Snow White Symphony


 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

 現世の著名な小説家であった川端康成の代表作『雪国』の冒頭の一文である。現世では名文として、広く人口に膾炙している。『雪国』を読んだことがないどころか、「川端康成? 誰、それ?」というほどの文学音痴でも聞いたことがあるくらいに有名なフレーズである。尸魂界ソウル・ソサエティでも、現世の小説が手に入る瀞霊廷ではかなり知られているだろう。
 穿界門を抜け、現世に降り立った絢女は、覚えず、この一節を脳裏に蘇らせた。
 尸魂界ソウル・ソサエティは煌々とした満月に照らされていたが、現世の空は厚い雲が垂れ込めており、粉雪が激しく舞っていた。雪国と呼ぶには不足だが、足元は積雪で白く薄化粧が施されていた。気温はかなり低い。氷点下前後かもしれない。
 ギンが穿界門を開いたのは、大胆にも街中であった。但し、大通りから入った細い路地裏だ。ビルとビルの細い隙間は表通りから死角になっており、二人は誰にも見咎められることなく現世に降り立ったのだ。
「日本…じゃない、わね」
 草木も眠る丑三つ時に穿界門を抜けたはずだが、表通りは賑やかだった。車のエンジン音、街を歩く人々の話声などが間近に聞こえるところからしても、宵の口といったところだろう。この寒さと尸魂界との時間のずれの大きさ、ビルの隙間から見える街のたたずまいからしてヨーロッパのどこかではないかと絢女は思った。
「ここ、どこ?」
 尋ねると、
独逸ドイツ伯林ベルリンや」
とギンは答えた。なるほど、確かにベルリンならば暮れ六つ
*1 くらいの時刻になるはずだ。推測が正しかったことは分かったが、何故、ベルリンなのだろう。もの問いたげにギンを見上げると、
「やっぱり、無茶苦茶冷えとるねぇ。絢女、寒ない?」
と絢女の訊きたいこととは別の言葉を吐き出した。
「ギンに言われた通り厚着して来たから平気よ」
と絢女は応じた。彼からはくどいくらいに暖かい格好をして出るように念を押されていた。だから、服装は万全の防寒対策を施してある。現世で手に入れたハイテク防寒素材の肌着、いわゆる「ババシャツ」の上に薄手だが上質のカシミア・ハイネックセータを着込み、更にアルパカのざっくりした厚手ニットのチュニックを重ねた。下はやはりハイテク防寒素材の厚手のタイツにベルベット製のレギンスで、内側が起毛素材になっているロングブーツを履いた。ブーツの靴底には現世から仕入れた靴用の使い捨てカイロを忍ばせてある。一番上には、昨年のクリスマスにギンからプレゼントされた紫がかった淡いグレーのオーバーコートを着用した。このコートは素材は最高級のカシミヤで、しかもふくらはぎまでのマキシ丈なので防寒性に優れている。実際、年が明けてから、真冬の小樽でギンとデートした時にも着用したが、氷点下の街でもさして寒さを感じない優秀なコートであった。首元には葡萄えび色の大判のストールを巻き、耳にはもこもこの耳当てイヤーマフまで装着している。尸魂界は暖冬傾向だったので、この服装は汗ばむくらいだったのだが、気温が0℃前後の夜のベルリンでは極めて適切だ。
「ほんなら、行こうか」
と大通りに向かおうとしたギンの革ジャンの袖を軽く握って留め、絢女は、
「どうしてわざわざ伯林なの?」
と尋ねた。
「今日、ここでしかあかんかって。どこに行くかはお楽しみ。黙って付いて来て」
と男は優しげに微笑んだ。

 表通りでタクシーを停め、乗り込む。ギンの告げた行き先に絢女は再び首を傾げた。
伯林ベルリン大聖堂?」
「うん」
 ギンから新暦師走二十日の夜、正確には日付の変わった二十一日の深夜に現世に降りたいから、可能であれば二十一日の午前中は非番にしておいて欲しいと告げられたのは、まだ新暦長月の頃だった。師走二十日は冬獅郎の誕生日で毎年恒例の十番隊花火大会の日でもある。花火大会が終わった後、出かけたいということだった。何故、わざわざ深夜に、と問うたところ、
「今年のクリスマス・プレゼントは物やのうて、思い出系にしよう思てな。花火大会の後で眠いかしれんけど、ボクの我儘に付き合うて。がっかりはさせへん自信があるから」
