化粧
湯屋から母屋に戻る短い渡り廊下の窓から、中空にぽっかりと浮かぶ月に気付いた。
母屋の廊下で柱によりかかり、絢女はガラス戸越しに月を見上げた。
まんまるよりわずかにいびつな今夜は、十六夜だ。その月の形は、自分が死んだ夜を思い起こさせた。
人間だった自分と弟が死んだ晩の、月の形を覚えている。
欠けている向きが目の前の月と逆だから、十四夜だったはずだ。多分、今際の際の、最期の最期に見た光景だったのだろう。月の形ははっきりと思い出せる。それなのに。
「どうして、思い出せないの…」
柱に背を凭せ掛けたまま、絢女はずるずると廊下にしゃがみこんだ。
ギンのことを思い出せない。
霊術院で彼と再会した乱菊から紹介された時、懐かしかったのは真実だ。いや、懐かしいなどという言葉ではとうてい追いつかない。彼に縋りついて、
「会いたかった!」
と叫びたい衝動に駆られるほどの、魂が揺さぶられる感情だった。
乱菊から話を聞かされていて、未だ見えぬうちから親しみを感じていたのは事実。けれど、彼に対峙した際に絢女が覚えた感覚は、親友から話を聞かされただけの初対面の男に対するものとは、明らかに異質だった。
覚えていないけれど、覚えていた 。
死んで尸魂界に送られた時に絢女が失わずに抱えていられた記憶は、一緒に死んだ弟のことと死の間際の出来事だけだった。両親のこと。友達のこと。もしかしたら他にいたかもしれない兄弟のこと。忘れたくない、忘れてはならないたくさんの大切な思い出を彼女は零してしまっていた。それらの欠けてしまった記憶の中に、きっとギンのことも含まれていたのだろう。
尸魂界で初めて会ったあの時に、溢れる感情に任せて彼に縋っていたら、結果は違っていただろうか。もしかしたら、彼は現世で共に在ったことを教えてくれたかもしれない。二人で力を合わせて冬獅郎を護れたかもしれない。だが、当時の彼女にはそんな真似はできなかった。弟を護るという個人的な事情に他人を巻き込むわけにはいかないと思い定めていた絢女は、親友であり、誰よりも信頼していた乱菊にさえ、事情を打ち明けられずにいたのだ。いくら不可解なほどに強く迸る感情があったとしても、初対面のはずの男に心をぶつけられはしなかった。
霊術院での出会いからずっと、絢女にとってギンは特別だった。
市丸ギンという男は、いつも喰えない笑みを貼り付けて己の感情を隠し、気に入らない相手には残酷なほど冷淡だった。だからだろう、彼と親しい絢女や乱菊に対し、
「あの男は危険だから、付き合わない方がいい」
と忠告してくる者は後を断たなかった。ほとんどは絢女か乱菊に恋慕した挙句の嫉妬からの発言であったが、中には衷心から諭してくる者もいた。だが、つまらない嫉妬からであればむろんのこと、たとえ真心から出たものであろうと、絢女にはその忠告は余計なお世話でしかなかった。彼は自分の味方だと、根拠もないまま信じきっていた。
四十五年前、彼女が行方不明になった日もそうだ。
誰にも打ち明けたことはないが、あの時も彼女はギンを信じていた。彼はきっと助けに来てくれると確信していた。三体もの大虚に取り囲まれ、味方は戦闘に関しては役立たずと化してしまった新人隊士ばかり。唯一頼みとなるはずの八席は新人隊士を護る為に結界保持に専心させるしかないという絶望的な状況の中、絢女が諦めることなく最後まで戦えたのは、ギンは必ず来てくれる、と信じていたからだ。絢女のような立場に置かれた時、普通の死神なら、恃みにするのは隊長だ。だが、絢女が縋った相手は隊長ではなかった。では、副隊長を恃んだのかというと、それも実は違う。市丸副隊長は私たちを見捨てたりしない、と絢女は考えていたのではなかった。
