声の媚薬


 乱菊の声は、女としては低めだと冬獅郎は認識している。
 低いといっても、野太いとか、男っぽいとかいうのとは訳が違う。声楽では女性の声を音域によってソプラノ・メゾソプラノ・アルトと分類するが、乱菊の声はアルトに当たるだろう。彼女は妖艶で色っぽいという評価が下される容姿をしているが、彼女の声はその外観に見合ったものだと言えよう。しっとりと落ち着いたやや低めの声質は婀娜っぽさとそこはかとない愁いを兼ね備えていて、たいそう男好きがする声だ。まともに話している時は、という注釈がつくけれども。
 彼女はとても明るいムードメーカーで、友人と騒ぐのが大好きな性質だ。だから、執務中に何とかさぼろうと冬獅郎を丸め込む時とか、七緒などの仲の良い友人とおしゃべりに興じている時、居酒屋で飲み騒いでいる時などはひたすらに陽気で喧しく、色っぽさなどどこかに置き去ったかという印象である。しかし、それでもきゃんきゃんと耳障りには聞こえないのは、生来の声が低めのしっとりとした音質だからなのかもしれない。
 そんな彼女だが、実は有り得ないくらい高い声を出すことがある。そして、それを知っているのは、確実に冬獅郎だけだ。
 何故となれば、乱菊の高い声というのは閨におけるよがりなのだから。
 欲に溺れ、官能の虜になっている時の乱菊の声は、一オクターブは言い過ぎだとしても、半オクターブくらいは高音域に移行しているようなのだ。もちろん、男を煽る為に意図してやっているわけではない。意図してのことなら、最初から喘ぎ声は高くなるはずだが、彼女の場合、理性の消失と比例して徐々に高音域に移っていくのである。
 口接けを交わし、耳朶や首筋に舌を這わせているくらいの段階で乱菊が漏らす嬌声は平素の音域である。大人の色香の漂うしっとりとした喘ぎは、それはそれはそそられるものがある。他人に聞かせる気は毛頭ないが、女日照りの男ならこの声だけで数回は抜けるのではないかと、冬獅郎は密かに考えている。前戯が進み、胸や腰を愛撫し、膚に徒花を散らせる頃になると彼女の声はやや高音になる。色っぽさの中に愛らしさが滲む非常に可愛い声だ。更に段階が進み、挿入する頃には、彼女の声は最高音域に移行する。この時の声は喩えるなら仔猫である。小さな仔猫が飼い主に甘えるのにも似た、男の庇護欲と加虐心を同時に煽るよがり声を上げるのだ。
 女体の極上を味わいたいのなら前戯に手を抜かず相手を充分に悦ばせろ、というのは冬獅郎を男にした丸山花魁の教えである。乱菊を得て、冬獅郎は花魁の教授が全面的に正しかったことをしみじみと実感した。
 普段の乱菊からは絶対に聞くことが出来ない、めったやたらと愛らしいキャット・ヴォイスで名を呼ばれ、
「もう駄目…」
などと哀訴される。濡れそぼった裡は冬獅郎を淫蕩に銜え込んで、きゅうきゅうと有り得ないほどに締め付けて来る。乱菊の味わいはまさに極上、天下一品で、冬獅郎はいつも「たまらねえ」と歓喜に震えるのだ。
 更に、事が終わった後にも、密かな楽しみがある。冬獅郎が殊に丹念に腕によりをかけて愛撫して、乱菊が蕩けきったときにしか見ることが出来ないのだが、限界まで蕩けた彼女は童女のように稚くて頼りない甘えたな顔をするのである。いつもの姐さん肌で意地っ張りな彼女との落差は凄まじく、幼子のような舌足らずな口調で甘えられるともう何でもいうことを聞いてしまいたくなる。幸い、この時の彼女は完全に理性を手放しているので、冬獅郎に対してのお願いごとも、
「ぎゅっとして」
だの、
接吻キスして」
だののたわいないものばかりだ。これで乱菊にちょっとでも理性があり、いつものように着物だの、ブランド品などを強請られたりしようものなら、あっという間に冬獅郎は破産してしまうに違いない。それくらい、蕩けきった乱菊の事後の舌足らずな甘え声は破壊力がある可愛さがあった。
