青い車で海に行こう
現世に比較的自由に遊びに行ける上位席官以上の死神の間で、最近、運転免許の取得がちょっとした流行りになっている。
もちろん、現世に国籍も戸籍も持たない死神が本物の運転免許を取れるわけがない。免許証そのものは技術開発局の偽造品である。そして、凝り性で偏執的なまでに完璧主義が多い技局のこと、偽造免許証は警察のコンピューターに照会でもかけない限り、偽物と見破られることなどあり得ない精巧な代物だった。単に免許証を作るだけなら技局の技術を持ってすれば、大した手間ではなかった。しかし、死神たちの運転免許証の所持には、当然のことながら、義骸に入り現世で運転を行うことが前提となる。
尸魂界には自動車というものはない。移動は徒歩かせいぜい牛馬。あるいは水路を利用した舟くらいだ。裕福な貴族や商人が馬車や輿を使う場合もあるが、基本は人力、または獣の力である。こと人荷の移動手段という点では、尸魂界は現世でいうところの産業革命以前の状態で留まっている。これは、尸魂界では石油や石炭といった化石燃料が産出しないことが要因にあった。自動車や機関車を作る技術があっても、動力源となる燃料が確保できないのだ。現世とつながりを持つ貴族の手によって尸魂界に持ち込まれる化石燃料は絶対量が少なく、瀞霊廷内の裕福な貴族と護廷十三隊によって独占されている。一般人は恩恵に与れない。従って、尸魂界の住人は流魂街出身であろうと、瀞霊廷で生まれた貴族であろうと、自動車の運転などまず経験がなかった。現世での自動車の普及に伴い、ここ百年ほどで亡くなって流魂街に流されて来た魂魄には運転経験がある者が多いが、住民の全体数からいくとまだ少数派だ。更にその中で強い霊力を持ち死神を志す者など滅多に現れない。よって、死神たちもほぼ100%が運転経験などないもので占められている。
そういった背景の下、自動車という機械を扱う技能もなく現世の交通法規にも無知な死神が運転を試みて事故など起こされては非常に厄介だ、と技術開発局は免許証の偽造提供に当たって、現世の免許取得プログラムを参考にした教習と学科試験を義務付けていた。不用意な事故による現世への過干渉防止という誰にも文句が付けられない建前で理論武装した上で、教習や試験の受験料で稼ごうという技局の思惑を乗せた格好だ。ちなみに、独占企業と言える技術開発局なので、教習料や学科試験料はかなり高額に設定されている。
運転免許証取得の仕組み自体はかなり以前からあったものだ。だが、これまで死神たちは積極的に免許を取得しようとはしなかった。というのも、死神が現世に遊びに行く場合、尸魂界にはない娯楽を求めて都会に降りることがほとんどだったからだ。義骸は一般人にも見える為、時間帯や場所に注意を払う必要があるとはいえ、穿界門を目的地近くで開錠すれば移動の必要はほとんどない。仮に移動するにしても、都会なら公共交通機関が充実しているからたいして不自由はない。寧ろ、自動車の方が渋滞や駐車場のことを考慮すると不便なくらいである。例外的に夏場に海水浴やダイビング、冬場にスキーやスノーボードなどを楽しむ目的で田舎に赴く場合もあるが、これだって目的地近くに降り立ち、一日そこで移動せずに遊ぶのだから、交通機関の不自由さは問題にならない。
また、私用ではなく任務の場合は目的地周辺から動くような事態はほとんど発生しない上、霊体だから瞬歩が使える。むろん、瞬歩では追いつかないくらい長距離の移動の必要が生じることが皆無とは言えないが、そんな時は、霊体が一般人には見えないことを逆手に、電車なり、バスなり、場合によってはトラックの荷台なりにただ乗りすれば良いのだ。更に、調査など義骸を使用する任務の場合は、必要に応じてタクシーを利用することが認められている。そんなこんなで、技局に高い金を払ってまでして免許を取得し、自ら運転をする必要性も利点も死神たちは感じていなかったのだ。
それなのに、ここに来て急に免許証の取得が流行しだしたのは、二つの理由があった。第一には現世の変化である。観光資源に恵まれたそこそこの田舎町が、温泉施設や小洒落た店、物産館などを整備して町興しに励み始めたのだ。その結果、いくつかの地方ではそれなりの成果を収め、都会とも、流魂街の風光明媚な場所とも異なる娯楽地区が出来上がった。そういった地区はむしろ、自家用車での訪問を前提としており、娯楽施設から次の娯楽施設までの移動は車でないと不便だった。尤も、それだけなら、タクシーを貸切にするという手段があった。上位席官なら、タクシーを一日貸切にしても困窮しない程度の給金は貰っているからだ。
免許の取得を流行させたのは、影響力の大きいとある隊長格カップルの功績が大きい。
具体的に言ってしまうと三番隊隊長の市丸ギンと五番隊隊長・日番谷絢女だ。まず、花好きの絢女が牡丹の花苗を欲しがっていることを察知したギンが、現世の一大牡丹生産地である島根県の大根島に連れて行ったことが始まりだった。その辺りには大きくて格の高い神社や趣のある城と城下町、大きな湖などがあり、古くから観光地として知られていたが、平時には田舎と呼んでも大声の異議は出ない程度の地方都市だ。公共交通機関は充実しているとは言い難かった。とはいえ、単に牡丹祭りが開催されているのを見物し、ついでに周辺も観光しようという目論見であれば、ギンも他の死神と同様にタクシーの貸切という選択をしただろう。しかし、その時は牡丹の苗の入手という目的があった。タクシーの狭い座席の隙間やトランクに苗を収納するとなると、絢女は苗選びに気を遣うだろう。彼女に遠慮なく好きな苗を存分に選ばせたいという配慮から、ギンは現世でのレンタカーの利用を決めた。そして、運転技術教習プログラムをこなし、学科試験も受験して、技局謹製の偽造免許証を手に入れたのだ。この時点までは、レンタカーは純粋に花苗入手という目的遂行に適しているという理由での選択に過ぎなかった。
