穏やかな日
優しい微睡みから覚めて、ゆっくりとまぶたを開いたギンは目の前五寸強の至近距離にある絢女の顔に、一瞬、息を呑んだ。尤も、すぐに頭脳はフル回転して、現状は把握出来た。絢女の膝枕でギンは転寝していたのだが、その間に絢女も寝入ってしまったのだろう。ギンが眠りに落ちるまで扇いでくれていた団扇がギンの腹の上に落ちている。
こっくり、こっくり、上半身を不安定に揺らしながら舟を漕いでいる絢女の無防備な寝顔に、ギンは微笑を浮かべた。寝顔はいつも見ているが、彼女の膝上で下から見上げるという角度と、転寝という状況は初めてで、
(可愛ええなぁ)
と惚れた欲目全開で、ギンは鑑賞に入った。
ちりん、と澄んだ音を立てて、軒端に吊した江戸風鈴が鳴る。
今日はギンの誕生日だ。誕生日のプレゼントとして、彼は一日、我儘を言って甘える権利を手に入れていた。二人揃って非番にしていたので、昨晩から五番隊隊長舎に泊まり、一緒に朝食を取った。もちろん、朝食はギンの希望通りの品が並べられた。冷や汁、鰺の一夜干し。醤油味の卵焼きにほうれん草の煮びたし、蓮根のきんぴら。絢女の手料理で朝から満腹した後、耳掻きを強請った。結果、膝枕で耳掻きをしてもらった後、食後の二度寝となったのだ。
まだ、残暑は厳しいが、朝夕はずいぶんと涼しくなった。五番隊隊長舎の庭に面した硝子戸を開け放ち、日除けの葦簀の隙間から吹いて来る秋の気配を潜めた風と、絢女が扇いでくれる団扇の風を感じているうちに、ギンは微睡んでしまった。おそらく、絢女も彼が寝入って間もなく、睡魔に引き込まれてしまったのだろう。
伏せた瞼を縁取る睫毛は、真下から眺めても一際長いのがよく分かる。微かに開いた唇はふっくらと柔らかそうだ。
ゆらゆらと揺れる絢女の顔を満ち足りた気分で眺めていると、不意に彼女の身体がかくんと大きく傾いだ。はっと、絢女は目を覚ました。目を開けた途端に見上げるギンの顔がアップで迫って来て、絢女は反射的に姿勢を正した。
「え? あれ」
混乱する彼女に、ギンはくっくっとくぐもった笑いを漏らす。絢女も漸く、きっちりと覚醒したらしく、
「私まで居眠りしちゃったのね」
ときまり悪そうに苦笑いを零した。
「ギンはいつ起きたの?」
「ん、ちょっと前」
「起こしてくれれば良かったのに」
「やって、えらい気持ちよさそうやって」
「それで、にやにやしながら見てたのね。意地悪」
拗ねた口調を作る絢女に、
「にやにややない。にこにこしとったんや」
とギンは反論する。
「いいえ、にやにやしてました」
絢女も言い募る。
「にやにやでも、にこにこでも、可愛えなって思とったんは間違いないで」
居眠りを見られた恥ずかしさで朱を刷いていた絢女の頬が、別の意味で赤味を増した。
「あなたに口で勝てるわけがなかった…」
うなだれてしまった絢女に向かって、ギンは腕を伸ばした。後頭部に手を置いて、ぐいと彼女を引き寄せ、口接ける。すぐに唇は離したが、絢女は目をまん丸にして固まっている。耳たぶまで真っ赤に染まった顔と、言葉を失ったままにはくはくと口だけを小さく開閉させている動揺ぶりが可笑しくて、ギンは楽しげに、
「えらい可愛え金魚はんが居てるなぁ」
と言った。
絢女は勢いよくまばたきを繰り返すと、
「意地悪」
と再び、拗ねてしまった。
「絢女」
機嫌を取るように猫なで声で呼び掛ける。ふい、と逸らされた視線に、
「あ~や、め」
とギンは節を付けて、再度呼び掛けた。
「…」
相変わらずの拗ねたふりに構わず、
「お昼御飯な」
と話題を変えた。絢女はやっと、ギンの顔を見た。
「どうかしたの?」
「うん、なァ。焼きそばがええて言うとってけど…」
「そのつもりで用意してるけど、気が変わった?」
