誕生日の風景
テレビニュースの画面に出てきた日付を見て、乱菊の誕生日が近いことを思い出した。
毎年、誕生日が近くなると、
「もうすぐ、誕生日なんですよ〜」
と、満面の笑みでアピールしてくる彼女が今年に限って何も言ってこないから、うっかり失念するところだった。気付いて良かった、と内心で安堵しながら、冬獅郎は流しで洗いものをする乱菊に声をかけた。
「おい、松本」
「はぁい、たいちょ、何ですかぁ?」
ゆるい口調で、乱菊は顔だけを冬獅郎に向けた。
「おまえ、何が欲しいんだ?」
「は?」
「誕生日。近いだろ?」
冬獅郎の言葉に、乱菊の手が止まった。
「覚えていて下さったんですか?」
「毎年毎年、耳にたこが出来るぐらい言われて、覚えてない方がどうかしてるぞ」
「今年は何も言ってないですよ」
「珍しいこともあるもんだと、俺も思ってたとこだ」
と、冬獅郎は応じた。
「で? 何が欲しいんだ?」
彼女のことだから、現世の服が欲しいの、アクセサリーが欲しいのと、ここぞとばかりに言ってくるかと思いきや、
「ん〜、品物はいいです。代わりにデートしません?」
「あ?」
「だからっ、修練を一日お休みして、どこかに行きたいです」
「どこか、ってどこだよ? 空座町からはそんな離れられねぇぞ」
「分かってますよぉ」
と、反論しながら、乱菊は、修練を休むことを咎められなかったことに、内心ほっとしていた。
日番谷冬獅郎は霊力も高く、斬拳走鬼のすべてに長け、おまけに事務処理能力も高い。外見以外は隊長職に相応しい風格を持っていたが、乱菊に言わせると、「緩める」ということを知らない。生真面目な性格だったことや、生来の優しさが他人に分かりにくい素っ気ない態度が基本だったこと、理由は分からなかったが他人を信用しきれない面があったことから、隊長に就いた当初は一人で何もかも抱え込もうとし、副官である乱菊を苛立たせたものである。そうして苛立ちながら共にあるうち、乱菊は悟ったのだ。手を抜くとか、気を緩めるということを知らない少年隊長が頑張り過ぎないように手綱を取るのが、彼の副官としての一番の仕事だと。
「松本、仕事しろ!」
という冬獅郎の怒鳴り声は、今や十番隊名物と化しており、「松本乱菊はさぼり魔」という認識は他隊に広がっている。しかし、少なくとも、十番隊士と隊長格でそれを肯定する者はいない。
確かに、乱菊は事務処理が好きではなかった。だが、先代の隊長・副隊長が複数体の中級大虚に襲われて揃って殉職した十番隊で、急遽、三席から昇進して副隊長となり、隊長不在の隊を切り盛りしてきた乱菊の力量は、部下たちも他隊隊長たちも認めている。好きではないことと、能力がないことは同義ではないのだ。第一、乱菊が本当にさぼり魔であれば、部下たちはついてこない。彼女は本当に必要な仕事とそうでない仕事を的確に見分け、必要な仕事は決して手を抜かない。手抜きの許されるような仕事について、真面目すぎる隊首を緩める為の道具に使うのだ。だから、冬獅郎の怒鳴り声が聞こえる時は、隊士たちはむしろ、
「副隊長、頑張って下さい!」
と、内心で乱菊にエールを送っているのである。
現世に来て早々、
襲来した破面は
遊びに来たわけではないのだ。だから、修練に集中するのはいい。だが、彼の悪い癖で必死になりすぎている、と乱菊は感じていた。冬獅郎が乱菊の誕生日のことを持ち出してくれたのは、休みを提案するいい機会だった。
多分、心の底では、冬獅郎自身で自覚があったのだろう。彼は乱菊が拍子抜けするほどあっさり、「デート」を了承した。破面の襲来などの非常事態が発生した時にすぐに対処できる範囲内の場所で行きたいところを決めておけ、と冬獅郎は乱菊に言った。
九月二十九日。
乱菊と冬獅郎は、空座町の隣の市にある美術館に来ていた。
プレゼントの品はいらないと乱菊は言っていたが、どうせ、繁華街での買い物に付き合わされるのだろうと、冬獅郎は腹を括っていた。たが、乱菊の希望の場所は美術館で、思わず、
「いいのか、本当に。そんな所で?」
と、聞き返してしまった。
「ひどいです。芸術なんて、あたしに無縁だって言うんですか?」
「いや、そういうわけじゃ…」
後半はむにゃむにゃとごまかした上司を見ながら、乱菊はうふふと声に出して笑った。
「美術館なんて、大人のデート、って感じじゃないですか?」
「だから、何で、『デート』なんだよ?」
冬獅郎にとっては著しく不本意なのだが、乱菊と歩いていると現世では姉弟にしか見られない。現世の人間にどう見られようと構わないし、姉弟でも別によいのだが、乱菊を保護者扱いするのだけは勘弁して欲しかった。第一、「デート」とのたまいながら、彼女がいつの間にか用意した前売り券が大人一枚に小学生一枚だったのは、どういう了見なのだろう。
