梔子の香り


 その夜は待宵の月だった。
 だから、だろう。呑み過ぎたのは    

 人通りのない隊寮への道をぶらぶらと歩いていると、前方の細い路地からひょいと出てきた人影があった。
「絢女」
 灯りのない暗い夜道でも、霊圧が閉じてあっても、間違えようがない。
 彼の呼びかけに、振り向いた絢女はびっくりした様子で目を丸くしていた。
「ギン? どうしたの、こんな夜中に?」
「それ、ボクの台詞や。どないしたん? 女の子の出歩く時間と違うで?」
「眠れなくて。気分転換に散歩していたの」
「ふ~ん」
 立ち止まってギンを待つ絢女に肩を並べると、彼女はわずかに顔をしかめた。
「お酒くさ…。ずいぶん呑んだのね?」
「ん~」
「お強いのは存じておりますが、明日も仕事なのですから、少し控えた方がよろしくないですか、市丸副隊長」
 にわかに三席の口調に改まった絢女に、
「うわばみの絢女に言われとうない」
と、ギンは素っ気なく答える。
 ほんの少しの酒精アルコールで酔ってしまいそうに思える清純可憐な外見の絢女だが、実はギン以上に酒は強い。よこしまな下心で彼女を酒席に誘い、返り討ちにあった男どもなど、数えるのも空しいほどだろう。
 絢女からは酒の匂いはしない。「散歩」という彼女の言葉は信じなかったが、詮索することはギンには出来なかった。
(何も言わへんのやね)
 気付いていないわけはない、と思う。彼がただ酒を呑んでいただけではないことに。
 ギンの体からは、彼自身、辟易するほどに、まったりと濃い移り香が漂っていた。花街の娼妓特有のきつい香を、敏感な絢女が嗅ぎ逃すわけがない。
 だが、絢女は何も言わない。ギンと絢女は、同隊の副隊長と三席であり、霊術院の同期であり、友人であった。恋人でも、夫でもない男が花街に行ったことを、気付かない振りでやり過ごすのは二人の関係では適切な行動だった。
 けれど、

 呑み過ぎていた。    心を隠しておけないほど。
 酔っていた。    待宵の月が己を責めているようで。

「それじゃ、おやすみなさい」
 綺麗に微笑んで、隊寮の自室に向かおうとする絢女の腕を、ギンはとっさに掴んでいた。琥珀色の瞳を見開く暇さえ与えず、彼は彼女を引き寄せ、抱え上げた。
「ギン!?」
 そのまま、引き攫うように副隊長舎に走る。
 敷きっぱなしの布団の上に投げ出すように横たえられて、絢女はようやく事態を理解したらしい。慌てて、飛び起きようとするのを、ギンは一瞬早く、押さえ込んだ。
 彼の瞳に見たこともない凶暴な影が宿っているのを、絢女は息を殺して見つめた。
「ギン、やめて…」
「いやや」
「お願い、やめて」
「いやや」
 渾身の力でギンから逃れようと身をよじる絢女に、
「縛道の一、塞」
と、ギンは縛道を放った。
 まさか、彼が鬼道まで使うと思っていなかった絢女は、一瞬、呆然となった。その隙を逃さず、ギンは強引に口接けた。とっさに引き結んだ彼女の唇を力ずくで押し開き、舌で口腔を蹂躙する。
 簡単に解けるはずの一桁の縛道が、どうしても解けず、絢女はギンとの差を思い知った。
 男と女の膂力の差。
 副隊長と三席の霊力の差。
 その差で、抵抗を封じ込め、ギンは絢女に欲望を叩きつける。
 歯列をなぞり、舌を絡め取り、呼吸すらままならないほど、深く唇を合わせる。

 欲しいのは、ずっと絢女だった。

 ようやく、離れた唇から、唾液がねっとりと銀色の糸を引いた。
 苦しかったのだろう。抵抗することさえ忘れたように、絢女は酸素を求めて荒い息をしていた。
 ひくひくと震えるその白い首筋に、ギンは唇を這わせた。
 びく、と絢女の体が震える。身をよじって、逃れようとするのをさらに力を込めて押さえつけ、征服のあかしのように、きつく吸い上げる。
「いや。こんなの、いや…。お願い、やめて…」
 絢女の哀願の声は、ギンの耳に届いていなかった。

