See the Sun


 隊長である浮竹が呼んでいるからと伝えられ、ルキアは雨乾堂を訪れた。
 浮竹が執務室兼寝室として使用している小部屋の前に端座し、
「朽木です。お呼びと伺ったのですが」
と、室内に呼びかけると、
「ああ、入ってくれ」
と、すぐに浮竹の応えがあった。
「失礼いたします」
 襖をすっと開き、膝立ちで室内に入る。開いた襖を閉めて、浮竹に向き直ったルキアは瞬間的に体が強張るのを感じた。
 浮竹の傍らに、市丸ギンがいたのだ。
 藍染らの反乱が明らかになるよりずっと前、まだ瀞霊廷が平穏だった頃から、ルキアはこの男が怖ろしかった。男の顔にはもの柔らかな微笑が湛えられていたが、常に細められた瞳の奥は決して笑っていなかった。闇をまとい底冷えのする光を放つ冴え冴えとした緑の目は、光の加減だろうか、時折、血のように紅く見えることがあって、ルキアはそれを目にするたびに身が竦む思いがした。皆がこの禍々しい尖った霊圧に平気でいられることが不思議でならなかった。
 黒崎一護に対する死神能力の譲渡の罪で懺罪宮にいた時、彼によって、覚悟も決心も粉々に砕かれ、死の恐怖に震えたことを、ルキアは忘れられない。いまだに、その時の夢を見て、魘される日もある。彼女にとって、市丸ギンは悪夢の象徴であった。
「市丸隊長…。お久しぶりでございます」
 怖ろしかろうと、悪夢そのものであろうと、失礼は出来ない。
 その思いで、かろうじてルキアは挨拶を述べることが出来た。声は少し震えてしまったが、浮竹は理解してくれるだろう。
 藍染の率いる破面軍と護廷との争いは、護廷側の勝利で収束した。藍染に加担したはずの市丸ギンは土壇場で裏切って、上司だった男に致命傷となる傷を与えた。彼自身も命も危ういほどの重傷を負ったが、井上織姫と四番隊長・卯ノ花烈に救われ、罪人として護廷に拘束されたのだ。生き残ったギンは裁判にかけられ、「色絶無三十日」の刑に処された。ルキアは「色絶無」の刑について知識がなかったが、刑が宣告されてから聞かされた話によると、死刑よりもむごい極刑で、刑が終了したあかつきには彼は間違いなく廃人になっている、はず。
     だった。
 しかし、彼は生還した。廃人になることなく、正気を保ったまま戻ってきた彼に、護廷は隊長職復帰を認めた。
 だから、今の彼は最早、裏切り者でも、重罪人でもない。護廷三番隊長である。平隊士であるルキアが礼を失していい相手ではない。
「朽木」
 強張ったまま、震える声で挨拶の言葉を口にした部下に、浮竹は出来るだけ穏やかな声音で呼びかけた。
「市丸がおまえに謝罪したいそうだ」
 驚いて、ルキアは自隊の隊長を見つめた。恐れとこみあげる嫌悪感で、ギンを見ることは出来なかった。
「ルキアちゃん」
 逸らした視線の向こうで、静かな声が聞こえた。
「許してもらえると思てへんし、許してほしいとも思てへんけど、けじめはつけとかんならんからな」
 おそるおそる、ルキアはギンに視線を向ける。けれど、やはり恐怖が勝って、目を合わせられなかった。
「怖い思いさせてしもたな。まだ、つらいなぁ? かんにん」
 ルキアの目の前で、三番隊長はきっちりと畳に両手をつき、深々と頭を下げた。
 眼前の光景に、ルキアは息を呑んだ。あの、怖ろしい三番隊長が、悪夢そのものの男が、平隊士のルキアに旋毛が見えるほど深く頭を垂れているのだ。
「あ、頭をお上げ下さい、市丸隊長!」
 慌てて、ルキアは叫んだ。彼に対する恐怖も怒りも消えた訳ではなかったが、隊長に頭を下げさせる訳にはいかなかった。
「もう、よろしいですから」
 ギンはすぐには頭を上げなかった。下げられたままの頭に、困惑しきったルキアが、
「市丸隊長、どうか…」
と、更に言葉を重ね、ようやく、彼は面を上げた。
 困惑したまま彼を見下ろしていたルキアの目と、顔を上げたギンの目が交錯する。
 え、とルキアは再び息を呑んだ。
(この男は、こんな目をしていたか?)
 綺麗な木賊色の瞳は、とても穏やかで、どこか哀しげな光を湛えていた。
「無理せんでええよ」
と告げる声も、こんなに優しかっただろうか、とルキアは呆然と目の前の男を見つめた。
「怨むのも、許せへんのも当然や。言うたろ? 許してほしいと思てへんて。そんだけのことをしたんや。罵ってええ。ルキアちゃんにはその権利がある」

     この人は誰だ?