ところが、絢女がドライブを大変に気に入ったのだ。瞬歩のように瞬間的な移動ではなく、徒歩よりもずっと速い速度で流れていく窓外の景色や、誰の耳目も気にする必要のない二人だけの車内というのがまず新鮮だった。また、公共交通機関と異なり、時刻を気にする必要がないので寄り道も自由気儘だ。それから、自動車という尸魂界にない機械を操作する恋人の姿が、やたらと格好良く見えたというのもあった。絢女はレンタカーでの移動そのものがとても楽しかったらしく、ギンにまたドライブに連れて行って欲しいとせがんだのだ。もちろん、絢女に強請られて、ギンに否はない。請われるままに、幾度も彼女とドライブデートを重ねた結果、それが瀞霊廷通信編集部の目に留まり、二人に対するインタビューを含む特集記事に繋がった。
絢女は羞恥心が強く人前で男とべたべたすることを嫌がる割には、本人は全くの無自覚で盛大な惚気を投下する傾向がある。取材の際にもその癖がいかんなく発揮され、運転中のギンがいかに優しく格好いいかを滔々と誘導されるままに語った。一方のギンだが、こちらは完全に確信犯で、レンタカーの車内は二人きりのある意味で密室だから心構えと気配り次第でいくらでもロマンチックなシチュエーションに持ち込めることを、実体験付きで説明してみせた。
瀞霊廷通信の特集記事への反響は大きく、上位席官同士のカップル限定であるが、ドライブデートへの関心が一気に高まった。そうして、これまでほとんど需要のなかった(偽造)運転免許の取得が一気に加速したのである。教習代金で稼ごうという技術開発局の目論見がようやく実を結んだのだ。
《冬獅郎と乱菊の場合》
護廷では隊長と副隊長が同時に非番を取るのは好ましくない、という不文律がある。隊を統括する責任者が不在になるからである。この為、どの隊でもツートップが揃って休めるのは、元旦くらいのものである。十番隊の場合、副隊長である乱菊の誕生日前後にも、冬獅郎と乱菊は非番を取っているが、これは例外と言ってよい。常日頃の冬獅郎の勤勉にして有能な勤務ぶりと隊を挙げてツートップの恋を応援する土壌があってこそ認められた特別事例なのだ。
だから、ドライブデートは無理だと、乱菊は諦めていた。瀞霊廷通信で特集が組まれるよりも前から絢女の土産話で興味を持っていたが、実現は無理だと強請ることさえしなかった。
「今日は絶対に定時で上がるからな。お前もさぼらずにきりきり働け」
と言い渡されたのは執務室に入って直ぐのことだった。
「今日も会合か何かあるんですか?」
ここ数日、冬獅郎は春水や十四郎と約束しているとか、総隊長に呼ばれた、あるいは接待があるということで、定時に上がっては外出していた。おかげで、夕飯も一緒に食べられず、乱菊は寂しい思いをしていたのだ。だから、今日もその類かと考えたのだが、
「お前も一緒に現世に降りるんだよ。だから、きっちり働け」
「はい?」
目を瞠った乱菊に、冬獅郎は一枚のカード状の紙片を差し出した。
「…これ?」
技術開発局が発行した偽造免許証だった。
「え? 何で?」
「お前も行きたかったんだろう? ドライブデート」
「…」
ドライブデートに出掛けた絢女から土産を手渡される度に、乱菊がどことなく羨ましそうにしているのに冬獅郎は気が付いていた。そこへ来て、瀞霊廷通信の特集である。流行りものに目がない彼女は、すぐに、
「あたしも行きたい」
と強請ってくると踏んでいた。しかし、いっこうに話題にしようとしない乱菊に不審を覚え、その理由を突き詰めて悟った。ドライブデートは時間が掛かる。同時に非番が取れない同じ隊の隊長・副隊長なら無理だと、乱菊は諦めているのだと。乱菊の誕生日なら、毎年の恒例で周囲の理解もあるから心置きなく同時非番を取れる。しかし、誕生日はかなり先だ。それまでお預けというのも、こうもドライブが盛り上がっている中、かわいそうだと冬獅郎は思った。色々と思案した結果、現世のきらびやかな夜景を見るドライブならば、定時後に現世に降りても楽しめるのではないかと考えついたのだ。
そんな訳で、ここ数日、会合と偽っては定時で上がり、冬獅郎は技術開発局に通って、偽造免許証を取得したのである。乱菊の驚いた顔からすると目論見は気付かれていなかったようだ。彼女を吃驚させることに成功して、冬獅郎は大いに満足だった。
「え? 隊長。でも、こんなに早く…」
「筆記もシミュレーションも一発合格だったからな」
現世では自動車免許証取得にはきっちりとしたカリキュラムがある。教習所の構内の運転、仮免許を取得してからの公道での教習。交通法規の講義などである。技術や知識を取得しなければ先に進めないのは当然だが、技術や知識が一定レベルに達していても決まった時間分だけ講習を受けなければならない。だが、偽造免許証取得にはそのような縛りはない。筆記試験も運転シミュレーションも技術開発局が定めた水準に達していたら、即座に免許証を作成して貰えるのだ。シミュレーションは人通りも車通りも激しく一方通行や進入禁止が多い都会、カーブやアップダウンの激しい田舎道、現世で「酷道」と揶揄される狭くて見通しも路面も悪い山道、夜中や西日の強い夕刻などの様々な状況設定でいくつかのパターンをこなす決まりなので、その分の時間はどうしても必要であるが、冬獅郎はその悉くを一度で決めたので、免許取得に掛かったのべ時間はギンと並んで最短だった。
