おかえりなさい
額に手を当て、
「熱、下がらへんなぁ」
と、ギンは溜息をついた。
乱菊は熱でとろんとなった
「ごめんね。迷惑かけて」
「迷惑なんてかけられてへん。余計なこと考えんと、ゆっくり寝ェ」
「うん、ごめんね」
一昨日の夜からずっと、乱菊は発熱していた。おそらく、風邪だろう。ここ二、三日、食料の入手に失敗してまともに食べておらず体力が落ちていたところに、追い討ちをかけるように急な冷え込みが来て、乱菊は体調を崩してしまったのだ。
「あの世にも、風邪とか、はやり病があるて思てへんかったなぁ」
乱菊の額にのせた濡れ手拭いを絞り直しながら、ギンは何度目かわからない溜息をついた。
このままにしておけば、乱菊は病をこじらせてしまいかねない。何か滋養のあるものを食べさせて、出来れば薬も与えたい。
それらを入手するのに算段がないわけではなかったが、その為には、乱菊を置いてここを出て行かなければならなかった。熱のせいで色々な意味で弱っている乱菊を置き去りにするのが
「乱菊」
「何、ギン?」
「弱ってるとこで悪いねんけど、ちょっとだけ一人で留守番しててくれへん?」
「どこに行くの?」
「何か、食べるもん探してくる。食べやんと熱、下がれへんやろ?」
「食べたくない」
「ボクもお腹ぺこぺこやねん」
卑怯だと思ったが、ギンは「自分も」というところを強調した。そういう言い方をすれば、彼女がどんなに心細くても、側にいてほしいと本心では願っていても、諦めてしまうのを知っていたから。
「そっか…。ギンもずっと食べてないものね。ごめんね、わがまま言って」
「気にしなや」
そっと、ギンは乱菊の頭を撫でた。
「出来るだけ急いで戻るから…。心細いかしれんけど、ここでじっとしとるんやで。絶対に戻ってくるから、帰りが遅うなっても、ボクを捜そうなんて考えるんやないで」
「うん」
「ゆびきりな」
細い乱菊の小指に自分の小指を絡め、
「げんまん」
と約束を交わす。
ねぐらにしているあばらやを出ると、ギンは周りに結界を施した。現世の記憶はほとんど失っているくせに、現世に生きていた頃に覚えたとしか思えないこんな術が使えるのがギンには不思議だった。
「これでよし、と」
こうしておけば、たいていの者は中に入れないから、乱菊は安全なはずだ。彼よりも霊力の強い者なら結界を破って侵入することは可能だが、自分よりも強い霊力を持つ者はそうそういないことを彼は知っていた。
結界を念入りに点検して、綻びがないことを確認して、ギンはくるりとあばらやに背を向けた。少しでも早く乱菊のもとに戻れるように、彼は全力で目的の場所に走った。
とろとろと眠っていた乱菊が目を覚ました時、辺りは真っ暗だった。
「ギン…」
呼ぶ声に答えはない。
「ギン?」
体を起こして、眠ってしまう前にギンと交わしたやりとりを思い出した。
「そうか、食べ物を探しに行ったんだ」
きっと、彼は食料を手に入れて戻ってくる。
乱菊はそれを知っていた。
これまでにも、彼が乱菊を残して一人で出かけた後は、必ず、食料や、着物や、普通なら絶対に手に入らないようなものを携えて帰って来た。最初のうちは無邪気に喜んでいた乱菊だったが、度重なるうちに、彼が何か危ないことをしてそれらを手に入れていることを察するようになっていた。ギンだけ危険な目に合わせるのが嫌で、一度だけ、乱菊はどこに行っているのか、どうやってそれらを入手しているのかと問い詰めたようとしたことがあった。
「どうでもええやろ。乱菊は知らんでええことや」
けれども、ギンから返って来た言葉に、乱菊はそれ以上追及することが出来なくなってしまった。
突き放すようなことを言われたからではない。そう告げた時のギンの表情がとても苦しげで、痛々しくて、彼がどうしても自分のしていることを乱菊に知られたくないのだと分かってしまったからだ。それ以来、乱菊は彼が出て行く度に尋ねたくなる言葉を押し殺してきた。
「どこに行くの? 何をしてるの?」
多分、その問いはどんな言葉よりも深く彼を切り裂いてしまう。だから、乱菊は尋ねない。気付かないふりで、ただひたすら、彼の帰りを待つしか出来なかった。
「早く帰ってきて…」
膝小僧を抱えてうずくまって、乱菊は心細さに思わず呟いた。