と彼は答えた。
 日にちに指定があることから、観劇とか、演奏会などの催しものだろうと推測していた。深夜に出るということは、夜更けに意味のある催しか、でなければ尸魂界とは時間のずれが大きい地域に出かけるのだろうとも考えていた。その中で絢女が好みそうな催しを、ギンは厳選したに違いない。だから、ここがベルリンと知って、国立歌劇場か、ベルリン・ドイツ歌劇場オペラか、あるいはベルリン交響楽団の本拠であるベルリン交響楽会館シンフォニーホールあたりが目的地だと予想していたのだ。
 大聖堂には面食らったが、単純に見学などではないはずである。単なる観光なら、日も時間も今日のこの刻限である必然性がないからだ。礼拝への参加をギンが計画するとも思えない。ヨーロッパでは大聖堂をクラシック音楽を主な対象として演奏会会場として使用する場合があるそうだ。ならば、小編成交響楽団のクリスマス公演でも開催されるのかもしれない。古い石造りの大聖堂は音の響きが独特で美しいという話を聞いたことがある。ヨーロッパの歴史的な聖堂での公演会など滅多に出来ない体験である。しかも、ギンがわざわざクリスマス・プレゼントとして選択したくらいなのだ。きっと世界トップレベルの室内管弦楽団チェンバー・オーケストラの公演ではなかろうかと想像して、絢女は期待に胸を膨らませた。
 ほどなく、タクシーは大聖堂前に到着した。大聖堂はライトアップされており、重厚にして荘厳な威容が夜闇に幻想的に浮かび上がっている。その外観の美しさに、絢女はまず見惚れた。
「綺麗…」
「さすが、歴史の重みのある建物はちゃうなァ」
とギンも感心した様子で深く頷いた。
 絢女の推理は概ね正しかったらしい。二人と同様に、タクシーや自家用車を降りた人々が次々に大聖堂へ向かっている。駅の方角からも大勢の人が歩いて来ている。今宵、大聖堂で催しものがあるのは間違いなさそうだ。
「室内管弦楽団の公演って推理したの。当たってる?」
「微妙に外れ。今日の公演はあれ」
とギンは大聖堂の雰囲気を壊さないように控えめに設置された案内の看板を指さした。
「アビゲイル・マッケンリー?」
 途端に絢女は歩みを止めて、棒立ちになった。
「嘘…。アビィの公演なの?」
 傍らの男を振り仰ぐと、ギンはしてやったりという表情で、上機嫌そうに笑っていた。
「絢女、大ファンやし、一遍、生でいうんもええかと思て」
「凄い…」
 よほどに驚いたのだろう。絢女は呆然としたまま、看板の文字を何度も読み返した。やがて、ゆっくりと息を吐いて、興奮を落ち着かせてから、もう一度、ギンを見上げた。
「ありがとう、ギン。嬉しい…。アビィのライブ、それも大聖堂でなんて…」
 アビゲイル・マッケンリーは定期的に世界ツアーを行っているから、一般的な音楽ホールでの公演コンサートは今までにもあったし、これから先もあるだろう。だが、大聖堂での公演コンサートなど、初めてではないだろうか。だとすると、これはかなり特別な催しで、チケットは確実に現世でいうところの「プラチナ・チケット」だったはずだ。
「チケットを取るの、大変だったでしょう?」
「うん、まぁ、正直、簡単やなかった。霊体で潜り込もうかとも思たんやけどな、そんなズルはアビィに失礼やし…」
「ええ。ありがとう。本当に嬉しい」
 絢女は繰り返すと、組んでいた彼の腕に身体全体でしがみついた。

 絢女がアビゲイル・マッケンリー(ファンにはアビィと呼ばれている)という現世の女性歌手を知ったのは、二年前の今と同じくクリスマスの季節だった。
 尤も、アビィは既に人気、実力とも世界的な著名人であったから、例えば、ビートルズを知っているとか、ホセ・カレーラスを知っているというのと同レベルで名前と顔は認識していた。彼女の音楽を初めてまともに聴いたのが二年前なのだ。
 その日はギンと非番が重なっていた。師走の上旬でまだ年末進行には余裕があったので、現世に降りて水族館と映画館をはしごするデートを楽しんだ。映画館を出た時、夕食にはまだ早く、お茶にするには少し遅い中途半端な時間だったので、繁華街の百貨店やファッション・ビルを回って時間を潰すことにした。そうして、とあるCDショップの前を通りかかった時、その歌声が絢女の耳に飛び込んで来たのだ。