ギンは来てくれる。きっと来てくれる。
ギンは絶対に
あの時、彼女は疑いもせずに、そう考えていた。
何と傲慢な女だろう、と絢女は自分自身に反吐が出そうだ。彼の想いに気付いていながら応えようとせず、そのくせ、きっぱりと拒絶することも出来ず、気付かないふりで良き友人、忠実な部下を演じていた。この上もなく残酷な仕打ちを連ねながら、彼の真心だけを当然のように享受し続けた。
傲慢で、残酷で、身勝手な女。だから、絢女を襲った刺客が「ギンから命じられた」と証言したと知らされた時、当然だと感じた。絢女がいない間に、彼は目が覚めたのだと。自分が想っていた相手がどんなにつまらない女なのか気が付いてしまったのだと。そう思った。
だが、彼はこんなに自分勝手な女を大切に想い続けていた。
自分を襲うはずだった藍染の黒棺をその身に受け、命を賭して庇ってくれたギンの姿が絢女の瞼に焼き付いている。
「会いたかったぁ」
絢女の両眸から、涙が溢れた。
「私も会いたかった…」
そうだ。彼に会いたかったのだ。
彼が敵だと理解っていても、もう愛想を尽かされてしまったのだと考えていても、それでも、会いたかった。
会いたくて、会いたくて、それなのに、会いに行けない。
人だった頃の彼を、欠片さえ思い出せないから 。
「姉さまは、もっと欲張っていい」
不意に、地下空間に身を隠していた時に冬獅郎から告げられた言葉が甦った。
「欲しいものは欲しいって、言っていいんだ」
欲しいものは欲しいと…。
絢女は涙を拭った。
寝室として使っている部屋で、絢女は箪笥を開けた。
姉が老婆のような格好をしているのはもう見たくないからと、冬獅郎が字義通り、金に飽かせて買い整えてくれたとりどりの着物が衣装箪笥いっぱいに納まっている。それらを引っ張り出して、絢女は部屋中に広げた。畳に広がる夥しい着物を見渡して、思案の末に、彼女は一枚を手に取った。
老舗の呉服屋には、新春に上得意の客に白生地を贈る慣習があった。贈られた客はその生地を好みの色に染め、仕立てる。手にしたそれは、絢女が五番隊隊長職を拝命した際、冬獅郎が贔屓にしている呉服商から祝いとして、「時期には少し早いですが」と贈られた黄金繭の白生地を仕立てたものだ。
生地を贈られた頃は、まだギンに対する裁定が下りていなかった。新しい着物を作る心境にはとうていなれなかったのだが、護廷の事情を知らない店主の好意を無下にすることもならず、勧められるままに、ほとんど店主の言う通りに染め色を選び、仕立てを依頼したのだ。
それきり、絢女はすっかりそのことを忘れていた。
着物が仕立て上がったのはほんの五日前のことだ。納品されてようやく存在を思い出したが、当時は心ここにあらずの状態だったせいか、自分がどんな染色を注文したのかは覚えていなかった。
黄金繭とは山繭蛾の一種が作る繭である。家蚕の繭が一般的には白色であるのに対し、この特殊な野蚕は黄金色に輝く糸で繭を作る。その繭から取り出された糸は家蚕のそれよりも太くて堅く、染まりにくい。黄金繭を絵緯糸に使用して唐花の地模様を浮かび上がらせた白生地は紫みを帯びた銀灰色に染められていた。裾と袖先、左肩から襟元にかけては薩摩御納戸と呼ばれる緑がかった鼠色から滅紫のぼかしになっており、雪輪に四君子の刺繍が散らしてある。染まりにくい黄金繭からなる地模様が薄い山吹色に浮かび上がり、生地自体も野蚕と家蚕で糸の反射の具合が異なるのか、光の加減で複雑な色合いを見せる着物は絢女によく映える美しい仕上がりだった。