     こんな男は、知らない。

 ルキアの脳裏に二人の女がよぎった。市丸ギンが愛し、大切にしていた二人の女、松本乱菊と日番谷絢女の姿が。
(ああ、そうか)
 ルキアは胸につかえていた不審がすとんと納得できるのを感じた。
 これが本来のこの男なのだ、と。

 ルキアは、松本乱菊と日番谷絢女のことが好きだった。
 十番隊副隊長の乱菊は、日番谷先遣隊として共に現世に赴いたことで親しく話せる間柄になった。美しくて強く、その上、気さくで偉ぶったところのない乱菊は、ルキアにとって、もともと憧れの存在だった。護廷の副隊長にとって他隊の平隊士など取るに足らぬ存在だろうに、乱菊は処刑から逃れたばかりのルキアを何くれとなく気遣ってくれた。ルキアを陥れ、苦しめた者たちの中に自分の幼馴染がいることに乱菊が心を痛めていることが、ルキアにはよく分かった。幼馴染が反逆者になってしまって一番つらいのは乱菊だろうに、事情を知らない者にそれを感じさせることなく明るく振舞う彼女の毅さがまぶしかった。自分がどんなに苦しくても他人を気遣える彼女を尊敬した。
 あの決戦の日も、乱菊はルキアを庇ってくれた。乱菊が自分の身を犠牲にして助けてくれなかったら、アヨンとかいった怪物に一撃にされ、あるいはルキアは即死していたかもしれない。だが、乱菊はルキアだから庇った、という訳ではないとも思っている。危ないと思った瞬間に無意識で体が動いて、乱菊はルキアを守ろうとしたのだ。ふだんはおちゃらけていると感じるほどに好き勝手な振舞いを見せていても、いざという時には自分よりも他人を優先する。松本乱菊という女性はそういう人だった。
 そして、そんな乱菊に、ルキアは感謝こそすれ、わだかまりなど持ちようがなかった。
 日番谷絢女はルキアの亡姉、緋真と友人だった。隊務で使う資料を借用しに朽木家を訪れた絢女に、白哉が緋真の話し相手を頼んだことがきっかけだったそうだ。当時の緋真は貴族暮らしになじめず、臥せりがちだったという。寂しそうな妻を少しでも慰めたくて、戌吊同様に番号の大きい流魂街の出身で歳も近かった絢女に、資料を揃える間、話し相手になってほしいと白哉は依頼したのだ。緋真と絢女はたいそう話が弾んでいた。久しぶりに見た妻の楽しそうな笑顔が忘れられず、忙しい絢女に無理を言って、何度も屋敷に来てもらったものだ。そう白哉が語った時、亡き姉は本当に絢女のことが好きだったのだと思い、ルキアは絢女に対して懐かしささえ覚えた。絢女はルキアに記憶している限りの緋真との思い出を教えてくれた。義兄以外の口から語られる緋真の姿は、ルキアの心を暖かく満たしてくれた。
「緋真さまが生きていらしたうちに、一目だけでもルキアちゃんに会わせてさしあげたかった」
と、目を潤ませた絢女の優しさが慕わしかった。
 ルキアが憧れる、美しく聡明で、とても優しい二人の女性。
 もし、市丸ギンが、かつてルキアが感じていた通りのただただ禍々しく冷酷な男であるのなら、乱菊も、絢女も、彼のことを気にかけるわけがない。そんなふうにルキアは思った。あの冷酷さも、残忍さも、彼の一面ではあるだろう。そして、ルキアはそれがこの男の全てだと信じきっていた。しかし、そうではなかったのだ。
 ルキアが流された戌吊は子供が生き延びるにはつらい場所だった。彼女と一緒にいた仲間の子供たちは恋次を除けば、皆、過酷な環境に耐え切れず死んでいった。だが、そんな戌吊でさえ最貧区ではなかった。ギンは戌吊以上に荒廃した最貧区の出である。自分一人でも生き抜くのが困難な最貧区にありながら飢え死にしかけていた少女を救い、庇い抜いた少年の毅さと優しさ。大切な女の為に何もかもを投げ打って復讐しようと企て、彼女を護る為に命を賭した男の不器用な一途さ。今までルキアが決して識ることのなかったそれらもまた、ギンの中に在ったものだ。だからこそ、あの素晴らしい女性二人は彼を愛したのだ。
