言えばよかった
しんしんと庭に降り積む雪を見ていた。
風に舞う花びらのような雪を見ていた。
ギンに置き去りにされた朝によく似た、舞い散る粉雪を、乱菊はぼんやりと眺めていた。
「松本」
「ひゃおぉぉっ!」
不意に後ろから呼びかけられ、吃驚したはずみで思わず叫ぶと、
「色気のねぇ声」
と、呆れたような声が降って来た。
「たいちょ…」
乱菊は意外そうに瞬きを繰り返した。
「どうして…」
「声を掛けたんだが返事がなかったんでな。勝手に上がらせてもらった」
「そうじゃなくて」
「ん?」
「絢女に付いててあげなくていいんですか? あの娘、ショックを受けてるはずです」
つい先ほどまで、乱菊は冬獅郎や絢女とともに護廷会議舎にいた。そこで、モニターから流れる大逆人・市丸ギンの尋問のありさまを傍聴していたのだ。
彼の証言は乱菊にとっても衝撃的だったが、おそらく、絢女にとっては脳天を棍棒で強打されたようなものだっただろう。彼の行動はすべて絢女の為だった。絢女の復讐を果たしたくて、鏡花水月に取り込まれ、結果、反逆者となってしまったギンに対して、彼女が今どんな思いでいるのかと考えると、乱菊はいたたまれなかった。自分以上に衝撃を受けているはずの姉を放って、自分の許に来た恋人に、乱菊は嬉しいよりもなじりたい気分だった。
「隊長。絢女の傍にいて下さい。あたしは大丈夫ですから」
「ひとりにしといてくれってさ」
「そう言われて、はいそうですかって、絢女をひとりにしたんですか?」
「俺が傍にいても役には立たねぇって、言われた」
「でも…」
「姉さまの言う通りだと思う。傍にいても、俺じゃ役には立たねぇ。俺じゃあ、姉さまを慰めることも、気持ちを軽くしてやることも出来ねぇ。ますます、つらい思いにさせるだけだ。けど、松本の役になら、ちったぁ立てそうだからな。だから、来た」
乱菊の隣りに胡坐をかいて、冬獅郎は乱菊が見つめていた庭を見つめた。
「何、考えてた?」
「アイツに置いていかれた日を思い出していました」
「そうか…」
と、冬獅郎は頷いた。
ボクみたいな、復讐することでしか前に進めへんアホな男の傍におったら、乱菊まで不幸せになってしまう…。
巻き込んで、あの子みたいに死なせてしまうことになるかしれへんから…。乱菊が一人でも生きられるようなところに着いたら別れようて、決めたんや。
二人並んで、舞う粉雪をどれほど眺めていただろう。
「あいつ、馬鹿だな」
冬獅郎が零した。
「ええ。バカですよ」
乱菊は答えた。
「バカで、自分勝手で、ホント、どうしようもないヤツ」
奇跡のように再会出来たのなら、言えばよかったのだ。ずっと絢女を捜していたのだと。現世で一緒にいたのだと。
「絢女が覚えてないからって、遠慮して。臆病にもほどがあります」
「姉さまも馬鹿だ」
それに対して、冬獅郎は答えた。
「たいちょ…」
「俺を護ることだけに必死になって、他のことを全部切り捨てて、自分の気持ちに嘘をついて…。ほんとに救いようのないくらいに馬鹿だ」
ああ、そうか。と、乱菊は気が付いた。冬獅郎も苦しんでいるのだ。
ギンが述べた通り、人間だった頃の冬獅郎が藍染に狙われたのは彼に責任のないことである。それでも、絢女は冬獅郎を護ろうとして命を落とし、ギンもまた、絢女と冬獅郎を護ろうとして死んだ。その事実から目を背けられるほど、冬獅郎は器用でも、冷徹でもない。傷つかないわけがない。苦しまないわけがない。
多分、それが分かっていたから、絢女は「傍にいても役には立たない」という言い方で冬獅郎を突き放し、彼を乱菊の許に向かわせたのだろう。
「敵わないなぁ…」
「何がだ?」
「何でもありませーん」
乱菊が束の間、いつもの笑みを浮かべたのを見て、冬獅郎の翳っていた表情がわずかに穏やかになる。
乱菊はごろんと、畳に寝っ転がった。
「松本ォ」
「何です、たいちょ?」
「俺も…」
「ええ?」
「懐かしかったんだ」
横になったまま、乱菊は黙って冬獅郎の横顔を見つめた。
「十番隊長になって、初めて、あいつと顔を合わせた時、懐かしかったんだ」
霊術院を卒業した冬獅郎は、異例なことであるが、すぐに一番隊の上位席官に任じられた。上位席官は隊長格との接触も少なくはなかった。だが、三番隊はあまり縁がなかったせいか、ギンとは直接対峙する機会もないままで、遠目に幾度か見かけた程度だった。長らく空席だった十番隊隊長に就任し、初の隊首会で同僚となる先輩の隊長たちに挨拶した際、冬獅郎は初めてギンとまともに顔を合わせたのだ。
「十番隊長を拝命した日番谷冬獅郎です。よろしくご指導願います」
二番隊・砕蜂、四番隊・卯ノ花と偶数番の昇順、十三番隊・浮竹、十一番隊・更木と奇数番の降順に挨拶を述べていった冬獅郎は、最後の隊長である市丸ギンと目が合った瞬間、自分の中に溢れ出して来る感情に戸惑った。
懐かしい。
そうとしか形容の出来ない想いだった。
