髪留め
不意に独楽に影が落ちてきて、顔を上げると、絢女の微笑みがあった。
「姉さま!」
ぴょんと立ち上がり、絢女にしがみつく。
「しばらく来られなくて、ごめんなさい」
優しく冬獅郎を抱きしめ返しながら、絢女は詫びた。
「おばあちゃんと桃ちゃんは元気?」
一月に一度か二度、姉の絢女は冬獅郎を訪ねてくれる。
冬獅郎は姉がふだんどこに住んでいるのか知らない。どんな生活を送っているのかも知らない。何よりも楽しみな姉の訪いさえ、今日のように、突然の出来事で次がいつなのかも分からない。ひとつだけ理解しているのは、冬獅郎を狙う者がこの尸魂界のどこかにいて、絢女はその敵の正体をたった一人で探ろうとしているということだ。冬獅郎と絢女が一緒に暮らせないのは、敵の正体がいまだに掴めていないから。敵が何者で、何故、冬獅郎を狙うのか分からないから、絢女は冬獅郎を隠さなければならなかったのだ。
姉一人を危険な目に合わせているのが悔しくて、何とかして姉の役に立ちたくて、冬獅郎は何度か自分も一緒に連れて行ってほしいと、自分を狙う敵くらい自分で探したいと訴えた。けれど、絢女の答えは決まっていた。
「冬獅郎がもう少し大きくなったら、ね」
まだ、冬獅郎は幼いから、というのが絢女の言い分だった。幼いから危険に晒したくはないという、姉らしい保護者意識ももちろんあった。だが、自尊心が高く、言い出したらきかない頑固者の弟を納得させる為に、幼すぎて目立ってしまう、というのを絢女は理由にしていた。その説明は説得力があったので、冬獅郎は不承不承でも頷かざるを得なかった。自分の背丈が姉の顔に届いたら、共に戦う約束をとりつけて以来、冬獅郎はおとなしく流魂街の老婆の家で暮らしている。
「お土産よ。あとでおばあちゃんに渡しておいて」
と、絢女は風呂敷包みを冬獅郎に手渡した。
「何?」
「反物。おばあちゃんと桃ちゃんに似合いそうなのがあったから」
「見ていい?」
「ええ」
風呂敷を広げると、上品な
「綺麗な色でしょ?」
と、朱鷺色の小紋を手にとって絢女は嬉しそうに言った。
「絶対、桃ちゃんに似合うって、一目惚れしたの」
冬獅郎と同じ家で、同じ老婆に庇護されて暮らす雛森桃は、現在、見かけの年齢は現世の人間でいうところの十二歳前後。愛らしい幼馴染には確かに絢女の見立ててきた華やいだ色合いの着物はよく映えるだろう、と幼い外見より大人びた冬獅郎は得心する。
絢女は今度は唐桟を手に取ると、冬獅郎の体に当てた。
「うん、よく似合う」
「俺の?」
「ええ」
絢女は
栗色の髪を揺らして、琥珀の眼を優しく細めて。
綺麗だ、と冬獅郎は思った。
弟の身びいきを差し引いても、絢女ほど綺麗な女を冬獅郎は知らなかった。冬獅郎が預けられている老婆の家は流魂街でも治安がよい地域なので、裕福な住民も多く、身綺麗にしている若い女を見かける機会は多かった。けれど、華やかに着飾ったどんな女も、小町娘だと評判になるほどの美しい娘さえ、姉と比べると、
(全然、美人じゃねえよ)
と、冬獅郎はひそかに思っていた。
(姉さまの方が、ずっと綺麗なのに…)
それなのに、いつ会っても、絢女が年頃の女とも思えない地味な格好をしていることが、冬獅郎は悔しかった。桃には綺麗な色の反物を選んでくるくせに、絢女が身につけているのは納戸色の無地である。
桜、藤色、
流水、紅葉、菊花に御所車。