「飯を食って、夜の街をドライブする。嫌か?」
「でも、それじゃ、車の返却が…」
「都会には二十四時間営業のレンタカーショップなんてもんがあるんだよ」
乱菊が懸念した通り、夜景ドライブなどすれば当然、深夜になる。普通なら営業時間外になってしまうのだが、二十四時間営業なら深夜だろうと返却出来るのだ。勿論、そういった便利な店は都会にしかないが、そもそも夜景の美しい場所も都会なのだから不都合はない。
「どうする? 行くのか、行かないのか?」
「行きます! 行きたいです!」
乱菊は慌てて大声で返答した。
義骸は霊力のない一般人でも視認出来る為、穿界門を開く場所には注意を払う必要がある。しかし、どんな大都会の繁華街であろうと人目につかない場所というのは存在しているものである。例えば、立体駐車場の上階の階段というのもそれだ。下層であればエレベーターを待つのがまどろっこしいと階段で昇降する利用者も多いが、上層階になるほど、皆、エレベーターを使う。だから、直ぐ近くに人の気配はあっても、階段は人目につかないのである。
九階建ての立体駐車場の最上階の階段室には案の定、誰もいなかった。見咎められることなく現世に降りた冬獅郎と乱菊は何食わぬ顔で建物から出ると駐車場の直ぐ近くのレンタカーショップを訪れた。
初夏のこの時期は現世でも、尸魂界でも日が長い。定時の仕事終わりで降りても、現世はまだ充分に明るかった。
手続きを済ませた冬獅郎たちの前にレンタカーショップのスタッフが示したのはダークブルーのマツダ・アクセラだった。
「なんだか、かっこいい色の車ですね」
メタリックで黒っぽい青は男性的で、冬獅郎に似合っていると乱菊は思った。冬獅郎は薄く笑っただけで特に感想は述べず、運転席でミラーの角度や座面位置を微調整していた。
「じゃ、行くぞ」
とレンタカーショップを出たものの最初の目的地にはものの十分ほどで着いてしまった。何はともあれ、まずは食事である。二人が降りたのは神戸で、冬獅郎は日本三大中華街のひとつ南京町近くのコインパーキングに車を止めた。
派手な中華門から中華街に入り、目に付いたレストランに入った。運転手でアルコールを飲めない冬獅郎はノンアルコールビールを、乱菊は杏子酒のソーダ割を注文し、かちりとグラスを合わせて乾杯する。
「お前は飲んでいいんだから、紹興酒でも注文すれば良かったのに」
と冬獅郎は笑ったが、
「一人で呑んでもつまらないもの」
と乱菊は首を振った。彼がノンアルコールビールなので、乱菊も軽い果実酒にしたのだ。
「それに酔っ払って車に乗ったら、悪酔いしそうだし」
「ああ、その危険はあるか」
酒豪の乱菊であるが、乗用車という現世の乗り物には慣れていない。車酔いの危険性を高めるアルコールは控えて置いた方が無難だろう。
中華料理店が軒を連ねて競い合っている街だけに、下調べもなしに適当に入った店だったが、料理のレベルは高くとても美味しかった。海老マヨ、香港風の焼きそば、青菜と烏賊の塩味の炒め物、フカヒレスープ、焼き小篭包など、二人分の食事にしてはがっつりした量を平らげ、二人は満足げに食後の熱い烏龍茶を流し込んだ。
「ふう、美味しかった」
窓から通りを見ると、外は漸く黄昏の薄暗さを纏い始めていた。
「じゃ、行くか?」
「はい」
二人はパーキングに停めたレンタカーに戻った。
これまで、バスかたまにタクシーに乗車するくらいしか、車の経験がないので、客観的な評価は難しいが、冬獅郎はかなり運転が上手いのではないか、と乱菊は感じた。食事をとった南京町は神戸一の繁華街・三宮の直ぐ近くに位置していた。南京町を離れた車は三宮の繁華街をそつなく抜けて、山に向かって坂道を上っていた。人通りも車通りも多い道の右折タイミングの的確さ、信号などで停車・発車する際の加減速の滑らかさは、本日初めて実車を運転したとは信じられないくらい手慣れていた。
(ほんっとに冬獅郎さんってば、何でも出来ちゃうのね)
乱菊はこっそりと横目で冬獅郎を見遣った。いつも傍にいるから、顔は飽きるほど見慣れている。けれども、こんなふうに横顔をまじまじと眺めたのは初めてかもしれない。大体、会話を交わす時は相対しているし、並んで歩いている時だって、顔は相手の方に向けているからだ。しかし、今の冬獅郎は運転中だ。耳は乱菊の話に注意を払っていても、顔と視線は前方の道路や計器、バックミラーに向いている。見慣れている冬獅郎の見慣れない横顔から、乱菊は目が離せなかった。
絢女は運転中のギンは三割増しで格好良く見えるなどと惚気ていた。その時は、ふーんとしか思わなかったが、
(分かる。うん、理解した。冬獅郎さんも三割増しで格好良いもん)
乱菊は親友の気持ちを今になって追認したのだった。
神戸は坂の街だ。六甲山系の山々が海岸線に迫っているから、平地がほとんどない。海から内陸に向かって進むと直ぐに坂道になる。
日は暮れ始めると早い。闇が濃くなるのに抗うように、街は纏う光を強くする。街灯が灯り、民家の窓から照明の光が漏れ、ビルの屋上では電飾広告がネオンの輝きを放つ。道行く車も光を照射しながら、進んでいく。
どうやら、山道に入ったらしい。民家が途切れがちになり、代わりに緑が闇に沈むようになった。片側は木々が茂り、もう片側はガードレールで防護した崖という道は傾斜がきつい上に、うねうねとカーブが続く。街中と異なり、道路は暗い。だが、ぐんと大きく蛇行したカーブを曲がりきった途端、乱菊は思わず、
「わあぁ!」
と歓声を上げた。谷が開け、その向こうに宝石を散りばめたような帯が広がっていたのだ。先程抜けて来た麓の街が、光の装飾を纏って、夜を彩っていた。
「綺麗ですねぇ」
