黒猫のタンゴ
テントから出て、朝食の準備に取り掛かろうとした絢女は、足許に擦り寄る一匹の黒猫に目を瞠った。
「夜一さん?」
いや、そんなはずはない。絢女がテントを出る時、夜一はまだ寝袋にくるまっていた。いくら瞬神・夜一といえども、この短い間に寝袋を抜け出し猫に変じたとは考えられないし、その必然性もない。
「あなた、どこから入って来たの」
と、絢女は猫を抱き上げた。
猫型の夜一にそっくりであるが、やはり彼女ではなかった。夜一の目は満月を思わせる金目である。だが、この黒猫は右目こそ夜一そっくりの金であるが、左目は濃い紫をしていた。何より、夜一は女性であるが、この黒猫は雄だ。
「可愛い」
と胸に抱けば、ごろごろと咽喉を鳴らして甘え、絢女の胸元に顔をこすり付けた。
「姉さま、おはよう」
テントから冬獅郎が出てきた。絢女が胸に抱いている猫を見て、おや、と眉を顰める。
「そいつ…?」
「知っているの?」
と絢女は尋ねた。
「十番隊舎のあたりで時々見かける猫だ。松本がよく構っている」
「乱菊も猫とか犬とか好きだものね」
答えながら、絢女は黒猫の背中を優しく撫でた。毛艶の良い猫だけに、その手触りは最高級の
「すごく懐っこいの。誰かの飼い猫かしら?」
「かもな。いつも綺麗にしてるし、毛並みもいいし、野良とは思えねぇ」
「冬獅郎もだっこしてみる?」
絢女は弟に猫を渡そうとしたが、黒猫はそれより早く、絢女の胸にしがみついた。
「姉さま、無駄だ」
「え?」
「そいつが懐くのは女だけだ」
「…そう、なの?」
「ああ。十番隊に来た時も猫好きの男死神が構おうとするとそっぽ向くくせに、女死神には愛想がいい。しかも、面食い」
「じゃ、乱菊にはすごく懐いてるでしょ?」
「…猫じゃなければ、叩き斬ってる」
しかめっ面を深め、憤懣やるかたないといった口調で、冬獅郎は吐き出した。
「物騒ね。一体、この猫ちゃん、何をしたの?」
と絢女は問う。
「 松本の胸を舐めた」
「…あらぁ」
胸元を大胆に露出した乱菊の着付けだと、抱いた時に露出した部分に猫の頭部が来る。おそらく、そこを舐めたのだ。猫相手に怒ることも出来ず、けれども、面白くなくて、内心で苛立っていただろう弟の姿を想像すると、笑いがこみ上げてくる。必死に笑いを我慢しているせいでぶるぶると震える絢女を、冬獅郎はものすごく不本意な表情で眺めていた。
「腹が減った。絢女、朝餉はまだか?」
大あくびをしながら、夜一がテントから出てきた。
「おはようございます、夜一さん。すぐに用意しますから、もう少し待っていて下さい」
と、絢女は夜一に向き直る。
途端に、夜一は硬直した。
「どうかしました?」
きょとんと、絢女が問いかける。
「四楓院?」
と、冬獅郎も不審気に見つめる。
次の刹那、瞬神は無駄に瞬歩を使って絢女の前に来ると、彼女が抱いていた黒猫をむんずと掴んでひっぺがし、乱暴に放り捨てた。
「夜一さん!?」
「四楓院!?」
驚きと非難を込めた日番谷姉弟の叫びに、ちっと舌打ちをした夜一は、
「そいつはただの猫ではない」
と言い放った。
「え?」
「まさか、藍染の…」
さっと蒼ざめた冬獅郎だったが、
「姉上、何も放り投げなくてもいいじゃないですかぁ」
突然、聞こえた声に、絢女とともに石化した。
姉弟揃って、ギギギと軋みを立てそうなぎこちない動きで、声の方を振り返る。
前足を行儀よく揃えて、ちんまりと黒猫が座っていた。
「 !?」