 曲目は「さやかに星は煌めき」。最近では「O Holy Night」という英語題の方が通りがよいかもしれない。フランスの作曲家によるクリスマス・キャロルでこの時期の定番と言ってもよいくらいによく知られている。絢女も師走に現世の繁華街を歩いていて、よく耳にしたものである。
 絢女を捉えたのは曲ではなく、歌声だった。濁りを全く感じさせない透明感あふれる声質のソプラノ。情感に満ちた伸びやかな歌唱。一瞬で魅了されて、周囲の雑音も耳に届かないほど聴き惚れてしまった。
 立ち止まったまま動かない絢女を不審に思ったギンに肩を揺さぶられて、彼女は我に返った。そして、すぐに件のCDショップに入ると、店員に今流れている曲の情報を求めたのだ。
 そのCDショップでは店内BGMとして、発売間もない新譜や店員のお勧めアルバムを流していた。絢女に問われた店員は、即座に先月発売されたばかりのアビゲイル・マッケンリーの新譜であること、彼女が初めて制作したクリスマス・アルバムであることを説明した。店内のプレイヤーでヘッドフォンを使って改めて試聴した絢女は、即座にアビィのファンになり、出たばかりの新譜はもちろん、CDショップに在庫で置いてあった彼女の過去アルバムから、公演の模様を納めたライブDVDまでその場で根こそぎ買い込んだのだった。
 アビィはCDショップではクラシックの棚に並べられていることが多い。ただし、純粋なクラシック歌手ではない。オペラのアリアにロックのアレンジを施したり、あるいはポップスの名曲をまるでクラシックのようにフルオーケストラをバックに歌い上げてみたりと曲の分類には全く拘らず、自由に歌うことを至上としていた。姓から推察される通り、エジンバラ出身のスコットランド系イギリス人で、母親はオペラ歌手、父親はヴァイオリニストという音楽一家の生まれである。幼少の頃から母親の手ほどきでオペラに親しみ、長じてからは王立音楽院に入学、声楽科を優秀な成績で卒業した。オペラ界からの期待は高かったらしいが、学生時代からもっと音楽を自由に楽しみたいと考えていた彼女はオペラ歌手への道は進まず、とある大手レーベルと契約して音楽活動を行っていた。デビュー直後からイギリス国内ではそこそこに人気があったのだが、声楽の素養を生かしてイタリア語でオペラのアリア調に歌い上げたブリティッシュ・ロックの名曲カヴァーがイタリアとフランスで大ヒットしたことがきっかけとなり、一気にスターダムに駆け上がった、というのが大まかなプロフィールである。音楽性が優れていることは文句のつけようもないが、スコットランド系に多い燃えるような見事な赤毛に、北欧の針葉樹の森を思わせる深い碧の眸、モデルと称しても違和感のないほどの美貌とスタイルという見た目の良さも人気に火をつけたのではないかというのは、ギンの分析で、絢女もそれには全面的に賛成である。音楽抜きにしても、人を惹きつける華のある女性なのだ。
 CDショップでの衝撃の出会い以来、絢女はずっとアビィのファンである。アルバムは全て揃えて繰り返し聴いているし、ライブDVDも何度も見直している。アビィはおおよそ三、四年間隔で新譜を制作し、世界ツアーを行う。次のツアーの際には、どこの会場でもいいから生で彼女の歌を聞いてみたいとも思っていた。それが思いもかけずに早く、しかもベルリン大聖堂という特別な場所で叶ったのだ。気分が高揚しないわけがなかった。

 中に入ると、高いドーム天井と細かい彫刻を施された石柱にまず目が行った。建築様式からいうとややごった煮の傾向があるようで、外部からも中に入っても特徴的なドーム屋根はルネサンス様式で、内部の金彩を施された装飾類はバロック調である。石柱はギリシャ神殿を連想させる。ものものしい祭壇の後ろには基督キリストの受難が描かれたステンドグラスが飾られていた。