フロントガラスいっぱいにパノラマで広がる夜景にうっとりと感嘆を零すと、
「頂上の展望台からの眺めはもっと凄いらしいぞ」
と冬獅郎は薄い笑みを浮かべた。
九十九折りの山道を上り詰めて、辿り着いたのは六甲ガーデンテラスである。もともと、ここには十国展望台があったのだが老朽化により閉鎖。その跡地に出来たのがガーデンテラスで、有料・無料の展望台と土産物屋、カフェ、レストランなどを備えた公園型のレジャー施設である。有料の展望台は「六甲枝垂れ」といい、その名の通り枝垂れ桜や柳を連想させる枝を枝垂れさせた樹木のような形状をしている。現世の著名な建築デザイナーの作品で、本体は正しく巨樹の幹のように下部が太く上部に行くほど細くなった円筒状の檜の板張りの塔である。その塔をドームが覆っている。塔を覆うドームは六角形を基本とした檜の枠により構成されており、葉脈状の網目のようにすかすかと隙間が空いているので、建物の外からでも内部の塔はくっきりと確認できるようになっている。そして、ドームは夜間にはLEDライトによりライトアップされていた。
「凄い。きれいですねぇ」
淡い色合いにライトアップされたドームが闇の中で浮かび上がるさまは幻想的で、乱菊は目を瞠って感嘆している。早速、中に入って夜景を楽しむ。外から見ると明るく見えたライトは内部から見るとそれほど光は強くなく、網目状のフレーム越しに麓の神戸の街の夜景が見える。
「昼の眺望を楽しむなら、この網目越しってのも面白いだろうが、純粋に夜景を楽しむにはちょっと邪魔だよな」
「だから、無料の展望台もあるんじゃないですか? あたしはここからの眺めも幻想的な感じがして好きですよ」
そんなふうに乱菊は言っていたが、無料の展望台である「見晴らしの塔」から街を一望して、わぁ、と歓声を上げた。西洋の街並みを意識して建造されたガーデンテラスの建物の向こうに広がる夜景は息を呑むほど美しかった。麓の神戸の街はポートアイランドや阪神高速道路の高架の光、ビルの灯りなどがくっきりと見て取れる。その向こうに暗く大阪湾が横たわり、その更に向こう側には対岸の大阪から遠く和歌山まで光の帯が広がっている。
はしゃぐ乱菊を促して、テラス内のカフェに誘う。雰囲気の良いカフェで夜景を眺めながら、珈琲タイムと洒落込む為である。無論、乱菊は大喜びで、人気メニューだというティラミスと紅茶のセットを頼んで、ご機嫌そうににこにこと笑っている。冬獅郎はと言えば、アイスカフェオーレを注文し、窓外の夜景と窓に映る女の子供のように無邪気な笑顔に満足を深い満足を覚えていた。
六甲山を降りた冬獅郎は、国道四十三号線の上を走る阪神高速の三号神戸線に乗った。阪神高速はいくつかの路線に複雑に枝分かれしているが、大阪で環状線に入ればくるりと回って再び神戸に戻れるのだ。せっかくなので、高架の道路を走って明るい夜の街を間近で楽しませてやろうという冬獅郎なりのサービス精神である。
霊体でなら、少し高いところから街並みを見下ろすというのは幾度も経験していたが、車に乗って、刻々と流れるように変わっていく景色を眺めるのは、また新鮮で乱菊は子供のように眸をキラキラさせて窓外の景色を眺めている。
冬獅郎は思いついてラジオを点けてみた。丁度、音楽がかかっているFM放送に合っていたので、そのままチャンネルを変えずに流し続ける。どうやら、リクエストされた思い出の一曲を聴かせる番組らしく、落ち着いた声音の男性DJがリスナーから寄せられた「お便り」を読みあげてはリクエスト曲を流すことを繰り返していた。
『妻と結婚する前、よく二人でドライブに行きました。彼女はスピッツのファンでドライブ中はよくスピッツのCDを掛けていました。当時の彼女は紺色のホンダ・ライフに乗っていて、この曲を聴く度に俺たちみたいだと思ったものです。 リクエストはスピッツで「青い車」』
流れて来た軽快なメロディラインの曲に、乱菊がふふっと笑みを零した。
「どうした?」
「この車も『青い車』だなって思って」
「ああ、なるほど」
五号線に入った車は助手席側に大阪湾を望んでいる。港に停泊している船の灯りがよく見える。この曲が気に入ったらしく、繰り返されるサビの部分だけ、乱菊は小さな声で歌っていた。
「お前の誕生日には、この歌の通りに海に行くか? また、青い車を借りて」
冬獅郎の提案に、
「はい」
と乱菊は大輪の笑顔を浮かべた。
《イヅルと桃の場合》
機密書類を片手に五番隊を訪れると、美貌の正副隊長はおやつの休憩中だった。
「わ、丁度良かった、吉良くん。一緒にお茶にしない?」
屈託なく桃がイヅルを手招いた。狙っておやつ時に訪問しましたという素振りは全く見せず、イヅルは遠慮がちに、
「いいのかい?」
と尋ねる。
「もちろん」
と桃と絢女が同時に頷き、
「今日はね、お姉ちゃんがチーズケーキを焼いて来てくれたの。吉良くん、運がいいよ」
と桃が満面の笑みで続けた。
ツートップが揃って甘いもの好きな女性であること、隊首である絢女が料理上手で菓子類もお手の物であることから、五番隊のおやつ休憩は充実していると、隊長格の間では専らの評判だった。だから、五番隊執務室に用事がある者は、可能なかぎり昼八つ前後を狙って訪れる。高確率で美味しいお茶と茶請けにありつけるからである。因みに、おやつ休憩の充実度では十番隊も引けを取らないのであるが、こちらはツートップが恋人同士だから、中てられるのは勘弁してほしいとか、遠慮しようという心理が働くのか五番隊ほどの人気はない。
現世の一流パティシエにも引けを取らないと噂される腕前の絢女が手ずから焼いたチーズケーキと、薫り高い珈琲がソファに座したイヅルに供された。五番隊は珈琲や茶などの嗜好飲料にも凝っているから、珈琲もインスタントではなくきちんとドリップしたものである。