絶句する姉弟を尻目に、腕組みして仁王立ちした夜一が、
「
と、猫に向かって問うた。
「姉上に会いに参りました」
「嘘をつけ。どうせ、美人と評判の絢女の顔を拝みに来たのだろう」
「それもあります。さすがは美形の誉れ高い日番谷隊長の姉上。見目麗しい」
「胸に抱かれて、鼻の下を伸ばしおって」
「これほどの美人に抱かれて鼻の下が伸びぬ男を、私は男とは認めませぬよ」
「…一理あるの」
夜一が振り返ると、冬獅郎も、絢女も酸欠の金魚のように口をぱくぱくとさせていた。
はぁー、と深い溜息をひとつ零すと、夜一は、
「わしの弟。現・四楓院家当主の月詠じゃ」
と告げた。
「四楓院家当主…」
絢女が呟いたその時、ひょお、と突然、刺すような冷たい風が吹き渡った。
「霜天に坐、」
「しません!」
冬獅郎の解号を、絢女が慌てて遮った。
「何を考えているの!? いくら、腹が立ったからって斬魄刀を解放なんて」
「日番谷。いくらシスコンじゃからと言って大人げない」
「誰がシスコンだ!」
思わず冬獅郎は怒鳴ったが、
「違うんですよ、夜一さん」
と絢女にきれいに流されてしまった。
「冬獅郎が怒っているのは、私のことではなくて、乱菊のことなんです」
「松本? …月詠。そなた、何をしおった?」
「あー、いや」
猫の姿のまま、月詠はぽりぽりと頭を掻いた。
「この格好で松本副隊長に抱き上げられた時に、つい魔が差して」
夜一は目を眇めた。
「松本副隊長の神々の谷間がすぐ目の前にあるのですよ。魔が差さぬ男など、」
「男と認めぬというのじゃな? で、何をした」
「…」
沈黙。
やがて、月詠の代わりに、冬獅郎がぽつりと答えた。
「胸を舐めた…」
「…ほお」
夜一が黄金の目を細めた。
月詠が後退る。
「こんの、エロ猫が!!」
元刑軍軍団長閣下の蹴りが、黒猫の腹部にクリーンヒットした。
「夜一さん!?」
跳ね飛ばされて、地面に叩きつけられた月詠の姿に、真っ青になって絢女が駆け寄った。
「大丈夫ですか、月詠さん?」
手を差し伸べようとする絢女を、夜一が制した。
「増長する。放っておけ」
「でも…」
微動だにしない月詠と夜一を見比べて、絢女は途方に暮れる。夜一はつまさきで月詠の腹を軽く蹴った。
「いつまで、気絶したふりをしておる。踏みつけられたいか?」
「喜助さんじゃあるまいし、姉上に踏まれて喜ぶ趣味はありません」
「喜助にそういう趣味はない。誤解を招くようなことを言うな」
「え? そうなのですか? Mッ気がなくてよく姉上の相手が、」
ぐえっ、と月詠は蛙が潰れるような悲鳴を上げた。夜一が弟を本当に踏みつけたのだ。
「姉さま」
その様子を見守っていた冬獅郎が絢女に声を掛けた。
「何、冬獅郎」
「飯の仕度をしよう。手伝うから」
「そうね…」
趣味はないと言いつつ、夜一に踏まれて喜んでいるように見える月詠に、心配したのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。
じゃれあっているとしか見えない四楓院姉弟をその場に残し、絢女たちは朝食の準備を始めた。
夜一に劣らぬ旺盛な食欲で飯をかきこむ月詠を、絢女と冬獅郎は呆気に取られて眺めていた。
冬獅郎の着替えを借りて、月詠は人型に戻っていた。人の形の月詠は、まず美形と言っても誰も文句を言わないだろう整った容姿をしていた。四楓院家の血筋の特徴である褐色の膚に、漆黒の髪。鼻筋はすっきりと通り、体つきも引き締まっている。身の丈は現在の冬獅郎とほとんど変わらないから、五尺と六、七寸 *1 くらいだろうか。右目が金、左目が