 ギンに案内された席は、一階に並んだ平土間席のなかでも祭壇にかなり近い前方だった。位置は祭壇の真正面。中央に通路があるが祭壇に向かって右手側の通路沿いとその隣がギンの持つチケットの示す席だ。祭壇がステージになるはずなので、かなり良い席である。思わずギンを仰ぎ見ると、彼は澄ました顔をしていた。
 平土間席には太い通路が十字に設けられている。入口から祭壇に向かう主通路と前方席と後方席を区切るように横に走る通路だ。その通路の交点にも低い小さな丸ステージが設置されていた。
「前がメインのステージで、あそこでも歌うんやったら、この通路をアビィは歩くで。握手してもらえるかもしれへんよ」
とギンは絢女を通路側に座らせた。
 絢女を喜ばせる為なら、ギンは手間も面倒も、金も厭わない。以前から知ってはいたが、改めてこんなに甘やかされていいのだろうかと、絢女は慄きさえ覚えた。感謝を込めて彼の手を握ると、微笑みながら握り返された。
 さすがに世界的な人気を誇る女性歌手というべきか、大聖堂は満員御礼である。聖堂に空調施設が備わっているのかは絢女も判断出来ないが、仮にあったとしてもこの天井が高く広い空間ではほとんど意味がない。底冷えがしている為、皆、外套を着用したままの姿で開演を待ちわびている。ギンの奥に座した品の良い老夫婦が手袋を外した手をしきりにこすり合わせているのに気付いて、絢女はバッグに入れていた予備の使い捨てカイロを進呈した。どうやら、ドイツでは使い捨てカイロは余り普及していないらしく、夫婦は怪訝そうにカイロを見つめて首を傾げている。ギンが淀みないドイツ語で使い方を説明して、袋を破って手渡すと、カイロがじわじわと暖かくなってゆくのが分かったのだろう、夫婦は破顔一笑した。
「ギン、独逸語が喋れるのね?」
「昔、アングロサクソン系の言語は勉強したんや。絢女かて、仏蘭西フランス語ならいけるやろ?」
「そうね。日常会話程度なら。でも、独逸語は全然よ。さっきのも『ありがとう』って言われたのしか分からなかったわ」
 ギンの隣の席の老夫婦はベルリン在住で、夫婦揃ってアビィの大ファンなのだそうだ。今宵の公演は夫から妻への早めのクリスマス・プレゼントということで、それを聞いたギンが、
「ボクもです。彼女にクリスマス・プレゼントで来たんです」
と告げると婦人の方が頻りと頷いた。使い捨てカイロのことを尋ねられたので、ギンは自分たちは観光がてら日本から来ていて、カイロは日本から持ち込んだものなのでベルリンで購入できる店は知らないのだと説明すると、婦人はがっかりした顔をした。どうやら、この便利商品がかなり気に入ったらしい。
 ギンが旅行者だと説明したせいか、老夫婦はベルリンの穴場の観光名所やお勧めの土産などの情報を教えてくれた。ギンの通訳で会話を弾ませているうちに、開演の時間になった。短い案内放送の後、壁や天井に取り付けられている古風なシャンデリア以外の照明が全て落とされ、聖堂の中は暗くなった。祭壇の周りを囲むように設置された席で準備を整えていたオーケストラとバックバンドが姿勢を正し、静かにピアノの演奏が始まった。
 同時に、聖堂内が淡いオレンジ色の照明に照らされ、スポットライトが後方を射した。
 席に座したまま絢女たちが身体を捻って振り返ると、聖堂の入口にアビィが立っていた。
 最初の曲は「ハッピー・クリスマス」だった。ジョン・レノンとオノ・ヨーコの共作によるクリスマスソングである。「イマジン」で争いのない世界を想像してごらん、と謳ったレノンらしいメッセージ性の強い詞に対して、メロディは温かくも柔らかい。既にスタンダードとなったこの曲を、ピアノとヴァイオリンだけのシンプルな伴奏で、アビィは歌い上げた。
 衣装はサンタクロースを意識したデザインのようだ。真っ白なファーで縁取りを施された真紅のドレスだ。チャイナ服に似たスタンドカラーの細身の袖なしで、右の脇に深いスリットが入っている為、美脚がちらちらと覗ける。腕は剥き出しではなくて、ドレスと同素材のアームカバー    というより本体のドレスから切り離された袖なのだろうか    に覆われている。年齢は既に四十代半ばに達しているはずだが、モデルでも通るスタイルの良さは健在で、美貌も衰えていない。