それでも、
「隊長とデート」
と、にこにこしながら、明らかに気合を入れておしゃれをしている乱菊を見ると、まあいいか、と思えてきた。
美術館で開催中の企画展は「エミール・ガレとアール・ヌーヴォーのガラス工芸」というもので、冬獅郎はなるほどと思った。見回り中にポスターを見かけて、「松本が好きそうだ」と思った記憶があったのだ。彼女に限らず、女性は一般にそうなのかもしれないが、乱菊も綺麗なものや可愛いものがとても好きだった。
照明を落とした落ち着いた展示場内に入ると、まずあったのは大きめの壷だった。乳白色のガラスに明るい緑と蘇芳色でひなげしの文様を浮かべてある。
「きれい…」
乱菊がつぶやく。
蔦の浮き出た深い柿色のガラスを蜻蛉を模した金属台の上に収め、上部にも蜻蛉を止まらせたランプ。薔薇の蕾が浮き彫りになった三日月形の杯。踊る全裸の女性の幻想的なパネル。繊細で美しい作品をうっとりと、乱菊は鑑賞している。彼女はひたすら作品に集中していたが、冬獅郎は作品そのものもさることながら技法の解説に非常に興味を示した。
「あー、すげえな。これ、削って作るのか」
「はい?」
「あ、いや。こんなふうに立体的に模様を浮かび上がらせるのって、どうするんだと思ったんだが、『アップリケ』っつー技法らしいな」
「ええと…。ああ、熱いうちに別のガラスを貼って、さらに削り出すんですねぇ。削ってるうちに割れたりとかしないのかしら?」
「けっこう、失敗しそうだよな。この一個の完成品作るまでに、何個失敗したんだ?」
「だめですよ、そういうことを考えちゃ」
笑って、次の作品が収められているケースに移った乱菊は、そこにあった小さな香水壜に目を輝かせた。
「たいちょ、これ」
「ん?」
「隊長の瞳の色にそっくり」
翡翠色のガラスにやや濃い緑と淡いオレンジで野生種のおだまきを描いたものだった。
「もし」
「あぁ?」
「もし、ここに飾ってあるうちからどれでもひとつだけ貰えるとしたら、あたし、これにします」
一瞬、冬獅郎は言葉に詰まった。他に華やかで大きな作品がたくさんあるのに、彼の瞳と同じ色の小壜が欲しいと言った副官が、妙に可愛く見えたからだ。
「心配すんな。誰もやるなんて言わねーから」
と、突っ込んだタイミングはワンテンポずれていた。
「だから、もしも、って言ったじゃないですか」
「あー、分かった、分かった」
何故だか気恥ずかしくて、彼は乱菊を置いて、次のコーナーに移動した。一方、乱菊は名残惜しそうに、翡翠色の香水壜にはりついたままだ。
チューリップの文様の花瓶、ガレと同時代のドーム兄弟のきのこ型のランプ、と流していた冬獅郎の足が不意に止まった。
蒼い、大きめの壷に、心惹かれたのである。
その壷は、解説によれば、現在はヨーロッパの美術館の収蔵品だが、かつてはロシアの貴族のコレクションだったらしい。全体は「サリッシュール」という金属酸化物の粉末をガラス表面にまぶし付ける技法で、複雑な諧調の蒼が表現されている。正面には楕円形で乳白色の部分があり、そこには、あらかじめ作っておいた雌型にガラスを吹き込む「スフレ」という技法による春の女神が現われていた。
壷の前から動けずにいると、小壜からようやく離れた乱菊が追いついてきた。
「たいちょ、ひどいです。デートなのに置いてくなんて」
むう、と頬を膨らませて拗ねた顔を作る乱菊を見遣って、冬獅郎は表面で平静を保ちながら、内心で思いっきり狼狽していた。乱菊の顔を見た途端、自分がどうしてこの壷に惹かれたのかが分かったからだ。
顔立ちといい、髪形といい、春の女神が乱菊にそっくりなのである。その上、全体の蒼のうち、上部の色が淡い部分は乱菊の瞳とよく似た色をしている。
もし、どれでもひとつだけ貰えるとしたら…。
乱菊のたとえ話が頭を
(俺は多分、この壷を抱えて帰るんだろうなぁ…)
壷を抱えて町を歩く己の姿がリアルに想像できてしまい、冬獅郎はがっくりとうなだれた。そんな冬獅郎を乱菊が不思議そうに見ている。
「どうかしました?」
「別に」
芸のない返答をして、蒼い壷から離れた。
展示会場から明るい廊下に出ると、グッズ売り場があった。乱菊が図録を買おうとしたのを、
「それくらい買ってやる」
と冬獅郎は制して、財布を出した。受け取った乱菊が、
「ありがとうございます」
と、丁寧に礼を述べるのを聞いて、売り子のおばさんが二人をぶしつけに眺める。考えていることは分かる。乱菊と冬獅郎の関係を訝っているのだ。大人の乱菊が見た目は小学生の冬獅郎に敬語を使い、冬獅郎が横柄にしているのが不思議なのだろう。