美しい色合いの着物を身につけた女を見るたびに、姉ならもっと似合うのに、と冬獅郎は歯噛みしたくなることがあった。絢女がことさら地味な格好をしているのは、必要以上に目立たない為であるのは承知していた。これでもかというほど地味な格好をしていてさえ、人目を引く美貌の持ち主なのだ。まして、華やかな色の着物で着飾れば、どれほどの耳目を集めることか。
早く、大きくなりたい。
冬獅郎は思う。
自分の敵と自分自身で戦えるように。
早く、大きくなりたい。
大切な姉が自分を犠牲にしなくてすむように。
「冬獅郎?」
難しい顔をして黙り込んでしまった弟の額を、絢女は人差し指でつん、とつついた。
「どうしたの?」
「なんでもねぇ」
「そ? だったら、お団子やさんに付き合って」
「は?」
「この間、桃ちゃんが言っていたの。近所においしいお団子やさんが出来たって。冬獅郎、場所知ってるでしょ?」
絢女は立ち上がった。
「たしか、あっちの方だと、聞いたんだけど?」
と向き直ったせいで、冬獅郎はこの日初めて絢女の背中を見た。
「姉さま」
「何、冬獅郎?」
「それ、どうしたんだ?」
「それって?」
「髪留め」
背中まで伸びた長い髪を、絢女はいつも後ろでひっつめにして髪留めで束ねていた。前に会った時まで、栗色の髪を留めていたのは
形は以前のものとよく似た楕円形だが、木地に黒漆を塗り重ねてあり、その上に菖蒲の図柄が金銀の蒔絵と螺鈿細工で描かれている。蒔絵は梨地仕上げで艶を抑えてあるのが、かえって品があった。
「前のが壊れて困っていたら、友達がくれたのよ」
と、絢女は答える。
「よくわかんねぇけど、それ、けっこう高いんじゃねぇ?」
「うん。多分、高いと思う」
と、絢女は肯定した。
「その花、
「ええ」
「姉さまと同じ名前だよな」
「そうね」
翡翠の瞳が、まっすぐに絢女を見透かした。
「姉さま」
「なぁに?」
「友達って、女じゃねぇだろ?」
幼い外見を裏切る洞察力ですっぱりと言いきった弟に、絢女は目を見開いた。じわりと、顔が紅潮してくる。
「あのね、冬獅郎…」
「いい奴、なんだろ?」
口調は疑問形だが、冬獅郎は確信を持っていた。
「姉さまがつまんねぇ男に惚れるはずねぇし」
「信頼してくれるのは嬉しいけど、」
別に恋愛関係にある相手ではない。同じ職場で働いている同僚で、単なる友人だ。そう主張する絢女に、子供らしからぬからかいを含んだ笑みを浮かべて、冬獅郎は切り返した。
「でも、そいつから貰ったモンを身につけてもいいって思うくらいには、そいつのこと好きなんだよな?」
「…」
姉に好意を持っている、そして、姉が好意を寄せている見知らぬ男。
本音を言うと、姉を取られてしまいそうで気に喰わない。けれど、娘らしく装うことを諦めてしまったかのような絢女に、綺麗な髪留めをつけさせたことは上出来だと、冬獅郎は思った。自分の為に、姉が何もかも諦めてしまっているわけではないと気付いて、冬獅郎は嬉しかった。
「すっげ、似合ってる。悔しいけど、そいつ、趣味いいな」
冬獅郎の賞賛に、絢女の頬の紅潮も深くなる。
林檎みたいになった絢女を、綺麗ではなく、可愛いと初めて認識して、冬獅郎は少し姉に近づけたような気がした。
「姉さま、団子やに行くんだろ?」
「え、ええ」
「今日は、俺が奢るからな」
高らかに宣言すると、絢女の手を取り、駆け出した。
弟に引っ張られながら、絢女が火照りの引かない顔のまま、苦笑していたことを、冬獅郎は知らない。