 歌い終えたアビィに拍手が降り注ぐ。その拍手を割るように、二曲めの前奏が入った。一転して、管楽器とシンセサイザーによる重低音が広いホールに反響し、空気が張りつめる。青と紫の照明が聖堂内を縦横に走る中、アビィは女王の風格をたたえて、ゆっくりと祭壇に向かって歩んだ。後方席と前方席の間にしつらえられた小ステージに辿り着くや、アビィは最高音でビブラートを効かせて、歌い始めた。プッチーニのオペラ、「蝶々夫人」のアリア「ある晴れた日に」をバロック・ロック調にアレンジした彼女の持ち歌の中でも特に人気の高い曲だ。三人の女性ダンサーが登場し、ステージの周りを囲むようにして、ビートの効いたリズムに合わせたダンスを披露する。
「この曲。生やとますます格好ええね」
 耳元で囁いたのは他の客の鑑賞の邪魔をしない配慮であって、他意がないことは理解わかっている。しかし、吐息が耳朶を震わせるほど間近で艶めいた声音を流し込むのはやめて貰えないだろうか。音楽に集中しているところで不意討ちで鼓膜を震わせた低音に、思わずぞくりと官能が刺激されてしまったのを気取られないように、絢女は大急ぎで笑みを繕った。
「そうね、伴奏がお腹に響く感じだわ」
「うん、来るわ、これ」
 言いながらギンは絢女の右手を取って、自らの指を絡ませた。掌から温もりが伝わり、絢女はじわりと幸福感に満たされた。同じ空間で大好きな人と大好きな歌手の歌を楽しんでいるこのひと時は、途方もない贅沢だ。
 絢女とギンは身を寄せ合うようにして上半身を半回転させて、アビィの方を見た。聖堂には大きめのモニターがいくつも吊るされていて、そこにも彼女の様子がアップで映されている。彼女は後方席に身体を向けて、歌っているので、絢女たちの席からは後姿しか見えない。生の後姿とモニターの正面の映像とに交互に視線を走らせながら、二曲目に聴き入っていると、アビィがステージを降りて再び、祭壇に向かって歩み始めた。歌いながらの移動し、時折、通路の途中で止まる。丁度、絢女の真横でアビィが止まった。マイク越しでない肉声が聞こえる距離に絢女は全身を緊張させて、聴き入った。
 二曲目の終わりと同時に祭壇に辿り着いたアビィはチャーミングに微笑むとまず英語、それからドイツ語で短いスピーチを行い、観客席に投げキッスをした。そのパフォーマンスにわぁ、と客席が盛り上がったのに合わせ、三曲目が始まった。
 クリスマス特別公演ということで、クリスマスや冬に関係したものが多めに選曲されているようだ。もちろん、ヒット曲も抜かりなく入っている。最初のメガ・ヒットとなったアリア調ブリティッシュ・ロックも歌われたし、アビィのきちんと基礎を学んだソプラノ歌手としての実力を堪能出来るシューベルトのアベ・マリアも選曲されていた。数曲ごとにアビィは衣装を変えるのだが、それがまた相当の速着替えだ。無論、長めの前奏やダンサーのパフォーマンスなどで場繋ぎする工夫は凝らしてあるのだが、舞台から引っ込んでも、観客をだれさせない絶妙なタイミングでがらりと衣装を違えて再登場して来るのは、視覚的にも素晴らしかった。
 公演の進行に比例して、客席の熱気も高まる。寒さはほとんど感じなかった。歌の間はアビィに集中している絢女だが、曲の終わりや間奏の時には、ギンを見た。単に絢女がファンだから付き合っているのではなく、ギンも公演を大いに楽しんでいるのだと、確認せずにはいられなかったのだ。絢女に感化された面は否定しきれないが、ギン自身もかなりアビィを買っていた。
「凄いなァ。ただ綺麗な歌を聴かせるだけやのうて、演出も凝っとるし」
とまた、ギンが絢女の耳元で囁いた。
「徹底して客を楽しませるんやね」
「ギンも楽しい?」
「もちろん。一人で見ても充分楽しい公演や思うけど、絢女と一緒になんやもん。最高や」
「私も」
と絢女は絡められた指に力を込めた。
 中盤でドレスを纏った女性ヴァイオリニストがステージに立ち、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を演奏し始めた。傍らに、アビィが立つ。
「あのヴァイオリニスト、アビィの妹やで」
「そうなの?」
 どこで調べたのか、ギンの披露した情報に改めて絢女はヴァイオリニストの顔を見直した。