     欲しいのは、ずっと絢女だけだった。

 花街のおんなでは、満たされるはずもない。
 生理的な欲望は発散できても、心の渇きは絢女にしか癒せないのに。

 触れてくるギンの指や舌の動きに集中力を殺がれながら、どうにか、絢女が縛道を解いた途端、
「縛道の四、這縄」
 再び、封じられた。同時に、ギンの両手が絢女の胸元に伸びた。
 きっちりと着付けられた襟の合わせを力に任せて押し開くと、彼はふっくらとした乳房をわし摑んだ。
「いや!」
 一際強い、拒絶の悲鳴が上がる。
 強張る体を嬲るかのように、ギンは絢女の耳たぶを甘噛むと、右手で乳房を揉みしだいた。
「いや。いやよ、お願い…。お願いだから、や、めて…」
 耳たぶからうなじへ。うなじから鎖骨へ。
 ゆっくりと、ギンの唇が這ってゆく。時折、歯を立て、舌で強く吸い上げると、白い絢女の肌に紅い花が咲いた。その度に、びくびくと痙攣する反応が、さらにギンの理性を奪っていることなど、絢女は知る由もない。
 ただ。
 胸元に達したギンの唇が、頂上の蕾を喰んだ。
「ひ…、あっ…」
 か細い悲鳴が洩れた。
 絢女の体から力が抜けた。
 不意に、一切の抵抗を止めてしまった彼女に、思わず、ギンは顔を上げた。
 雪見障子から差込む月明かりが、彼女の蒼ざめた顔を照らし出した。
 琥珀色の瞳には怯えが色濃く残っていたけれど、嫌悪も怒りもなかった。
 あったのは、深い哀しみ。
 ただ静かに、ただ哀しげに、絢女はギンを見ていた。
「絢女…」
 馬乗りになった彼女の腰から体を下ろし、ギンは自らが乱した絢女の胸元を整えた。そう、と背中に手を差し入れ、半身を起こしてやる。
「かんにん、絢女」
 自分がしたことは謝ってすむようなことではない、と自覚していた。取り返しのつかないことをしたと判っていて、それでも、言わずにいられなかった。
「ほんまにかんにんや。ごめんな」
 嫌われる。罵られる。軽蔑される。
 そう信じていたのに、絢女はギンを罵らなかった。侮蔑の眼差しを向けることもしなかった。
 とん、と顎が彼女の左肩にぶつかって、ギンは自分が彼女に抱きしめられていることを知った。かたかたと小刻みに彼女の体は震えていて、先ほどの狼藉に、彼女が怯え傷付いたことを示している。にもかかわらず、彼女はギンを腕に抱いた。
「絢女…?」
 彼女の行動が理解できなかった。
「…泣かないで」
 告げられた彼女の言葉が分からなかった。
「怒ってへんの?」
 こく、と絢女は頷いた。
 震えながらも彼女の手が、ぽん、ぽん、と一定のリズムを刻んで、軽くギンの背中を叩く。
「泣かないで…」
 もう一度、繰り返された言葉に、
「泣いてへんよ?」
「…泣いてる…でしょう?」
「…」
 絢女の肩口に顔を預けた格好のギンの鼻孔を、ほのかに甘い香りがくすぐった。娼妓の焚き染める香とは明らかに異なる、やわらかに匂いたつ絢女の香りだった。
梔子くちなしに似てんなぁ)
 ぼんやりと、ギンは思った。
 やがて、おずおずと、彼は絢女の背中に腕をまわす。
 それは、男が愛しい女を抱く、というより、子供が母親にすがる手つきだった。絢女の着物を握りしめて、
(子供の癇癪や…)
と、ギンは自分で理解した。
 幼子おさなごが癇癪を起こして母親に手をあげるように、ギンは大切な女に当たっていただけだった。大事なものを失った夜と同じ十四夜の月がつらくて、彼が他の女を抱いてきたと知っても動揺しない絢女が悔しくて、癇癪を起こした。
「…最低や」
「今ごろ、気付いたのね?」
 からかうように囁く、絢女の声音は柔らかかった。彼女自身も落ち着いたらしく、身体の震えは治まっていた。
 彼女はまだ、ギンの背中を優しく叩き続けていた。それが、母親が幼児を宥める動作だとようやく思い当たって、ギンはうなだれた。
「絢女」
「なぁに?」
「かんにん…」
「…二度は…、なしにして…」
「分かってる。二度とせぇへん」
「ん…」
 背中を叩くリズムが心地よくて、かすかに香る梔子の花に似た香りが馨しくて、ギンの体は弛緩する。いっそう梔子が香る気がして、彼は目を閉じた。

 そのまま、眠ってしまったものらしい。
 気が付いたら、明るい朝の光が部屋を満たしていた。
 起き上がり、自分が布団で寝ていたことに気付く。きっちり掛布団も掛けられていた。
(ますます、子供やなぁ…)
と、ギンは自嘲の笑みを漏らした。
 枕元に、紙片が置いてあるのに気付いた。
 拾い上げると、
「志ののめ庵の白菊御膳。私と乱菊に奢ること」
と、書き付けてある。
 瀞霊廷でも五本の指に入る高級料亭の、季節限定の会席膳である。味も最高級だが、当然、値段も最高級だ。
 が、
「こんなもんで、ごまかされてくれんのんや」
 ぎりぎり未遂で踏みとどまったとはいえ、彼がやったのは強姦である。それを会席膳ひとつで、絢女は許すのだ。
 ふ、と梔子の香りが鼻先をかすめ、ギンは愛おしさに震えた。

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2008.08.22