 彼女たちばかりではない。まだ彼に対する裁定が下りておらず、しかし、死刑はまぬがれまいと噂されていた頃、三番隊はかつての隊長を救おうと隊を挙げて助命嘆願書を中央四十六室に提出したという。三番隊士たちにはきっと、ルキアには視えなかった市丸ギンの本当の姿が視えていたのだ。
 ルキアは思う。
 そうでなければ、自分たちを見捨て、裏切り、苦しめた隊長の為に奔走出来るはずがない。戻ってきた隊長を諸手を挙げて、受け入れられるわけがない。
「市丸は鏡花水月に囚われていた」
 ルキアにとって、公式文書に記された文字以上の意味がなかったその事実が、初めて、実感となって胸に迫ってきた。
 そして、気付いた。
 自分が、今の彼に恐怖も嫌悪も抱いていないことを    
 かつてあれほどルキアを怯えさせた、血の匂いのしそうな、ゆるゆると身を腐らせる毒のような、瘴気に満ちた霊圧はもう微塵も感じられなかった。代わりに触れるのは、先ほど見た瞳と同じ、凪のように穏やかで哀しい霊圧だった。ギンを見た瞬間に怯えてしまったのは過去のあれこれが引き起こしたパブロフの犬反応にすぎないことを、ルキアは悟る。隊長格の持つ独特の威圧感はあるので、緊張は感じるが、
(今のこの人は怖くない)
と、彼女は思った。
「ごめんな。ボクの顔、見るんも嫌やったろうに、ボクの自己満足につき合わせてしもて」
と、ギンはルキアにゆるい笑みを向けた。
「浮竹はん、お邪魔しました」
 よっこらしょ、と立ち上がろうとしたギンを、とっさに、
「お待ちください、市丸隊長」
と、ルキアは止めていた。
「ルキアちゃん?」
「朽木?」
 二人の隊長が揃って不審の目を向ける。
「市丸隊長…」
 憎しみも、怨みも、氷が溶けるように消えていた。
 だから、伝えなければいけない、とルキアは感じた。もう、自分のことで苦しまなくてもいいのだ、と。
「あの…、私は…」
 うまく言葉を紡ぎ出すことが出来ないルキアを、ギンはせかすことなく待っていた。
 やがて、
「私は…、ずっと市丸隊長のことを憎んでいました」
 はっきりと告げた彼女に、
「朽木…」
と、浮竹が言葉を挟もうとしたのを、ギンが制した。
「ずっと、あなたが怖かった。懺罪宮で私の心を玩び、覚悟を砕き、最後には殺そうとした市丸隊長のことを私は恨んでいました」
「そうやろね…」
「あの時のことは今でも悪夢に見ます。恐ろしくて、恐ろしくて、叫びたくなったことも何度もあります」
「…ごめんな」
 謝罪の言葉を口にしたギンに、ルキアは首を振った。
「あの事件はとてもつらかった。でも、同時に私に幸せをくれました」
「幸せ? なんで…」
「私はずっと、兄様のお心が理解できなかったのです。貴族の生活は私にはとても窮屈で、幼馴染だった恋次とも引き離されて、孤独でした。そんな私に優しくしてくださって、居場所を与えて下さった海燕殿さえ、私自身の手で殺めて、私は自分の生きている意味さえ見失っていました」
 ルキアは逸らすことなく、ギンの目を見つめた。彼が恐ろしかった頃には気味が悪くてたまらなかった緑の眸を、今は綺麗な色だと感じている。そんな自分に感慨を覚えながら、彼女は言葉を繋いだ。
「ですが、あの時、皆が私を救おうとしてくれました。命を賭けて尸魂界に乗り込んで来てくれた一護、井上、石田、茶渡…。兄様に刃を向けてまで私を救おうとしてくれた恋次…。私を貫くはずだった市丸隊長の剣をご自分の体で庇ってくださった兄様。浮竹隊長も、総隊長に逆らってまで、私の処刑を止めようとして下さいました」
「愛されとるね、ルキアちゃんは」
 ギンの言葉に、
「はい。そう思います」
とルキアは大きく頷いた。
「そのことを気付かせてくれたのがあの事件です。あのことがなければ、私はいまだに愛されていることに気付くことさえ出来ず、いじけて、縮こまっていたでしょう。ですが、今は、私は自分を誇りに思えます。浮竹隊長や兄様、恋次、一護…。皆が助けてくれた私自身を誇りに思い、その気持ちに恥じない者であり続けたいと願っています」
と、ルキアは息をついた。

