副隊長の資格


 静かに病室の扉を開けると、寝台に半身を起こした桃の弱々しい笑顔に出迎えられた。
「絢女お姉さん、こんにちは」
「こんにちは。なかなかお見舞いに来られなくてごめんなさい」
と、携えてきた小さな花束と菓子箱を渡す。
「ありがとうございます」
 頭を下げた桃を、絢女は複雑な表情で見つめた。
 この愛らしい少女は、絢女が冬獅郎を預けた老婆のもとで、冬獅郎より先に庇護されていた。だから、絢女は流魂街にいた頃の桃をよく知っていて本当の妹のように可愛がっていたし、桃もまた、冬獅郎の許を時折訪れる彼女のことを「お姉ちゃん」と呼んで慕っていた。
 昔、絢女がよく知っていた少女は無邪気で純粋だった。桃は見かけの年齢は冬獅郎よりも上で、本人も冬獅郎の姉のつもりでいたようだ。しかし、絢女からみると、童顔で子供っぽいところのある彼女はどこか危なっかしくて、見かけの年齢よりずっと老成したしっかりものの冬獅郎といると、外見は別にすれば冬獅郎の妹に思えて仕方なかった。
 そんな桃が死神になる為に霊術院に入学したと聞かされた時は驚いたものだ。絢女の心配をよそに、桃は絢女が失踪している間に本当に死神という荒っぽい商売に就き、しかも護廷の副隊長にまで上り詰めた。そのことを教えられた時は、桃の霊術院入学以上に、絢女は信じられない思いがした。だが、同時に、彼女が隊長である藍染を慕い、信じた挙句に手酷い裏切りを受けて、心身ともに傷ついて立ち直れないままでいるとも知らされて、藍染に対する憤りと桃に対する痛ましさで胸が潰れそうになった。
 あの裏切りから数ヶ月が経ち、藍染の反乱が収束した今になっても、桃は立ち直れていない。藍染から受けた体の傷は、卯ノ花を筆頭とした四番隊士の尽力で跡形もなく消えているけれど、心に抉れた傷はいまだに塞がってはいないのだろう。そんな彼女にこれから告げなければならないことを思うと、絢女はこのまま帰ってしまいたい衝動に駆られた。
「いい匂い」
 桃は絢女の見舞いの花束の香りを嗅いで、嬉しそうに笑っている。
「桃ちゃん」
と、絢女は意を決して声をかけた。
「はい、お姉さん」
 昔より儚げな、けれど、昔と同じ純粋な瞳が絢女を見つめる。絢女は寝台の傍らの椅子に腰掛けながら、努めて何気ない口調を作って告げた。
「私ね、五番隊の隊長に就任することになったの」
「え?」
 とっさに言われた意味が理解出来なかったのだろう。桃はぽかんと絢女を見返した。
 やがて、理解した桃は、笑みを強張らせた。
「隊長…。絢女お姉さんが…」
「ええ、三日後に就任式が行われることのなっているわ」
「あ…あの、おめでとう…ございます…」
「ありがとう」
 祝いの言葉を述べながら、桃は震える手で布団を握り締めていた。絢女は無言で桃を見守る。自分から切り出しても良かったが、桃が言い出すのを待つ方が良いように思え、絢女は沈黙を守った。気まずい空気が室内を満たし、かなり長い時間が経過してから、桃がぽつりと呟いた。
「副隊長は、もう決まったんですか?」
「まだよ」
と絢女は答えた。
 副隊長の任命権は基本的に各隊の隊長にある。副隊長は隊長にとって片腕に等しい重要な補佐官であるので、実務や戦闘の能力だけで務まるものではないからだ。隊長との相性や信頼関係が重要とされる為、新しい隊長が就任した際に副隊長も変わることは珍しくはない。また、隊長就任時は前任者がそのままの地位にいても、折を見て人事異動が行われることも多かった。一般に降格は不名誉とされるが、落度や適正に問題があってのことでない限り、副隊長の解任は不名誉ではない、と認識されているのもそういう背景があるからだ。
「総隊長は私に一任するとおっしゃったの。でも、私はまだ決めていないわ」
「そう…ですか」