染め色や刺繍の図柄を決めたのは実質的には呉服店主だが、さすがに見立てには狂いがなく、納められた着物を一目見て、絢女自身もとても気に入っていた。その、仕立て上がったばかりの、まだ一度も袖を通していない着物を選び出し、絢女は初めて身に纏った。
帯は日差しにきらめく水面を箔とろうけつ染めで表した、青紫と笹色を基調とした袋名古屋。藤色に銀糸で飾りを織り込んだ
だが、副隊長舎には人の気配がなかった。
霊圧を探ると、尋ね人は十番隊隊長舎にいた。一瞬だけ逡巡した後、絢女は隣接した隊長舎へ足を向けた。
近づいて来る姉の霊圧を感知していたのだろう。訪いを入れるまでもなく、玄関で冬獅郎に出迎えられた。
「松本に用事か?」
最初に副隊長舎に向かったことも察知していたのか、冬獅郎は確認した。
「ええ。ごめんなさい。乱菊に頼みたいことがあるの。
姉がひどく思いつめた顔をしていることに、冬獅郎は気が付いた。同時に、彼女が仲の良い友人の家を訪れるという格好ではないことも悟った。
仕立て上がって間もないよそいきの着物に、特に気に入っていると明言していた帯。いつもはそっけない黒い紐で括っている髪は、丁寧に梳って下ろされている。実の弟さえ息を呑むほどに、絢女は美しく装っていた。
(そうか…)
何となく、姉が乱菊を訪ねて来た理由が分かった気がした。
奥から、乱菊が顔を覗かせた。
「松本。姉さまが頼みがあるそうだ。付き合ってやってくれ」
と乱菊に、
「俺のことは気にしなくていいから。気が済むまで、松本を使ってくれ」
と絢女に告げると、冬獅郎は奥に引っ込んだ。代わりに乱菊が玄関に出てきて、
「何、絢女?」
と尋ねる。
「ごめんなさい。せっかく二人でいたのに邪魔して…」
「いいわよ、そんなの。で、頼みって何?」
もう一度、問いかけた乱菊に絢女は答えた。
「お化粧の仕方を教えて」
「私、お化粧なんてしたことがないし、道具も持っていなくて…。でも、今日はどうしてもお化粧をしたいの。ちょっとでもいいから、きれいになりたいの。お願い、乱菊。あなたのお化粧道具を貸して。お化粧のやり方を教えて下さい」
「 ギンのところに行くのね?」
乱菊の念押しに、絢女は頷いた。
「アイツのこと、思い出せたの?」
その問いには首を振って、否定を返す。
「思い出せない…。ずっと…。ギンの証言を聞いてからずっと、思い出そうと頑張ってみたけれど、どうしても思い出せないの」
「そう…」
「ギンから『来るな』って言われて、彼のことを思い出せない薄情な私を拒まれたと思ったわ。だから、思い出すまでは会いに行けないって、そう考えた。でも、どうやっても、私はギンを思い出せない。自分でも呆れるけれど、でも、どんなに頑張っても駄目なの」
「思い出すことを諦めるの?」
「そうじゃないわ。だけど、思い出すまで待っていたら、私はいつギンに会いに行けるか分からない。私がギンから逃げていたからあんなことになってしまったのに、今度も、思い出せないからって、伝えなくてはならないことを伝えなかったら、同じことの繰り返しだって気付いたのよ。だから…、会いに行くわ。ちゃんと私の気持ちを伝えてみる」
「そっか」
頷いた乱菊を、琥珀の眸が縋るように見上げた。
「ねぇ、乱菊。間に合うと思う? こんなに薄情で身勝手な女を、ギンは許してくれると思う?」
「当たり前じゃない」
と、乱菊は思わず親友を抱きしめた。