「さすがは絢女隊長ですね。すごくおいしいです」
控えめな甘さにしっかりとしたチーズの風味が生きている。添えられたラズベリーのコンポートの甘酸っぱさもチーズによく合っていた。
「そういえば、吉良くん。瀞霊廷通信の特集、読んだ?」
と珈琲カップを片手に、桃が身を乗り出した。
「ああ、うん」
イヅルが頷くと、
「イヅルくんは免許を取らないの?」
と絢女が柔らかな笑顔で尋ねた。
「実は取ってみようかと思っています。市丸隊長にも勧められたし…、何かの役に立つかもしれませんし」
本当は桃を誘いたい。ギンからもそういう意味で勧められたと分かっている。けれども、一歩踏み出す勇気が持てないのは、あまりにも片想いの日々が長すぎたからだろう。
「ほんと、吉良くん!」
途端に桃が目を輝かせた。その喜色を称えた表情を訝しんでいると、
「それなら、イヅルくん。良かったら、桃ちゃんをドライブに連れて行ってくれないかしら?」
と絢女が切り出した。
「は、はひ?」
思わず声が裏返った上に噛んでしまって、イヅルは奇妙な発音を返した。絢女はにこにこと微笑しながら、
「あの特集記事の前から、私の話を聞いて、桃ちゃん、ドライブに興味津々だったみたいなの」
「はぁ…」
「一緒に連れて行ってあげられたらいいんだけど、私と桃ちゃんじゃ非番が重ねられないし…」
明文化されて禁じられているわけではないが、隊長と副隊長が同時に非番を取ることは余り好ましくないとされている。二人は実の姉妹のように仲が良いが、休暇を共に愉しむということは難しいのだ。
「一緒に非番が取れたって、あたしが付いていったらお邪魔虫だもん」
と桃は眉を下げた。確かに、絢女とギンの休暇にくっついて一緒に行動するのは、邪魔をしているようで気が引けるだろう。はっきり言って、ギンが怖い。
「シロちゃんには乱菊さんがいるから、もう頼めないし…」
幼馴染で兄弟同然の冬獅郎なら桃としても頼みやすかったのだが、彼に歴とした恋人が出来た以上、自重せざるを得なかった。冬獅郎と乱菊に付いていくのも、乱菊を差し置いて冬獅郎を連れ出すのも、どちらも気が引けるのだ。
「だから、イヅルくんが免許を取るなら連れてってもらえないかなって、図々しいけどちょっと期待してたの。阿散井くんたちと出掛ける時に一緒に連れてってもらえると嬉しいな」
「もちろん、構わないよ。…というか、阿散井くんと?」
何が悲しくて、男同士でドライブに出かけなければならないのだ。内心疑問に思って、イヅルは苦笑した。
「多分、阿散井くんも免許を取るでしょ? 朽木さんもドライブに行ってみたいって言っていたし。そしたら、一緒に行けるかなって」
恋次が片想いのイヅルが少しでも進展するようにと気を遣っていることと、ルキアとデートの際に白哉に対する隠れ蓑として利用している節があって、最近、現世に遊びに行く際、イヅルと桃は恋次やルキアと行動を共にする、いわゆるWデート形態を取ることが多い。
恋次に言わせると、イヅルは桃を自然な形で誘える。白哉も恋次と二人きりではないということでルキアの現世行きにすんなりと許可を出す。死神仲間に同年代の友人がほとんどいなかったルキアは桃と仲良くなれて喜んでいる。と一石二鳥どころか、三鳥くらいの利点があるらしい。基本、四人で行動しつつも、折に触れて二人きりになれる機会を作れるので、イヅルにも利はあり、乗っている。恋愛関係激ニブの桃だけが未だに意図を悟っていないが、ここでこのような発言が出るあたり、Wデートは桃にとっても当たり前になりつつあるらしい。
「頑張って、出来るだけ早く、免許を取るよ」
「本当? ありがとう、楽しみにしているね」
と絢女の援護射撃を受けたイヅルは、桃とのドライブデートの約束を取り付けることに成功したのだった。
当初予定では、恋次・ルキア組とのWデートの予定だった。
しかし、恋次が諸般の事情から免許の取得が出来ず、ルキアと喧嘩してしまったので、予定を合わせて非番を取った日、イヅルと桃は二人だけで現世に降りた。桃は、
「朽木さんたち、来られなくて残念だったね。早く仲直りするといいけど」
と恋次たちを案じていたが、イヅルと二人というのを気にしている様子はない。彼女にとって、イヅルは霊術院の同期で親友という認識なので、ギンが語っていた「レンタカーの車内は二人きりのある意味で密室」という点について、何一つ思うところもないのだろう。男として意識されていないことを悲しむべきか、信頼されていると喜ぶべきかと問われると、多少、前者に比重が傾いてしまうのは仕方がないだろう。
今回のドライブルートは、
「大サービスや」
と言いながら、ギンが作ってくれた。尸魂界では見ることの出来ない海をパノラマで展望しながら走れ、そこそこ観光も出来るということで、愛媛県の今治市でレンタカーを借りて、しまなみ海道を走るというコースである。途中、生口島で降りて、平山郁夫美術館と耕山寺を観光し、昼食に瀬戸内の郷土料理である蛸飯を食べる。そこから、尾道まで行って市内観光し、乗り捨てサービスを利用してかの地でレンタカーを返却して尸魂界に戻るという計画だ。
まずは今治市内中心部でレンタカーを借りる。技術開発局謹製の偽造運転免許証を提示し、借り受けたのは鮮やかな青色のトヨタ・プリウスだった。簡単な操作説明を受け、イヅルが運転席に、桃が助手席に乗り込んだ。ナビを操作して最初の目的地をインプットするイヅルを、桃は感心した様子で眺めていた。
「最初はどこに行くの?」