 再び、沈黙が室内を満たした。桃はうつむいて、布団を握り締めた手をじっと見ている。絢女はそんな桃をじっと観察していたが、小さく息を吐くと、沈黙を破った。
「私ね、五番隊の隊長を受けるのと引きかえに、ひとつ、総隊長にお願いしたことがあるの」
「…何ですか?」
「ギンの…、市丸元隊長の助命」
 はっと、桃は顔を上げる。桃を覗き込んでいた絢女の目とぶつかった。
「市丸元隊長の裁判の証言は桃ちゃんも知っているわね」
「はい」
「市丸元隊長のやったことは理解っているの。中央四十六室の惨殺、反乱への加担、護廷隊長格に対する傷害行為…。鏡花水月に惑わされていたという事実を差し引いても重罪だ、ということは承知の上よ。でも、ね。私は彼に生きていてほしいと思ってしまったの」
「絢女お姉さん…」
「私と冬獅郎が死んだ時の年齢や、彼の証言に出てきた現世にいた頃の私の言動を考えると、私と彼が現世で出会ってから一緒にいたのは、どんなに長くてもせいぜい二、三年くらい…。ううん、もっとずっと短い間だったかもしれないわ。私は彼のことを覚えてさえいなかった。それなのに、ギンは私を覚えていてくれたの。たった数年一緒にいただけの、彼のことを覚えてもいない薄情な女の為に、何もかも犠牲にして復讐を企てて、結果、鏡花水月に取り込まれてしまった…」
 絢女はわずかに俯いた。伏せられた睫毛がかすかに震えていた。
「彼に殺された人たち。それから、遺されたその人たちの家族や近しい人たち…。陥れられた人たち。そんな人たちにとっては、ギンは恨んでも恨み足りない相手で、彼が処刑されるのを望んでいることだってちゃんと理解っている。それでも…、」
「…」
「それでも、私は彼に生きていてほしいの。重罪人でも、彼の処刑を望む人がどれだけたくさんいたとしても、裁判の結果の正当な裁定でも、彼が護廷に殺されてしまったら、私はもう護廷の為に働けない。我儘で身勝手な願いだと思うわ。…完全に私情よ。隊長職に就こうという者が流されていい感情じゃない。それも理解っている…。だけどね。どんなに我儘でも、自分勝手でも、私はギンに生きていてほしくて、殺さないでって願わずにはいられなかったの」
 訥々と語る絢女を、桃は黙って見つめていた。
「一昨日、五番隊に行って来たわ。今、話したことを五番隊のみんなにも打ち明けて、その上で、こんな私情に流される身勝手な隊首を許せないなら、正直に言ってほしいと伝えて…。だけど、五番隊のみんなは、それでもいいと言ってくれたの」
 再び顔を上げた絢女は、
「桃ちゃんは?」
と桃の黒曜石の瞳に視線を固定した。
「市丸元隊長は藍染隊長を土壇場で裏切って死なせた男よ。そんな男の助命を願うような隊長の下では働けない?」
 問いかけに無言のままの桃に対して、
「私を隊長と認められないなら、異動しても構わないから」
と、絢女は言葉を繋いだ。
 桃は藍染への想いを断ち切れていないと、絢女は考えていた。藍染にとどめをさしたのは総隊長の山本であるが、致命傷を与えたのは間違いなくギンだった。藍染を思い切れない桃にとって、ギンは藍染の仇になる。そんな彼を救おうとする絢女のことも、桃は許せないかもしれない。絢女の下で死神を続けるのが苦痛であるのなら、他隊に異動するしかないだろう。
「死神を辞めろ、とは言わないんですね」
「辞めるかどうかは、桃ちゃんが決めることだもの。私がギン…市丸元隊長が処刑されてしまったらもう死神を続けられないと考えたように、藍染隊長を亡くして、桃ちゃんがもう死神を続けられないと感じているのなら辞めるしかないでしょう? 死神は続けたい。でも、私の下で働くのは嫌だというなら異動してもらうことになるわ」
と、絢女は答えた。
「ただ…」