 このところ、忙しくてあまりゆったりと睦み合えなかった。あの甘えたな声もしばらく聞いていない。禁断症状に見舞われた冬獅郎は、今晩はあの顔をみてやるという決意の下、組み敷いた女に丁寧に優しく、乱菊に言わせるとねちっこい愛撫を施すのだった。

 五番隊主従は隊長格会議の帰りに甘味処に立ち寄って、あんみつを食べていた。
 ごくごくたまにではあるが、隊長格会議で山本は訓示を垂れることがある。この訓示。やたらと長い。生真面目な絢女ですら最後には眩暈を覚えるほどの長丁場で、訓示があった日は消耗しきった各隊の隊長格がよろよろと会議棟を出て行くのがパターンと化していた。この日の会議で山本は久方ぶりに訓示を行った。結果、疲労困憊した絢女と桃はいつものようにまっすぐに隊舎に戻る気力を失い、疲れた脳に糖分補給を名目に甘味処に立ち寄ったのである。
 二人が入った甘味処は、四人がけの席が五つほどの細長い店だった。席と席との間はベンチタイプの椅子の背もたれを兼ねた高い板で仕切られている為、壁際の席に座ってしまうと他の席からは死角になる造りだった。そして、絢女たちが注文を終えた直後、桃の背中側の席に四人連れの女性が着座した。聞くともなしに漏れ聞こえた話からすると、見回り中の新人の死神が休憩に立ち寄ったらしかった。彼女たちは若い娘らしく、恋愛談義やどこどこの隊の誰それがかっこいいだのといった男性の品定めめいた話題で盛り上がっていたのだが、不意に、その中の一人が、
「市丸隊長の声って、エロいんだよ」
と言い出して、絢女は思わずあんみつを掬っていた匙を中空で停止させてしまった。
「えー、何々?」
「どういうことっ!」
 詰め寄る友人たちにどこか得意そうな声音で、
「市丸隊長に耳もとで囁かれて、腰が砕けちゃった」
と言い出しっぺの少女が告げた。
「えええ! 耳もとっ!?」
「嘘ぉ。だいたい市丸隊長って絢女隊長一筋じゃない。何であんたなんかが耳もとで囁かれたりするの!」
 更に勢いよく詰め寄られ、
「別に色っぽいシチュエーションじゃないよう」
とその少女は慌てて否定した。
「この間、修練場に市丸隊長がいらしてね。しばらく私たちの修練を眺めていらしたの」
 どうやら、彼女たちは三番隊の新人のようだ。少女によると、その時、彼女は十五席に稽古を付けて貰っていたらしい。が、前触れなくやって来た隊長の姿に舞い上がった彼女はつい気を散らしてしまい、十五席の突きをもろに食らった上に足を滑らせて、修練場の壁に思いっきりぶつかったのだそうだ。それが丁度、ギンが立っていたすぐ脇の壁で、
「市丸隊長が倒れた私を起こして下さって、でね、『よそ見したらあかんよ。気ィ付けや』ってあの独特の訛りの声で…」
「きゃああ、羨ましい!」
「えー、嘘っ。いいなぁ!」
 姦しい隣席に対し、絢女は中空に匙を留めたまま完全に固まっていた。
「市丸隊長にそうやって囁かれた途端、なんかゾクゾクゾクって痺れちゃってねぇ。腰が砕けちゃったんだよう」
「ほんとに?」
「ほんともほんと。しばらく真剣に立ち上がれなかったもん。川島十席とか、秋吉十三席とかが市丸隊長の声は腰に来るって話していらしたの、ずっとぴんと来なかったんだけど、あの時、悟った。耳もとはヤバい。本気で腰が砕ける」
「そんなに?」
「うん。もうエロいとしか言いようがない声だったわ」
 ああ、なんて的確な表現だろうと、絢女は諦めた顔で匙を下ろした。困った顔で見つめている向かいの席の桃に、苦笑を浮かべて首を振って見せる。桃の目だけの問い掛けに、絢女は少女の言葉をあっさりと追認した。
「言う通りよ。色っぽいとか、艶っぽいとかそういうのより、あの娘の言っている方が的確ね。ギンの声は『エロい』の…」
 そして彼は、自分の声のそのエロさをきっちり認識しているはずだ。事実、あの声による言葉責めだけでイかされたことが、絢女にはある。艶のある男性の低音の声を「子宮に響く」などと表現することがあるが、ギンのそれはちょっと違う。大体、彼の声は男性としてはやや高めだ。低音とは言い難い。ギンの声音とあの独特の訛りは脳の快楽中枢をダイレクトに刺激する働きがあるのではないかと、絢女は疑っていた。しかも、性的に興奮してきた時に漏らす喘ぎがまた、取扱い要注意品だ。
