雛罌粟をあなたから
桃は隊寮へと急いでいた。
この日は非番で、彼女は久しぶりに西流魂街の祖母の家に里帰りをした。一人きりで流魂街に暮らす祖母が淋しい思いをしているのは知っているから、桃としてももっと頻繁に様子を見に行きたいところだ。だが、上位席官である桃は何かと忙しく、気にかかる心とは裏腹になかなか祖母の顔を見に帰れない。その代わり、帰れる日は可能な限り長居をして、祖母に甘えることにしていた。大好きな祖母の手料理の夕飯を食べ、後片付けを手伝って、辞したのはもう日もとっぷりと暮れ果てた時間だった。
門番のジ丹坊から、
「気をつけるだど」
と見送られて、桃は瀞霊廷に入った。
瀞霊廷も広くて、流魂街との壁の近辺は人家もほとんどなく寂れている。桃は五番隊の第三席の地位にあり、戦闘力、霊力ともそのあたりのごろつきではとても太刀打ち出来ないから、身の危険を感じているわけではないが、人家の疎らな辺りを夜に通るのは気味が悪くてどうしても早足になる。そうやって、ようやく貧しい下級貴族たちが住まう集落に差し掛かった時、桃は闇の中で呻く人の声を聞いた。
放っても置けず、桃は声の方に足を向けた。暗闇に提灯のぼんやりとした灯りがあって、その傍らに蹲る人影があった。
近づいてみると、それは白髪頭の小柄な老人で、腹を押さえて苦しそうに呻いている。
「どうなさったんですか?」
桃が声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。その額には脂汗が滲んでいる。
「…持病の癪の発作で…」
「それは…」
「お医者さまのところに行こうと思ったんですが…、どうにも痛みがこらえきれなくなって…」
一瞬、鬼道を使えば、痛みを抑えることが出来るのではないか、と桃は考えた。彼女は「鬼道の達人」と異名を取るほどに鬼道には長けている。破道や縛道はむろんだが、主に四番隊が遣う回復鬼道も能くこなせる。だが、彼女の回復鬼道が役に立つのは、戦場で外傷を負った場合である。この老人が苦しんでいる内部疾患の場合、どこが悪くてこんな痛みが生じているのか、医術の心得のない桃には判断が出来ない。例えば、痛みを和らげるにしても患部を温めるのが有効な場合と、温めては却って悪化する場合がある。どんな回復鬼道を用いるのが適切なのか分からない以上、下手な治療を施すことは控えざるを得なかった。
「近くにお医者さまがお住まいなんですか?」
「はい、この先に…」
と老人は集落の外れを指差した。頷いた桃は、
「負ぶさって下さい。お医者さまのところまでお連れしますから…」
と老人に背を向けてしゃがみ込んだ。
「しかし…」
「大丈夫です。あたし、こう見えてもけっこう力持ちなんですよ。おじいちゃん一人くらい余裕です」
桃は自信たっぷりに断言する。小柄で華奢な桃だったが、伊達に上位席官の地位にいるわけではない。見た目以上に体力はあるのだ。
「申し訳…ありません」
老人はしばらく躊躇っていたが再度、促され、謝罪しながらも負ぶさった。
桃は老人を背にして、危なげなく立ち上がった。先ほど、老人が示した方角に向かって、しっかりとした足取りで歩んでいく。
「痛み、大丈夫ですか…?」
背中の年寄りを気遣うと、
「…おんぶしていただいて、少し楽になりました」
と応えが返ってきた。
おばあちゃん子である桃は、老人に対してはそれだけで親しみを感じる傾向があった。心細げな老人の声を聞いて、
(お医者さまのところについたら、回復鬼道を遣えることを伝えておじいちゃんの治療のお手伝いしよう)
と桃は思った。医者の指示の下でなら、鬼道は下手な薬よりもよっぽど効果的なはずだ。