「タオル美術館。何でも今治は質のいいタオルで全国的に有名なんだって。お土産に可愛いタオルを買って行くと喜ばれるって、これは市丸隊長情報」
「現世のタオルはふかふかで気持ちがいいものね!」
と桃も声を弾ませた。
タオル美術館はタオルの制作過程を見られる工場やよく整備された綺麗な庭園もあり、なかなかに楽しめた。絢女や乱菊、ルキアへの土産にと、桃は某北欧産の有名キャラクターが織り出された可愛らしいタオルを何種類も買い込んでほくほくしていた。タオルは重さの割にかさばるのだが、
「そっか、車だとお土産を車に置いておけるから楽ちんなんだね」
「車を返した後がちょっと大変だけど」
と言いつつ、ギンの忠告に従って大型のキャリーケースを持参し、車に積んでいるので帰りには土産物をそこに詰め込んで運べばよいのである。
タオル美術館を出て、今治バイパスからしまなみ海道に入った。
「わああ、凄い。海だよ、海!」
しまなみ海道は四国と本州の間に点在する島と島を橋で結んだ高速道路だ。従って、橋の上は左右が海で、その先に島々が見えることになる。現世の人間にはそれほど珍しくない景色なのだろうが、尸魂界では海を見ることが出来ないので、桃はパノラマの海に大喜びしている。
(さすがは市丸隊長)
とイヅルはこのコースを練ってくれたギンに密かに感謝した。ギンのメモに依ると、しまなみ海道に入ってすぐのSAが眺めが良いので寄るべしということだった。実際、入ってみると、来島海峡大橋と海峡を行き交う船、瀬戸内の島々が見えて、なかなかに見晴らしが良いところだった。
「吉良くん、なんだか変わったソフトクリームが売っているよ」
桃がソフトクリームショップを指さす。食べたいらしい。イヅルは特産のみかんを使用したみかんソフトクリームと一番人気だという伯方の塩ソフトクリームを一つずつ購入して、展望台で海を眺めながら食べることにした。
「イヅルくん。塩ソフト、ちょっとちょうだい」
「うん、どうぞ」
桃は嬉しそうに、塩ソフトをスプーンで掬った。
「もっとしょっぱいかと思ったけど、ちゃんと甘いんだね」
「うん、この微妙な塩味がいいよね」
「みかんソフトも食べてみて」
「ありがとう、いただくよ」
みかんソフトクリームを味見しながら、イヅルは、
「そういえば、雛森くんの今日の服って、柑橘色だね」
と何気なく呟いた。
桃は白地にレモン色とオレンジ色で大きめの花柄がプリントされたワンピースに生成りレースの丈の短いカーディガンを羽織っていた。桃色系の服や着物を好んでいる彼女にしては珍しい色合いだ。
「前に乱菊さんとお買い物に行った時に選んで貰ったの。自分ではなかなか手に取らない色だったけど、試着してみたら気に入っちゃって」
「うん、とても似合っているよ」
「そう? ありがとう。今日は柑橘類が特産のところを走るから、丁度良かったかな」
「ああ、そうかも」
桃は駐車場に停めてあるレンタカーに視線を投げた。
「車はあの海の色だね」
嬉しそうに、桃は青いプリウスと瀬戸内の海を見比べる。その笑顔を見ていると、ドライブデートにはまった絢女やギンの心境にしみじみと共感を覚えるイヅルだった。
《恋次とルキアの場合》
レンタカーショップの店員が、ぺたりと車体の前後にマグネットの若葉マークを貼り付けた。借り受けた車は明るい水色の日産マーチである。丸っこい形が可愛いとルキアが決めた車種である
諸々の注意事項の説明を受け、ルキアが運転席に乗り込んだ。店員が座席やバックミラーの調整の方法を説明しているが、丁寧に過ぎる気がするのは恋次の僻みである。
「恋次、ぼけっとするな。さっさと乗らぬか」
ルキアの口調がいつもに増して横柄なのは、絶対に気のせいではないと内心でぼやきながら、恋次は助手席に乗り込んだ。マーチはコンパクトカーに分類されているだけに恋次には窮屈だった。座席の位置を目一杯後ろにずらし、背もたれを倒して、漸く足や頭を縮こませなくてもすむようになった。ひときわ小柄なルキアはアクセルやブレーキをしっかりと踏み込めるように座席をかなり前方にずらしている。そのせいで、隣同士とはとても言い難いほどに、二人の座面位置には差が生じてしまった。
自分よりもずいぶん後ろに下がってしまった恋次を、ルキアは何か言いたげにちろりと横目で見遣ったが、結局、何も言わなかった。店員に教わりながら、カーナビを操作して最初の目的地を入力し終えると、ルキアはシフトレバーをドライブに入れ、おそるおそるアクセルを踏み込んだ。
「いってらっしゃい、お気を付けて」
ルキアは会釈だけを返した。
どうして、恋次ではなくルキアが運転しているのかというと、彼に免許証を与えることを技術開発局が拒んだからである。
というのも、まず彼は学科試験が最低だった。覚えられなかったのか、覚えようとしなかったのか、現世の交通法規がまともに頭に入っていなかったのだ。また、運転シミュレーション結果も技術開発局の眉を顰めさせるに足るものだった。車も人通りも多い街中の運転ならば、多少荒いが許容範囲であった。しかし、田舎道に入った途端、彼はむやみに飛ばすのだ。車通りの割によく整備されて走りやすい道だと、速度制限を全く無視して、一般道にもかかわらず100km/時前後で平気でかっ飛ばす。むろん、シミュレーション画面の中で温和しく走行している車両は、追い越し禁止を無視というより、それ以前に認識せずにがんがん追い抜きである。警察車両と遭遇した場合、あるいは所謂ネズミ取りに引っ掛かった場合、確実に一発免停を食らう行為だ。