 現世にはイケメン男性に口説かれるという状況を疑似体験できるように、男性声優の甘い囁きを納めたエロ・シチュエーションのドラマCDなるものが存在しているということを、以前に夜一が話しの種にしていた。もしも、ギンのドラマCDなどという代物が出来たとしたら、絢女と同様に声だけでイってしまう女性が続出することだろう。ついつい、甘いギンの口説き文句を脳内で甦らせてしまい赤面した絢女から、桃は決まり悪げにそっと視線を外した。

 絢女の声は独特だ。声質自体も耳に心地よい柔らかなメゾソプラノなのだが、彼女の声を独特にしているのは何といってもしゃべり方    発声方法にある。
 彼女の話し方は囁きに似ている。声量は抑え目で、吐息が混じったような甘い湿り気を帯びている。だが、一般人の囁き声と似て異なるのは、発音が明瞭で声量のわりによく通るというところだ。内緒話をする為に声を潜めて話した場合、ほとんどの者は息遣いが混じり込むせいでやや雑音混じりになる。だが、絢女の場合、擦過音を伴わない吐息を混ぜているふうな按配で聞き取る際に雑味がないところが、ひそひそ声と似て非なる点だ。それでいて、こく微量のビブラートが掛かっているようで、その甘くて優しい声自体が美しい音楽を奏でる楽器のようですらあった。もちろん、その声は絢女の魅力の一つに数え上げられている。瀞霊廷通信の「抱いてみたい女性死神」部門や「恋人にしたい女性死神」部門で絢女の名を挙げる男性死神から寄せられるコメントのほとんど全てに、
「あの声で自分の名前を囁かれてみたい」
といった内容が入るのもむべなるかなといったところだろう。
 職業歌手が技術として、声帯をやや閉鎖させ、息を洩らしながら歌うウィスパリングという歌唱法を用いることがある。絢女はどうやら、このウィスパリングを全くの無意識に日常会話で行っているようなのだ。
 彼女のその独特の囁くような声が最強の効果を発揮するのは閨である。
 ギンはそれをよく知っていた。
 閨でギンが愛撫を施すと、それでなくても吐息の混じったような甘い声音が、さらに切なげな震えを帯びる。吐息に混じる湿り気が重くなり、艶を増した声で名を呼ばれると、ギンは脳天が痺れたような感覚を覚える。欲望をびんびんに張り詰めさせる絢女の喘ぎは、強力な催淫剤だ。
 ギンは閨で大騒ぎをする女を好まない。一般に女が官能に溺れて漏らす喘ぎや、理性を手放して口走る痴語の類は男の欲を煽る燃料になるものである。確かに、ギンも性交の際に発せられる女の声自体は好きなのだ。ただ、初手から外聞もなく、「いい」だの「もっと」だのと吐き散らす女には興醒めする傾向があった。羞じらいがあり、露骨な痴語など決して口に出来ないような女を官能に溺れさせ、追い詰めて強請る言葉を吐き出させるのが楽しいのである。追い込むまでもない女は手っ取り早く欲を排泄するにはお手軽であるが、身も蓋もない言葉で表現すると、生きた便器でしかない。
 絢女を得る前、玄人、素人取り混ぜて数多くの女と交渉を持っていた頃、ギンは女を欲望を排出する為の道具としか見做していなかった。だが、その時代でさえ、単なる生きた便器の女と、子供がお気に入りの人形を愛でるように娯楽として性交を楽しむ為の女は厳然とした区別があった。
 絢女は道具に過ぎなかった夥しい女たちとは一線を画す、ギンが本気の恋情を捧げる相手である。だが、そのことを抜きにしても、絢女は非常にギン好みの反応を示す女だと言える。羞恥心が極めて強く、欲に塗れた嬌声を本能のままに上げることに強い抵抗を示す彼女は、ギンの巧みな愛撫を受けても頑なに声を押さえようとする。そんな強情な彼女が追い詰められ、限界までギンに感じた揚句に耐え切れずに迸らせる声は、ギンを最高に昂らせる。しかも、それがまた、震えを帯びた甘い吐息を纏ったウィスパーヴォイスだときている。彼女の声に夢中になるのは当然だ。