しばらく歩いた後、桃に掴まっていた老人の腕が弛緩した。だらっと、胸元にまで下がって来た腕に、
「おじいちゃん、具合悪いんですか?」
と桃は心配そうに老人を振り返る。直後、
「!!」
胸に強い衝撃を感じた。何が起こったのか理解する暇さえない刹那の出来事だった。
桃は意識を失い、どさりとその場に崩れた。
月に一度か、せいぜいが二度ほどだったが、乱菊は仕事を終えた後、日本舞踊の稽古に通っている。
霊術院の学生時代、同級生だった上級貴族の娘の舞を目にして以来、すっかり虜になった乱菊はそれからずっと日舞を学んでいた。霊術院の学生の頃と平隊士の頃は、きっかけとなった同期の逆瀬川
勤務が終わってからのことであるし、滅多に来られない愛弟子の乱菊の訪れに、師匠は娘の顕子ともども夕飯を準備して迎えてくれるしで、稽古の日の帰りはたいそう遅くなるのが常だった。
逆瀬川の屋敷を辞して、貴族の屋敷が連なる街を隊寮に向かって歩いていた乱菊は、宴会の帰りらしい一団とすれ違った。
男女二人ずつの集団で、女の一人は酔いつぶれてしまったのか、男の背に背負われている。もう一人の女が、しきりに話しかけているが返事もせずに寝入っているようだ。すれ違う際、ぷんと酒の匂いがしたし、時間的にも宴会の帰りと判断して全く不自然はなかった。
だが、一団と往き遭ってしばらくして、乱菊の足はぴたりと止まった。振り返り、遠ざかっていく集団をそっと窺う。
酔いつぶれた風情で男に背負われていた女に、乱菊は見覚えがあったのだ。
(雛森…?)
暗い夜道である。他人の空似かもしれないとも思った。だが、霊絡を探ると間違いなく桃だった。
乱菊の上司である十番隊隊長・日番谷冬獅郎。その幼馴染が桃である。単なる幼馴染ではなく、同じ老婆に庇護されてひとつ屋根の下で家族として暮らしてきた、冬獅郎にとっては姉妹に等しい存在である。だから、乱菊も桃のことはよく知っていた。冬獅郎が隊長に就任して以来、桃は頻繁に十番隊に遊びに来るようになっていたし、人懐っこい桃のことは乱菊も妹に対するような親しみを感じていたのだ。
桃と一緒にいた誰とも、乱菊は面識がなかった。それに、もし、酔いつぶれた桃を死神ではない友人が送っているのだとしても、方角がまるで違う。彼らは五番隊の隊寮とは逆方向に向かっていた。
乱菊の直感が異常を告げた。
普段の乱菊なら、即座に彼らを追って問い質していただろう。だが、それをしなかったのは、先日の隊長格会議で砕蜂から伝えられた話が記憶に蘇ったからだ。
瀞霊廷内で、この一年で五人の若い女が行方知れずになっているという件であった。何れも貧しい下級貴族の娘で、家族や勤め先の雇い主から警邏隊に届けがあった。
流魂街、それも治安の悪い貧困地区では若い女の行方不明など珍しくもない。最貧区ともなれば、日常茶飯事でさえあった。行方不明の女のほとんどは
だが、瀞霊廷内となると全く話は異なる。若い娘の行方不明など大事件である。届けを受けた警邏隊の捜査にも関わらず、女たちは見つからなかった。彼女たちは皆、自ら家を出るような事情は見当たらず、また身の回りの品もそのままに忽然と姿を消していることから、何らかの事件に巻き込まれた可能性が高かった。生死も不明であったので、生きている前提で秘密裏に捜査は行われていたが、手掛かりは掴めず、思い余った砕蜂の判断で護廷隊長格にのみ事件は伝えられた。少しでも不審なことや市中見回りで気付いた点があれば情報提供してほしいということだった。
行方不明の女はどの娘もたいそう美しかった。それ故、誰もが真っ先に案じたのは暴行目的で攫われたということだった。桃は充分に愛らしく、しかも私服姿だった。死神と気付かれずに狙われた可能性もある。