頬に冷たいものを感じて顔を上げると、板戸の隙間から、舞い込んできた風花だった。
「雪…、降ってきたのに」
そのまま、どれくらい経っただろう。
板戸がカタンと鳴る音に、乱菊はぴくりと頭を上げた。
がたがたと、立て付けの悪い壊れかけの板戸を開いて、ギンが帰って来た。
「ただいま、乱菊」
帰って来た。約束どおり。
「ごめんなぁ、戻るん遅なって。心細かったな」
やさしい笑みと差し出された食料。
「おかえりなさい」
乱菊は笑顔を浮かべた。心細さなどいっぺんに吹っ飛んでいた。
目を開けると、薄暗がりの中に見慣れた副隊長舎の天井の木目が映った。
重たい頭を振りながら、体を起こすと、乱菊は、はぁぁと大きく息を吐いた。
「何で、あんな夢…」
理由は分かっている。
三日ほど前から、隊首が不在だからだ。
十番隊の管轄する南流魂街の外れで、性質の悪い虚が現われて、冬獅郎は席官数名を連れて討伐に出ていた。
戻りが遅いのは、気配を殺すのが巧みな虚を捕捉しあぐねているからで、定時連絡はきちんと入っている。現に数時間前にも、乱菊は冬獅郎と話したばかりだ。
「大丈夫。隊長はちゃんと戻ってくる」
と、乱菊は自分に言い聞かせる。
出没している虚はたった一体。それに対して、隊長と、五席、十六席に十九席の四人がかりなのだ。虚さえ見つかれば、すぐに片がつく。
そう言って自分をなだめながら、一方で、討伐に「絶対に大丈夫」はありえないことも、乱菊は知りすぎるほど知っていた。
冬獅郎の前の十番隊長と、乱菊の前任の副隊長は討伐で命を落とした。
実際に、現われた大虚は中級五体に下級に至っては十体をはるかに越していた。
それでも、討伐隊は大虚を殲滅した。引き換えに討伐隊もほぼ壊滅した。
自分を庇って大怪我を負った副隊長を右肩に、六席を左肩に担ぎ、両腕に十三席と十五席を抱えて、自らも血まみれで戻ってきた前隊長の姿を乱菊は今でもありありと思い出せる。
「松本、すまん」
留守を預けた三席に対する謝罪が、前隊長の最期だった。部下を瀞霊廷に届けるまではと、死に物狂いで戻ってきた隊長はそこで力尽きた。隊長が命がけで連れ帰った部下のうち、六席と十五席は助かった。十三席も死神としては終わってしまったが、命は永らえた。けれど、副隊長は助からなかった。
「隊長は?」
副隊長の問いに、乱菊は真実を告げることが出来なかった。
「怪我をしていらっしゃいますが、無事です。今、卯ノ花隊長が治療を…」
「そうか、よかった」
微笑んで、副隊長は息を引き取った。霊術院の先輩で、入隊した頃からずっと乱菊を妹のように可愛がってくれた人だった。
それから 。
「絢女…」
乱菊はずっと呼んでいなかった名前を呟いた。
如月絢女。五番隊の三席で、乱菊の親友だった。
ギンに置いていかれてひとりぼっちになった乱菊の手を取ってくれた友達。ずっと助け合って、励ましあってきた大切な人だったのに、彼女も討伐から帰らなかった。
「新人の実戦研修よ」
討伐の前日、一緒に夕食を取った時ににこにこと微笑みながら、彼女は言っていた。
「十五人も引率するの」
実戦研修を無事に終え、戻ろうとしたところで、彼女は三体もの大虚に襲われたのだ。
連れていたのが大虚の霊圧に中てられて戦闘不能になってしまうような新人でなかったら、彼女はきっと帰って来ていた。ひとりで無謀な戦いをするような女ではなかったから。だが、十五名の新人隊士が彼女の選択肢を潰した。身動きさえままならなくなってしまった新人隊士は、大虚にとっては極上の餌だった。同行していた八席に結界によって新人たちを守らせ、救援の要請を命じ、彼女はただ一人、大虚に向かった。救援が来るまで、何としても結界を死守すること、一人の部下も失うことなく連れ帰ること。それしか、彼女の頭にはなかったはずだ。
ぼろぼろになって、生きているのが信じられないほどの大怪我を負いながらも、絢女は二体の下級大虚を倒し、残った一体の中級大虚と戦っていた。彼女が中級大虚に引き裂かれる直前、救援に駆けつけたギンの神鎗が大虚を貫いた。
「間に合うたと思たのに…」
血を吐くように呻いたギンの言葉が、乱菊をよぎる。
中級大虚が倒されたのを見届けて、絢女はギンを見て