「ギン…、好き…好き…、ギン」
 今夜もギンの快楽を激しく揺さぶる声音で、絢女は甘く囁く。
「も…、許して…。…助けて、ギン」
と哀願を繰り返す。その囀りをもっと聞きたいばかりに、ギンがさらに焦らすことを、絢女は未だに理解出来ずにいた。

 子供の外見の頃に護廷十三隊の隊長に就任し、年長の部下に取り囲まれて過ごしていた頃の冬獅郎は常に出来るだけ低めた声で話していた。最初は少しでも威厳を出す為にかなり意図的に低い声を発声していたらしいが、そのうちにそれが癖になってしまい、意識しないでも低めて喋るようになったようだ。
 現在の冬獅郎は成長して、既に外見は大人である。声変わりも終わっている為、わざわざ低めなくても成人男性の声だから、通常は普通に地声で話している。だが、未だに習い性が抜けないのか、部下を説教する時などに無意識に必要以上に低音で発声をしてしまい、余計な威圧を与えることがあるので、乱菊は時々、彼を注意していた
 そんな冬獅郎であるが、どう考えても殊更に意識して低い声を出していると考えられる場面がある。
 褥で乱菊を抱く夜だ。
 乱菊の耳年増な知識によると、耳が性感帯になっていて弱いという女はかなり多いようだ。そして、乱菊自身もその例に漏れず、耳は弱い。自分が特別弱いのか、他の女もそうなのか、乱菊には判断できない。また、恋人の冬獅郎にしたって、女性経験は急成長時に苦しんでいた時に相手にしていた花魁を除いては、乱菊しか知らないので、やっぱり判定は出来ないらしい。だから、相対評価ではなく絶対評価で、冬獅郎は乱菊は殊更耳が弱いと認識しており、そしてその弱点を確実に突いてくるのだ。
 威圧する為ではなく、乱菊を官能の虜囚とする為に、冬獅郎は意図的に声を低めている。と乱菊は考えていた。低く、やや籠った声音で耳もとで、
「乱菊」
と流し込まれると、乱菊の総身にぞわぞわとした痺れが走り抜ける。それは風邪の引き始めの悪寒に似ているくせに、麻薬じみた中毒性を帯びていた。ずんと子宮の底が疼き始めて、乱菊はあっけなく囚われてしまうのだ。
 冬獅郎は地声にも充分な艶がある。いわゆるイケメン声というのか、外見に相応しい凛とした静謐さを感じる声だと乱菊は思っている。だが、閨で乱菊を墜とす為だけに発せられる低音の囁きには、艶めかしいまでの色香が感じられるのだ。甘いのだが、その中にどこか意地悪な厳しさを潜ませた声音は淫靡としか言いようがない。更に、意図的に耳朶を吐息で嬲りながら、冬獅郎はその淫靡に甘い低音の囁きで乱菊の名を呼ぶ。そればかりか、時に乱菊が感じているさまを事細かに実況してみせ、羞恥で彼女を追い詰めたりもする。
 閨の冬獅郎はか弱い兎を狩る獅子だ。そして、乱菊は獅子の前で逃げ場を失くした兎である。獅子の爪の前では為す術もなく引き裂かれ、骨の髄までしゃぶられるのが結末だ。
 時折、乱菊は想う。
 獅子は自らの咆哮が兎を腰砕けにさせることを知っているのだろう。喰らわれる身の兎は、だが、それに愉悦を覚えはしないだろうか。圧倒的な力の前に屈服することは、ある意味で快楽だ。
 獅子は唸る。
 捕えた女を逃さぬように。甘い痺れを伴う唸り声を耳に流し込んで、抵抗を封じ込める。
 脳髄を麻痺させる声という名の淫毒の廻りは早い。すぐに爪先まで毒に侵され、乱菊は果てしなく墜ちてゆく。
 子宮を揺さぶられ、指先に至るまでからめ捕られてしまう。
「愛している」
 そんな囁きなどなくても、とうの昔に乱菊は囚われているというのに。
 けれども、冬獅郎は囁く。がんじがらめに乱菊を縛り、逃げ場を奪い、追い詰める。決して、彼から離れられないように、彼だけを眸に映すように、彼女を頑丈な檻に閉じ込める。

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2015.12.14