「美味しいなぁ。お美しい上に、料理も上手いなんて女の鑑ですな」
「はぁ、ありがとうございます」
「すみません。もう一杯おかわりを。ついでに味噌汁も」
「ちっとは遠慮せい。わしのがなくなるではないか」
「こんな美味い飯を前に、遠慮などしておれませぬよ」
人懐っこく笑いながら、茶碗を差し出す姿は好青年そのもので、とても四大貴族の当主には見えない。
「何か、想像していたのとは違うな」
ぼそっと吐き出された冬獅郎の呟きに、月詠は反応した。
「どういう想像をしていたんです?」
「いや…」
「冷徹で、いかにも切れ者、なんて想像していたとか?」
「まぁ、そうだな」
「いやぁ、照れるな」
百年前、夜一が浦原喜助の逃亡を助けて尸魂界から姿をくらました頃、冬獅郎はまだ絢女によって封じられたままであったし、絢女も流魂街にいて死神までの道は彼方だった。だから、これは聞いた話になるのだが、夜一の不祥事に関わらず四楓院家が四大貴族としての地位も、天賜兵装番の役目も失わずにすんだのは、夜一の跡を受けた第二十三代目の当主の政治力によるものだったそうだ。月詠という名の二十三代目当主は、夜一の異腹の弟であった。正妻の産んだ嫡子である夜一に対し、月詠は貧しい下級貴族出身の妾の子として産まれた。超然たる白打の才で刑軍に君臨し、隠密機動総司令を務め続ける四楓院家にあって、月詠の霊力は上級貴族としては申し分ないものの、刑軍の長を勤められるほど突出したものではなかった。側女の子という出自もあって、夜一が当主の頃は一切表に出ることなく、彼女の影として政治的な側面で采配を振っていたという。
そこに降って湧いたかのような、突然の夜一の不始末である。
四楓院家は終わりだ。五大貴族の一角を占めながら没落し、瀞霊廷さえも追われたかつての志波家のように四楓院家も瓦解する。
誰もがそう信じていたが、四楓院家は揺るがなかった。夜一本人こそ、隠密機動総司令の地位も二番隊隊長の地位も剥奪され、護廷から永久除籍の処分を受けたが、類が縁者に及ぶことはなかった。
月詠が動いたのである。金、権力、血縁。賄賂から恫喝まで、ありとあらゆる手段を効果的に使い、中央四十六室も、護廷も、貴族社会からの不満もすべて速やかに抑え込み、彼は四楓院家を守った。その後、彼は正式に四楓院家の当主の地位に就いたが、積極的に表には出ようとしないこともあってその実像が広く知られることはなく、噂だけが一人歩きをしていた。
「あぁ、お腹いっぱい」
気持ちよさそうに腹を撫でながら、のほほんとしている青年は、四楓院家を救った切れ者との評判とは程遠い。
絢女が淹れた食後のお茶をおいしそうに飲み終わると、月詠はぶるりと身を震わせて再び黒猫に
「帰ります」
「もう、ですか?」
「間もなく、白哉殿がいらっしゃるのでしょう? あの人のことはまぁ好きなんですが、ちょっと苦手でして。絢女殿、おご馳走さまでした。貴女のようにお美しい方から食事を振舞われて、望外の喜びです」
すらすらと誉め言葉が出てくるところ、こいつ、絶対に女
「おい」
「何です、日番谷隊長?」
「その姿で、二度と松本に近づくな」
うんと言わなければ斬る、と氷輪丸の柄に手をかけて凄む冬獅郎に、月詠はにやりと哂った。
「神々の谷間は惜しいけれど、仕方ありませぬなぁ」