 絢女は先日対面してきたばかりの五番隊の席官たちの顔を思い浮かべた。絢女の隊長就任を心から喜んでいた彼らだったが、副隊長を誰に任命するのかをかなり気にしていた。絢女が選んだ者ならば、誰であれ副隊長と認める、と彼らは告げた。だが、聡い絢女は彼らの本音を見抜いていた。
 副隊長は桃に続けてほしい。早く、以前の雛森副隊長に戻って、隊に帰って来てほしい。
 言えずにいた彼らの心の声を、絢女は確かに聞いた。
「五番隊のみんなは、桃ちゃんを待っていたわよ」
 え、と桃の表情に驚きが広がる。
「まさか…」
「帰って来てほしいって、みんな、そう言っていたわ」
「嘘…」
「嘘をついても仕方ないでしょう?」
 そう応じた絢女に、
「だって、」
と桃は言葉を詰まらせた。
「だって、あたし、何にも出来なかった」
「桃ちゃん?」
「あたし、副隊長だったのに、何にも出来なかったんです」
 ぱたり、と桃の眸から涙が零れた。
「現実をいつまでも受け入れられなくて…、藍染隊長を思い切れなくて…、シロちゃんのことも疑って刀を向けたりして…。何で、シロちゃんのこと、疑えたんだろう? 小さい頃から知ってて、そんなこと出来るような人じゃないこと、あたしが一番分かっていたはずなのに…。何があっても、誰が疑ったって、あたしだけはシロちゃんを信じなくちゃいけなかったのに…」
「うん…」
「藍染隊長がいなくなって、あたしが…、副隊長のあたしが隊をまとめなくちゃいけなかったのに、あたしはずっと幻影に縋りついたままだったんです。吉良くんも、檜佐木先輩も、つらくてもちゃんと現実を見て、自分のやるべきことをきちんとやっていたのに、あたしは何にも出来なかった。あたしに副隊長の資格なんてない…」
 顔を覆って泣き出した桃の背中を、絢女はそっとさすった。
 室内に、桃のすすり泣きの声だけが響き続ける。
 どれほど、泣き続けていただろう。しゃくりあげながらも、ようやく涙が止まった桃は、顔を覆っていた手を外すと、絢女に泣きはらした目を向けた。
「絢女お姉さん、いえ、隊長」
 桃は絢女に呼びかけた。
「あたし、五番隊に戻りたいです」
「桃ちゃん…」
「肝心な時に役に立たなかったあたしに、副隊長の資格なんてないのは分かってます。だから、降格は覚悟してます。でも、あたし、五番隊に戻りたいんです。お願いです。異動しろなんて言わないで下さい」
「私は藍染隊長の仇の助命を願った女よ。私が隊長でいいの?」
 桃は肯いた。
「絢女お姉さんの気持ちはよく分かります。あたしだって、もしお姉さんの立場だったら、市丸隊長に生きててほしいって思います」
 きっぱりと彼女は言い切った後、
「それに…」
と、続けた。
「あたし、五番隊の副隊長だったのに、絢女お姉さんのこと、知らなかったんです」
 桃の言葉に絢女は頷いた。おそらく、そうだろうと思っていた。もし、桃が絢女のことを知っていたなら、冬獅郎の耳に入らないはずがない。第一、彼の副官の乱菊は絢女の親友だ。藍染が反乱を起こすまで、乱菊の口から絢女のことが冬獅郎に伝わらなかったのが、そもそも奇妙なのだ。
「変でしょ? お姉さんは五番隊の三席で、いなくなったのだって、あたしが五番隊に入る直前のことだったのに」
 流魂街にいた頃の冬獅郎がそうだったように、桃も絢女が死神であることを知らなかった。だが、桃は絢女の失踪の翌年に霊術院を卒業し、五番隊入りを果たしたのだ。五番隊に在籍していた頃の絢女がどれだけ慕われていたか、絢女の帰還後に見舞いに訪れた部下や他隊の隊長・副隊長から、桃はさんざん聞かされた。それほど慕われていた三席の噂を、その失踪後、間もなく入隊した者が耳にしないということがあるだろうか。噂話さえ憚られるような悪事を行って追放されたというのなら、話は別だ。だが、絢女は死神として賞賛に値する、名誉の殉職を遂げたと考えられていたのである。立派な三席だったと、彼女に助けられたのだと、話を耳にしない方が不自然だろう。