 夕焼けを連想させる燃え立つような赤毛を誇示するかの如く長く伸ばしているアビィに対して、ヴァイオリニストは欧米人に多い色あいの濃い金髪でショートヘアにしている。それで、すぐに気が付かなかったが、確かに容姿は姉に似ていた。眸の深い碧の色合いも共通だ。アビィは上に兄、下に弟二人と妹がいる五人兄弟だというのをどこかで読んだ覚えがあった。
「名前はセアラ。姉の七光りやのうて、ヴァイオリンの国際大会でいくつも入賞しとる実力派らしいで」
 妹のソロ伴奏に合わせて、アビィが歌う。神を称える歌詞に彼女の透明感のある声がよく溶け合っている。セアラのヴァイオリンも、ギンが実力派というだけあってとても美しく、流麗な響きだ。ロックやポップス調の歌も素晴らしいが、アビィの美声はクラシックの曲が一番映えるように、絢女には思えた。
 ゲストに迎えたオペラ・テノール歌手、同郷のスコットランド出身のロック歌手とのデュエット曲も交えて、公演は進んでいった。最後の曲はドヴォルザークのオペラ「ルサルカ」のアリア、「月に寄せる歌」である。水の精霊、ルサルカが王子への恋心を白銀の月に寄せて歌う美しい曲だ。
 歌い終えたアビィが腰を深く折って、まるで女王に対してするようなお辞儀を観客に対して行った。割れんばかりの拍手が聖堂を満たした。やがて、拍手はアンコールを促す一定のリズムを帯びた。もちろん、絢女も、ギンも手拍子に唱和した。
 間もなく、アンコールに応えて、アビィが再登場した。公演を彩っていた照明は落とされ、ただ一筋のスポットライトだけが彼女を照らす。拍手を止めた観客は我知らず、息を止め、大聖堂の空間が凍えた静謐に満たされた。
 おもむろにアビィが息を吸い込んだ。
 そして、

    Silen night, Holy night,
     All is calm, All is bright
    Round yon Virgin Mother and Child
     Holy infant so tender and mild…

 伴奏はない。
 マイクさえも使用していない。
 冷えた空気を震わせて響くアビィの肉声だけが、旋律を紡ぎ出している。
 ぞくり、と絢女の全身に強い痺れが走った。それはギンとの情交の際に覚える絶頂エクスタシーに酷似した感覚であった。基督キリスト教の大聖堂で、讃美歌の詠唱を聞きながら不謹慎かもしれない。だが、あまりにも優れた音楽に感動を覚えると、脳内麻薬が分泌され官能の悦びをもたらすことを絢女は知った。

    Silent night, holy night
     Son of God, love's pure light
    Radiant beams from Thy holy face
     With the dawn of redeeming grace
    Jesus, Lord, at Thy birth
     Jesus, Lord, at Thy birth

 空白の時があった。
 全員がアビィの詠唱に圧倒され、真っ白になってしまったのだ。空白は数秒に渡った。いち早く立ち直った誰かがおそるおそる鳴らした、ぱち、という微かな拍手の音が静寂を破り、直後、歓声と拍手が交差した。観客は総立ちになって、アビゲイル・マッケンリーを讃えた。
 にっこりと笑顔を浮かべた彼女はただ一言、
「Thank you!」
と告げると、悠然と祭壇の間を降りて、通路を入口に向かって歩き始めた。通路沿いの観客の握手の求めに気軽に応じているのを目にし、ギンから肘で軽く突かれて、絢女も思い切って手を差し出して握手を求めてみた。
 おずおずと差し出した手にアビィは応じた。温かな体温と間近の笑みが眩しい。絢女が頭を下げ、握手に対する礼を述べると、アビィもどういたしましてという顔で軽く会釈してから絢女の手を離した。アビィが歩み去ってしまっても、絢女はしばらくぼんやりしていた。
 その手を、すっとギンが握った。
「間接握手」
 おどけた口調で音にされた言葉に、
「え?」
と見返すと、
「そないぽーっとされると妬けるんやけど?」