遠目に見かけたことがあるとはいえ、ギンと初対面なのは間違いがなかった。にもかかわらず、懐かしかった。まるで、いつの間にか会えなくなってしまった古い馴染に偶然に出会えたような、慕わしさと、切なさと、温かさがないまぜになったその感情を冬獅郎は持て余した。ギンに不審に思われないよう、必死に平静を保って、他の隊長に対するのと同様に挨拶の言葉を述べながら、冬獅郎はこの懐かしさの理由を突き止めようと躍起になっていた。
考えても、考えても、理由は知れなかった。絶対に、以前に彼と会ったことはないはずだった。それなのに…。
ギンの証言を聞いた今なら、分かる。
具体的な思い出は全て欠け零してしまっていても、冬獅郎は自分たちが人間だった頃のギンを覚えていたのだ。姉の傍らに寄り添っていた少年のことを、魂が記憶していた。
「俺もあいつも、お互い、現世の記憶を失くしているから推測でしかねぇけどな。現世にいたガキの頃の俺を、市丸は可愛がってくれてたんだと思う。俺も、な。懐いてたんだ、あいつに、きっと…」
ギンはおぼろげにだが、冬獅郎を負ぶって歩いた記憶があると言った。愛した少女の死の原因となった冬獅郎を、恨んではいないとも証言した。幼かった冬獅郎が告げた「守ってやる」という言葉を覚えていた。人間だった頃のギンが、誰より護りたかったのが絢女であることは間違いない。けれど、おそらく、彼は冬獅郎のことも本気で護ろうとしていたのだ。
面影も朧に霞み、呼ぶべき名前を失い、共に過ごした日々の想い出も彼方に流れ去り、見知らぬ子供になってしまってもなお、抱えていた想い 。
ひどいめに遭うとるなら、助け出してやりたかった。
だから、冬獅郎はギンが懐かしかった。彼の度重なる嫌がらせに腹を立て、顔を合わせることさえ忌々しくなったのはずっと後になってからのことだ。彼に嫌われていると気付いた当初は、怒りよりも困惑の方が強かった。
「ギンは隊長と会って、懐かしくなかったんでしょうか?」
「さぁ。市丸に聞いてみねぇと分からねぇな。ただ、もし仮に、俺や姉さまがあいつを懐かしいって思ったように、あいつが俺を懐かしく感じていたとしても、俺が姉さまに似てるから錯覚してるだけだって信じ込んでいたんだろう」
「そうかもしれませんね…」
「俺も、馬鹿だな」
あの時、胸に溢れた想いを信じればよかった。
言えばよかった。ぶつければよかった。
懐かしいのだ、と。
理由はわからないけれど、ギンのことを懐かしく、慕わしく感じたのだと正直に話して、どうして自分を嫌うのかを問い詰めればよかったのだ。そうすれば、きっと伝えられた。自分が絢女の弟であることも、どこでどうしているかは分からないけれど、姉は生きているということも。そして、絢女が生きていると知ったなら、ギンは絶望の底で鏡花水月に搦め捕られることもなかったかもしれない。
隣接する隊長舎から、龍笛の音が響いてきた。
乱菊はむくりと起き上がると、その笛の旋律にしばしの間、耳を傾けた。
「この曲、『月宮桂精』っていうんですよ」
と、乱菊は言った。
「アイツが一番好きだった曲です」
「決して切り倒せない桂の木を伐り続ける桂男の曲か?」
「ええ」
中国の故事である。月には高さ五百丈に及ぶ桂 *1 の大木があり、呉剛という罪を得て仙人になれなかった男がこの木を切り倒そうと、毎日休むことなく斧を振るっているのだという。しかし、月の仙木である桂の木は伐られるそばから再生し、決して切り倒せないのだ。
まるでギンのようだ、と冬獅郎は思った。絢女を求めて、求めて、彼女の記憶だけを抱きしめて尸魂界に来たギンは、得られない仙木を倒そうと空しい営みを繰り返す呉剛に似ていた。
「桂男の方がましですよ」
冬獅郎の考えていることを見抜いたように、乱菊は息を吐いた。
「少なくとも、切り倒そうと努力してます。でも、アイツは何にも言えないままで、ひとりで復讐に走って…」
「ああ」
「いらないって何よ。あたしには隊長が付いてるから大丈夫って…。絢女はすぐに自分のことなんか忘れられるなんて…。アイツ、本気で言っているのかしら」
「そう信じたいんだろう」
「アイツ、ホントに勝手!」
乱菊が吐き捨てるように叫んだのとほとんど同時に、突如、龍笛の音が乱れ、途切れた。
絢女が泣いている。
乱菊は冬獅郎を見た。
冬獅郎は緩く、首を横に振った。
自分では、だめなのだ。
舞い散る雪に、それぞれの悔いが重なる。
言えばよかったと。
言えばよかった。
人だったころから、ずっと好きだったと。傍にいたかったのだと。
言えばよかった。
懐かしくてたまらないのだと。嫌われるのは悲しいと。
言えばよかった。
弟を護りたいのだと。だから、気持ちに応えられないのだと。
言えばよかった。
たとえ、置き去りにされても、遠く心が離れても、やっぱり大切な人なのだと。
言えばよかった…。
*1 ここでいう桂は木犀のこと。