 それなのに、桃は絢女のことを知らなかった。絢女の噂を少しでも耳にしていたら、桃には「絢女お姉ちゃん」と「如月三席」を結びつけることは容易だったはずだ。だが、桃は副隊長にまで上り詰めたのに、同じ隊にいたかつての第三席のことを、全く知らなかったのである。
 その事実に気付いた時、桃の中で藍染の幻影は崩れた。もしかしたら、桃もまた、鏡花水月に囚われたままだったのかもしれない。ギンが絢女を目の当たりにすることで鏡花水月の檻から逃れたように、桃もまた、幻惑場を吹き払う能力を持った絢女と再会することで幻から抜け出したのかもしれなかった。
「秋篠に幻惑能力を無効にする力があって、藍染隊長が鏡花水月を破られるのを怖れて、事故にみせかけて絢女お姉さんを殺そうとしたんだって、シロちゃんや吉良くんから聞かされて、最初は信じられなかった…。でも、あたし、どうして絢女お姉さんのことを知らなかったんだろうって疑問に思って、そしたら、藍染隊長は自分が殺した絢女お姉さんのことをみんなの記憶から消したくて、噂もしないように操作してたんじゃないかって思えてきたんです」
と、桃は語った。
「あたし、本当は、とっくに分かっていたんです。あたしが大好きだった藍染隊長は全部、嘘だったんだって。だのに、諦めきれずにいたんです。お見舞いに来てくれる五番隊のみんなは優しかったのに、内心では不甲斐ない副隊長のあたしのこと、きっと軽蔑してるって思ってました。だから、隊に戻るのが怖かったんです。今更、どんな顔して戻っていいのか分からなくて、現実から逃げたくて、とっくに壊れた幻に縋っていたのかもしれません」
「桃ちゃんが好きだった藍染隊長は、ちゃんといたわよ」
 絢女は柔らかな微笑を浮かべた。
「それが、あの人が演じ上げた人格だったとしても、確かに、温厚で誠実な藍染隊長は存在していたの。桃ちゃんだけじゃない。五番隊のみんなも、冬獅郎だって、桃ちゃんが憧れた藍染隊長のことを尊敬していたわ。その気持ちまで否定する必要はないでしょう?」
「お姉さん」
「ギンのことも、彼を助けたいと願う私のことも、桃ちゃんはきっと許せないだろうと思っていたの」
と、絢女は桃を見つめた。
「だから、異動の話をしたのよ。でも、桃ちゃんが私を隊長だと認めてくれるのなら、異動なんて必要ないわ。みんな、桃ちゃんを待っているんだから」
「あたし…」
「それにね。何しろ、私、四十五年も隊を離れていたでしょう? 勝手がわからないの。桃ちゃんが補佐してくれると助かるわ」
「あたしは、役立たずで、不甲斐なくて…」
「うん、そうね」
 絢女は桃の自虐を否定しなかった。
「確かに、護廷の副隊長としては、桃ちゃんは情けなかったわね。でも、」
と、絢女は真面目な顔で告げた。
「それを言うなら、私だって、私情に任せて、隊長としてあるまじき取引を総隊長に持ちかけた最低の女よ」
「そんなこと…」
「隊はぼろぼろ。副隊長は不甲斐ない上に、新隊長は自己中心的な最低の女。どん底よねぇ。五番隊って」
 絢女は自嘲の笑みとともに自隊を否定した。桃はそんな彼女を呆然と見つめた。けれど、
「桃ちゃん。どん底なら、後は這い上がっていくしかないのよ」
 続けて告げられた言葉に、はっと靄が晴れた気がした。
「一緒に、隊を立て直してくれる?」
 まっすぐに前を見据える絢女の強い眸に、
「はい!」
 思わず、力を込めて、桃は返事をした。
 そんな彼女の頭を、絢女は桃が小さい頃よくやったように、いい子、いい子と撫でる。
 二人は顔を見合わせて、笑った。

駄文倉庫に戻る
トップへ戻る
2010.05.14