「草鹿副隊長殿がおっしゃっていました」
「やちちゃん?」
 唐突に出てきた名前に、ギンはわずかに戸惑いを浮かべた。
「はい。市丸隊長にとっての絢女隊長は、草鹿副隊長にとっての更木隊長と同じだと。世界そのものだったのだと」
 女性死神協会の会合で、力説していたやちるの姿をルキアは思い浮かべた。
「あたしの世界は剣ちゃんがくれたの。剣ちゃんがいるから、あたしの世界はあるの! ギンちゃんも同じだよ。あやあやに世界を貰って、あやあやがいたから世界はあったの! だのに、その世界がいなくなっちゃったんだよ。すごーく怖かったに決まってる。ギンちゃんを悪い奴だっていう人は、世界を失くしてみればいいんだよ。そしたら分かるから! ギンちゃんがどんなに怖かったか、不安だったか分かるから!」
 ルキアの説明に、
「やちちゃん、そないなこと、言うとったん?」
と、ギンは苦笑いを浮かべた。
「はい。ですが、今なら、草鹿副隊長殿がおっしゃっていたことが分かります。多分、私も、海燕殿が亡くなった時に世界を失っていたのです」
 あの時感じた絶望と、自分の立つ足元が崩れていくような感覚は、今でも思い出すと体が震える。ギンはその絶望を二度も味わったのだ。人として生きていた絢女が死神に殺された時と、四十五年前、彼女が大虚に襲われて消息を絶った時に。そして、その絶望に彼はつけこまれた。
 鏡花水月に囚われていたギンは、蜘蛛の巣に搦め捕られた羽虫も同然だった。世界そのものだった女性を奪ったのが誰なのかさえ見失うほどに惑わされていた彼を、誰が責めることができるだろう、とルキアは思った。
「あの事件があったから、私は失くしていた世界を取り戻すことが出来ました。世界を失っていた市丸隊長が鏡花水月に囚われていただけだということも、今日、お会いしてよくわかりました。もう、市丸隊長を恨む気持ちは私には残っていませんし、きっと、悪夢ももう見ないと思います。ですから、市丸隊長、」
 どうか、とルキアは願う。
「私などのことで、お心を痛めないで下さい。本当に、もういいのです。私はもう大丈夫です」
 ギンはしばらく無言でルキアを見つめていた。その木賊色の瞳を臆することなく、ルキアは見返す。
「おおきに」
 ギンは頭を垂れた。最初にルキアに謝罪した時と同様に、深々と頭を下げる三番隊長に、ルキアは慌てた。
「市丸隊長、頭をお上げ下さい!」
 今度はすぐに、ギンは頭を上げた。
 ふ、と彼の口許に笑みが浮かぶ。
「ええ子やね、ルキアちゃんは。みんながルキアちゃんのこと好きなん、よう分かるわ」
 立ち上がったギンは、正座したままのルキアの頭をそっと撫でた。
 優しい手だと、ルキアは感じた。
「ほんま、おおきに。浮竹はんも、おおきに。お邪魔しました」
 ひらひらと手を振って、雨乾堂から去ってゆくギンを、ルキアは微笑を浮かべて見送った。
「朽木」
 ぽんと、肩を叩かれ、ルキアは浮竹に笑顔を向けた。
「市丸隊長にお会いできてよかったです」
「そうか」
「私も悪夢から抜け出せました」
 ルキアの言葉に、浮竹も嬉しそうに何度も何度も頷いていた。

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2010.06.12