とギンは続けた。
「妬ける…?」
「うん」
「どうして? アビィは女性じゃない」
「絢女はアビィの大ファンやし、握手してもらえて感激なんはよう分かるで。そいでも、妬けてしまうん」
「…」
 反応を選び損ねて困惑していると、隣の老夫婦に挨拶された。束の間の隣人に軽く抱擁を交わして別れを告げ、絢女たちもベルリン大聖堂を出た。

 ベルリンの時刻は午後九時くらいだろうか。尸魂界は深夜だ。遅番の夜勤の者以外はぐっすりと眠り込んでいる時間帯のはずである。
「眠い?」
 ギンの問いに絢女は首を横に振った。初めて聴いたアビィのライブ公演コンサートに興奮していて、全く眠気を感じない。このまま瀞霊廷に戻っても眠れそうになかった。
「せやったら、せっかく独逸に来たんや。本場の麦酒ビールとソーセージでも食べてから帰る?」
「いいわね」
 駅の近くなら酒場があるだろうと、公演帰りの人々に混じって駅を目指す。
 男と腕を組み、寄り添い歩きながら、絢女は改めてギンに礼を述べた。
「今日は本当にありがとう。最高のクリスマス・プレゼントだったわ」
「堪能出来た?」
「もちろんよ。生はやっぱり迫力があるわね」
「せやね。特にアンコールの『きよしこの夜』は凄かったなァ。鳥肌が立ったで」
「私も。我慢したけど、感動して泣きそうだった」
「うん、あれは凄かった。人の歌を聞いて鳥肌が立ったんはひばりちゃん以来や」
「ひばりちゃん?」
「美空ひばり」
「ああ」
と絢女は頷いた。絢女が藍染の策略で失踪した頃、現世でたいそう人気だった女性歌手だ。
「ギン、あの人のファンなの?」
「うん、好きやった。絢女がおらんことなった後にもどんどん人気が高うなってな。今では昭和の伝説いうてもええ大歌手なんやで」
「伝説…てことは、もう亡くなったの?」
「うん。彼女が死んだ時、興行関係を仕切っとる貴族たちが色めき立って流魂街を捜索したんやけど、まだ見つかってへんのや。見つかったら、尸魂界でまた聴けるんやけどなァ」
 ギンは心底残念そうな顔をした。
「ギンがそんなに好きだった歌手なら、私も聴いてみたい」
「ほんま? なら、ボク、CD持ってるから今度一緒に聴こう」
「ええ」
 のんびりと歩いていたせいか、一緒に大聖堂を出て駅に向かっていたはずの人の群れから少し遅れた。川沿いの歩道を歩みながら、
「ねえ、ギン」
と絢女は表情を正して、ギンを見上げた。
「何?」
「私はちゃんと返せているのかしら?」
 端的な彼女の問いかけに、ギンは怪訝そうに眉を顰めた。
「ギンはいつも私の為に色々してくれるでしょ? 今日だって、チケット取るのがものすごく大変だったことくらい、現世に疎い私でもわかるわ」
「…」
「いつも、いつも、色々与えて貰って、大事にして貰って…。私はちゃんとギンに応えられている? ちゃんと返せているのかしら?」
「充分すぎるくらいに、返して貰とるよ」
 ギンは答えた。
「ボクの傍におってくれる。ボクを好きや、言うてくれる。ボクを見ていてくれる。ボクを照らしてくれる。…ボクのすることなんて、お釣りの方が多いくらいや」
「そんなこと…」
「それにな、絢女の為に色々するのは、結局は自分の為なん」
「どういうこと?」
「ボクが絢女になんかすると喜んでくれるやん。とびっきりの笑顔で『ありがとう』言うてくれるから…。その顔が見たくて、ただ、ボクが幸せになりとうしてやっとるだけなんや」
 ギンは立ち止まると、空を見上げた。
 降る雪がほんのわずかに強まっていた。頭上に広がる闇空から舞い落ちる氷の欠片が、街灯の光を受けてきらきらと煌めいている。無数の白い凍蝶が乱舞しているかのようだ。
 ゆっくりと、ギンは視線を絢女に戻した。
「なァ。接吻キスしてもええ?」
 絢女は返事の代わりに爪先立ち、両腕を上げて、彼の首に廻した。ギンの両手が絢女の背に回り、ぐっと腰を抱き込んだ。
 身体の距離がゼロになった。すぐに唇の距離もゼロになる。
 唇越しの体温が愛しかった。


*1 午後6~7時頃。

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2016.12.23