今日は彼の我儘を叶える約束だ。よほど、無茶な要求でない限り、応じるつもりの絢女だった。
「いや、焼きそばでええのん。ただ、ソース焼きそばやのうて、あんかけ焼きそばの気分なんや」
「何だ。それくらいお安い御用よ」
ソース焼きそばもあんかけ焼きそばも具材には大きな差はない。味付け方法の問題だから、食材は用意のもので足りる。
「絢女」
「なあに?」
「スープも付けて。前に作ってくれたトマトと卵と春雨が入った中華スープ。あれ、また食べたい」
「ん、いいわよ」
膝枕のままのギンの髪を、絢女はそっと撫でた。
「ギンの髪って、さらさらね。気持ちいい」
と指を使って梳くと、
「絢女の方がさらさらや」
ギンの反論には直接応えず、彼女は、
「あのね」
と続けた。
「ギンの髪に触ってみたいって言っている女の人って、案外多いのよ」
「ボクの髪なんて触って、どないするん?」
「だって、綺麗だもの。銀色で癖がなくて、さらさらで…」
「それ言うたら、冬獅郎はんかて銀色やで」
「冬獅郎は癖があるし、髪質はちょっと
絢女は嬉しそうに微笑んだ。
「こんなふうに、ギンの髪に触れるのって、私の特権でしょ?」
「もちろん」
「嬉しい」
母親が子供を撫でるように、柔らかな手付きで繰り返し髪を梳かれるのが心地良い。ギンは絢女の腿に乗せた頭をそのままに、のんびりと、
「絢女、昼御飯の後でなぁ」
と語り掛けた。
「久しぶりに、笛、聞きたい」
ギンの要求に、絢女は笑みとともに頷いた。
「ほんで、その後、散歩がてら、凪砂屋に行こか? 葛切りが食べたいのんや」
「いいわね」
「それからな」
「なあに?」
「今晩、一緒にお風呂に入ろ?」
ギンの髪を梳いていた手がぴたりと止まった。
再び、絢女は金魚になった。満面に朱をのぼせ、声を出せないままでぱくぱくと何か言いたげに口だけを動かしている。ギンの面に揶揄の色が浮かんだ。
「今日は誕生日やよし、我儘、叶えてくれるのんと違うた?」
「…そ…れは…」
「お風呂、一緒に入ろ?」
駄目押しとばかりに重ねると、絢女は困惑の余りか、少し涙目になっていた。
「な?」
それでも容赦せずに畳み掛けると、不承不承、絢女は頷いた。
「一緒に入るだけよ?」
と彼女は念を入れる。
「…」
ギンはわざと応えなかった。
「ね、一緒に入るだけでいいでしょ?」
更に困惑して、絢女はギンを窺った。彼は少しだけ意地悪な表情を繕うと、
「お風呂の後、松葉と後櫓で一回ずつな」
「…え…?」
「それやったら、一緒にお風呂に入るだけで我慢するで」
「 」
唖然として、絢女は石像のように身体を強ばらせている。約束と羞恥の板挟みで、彼女は黙りこくってしまった。誕生日なのだから、我儘を言ってもいいと約束したのだから、素直に承知すべきだと思う。だが、あっさりと受け入れるには、ギンの要求は彼女にとってハードルの高いものだった。
石化したままだった絢女が漸く、重たい口を開いた。
「…ギン、あの…」
だが、先を続けられずに口籠る。
ギンは口許の笑みを柔らかなものに変化させた。
「堪忍。冗談や」
「…冗談?」
だが、彼の言うところの「冗談」が一体どの事柄を指しているのか分からなくて、絢女は困った顔で見返した。
「 一緒にお風呂に入るだけでええよ」
と彼は言い直した。
「そこまでなら、ボクの我儘聞いてくれるねんなぁ?」
絢女は首肯した。本当はそれも恥ずかしくていたたまれないのだが、今日はギンの誕生日なのだ。
「ほんなら、それでええよ」
彼の面に無邪気な歓びが広がった。
「ものすご、楽しみや」
と心底から嬉しそうに彼は呟く。絢女は頬を染めたままに、固まるしかなかった。
ちりん、ちりん、と初秋の風に揺らされて、風鈴の音だけが抜けて行った。