「『来なくていい』なんて、カッコつけで馬鹿なアイツの強がりよ。あんたがいなけりゃ、正気も保てないくせに正直になれないなんて、自分でも言ってたけど、アイツはとことん阿呆なのよ」
「乱菊…」
「とにかく、あたしの部屋に行こう。ばっちりお化粧してあげるから」
乱菊は絢女を副隊長舎に引っ張っていった。
副隊長舎の寝室で、乱菊は鏡台の前に絢女を座らせた。
「今日は教える時間が惜しいから、あたしがお化粧してあげる」
と、化粧道具を広げながら、乱菊は告げた。
「今度、非番の日にじっくりお化粧の方法を教えてあげるからね」
「ギンをちゃんと誘惑できたら…ね」
絢女は気弱な笑みで返した。彼に拒絶されてしまったら、もう二度と化粧は必要なくなってしまう。
「馬っ鹿ねぇ。大丈夫に決まってるじゃない」
乱菊はきっぱりと言い切った。
夜だといっても、濃い化粧は絢女らしくない。薄化粧で、けれども、月光に映えるようにしなければ、と乱菊は腕が鳴った。
絢女の眉はもともと形の良い三日月型をしている。眉用の細い櫛で毛流れを梳かし、ほんのちょっとだけ眉鋏で整えたら、眉色に合わせた薄茶の眉墨で綺麗な眉の形を強調する。
目許にはまず、現世で入手したパール粒子入りの淡いベージュのクリームシャドウを瞼全体に薄く広げた。更に目の際にごく薄いサンドゴールドのパウダーシャドウを重ね、茄子紺色のアイペンシルで睫毛の際ぎりぎりに細くラインを引いた。
「唇、閉じて」
絢女の唇の色よりもほんの少しだけ明るい珊瑚色を紅筆に取り、丁寧に輪郭をなぞって色を乗せる。その上から、透明のグロスを唇の中央部にだけ重ねて、濡れたような艶を出した。杏色と桜色の頬紅を混ぜて、頬にやや明るめにぼかす。
「はい、出来上がり」
宣言されて、絢女は鏡を見つめた。
「どう?」
見慣れた自分の顔。だが、確かにいつもよりもずっと良いと、絢女は感じた。一見して化粧しているとわかるような濃い化粧ではないのに、ちゃんと綺麗に見えるのは乱菊の技量のなせる業なのだろう。
「ありがとう。乱菊。ちょっとだけ自信が出てきたみたい」
「ちょっとだけ?」
と、乱菊は笑った。
「今の絢女に迫られて落ちない男なんて、男じゃないわ。その気になれば、瀞霊廷中の男を落とせるわよ」
彼女は自信満々に断言する。
「瀞霊廷中の男の人を誘惑できたって、ギンに要らないって言われたら意味がないもの」
「何で、そう弱気かなぁ? 心配しなくても、真っ先にアイツが陥落するわ」
だって、ギンが欲しいのは他の誰でもなくて、絢女なんだから。
「でも…」
「ああ、もうっ!」
乱菊は絢女の肩を掴んだ。
「そんなに言うなら賭けよう。ギンを落とせなかったら、あたしの負け。志ののめ庵の一番高い会席御膳を飲み放題付きで奢るわ。その代わり、アイツを誘惑できたら、あたしの勝ちだから、現世の三ツ星レストランでフレンチのコースを奢ってもらうわよ。もちろん、高級ワイン飲み放題付きで」
「現世?」
「化粧道具、揃えないとでしょ? 現世の方が品物も豊富で、いいものがたくさんあるのよ。一緒に買い物して、その後、奢りよ。分かった?」
絢女は頷いた。
「こんなに勝ちたくない賭けって初めてよ」
真顔で呟いた彼女は、覚悟を決めて立ち上がった。
「ありがとう、乱菊。行って来る」
「いってらっしゃい。フレンチ、楽しみにしてるからね!!」
負けるわけがない。
乱菊は確信している。
百四十年も焦がれ続けた女に、据え膳を据えられるのだ。抗えるはずがない。
(絢女、ギンをお願い。幸せにしてやって)
言葉にならない乱菊の祈りが、絢女の身に沁み入った。その祈りに背中を押され、絢女は三番隊長舎へと急いだ。