずにいる桃を、絢女は叱らなかった代わりに慰めもしないで放っておいた。
最終的に桃の背中を押したのは、様子を見に来た乱菊だった。間もなく定時の終業時間だというのに、未だに桃がイヅルのところに行っていないと知った乱菊は、
「桃、あんた、吉良を失くしちゃっていいの? 平気なの?」
と詰め寄ったのだ。首を横に振った桃に、
「だったら、とっとと吉良のところに行く!」
乱菊は桃を執務室から蹴り出した。
そこまでされて、ようやく桃はイヅルのところに向かう力を得た。足を止めてしまったら、そのまま動けなくなりそうで、ただひたすら右足と左足を交互に前に出すことだけに意識を集中させていた彼女は、近付いてくるイヅルの霊圧に気が付かなかった。ぶつかりそうになった相手がイヅルだと知って、昨晩の恐慌が甦った。それでも、何とか謝罪を言い出せたのは、彼を失いたくない一心だった。
けれども。
桃にはやっぱり分からなかった。昨晩、彼の口接けを嫌だと感じたのか、ただ驚いてしまっただけなのか。
怖い、と思ったのは確かだった。だが、絢女から、怖いのと嫌なのとは違うと教えられた。
「私もギンと付き合い始めた最初の頃は、すごく怖かったのよ」
と彼女は語った。
「ギンのことは好きだったの。だから、嫌だったんじゃないの。だけど、怖かった。好きでも怖いことはあるんだから、怖かったから嫌だったとは言えないわ。そこを間違えちゃ駄目よ」
悪いのは自分の方だと謝るイヅルを前にして、桃はついに心を決めた。
「吉良くん…。
「え?」
愕然とイヅルは立ち竦んでいる。無理もない。昨晩、彼を突き飛ばして逃げた相手から、
だが、桃は真剣だった。もう一度、口接けられれば、嫌だったのかそうでないのか、分かると思った。彼を失いたくない。ずっと傍に居て欲しい。一月前に感じた気持ちは真実だ。だが、彼に触れられることを厭うているのなら、恋しいと感じたことだけは錯覚だったのかもしれない。絢女の言う通り、友達の「好き」と恋愛の「恋しい」の境界を誤ってしまったのだろう。そうであるなら、自分の我儘でこれ以上イヅルを縛るのは卑怯だ。悲愴な決意で、桃は繰り返した。
「
怯える仔猫のようにぷるぷると小刻みに震えながら、桃はぎゅっと目を瞑った。
(…初めて、なんだな…)
イヅルは改めて、噛みしめた。未経験なのは見ていれば分かるとギンは言い切ったが、イヅルもはっきりとそれを感じ取った。ギンが慧眼だったというよりも、イヅルの目が完全に曇っていたのだ。桃が藍染と関係していたとしても構わないと思い極めてはいたが、それでも、彼女が無垢なのは嬉しかった。
彼女は自分から「
ゆっくりと、桃は目を開けた。
真っ赤に染まった頬。睫毛に溜まった雫。
全てが艶めいていて、イヅルをどくりと疼かせたが、理性を総動員して宥めすかす。ギンに言われた「あの娘はイヅルが考えとるよりはるかに奥手でお子さまや」という言葉を、呪文のように心の中で繰り返していると、いきなり、桃はへなへなとその場にへたり込んでしまった。
(えええっっ!!!?)
驚愕に身の裡から湧き上がっていた疼きが吹っ飛んだ。
「雛森くん、大丈夫かい!?」
慌てて屈み込んで顔を覗くと、彼女は完全に涙目でイヅルを見返した。
「吉良くん…、変…なの…」
「…変って?」
「分からない…。だけど、ここが苦しいの」
と桃は自分の心臓の辺りに手を置いた。
「何だか、誰かに力一杯、心臓を掴まれているみたい…。痛くて、苦しくてたまらないの…」
すみません、それは勘弁して下さい。
うるうると潤んだ眸で上目遣いに見つめられたにも拘わらず、下半身を暴走させなかった自分自身を、イヅルは心の底から褒め称えた。
「立てる?」
と尋ねると、桃は力なくかぶりを振った。
イヅルは体の向きを変え、桃に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「負ぶさって。送るから」
とりあえず、今の桃を正面から眺めていたら、いつ暴発してもおかしくはない。身体が密着してしまうのは少々危険だが、負ぶってしまえば顔は見えなくなるから、幾分冷静さを保てるとイヅルは判断した。
桃は素直に、彼の背中に身を預けた。
立ち上がり、五番隊の隊寮に向かって歩き始める。桃の柔らかな胸を背中に感じ、イヅルは急いで、三番隊の矜持を心の中で唱えた。
(戦いは英雄的であってはならない。戦いは爽快なものであってはならない。戦いとは絶望に満ち、暗く…)
「吉良くん…」
桃の呟きが、イヅルを中断させた。
「何だい、雛森くん?」
「お願いがあるの…」
「何?」
「あたしを嫌いにならないで…」
もしかして、いや、もしかしなくても、ものすごく
本人は全くの無自覚なところが余計に。
「嫌いになんてなるわけがないよ」
と告げれば、小さな声で、
「ありがと…」
とぽつりと呟いて、桃はイヅルの肩に顔を埋めてしまった。
迷った末、副隊長舎ではなく、隊長舎に桃を届けた。
イヅルの背中で腑抜けている桃を認めた絢女は、苦笑をひとつ落とした後、居間まで彼女を運んでほしいと頼んだ。
夕飯を食べて行くか、と尋ねた絢女に、
「今日は雛森くんも動揺しているし、遠慮しておきます。雛森くんが落ち着いてから、ご馳走いただけますか」
と丁寧に断って、イヅルは辞した。
玄関まで彼を見送った絢女は、草鞋を履いて
「ごめんなさい」
と頭を下げた。
「何のことでしょう?」
「桃ちゃんよ。あの娘があそこまで奥手なのって、責任の一部は私にもあると思うの」
「そんなこと…」
「奥手だとは知っていたけど、私が認識していた以上に、桃ちゃんって恋愛には子供だったみたい」
と絢女は再び苦笑した。
「子供すぎて、イヅルくんも色々と大変だと思うけど、あの娘、イヅルくんのことはちゃんと好きなのよ。そこは解ってあげてね」
「はい」
「気長に見守ってくれると嬉しいんだけど…」
それに対しては、イヅルもまた苦笑いを浮かべるしかなかった。
「長期戦で頑張ります」
イヅルの返答に、姉代わりの女性は微妙な表情で頷いた。