乱菊は伝令神機を取り出した。登録してあるボタンを押すと、ほどなく相手が出た。
「どうした、松本?」
伝令神機の向こうにいる冬獅郎に、乱菊は手早く事情を説明した。
「あたしはあいつらを尾けてみます」
「わかった。砕蜂に連絡しておく。俺もすぐに出られるように待機しておく」
「はい。あいつらの行き先が分かったらすぐに連絡します」
「頼む。だが、無茶はするな」
乱菊は集団と距離を保ったまま、こっそりと後を追った。桃は相変わらず意識がない様子で、男の背にぐったりと負ぶわれたままだ。
いくつかの貴族の屋敷を抜けた。先ほどまで乱菊がいた逆瀬川家の屋敷も通り過ぎた。
そして、とある屋敷に、桃を連れた一団は吸い込まれていった。正門ではなく、使用人が出入りする為の勝手門から、彼らは屋敷に入っていった。
「この屋敷は…?」
構えからして、上級貴族か、相当に裕福な中級貴族の屋敷だと推測出来た。だが、乱菊も貴族の屋敷をくまなく把握しているわけではない。思い切って勝手門に近付いてみたが、家主を特定する手掛かりは見当たらなかった。
「当家に何か御用ですか?」
中に侵入すべきかと門を見詰めたまま思案していた乱菊は、向こうの通りから入って来た老人に声を掛けられた。
「このお屋敷の方ですか?」
「はい。この屋敷の家令を務めております者です。当家に何か御用ですか?」
「いえ、すみません」
と乱菊は愛想笑いを浮かべた。
「さっき、昔の知り合いによく似た人がこの門を入ってゆくのを見かけまして」
「ほう?」
「もしかしたら、このお屋敷でお世話になっているのかしらって思ったものですから」
「お友達の方ですか?」
「ええ。昔馴染み…。いつの間にか音信不通になってしまった人だから…。懐かしくて、つい追いかけちゃったんですけど、人違いだったかもしれませんね」
乱菊は咄嗟に、自分を捨てた昔の男を追いかけてきた女の振りをした。門を凝視していた態度もこれならば説明がつくだろうと考えた。
「それは、それは…。お友達の名は何とおっしゃいます? 呼んで参りましょうか?」
老人は柔和で人の良さそうな微笑を浮かべた。
「いえ…。あの人はあたしに会いたくないかもしれない。それに、夜だったからきっと人違いしたんです。ごめんなさい」
乱菊は頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。これ以上、ここに居座るのはまずいと本能が告げていた。
だが、乱菊も油断していたのだ。相手が小柄で善良そうな年寄りであることに。
がしゃり。
音がした、と認識した時には、すでに乱菊の右手首には枷が掛けられていた。
「なっ!?」
目を瞠った乱菊に老人は柔和な笑みのままで告げた。
「殺気石の枷ですよ、松本副隊長。これで鬼道は使えませんな」
反射的に白打を打とうとした乱菊だったが、
「縛道の四、這縄」
老人の鬼道がそれを阻んだ。
無様に道に転がった乱菊を、打って変わって冷え切った目で老人は見下ろした。
乱菊が連れ込まれたのは、黴臭い地下室だった。
桃の姿は見当たらないが、彼女と一緒にいた二人の男と女はその部屋にいた。
「その女、どうしたんだい?」
女が問うた。蓮っ葉な口調だった。男の一人がしげしげと乱菊の顔を検め、
「もの凄い上玉じゃねぇか。高く売れそうだな」
とにやりと笑った。
「売り物には出来ん」
と老人が言った。
「何でだよ?」
「この女は護廷十番隊の副隊長、松本乱菊だ。おまえら、尾けられておったのだぞ」
げっ、と男は顔を顰め、女は、
「どういうことさ?」
と乱菊を見据えた。
「まさか、さっき攫ってきた娘も死神じゃないだろうね」