美術館を出た時、昼を少しまわっていた。
「隊長、お昼はどうします?」
「誕生日なんだから、松本の食いたいもんでいいぞ」
「え、と、じゃあ、この近くにおいしいオムライスやさんがあるみたいなので、そこでいいですか?」
「おう」
乱菊はガイドブックで見て、おいしそうだなぁと思っていたオムライス専門店を提案した。
「で、どこにあるんだ、その店」
と、冬獅郎が乱菊を見上げ、
「…確か、コンビニがあって、そこから路地を入ったところだったと…」
と、乱菊は地図にあったコンビニを探そうと、首を巡らせた。
直後、
「あっ!」
短い叫びを残し、冬獅郎の横から乱菊が消えた。
冬獅郎の目が消えた乱菊を捉えたのと、
「きゃあぁぁ!」
という女の絶叫が上がったのと、耳障りな音を立てて、トラックが急停止したのとはほぼ同時だった。
「松本!」
冬獅郎は乱菊に駆け寄った。彼女は車道の端に尻餅をついていた。
「たい、ちょう…」
乱菊がのろのろと顔を上げて、冬獅郎を見た途端、彼女の腕の中で大きな泣き声がした。
「香奈ちゃん!」
若い女が血相を変えて走ってくる。
トラックの運転席から飛び降りてきた男が、
「だ、大丈夫ですか! 怪我は!」
と、真っ青な顔で近づいてくる。
「香奈ちゃん、香奈子!」
「ママぁ!」
女が乱菊の腕から、ひったくるように娘を抱き取り、ぎゅうと抱きしめた。
冬獅郎が差し出した手につかまり、乱菊はゆっくりと立ち上がる。青ざめた顔の運転手に、乱菊はいつものように懐っこい笑顔を浮かべてみせた。
「大丈夫です。あたしは尻餅ついただけですし、その子もびっくりしただけですよ」
とにっこりすると、青ざめていた男の顔がみるみる紅潮した。夢中で娘を抱きしめていた若い母親が、はっと顔を上げて乱菊を見た。
「ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます!」
「気にしなくていいですよ、あたしも怪我してないし」
と、乱菊はまだぐすぐすと泣いている幼い少女の頭を撫でた。
「かなちゃん、だっけ? 道路に飛び出したら危ないよ」
少女は手に抱えていたボールを落としてしまい、転げたボールを追って、車道に飛び出したのだ。迫るトラックと、車道で立ちすくむ少女に気付いた乱菊がとっさに走りより、子供を抱えて下がった。目の前、数十センチの位置を急ブレーキの間に合わなかったトラックが走りぬけ、乱菊は風圧で体を支えられずに尻餅をついてしまったのだ。
乱菊と少女に怪我がないことを確認した運転手は安堵した様子で車に戻り、走り去った。
娘を救われた母親は、何度も何度も礼と謝罪を繰り返した後、家に帰っていった。親子は見送る乱菊を振り返っては頭を下げ、また振り返っては頭を下げしながら遠ざかっていき、路地を曲がって見えなくなった。
途端に、乱菊がその場に座り込んだ。
「松本!」
慌てて、冬獅郎は乱菊を覗き込む。
「大丈夫か!? どっか、怪我…」
気が付いた。乱菊が微かに震えているのに。
「松本…」
トラックが目の前を走っていくのは、現世に来てから何度も見た。だが、それは信号待ちをしている時や、歩道を歩いている時で、充分な距離があった。風圧で体が倒れるほどの目と鼻の先を、巨大な鉄の塊が通過していったのは初めてだった。虚と戦う時とは全く別種の、今まで感じたことのない威圧に、乱菊は恐怖したのだ。それでも、運転手や親子が見ている前では、乱菊は余裕の笑顔を浮かべることが出来た。副隊長として身についた習性だったかもしれない。だが、彼らが去って、冬獅郎と二人になった途端、さきほどの恐怖が押し寄せ、彼女は立っていられなくなったのだ。
冬獅郎にみっともない姿を晒したくなくて、立ち上がろうとするのだが、膝にうまく力が入らない。焦っていると、ふわりと頭を撫でられた。
「無理すんな」
穏やかに言われ、乱菊は不覚にも泣きそうになる。
「おまえ、涙目になってんぞ」
「…泣いてません!」
「泣いてもいいけど」
「泣きません!」
叫ぶように返して、乱菊はぎゅっと冬獅郎にしがみついた。冬獅郎は立ったままだったので、彼の腹のあたりに乱菊の顔が押し付けられることになった。
乱菊の頭上から、くつくつと押し殺した笑いが洩れる。
「何、笑ってるんですか?」
「いや、可愛いなと思って」
「からかわないで下さい」
「からかってねぇよ。えらかったぞ、松本」
大人の女性が座り込んで小学生の男の子に抱きついている、という珍しい風景に、道行く人々が何事かと目を向ける。
好奇に満ちた視線をきっぱりと無視して、冬獅郎は乱菊の震えが止まるまで、彼女の頭を撫で続けた。