それきり、彼女は見つからなかった。
どんなに待ち続けても、戻ってこなかった 。
「隊長、帰ってきて下さい」
前の隊長のように、副隊長のように、絢女のように、あたしを置いていかないで。
面と向かっては絶対に言えない言葉を、一人、寝床で呟く。
きっと、冬獅郎はまだ知らない。
「おかえりなさい」
そう言える幸せを。
待ち続けた人が戻ってきてくれる、そのささやかだけれど、何にも換えがたい歓びを。
翌日は朝から雪が降っていた。
執務室で、書類を片付けながら、乱菊は募る不安を消せずにいた。
今日はまだ、冬獅郎からの定時連絡が入らない。
虚を捕捉したのかもしれない。それで、戦闘になって、連絡が遅れているだけかもしれない。
大丈夫、大丈夫。きっと、隊長は帰って来る。
そうやって、自分に言い聞かせている時、
「えらい不景気な顔してんなぁ」
不意に耳馴染んだ声が聞こえた。顔を上げると、執務室の入口で、ギンが手を振っていた。
「ギン…」
彼は乱菊の上司を毛嫌いしていて、冬獅郎が隊首に就いてからというもの、極力、十番隊には近づかないようにしていたはずだ。
「どうして…?」
「これ、隊長以外閲覧禁止やねん。十番隊で最後やし」
と、ギンは手にしていた書類を乱菊に示した。
「十番隊長さんは討伐なん? なんや、えらいてこずってはるみたいやな」
「てこずってるって…。虚を捕捉できないだけよ。失礼なこと言わないで」
「そういうんをてこずってる、言うん違うの?」
むっと、ギンを睨む乱菊に、
「そんな顔したら、せっかくの別嬪が台無しやで」
「余計なお世話よ」
「日番谷はんから連絡、入れへんの?」
黙ってしまった乱菊に、図星だとギンは悟る。彼は手を伸ばして、乱菊の頭をぐしゃぐしゃと掻きまわすように撫でた。
「何するの」
うっとうしそうに、彼の手を外した乱菊に、
「大丈夫。あの子は帰ってくるで」
と、ギンは妙に自信ありげに断言した。
「何で言い切れるのよ」
「気に食わん子ォやけどな。女と交わした約束を破るような、最低の男やない、ゆうんは認めてええと思とる。約束したんやないの、乱菊と。帰ってくる、て」
「…した」
「やっぱりな。ほんなら、帰ってくるって」
にっと笑って、ギンは言い切った。
乱菊は幼馴染である男を見上げた。
そうだ、と今更、乱菊は思い当たる。ギンは乱菊との約束は絶対に守ってくれた。戻ってくると約束して帰ってこなかったことは、ただの一度もない。彼が戻らなかったのは、あの雪の朝だけ。約束をしていなかったあの日だけだ。
置いていかれる哀しみを、ギンは乱菊に刻んだ。けれど、「おかえりなさい」を言える歓びを教えてくれたのも、やっぱり彼だった。
待ち続けた人が戻ってきてくれる。その単純で、ささやかで、けれども無上の歓びは、彼といたから知ることが出来たことだ。
「…ありがと、ギン」
小さく乱菊は呟く。
「うん? 何が」
「何でもない」
「変な
そう言って、もう一度、わしゃわしゃと乱菊の頭を掻きまわしてから、ギンは帰っていった。
彼が去って、乱菊は嘘のように不安が消えているのを知った。
絶対に、隊長は帰って来る。
言い聞かせていた言葉は確信に変わっていた。
帰ってくる、もうすぐ。
もうすぐ。
ほら、扉が開いて…、
「今、戻った」
がたん、と乱菊は椅子を蹴って立ち上がった。
「なんだ? 松本。素っ頓狂な顔して」
「隊長…」
「あ~、くたびれた。あの虚、逃げ足だけはやたら速くて、てこずらせやがって」
「隊長…」
「松本、茶ぁ、淹れて…」
冬獅郎は最後まで言えなかった。
副官が彼を抱きしめたからだ。彼の顔は副官の豊満な胸の谷間に押し付けられ、息苦しさに冬獅郎はじたばたと暴れた。
やっとの思いで乱菊の腕から逃れ、
「松本ォ!」
怒鳴ろうとして冬獅郎はとどまった。彼を見つめる乱菊の目がいつになく、真剣だったからだ。
「松本?」
「おかえりなさい」
紡ぎ出された言葉と同時に、乱菊の顔に笑みが広がる。
「おう、ただいま」
冬獅郎の応えに、ほらね、と、乱菊は思う。
やっぱり、彼はまだ知らない。
「おかえりなさい」
この言葉が持つ魔法のような力を。
待ち続けた人が戻ってきてくれる、そのささやかだけれど、何にも換えがたい歓びを。