「松本にはおまえがただの猫ではないことを伝えておくからな」
「はいはい。ま、氷輪丸に斬られるのも、氷漬けにされるのもぞっとしませぬし、松本副隊長には近付かぬようにします。その代わり、私の正体を吹聴せずにいて下さいませぬか?」
「本当に、松本には近付かないんだな」
「はい。私の本命は別におりますから」
「ほう、月詠にも一人前に好いた
夜一が身を乗り出してきた、が、
「砕蜂です」
弟の返答に、ぶっと茶を噴き出した。
「姉上、はしたないですよ?」
月詠は涼しい顔をしていたが、夜一はらしくもなくむせて、絢女に背中をさすられている。
「貴様。砕蜂に手を出しておらぬだろうな?」
「手は出しておりませぬよ。添い寝はいたしましたが」
「添い寝!?」
夜一と絢女が声を揃え、冬獅郎はこめかみに強烈な痛みを覚えた。
「いやぁ。この格好で纏わりついてみたら、砕蜂にえらく気に入られましてね。抱き枕を務めさせて頂きました。襲わずに猫のままでい続けるのに、理性を総動員してしまいましたよ」
いや、変化を解いて襲った瞬間に、あんた、砕蜂に瞬殺されんだろ。
冬獅郎は心の中だけで突っ込んだ。
「月詠」
夜一が低い声で告げた。
「その姿で砕蜂にも近付くな」
「えー、それは勘弁して下さいよ」
「勘弁できるか、このエロ猫!」
再び、元刑軍軍団長閣下の蹴りがヒットし、黒猫は遠くに飛ばされた。
地面に激突した月詠だったが、すぐに起き上がり、わざとらしくよろよろした姿で去っていった。
月詠が見えなくなってから、夜一は深い溜息をついた。
「あやつ、何しに来おったのじゃ」
絢女は微笑を浮かべて夜一を見つめた。
「夜一さんに会いにいらしたのですよ」
「ふん。絢女が目当てに決まっておるわ。女好きじゃからの」
「私の顔を見るだけなら、とっくに十番隊にいらっしゃってます」
と、絢女は答えた。
「現世に行ってしまって滅多に会えないお姉さまが戻っていらしたんですもの。会いたかったのですよ」
絢女は何ごともなかったかのように、食事の後片付けを始めた。
夜一はテントに戻ると、寝っ転がった。
百年前、夜一が何一つ躊躇うことなく喜助を助けられたのは、月詠がいたからだ。
あの弟ならばうまくやる。自分のしでかしたことの尻拭いをしてのける。
その確信があったからこそ、自由に行動できた。
「姉上は思うままに生きなされ。堅苦しい貴族の当主に修まっている器ではないでしょう?」
勝手な行動を詫びた夜一に、月詠はにやりと哂って言ったものである。
「任せてくださって構いませぬよ。お偉方のじじいや、うるさいおっさんどもと渡り合うのは私の性に合っているようです。万事よろしく運んでみせますゆえ、姉上はご心配なく」
一遍くらいは、実家に帰ってやるとするか。
夜一が密かに笑んでいた頃、十番隊では乱菊が黒猫を構っていた。
時折、遊びに来て懐いている黒猫をいつものように抱き上げると、猫はごろごろと咽喉を鳴らし、豊満な胸に頭をこすり付けて甘えた。
「かーわいい!」
頭を撫でてやると、にゃーんと可愛く鳴いて、乱菊の胸元を舐めはじめる。
「こら、やだ。くすぐったいってば!」
身を捩って、乱菊は笑い声を上げる。
(日番谷隊長には申し訳ないが、抱かれ納めくらいは許してもらわねば…)
乱菊の胸の谷間に顔を埋めた黒猫が、にやぁっと猫には出来ないほくそ笑みを浮かべた。だが、それを見たものはいなかった。
*1 170~173cmくらい。