繰り返すが、死神の運転免許証は偽造品だ。見た目は本物と寸分違わない。従って、レンタカーショップなどで提示する分には何も問題は起こらない。譬え、相手が警察だったとしても、検問などで単に見せるだけで済むのなら偽物だと見破られることなどないと、技局は自信を持っている。だが、警察のデータベースに照会をかけられるのは、番号が出鱈目だけに拙いのだ。
そういった場合には、記憶置換やら何やらの様々な後始末が必要になる。むろん、技術開発局は死神に後始末の請求を行うし、その際は「ぼる」というのも大前提である。しかし、ぼったくりを前提としていてもなお、面倒なものは面倒なのだ。何事もなく戻って来てくれるのなら、それに越したことはない。
だから、恋次のような運転は非常に困るのである。しかも、彼の場合、全身に入れた刺青がまた厄介だ。例えば、交通安全キャンペーン中とか、飲酒運転取り締まり強化月間などで、運悪く検問に引っ掛かったとして、他の者ならば免許証を提示すればすんなりと解放されるだろう。しかし、恋次は刺青のせいでヤクザ関係と判断され、拘束されたり、詳細に調査される可能性が高いのだ。
リスクが高すぎるという理由で、技局は彼には免許証を偽造しないと決めた。現世ドライブを楽しみにしていたルキアはむくれ、大喧嘩になった。挙句、売り言葉に買い言葉でルキアが免許証取得に挑戦し、あっさりと取得してしまったのだから、恋次の面目は丸潰れである。最も、ルキアの場合、交通法規は真面目に勉強して覚えてしまったし、運転も常識的なものだったのだから当然である。唯一問題となったのは見た目が十代半ばという点だ。現世では十八歳から免許の取得が可能であることから、書面上では年齢を十八歳として免許取りたてということにした。童顔で実年齢より幼く見える人間はいくらでもいるから、ルキアもそのタイプだと押し通すことにしたのだ。その代わり、運転には若葉マークが必須となる。
車内はとても静かだった。
レンタカーショップを出た直後は初めての運転で緊張していて、恋次の様子を気に掛ける余裕などなかった。しばらく走って、漸く現実の走行に慣れたところで、ルキアは車内に満ちる沈黙に気が付いた。運転中なので、恋次の表情を確認することが出来ない。けれども、バックミラーの端に僅かに映る彼は、つまらなそうに外を眺めているようだった。
(怒っているのか?)
ルキアの胸がしくしくと鈍く痛んだ。瀞霊廷通信の特集記事を読み、絢女からも直接色々と話を聞いて、ルキアは自分も恋次とドライブしてみたいと思ったのだ。話を持ち掛けると恋次も乗り気で、こんなことになるとはまるで思いもよらずにどこに行こうと、色々と計画を練った。それだけに、彼が免許証を取得できないと知って、とてもがっかりしたのは仕方がないだろう。けれども、技術開発局の言い分は真っ当で、ルキアは怒りをぶつけることが出来なかった。そのせいで、矛先が恋次に向かってしまったのだ。
それでも、恋次を対象外とした理由が刺青だけだったなら、ルキアもまだ諦めがついた。色々と周囲に揶揄されても彼なりの譲れないこだわりがあってあの刺青をいれていることを、ルキアは承知しているからだ。霊体の刺青は今更どうしようもないし、本来の使用目的を鑑みれば義骸の刺青だって軽々しく消せないのも理解している。しかし、拒否の理由に運転の荒さと学科試験が挙げられていたのが、ルキアの癇に障った。それらは本人の努力と心掛け次第でどうにでもなるものだったからだ。苛立ち紛れに恋次を強く責めてしまい、彼は彼で依怙地だから反駁して、結果が今の状況だ。
レンタカーを借りて、運転を始めるまでは、ルキアもむきになっていたところがある。
けれど、我に返って、現在の状況を顧みて、彼女は愕然とした。
何故、現世でドライブに行きたいと思ったのか?
瀞霊廷通信の記事や、絢女の話がとても魅力的で、自分も恋次と楽しくて幸せな時間を満喫したいと思ったから。
では、今、自分は楽しいのか? 恋次は楽しんでいるように見えるか?
恋次は怒っている。不機嫌でつまらなそうだ。私も楽しくはない。
自問自答して、ルキアは唇を噛んだ。
まるで、本末転倒だ。恋次と喧嘩するために免許が欲しかったのではない。ドライブは目的ではなく手段だったはずなのに、ルキアの意地っ張りが災いして、気が付いたら目的にすり替わっていたことに気が付いたのだ。
謝ろう、とルキアは思った。そして、車を返して、尸魂界に戻ろう。デートはいつものように瀞霊廷の甘味処でいい。でなければ、レンタカーショップの近くを散歩するのでもいい。そう考えているのに、言葉を発せず、Uターンも出来ずに、ルキアはナビに従って惰性で運転を続けていた。
一言も言葉を交わさないまま走り続け、幾つめかの赤信号で停止した時、
「音楽、かけてもいいか?」
不意に恋次が口にした。
「え?」
「乱菊さんと絢女隊長が、ドライブ中に聴くといいからってCDを何枚かくれたんだ…」
ミラーごしに見る恋次はきまり悪そうな表情をしていたが、不機嫌そうには見えなかった。おそるおそるルキアが振り返ると、恋次は数枚のディスクをルキアに見せていた。
「ルキアも気に入りそうな曲を選んだって聞いたし、せっかくだから聴いてみようぜ」
「ああ…」
恋次はディスクの1枚を取り出して、CD挿入口に差し込んだ。魔法のようにディスクが中に引き込まれていく。
「おい、青だぞ」
恋次に言われて、慌ててルキアはアクセルを踏んだ。車が発信するのと同時にスピーカーから軽快な音楽が響いた。前奏のギターとベースに続いて、男性ボーカルが流れた。
「どうだ?」
問われて、
「ああ…。いい曲だな…」
「これは乱菊さんセレクトだ。ドライブにはこういう曲がいいんだって言ってた」
確かに一理ありそうだ。明るいアップテンポの曲だが、煩さ過ぎず、メロディラインは柔らかい。ボーカルの男性の声質も穏やかでぬくもりのある耳に心地よいものだ。
今なら、素直に謝れそうな気がした。唇を開きかけたルキアだったが、恋次の方が早かった。
「悪かったな」
「…」
飛び出し損ねた言葉が空気になって、ルキアの肺に飲み込まれた。
「悪かった」
繰り返す恋次の声に、鼻の奥がつんとするのを感じた。
「私も…」
「あ?」
「意地を張って、その…、済まなかった…」
恋次が身を乗り出してきて、ルキアの頭をくしゃっと髪を混ぜるように撫でた。
ルキアが、
「お前が免許を取れないなら、私が運転すればいいのだろう!」
と吐き捨てて、自ら技局に出向いた後、くさっていた恋次を諫めたのは冬獅郎だ。
「朽木妹は他の誰でもない、おまえとドライブに行きたいっつったんだろうが」
と告げられて、恋次は詰まった。
「松本も運転してみたいって言い出して、朽木妹と一緒に技局に通っているんだ。様子見ついでにお前の運転シミュレーションの記録も見せて貰ったんだが、ありゃあ、ひでぇな。免許証を作れないって技局が言い出すはずだ」
「…」
「現世では刺青はやばい裏稼業の記号みたいになっているところがあるから、問題視する技局の言い分も分からないでもねえ。しかし、それだけなら長袖の服とか、額にバンダナでも巻くとか誤魔化しようはいくらでもある。大体、ごく普通に運転してりゃ、検問だのネズミ取りだのには滅多なことじゃ引っ掛かるもんでもないしな。技局が却下した本当のところは刺青じゃなくて阿散井の運転にあったって、本当は分かっているんだろう?」
「だって、意味分かんねえですよ。そりゃ、人通りの多い街中でぶっ飛ばしたらいけないのは分かります。けど、人通りも車もろくに走っちゃいないのにとろとろ走るのなんて意味ないでしょう? 渡る人もいねえのに赤信号だからって停まるとか、全然、訳が分かんねぇっスよ」
「そうやって、これくらい大丈夫ってみんなが勝手に決まりを破った結果、大惨事になるんだろうが。忘れているかもしれないが、義骸に入った状態で事故起こして義骸が損傷したら、霊体も無事じゃすまねえぞ。まして、てめえが原因の事故で現世の人間を巻き込んで死なせてでもみろ。責めを負うのは阿散井だけじゃない。上司の朽木や同乗していた朽木妹も処罰の対象になるはずだ」
反論の余地のない正論。黙り込んだ恋次の前に、冬獅郎はばさりと幾葉かの写真の束を置いた。
「何…スか?」
一番上の写真には、原形を留めないくらいにぐしゃぐしゃに潰れた乗用車が写っていた。
「50km制限の国道を100km近い速度でぶっ飛ばして、カーブを曲がり切れずにガードレールを突き破って崖下に転落。運転手、同乗者とも即死」
冬獅郎はぺらりと次の写真をめくった。ワゴン車と軽用車の衝突事故の写真で、軽乗用車は側面が大きくへこんだ上に横転しており、ワゴン車も前が潰れていた。
「これも制限速度から30km以上超過で飛ばしていたワゴン車がハンドル操作を誤って対向車線に飛び出した事故だ。たまたま対向車線を走っていた何の落ち度もない軽乗用車が巻き込まれた。軽乗用車を運転していた若い母親と運転席側の後部座席のチャイルドシートに座っていた四歳の男の子が死亡。助手席側の後部座席にいた二歳の女の子は命は助かったが足に重い障害が残った」
次も、その次の写真も悲惨な事故の写真だった。血塗れの遺体の写真すらあった。項垂れた恋次に、
「反省したところで、今更、技局が決定を覆すとは思えねえ。だから、阿散井と朽木妹がドライブするなら、これからも運転は朽木がすることになるだろうな。けどな、現世じゃ女が運転するのなんて普通だぞ? せめて朽木が安心して運転できるようにサポートしてやれ」
と冬獅郎は締めくくった。
更に翌日の朝には乱菊からCDを渡された。車内で気まずくなった時にかけてみるといいという助言付きだった。そして、同じ日の昼に今度は絢女から、CDとルキアが好みそうな娯楽施設や可愛らしい雑貨を販売している土産物屋・洒落たカフェなどの情報がびっしりと書き込まれたルートマップを渡されて、恋次は事態の深刻さを悟った。
「ルキア…。怒ってますか?」
冬獅郎や乱菊、絢女が介入しようと考えるほどに、ルキアは怒り心頭なのかという問いかけに、
「そうね。今は怒って意地になっているわね」
「…」
「むきになって免許を取って、意地になってドライブに出かけて、こんなはずじゃなかったって落ち込んでしまうのが目に見えているから心配なの。ルキアちゃんは、ただ、恋次くんとドライブを楽しみたかっただけなのよ。それなのに、今のルキアちゃんは目的を見失ってしまっているわ。軌道修正出来るかどうかは、恋次くんの頑張りにかかっているの。ルキアちゃんが『楽しかった』って私たちに報告できるようにしてあげて」
と絢女は微笑んだ。
恋次の話を聞いて、ルキアは小さく息を吐いた。
「ずいぶんと心配をかけてしまったのだな」
「だな。…ほんとに悪かった。運転は出来ねえけど、俺の出来ることは何でもするから」
ルキアは緩く首を振った。恋次が眉を下げたのがルームミラーに映ったので、ルキアは少し考えてから言った。
「だったら、おいしいパフェが食べたい。水族館の近くでパフェを食べさせる店はないか?」
最初の目的地は水族館だ。尸魂界では見ることのできない海沿いの道を少し走ってから、水族館に辿り着く予定だった。
「おう。絢女隊長から頂いたルートマップによさそうな店がいっぱい載ってる」
恋次は破顔した。
カーブを曲がった先に、海が開けた。雲一つない晴天なので、海は青く輝いている。運転席側にきらきらと水面を反射させながら、水色のマーチは軽快な音楽に包まれて快調に走った。