第二席と第三席の差。第三席と第四席の差。ともに一階級の差であるが、前者と後者には雲泥の違いがあった。能力的な点での差ではない。社会的な地位の違いである。第二席は副隊長の地位にあり、隊長とひっくるめて「隊長格」と称される。隊を纏める統括官として扱われるのだ。上位席官は護廷の対外的な交渉の場に引っ張り出されることはないが、副隊長は違う。霊術院の講師も依頼されるし、任務によっては他隊の隊員を預かることや、貴族との交渉を任されることだってある。つまり、護廷の外にまで顔や名前が知られるのだ。五席から四席、四席から三席への昇進は単なる地位の向上であるが、三席から二席への昇進はそれらの対外的な責任を受け入れることを伴うだけに比べ物にならないほどの覚悟が必要となる。
桃は第三席なので、一歩、護廷の外に出ると、顔も名も地位も知る者は少ない。どうやら、乱菊の想像した通り、男たちは桃を死神だとは知らずに攫ったらしい。だとしたら、あくまでも一般人と思わせておかなければ彼女の身にまで危険が及ぶ、と乱菊は考えた。
「あの娘はあたしが行きつけの甘味処の娘よ。あんたたち、あの娘をどうしようっていうの?」
乱菊はきっと男たちを睨んで尋ねた。
「売り飛ばすのさ」
もう一人の男が答えた。
老人が、しゃべりすぎだと言いたげに男を睨んだが、
「売り物にならねぇんだから、どうせ
と彼は反論した。
「妓楼にでも売るつもり!?」
「まさか。妓楼に攫った娘を売ったりしたら、すぐにばれるだろう。貴族に売るのさ」
「貴族…ですって?」
男はふふんと鼻でせせら嗤った。
「貴族の偉いさんの中には、金で女を囲うんじゃもの足りねぇって嗜好の連中がいらっしゃるんだよ」
「…」
「素人娘を好きなように飼育してみたいっていう変態がな」
おぞましさで乱菊は吐きそうになった。攫われた五人の娘たちは、変態の貴族とやらに売り飛ばされ、屋敷に閉じ込められて慰みものになっていたのだ。
「あんたたち、なんてことを…」
怒りに震える乱菊の四肢を、男たちが好色そうにじっとりと舐めまわした。
「『護廷の華』ってのも伊達じゃねぇな」
「殺すのが惜しい、いい女だ」
対して、女が言った。
「犯っちゃえば? どうせ殺すんなら、最後に天国に行かせてやるのも一興だろうさ」
下品な笑い声を立てると女は地下室を出て行き、後には老人と男二人が残された。
男たちは老人を窺った。どうやら、この集団の中では老人が頭であるらしい。
「好きにしろ」
老人は答えた。
這縄にがんじがらめにされたままの乱菊を男の一人が引き起こした。背中から彼女を抱きかかえた男は、いきなり身八つ口に手を差し込んで、乳房をわし掴みにした。
「!!」
嫌悪感と嘔吐感で乱菊の身体は思わず震えた。
「感じてやがるのか?」
男がいやらしく問いかけてきたが、乱菊は答えなかった。もう一人の男が乱菊の着物の裾を割ろうとした。だが、彼女は両足まで這縄によって縛り上げられており、それが男の蹂躙を阻む結果となった。男は舌打ちをすると、老人を振り返った。
「この術、邪魔だ。解いてくれ」
彼の言葉に、老人は憐れむような視線を投げた。だが、それは一瞬のことで、すぐに老人は術を解いた。
同時に、乱菊は動いた。両足を跳ね上げ、圧し掛かろうとしていた男の
「うぐっ」
と男は崩れ落ちた。
「このアマ!」
乱菊を抱え込んでいた男が怒声を発したが、彼女の胸元に手を差し入れていた分、動きが鈍かった。乱菊の手刀に咽喉を突かれ、男は絶息して気を失った。
ぱちぱちと呑気な拍手が地下室に響いた。老人が笑みを浮かべ、
「さすがは副隊長。お見事」
と称賛した。
「斬魄刀もない、鬼道も使えぬとあなどっているとこういう目に遭う。こやつらにはいい薬だ」
乱菊は身構えた。この老人は鬼道を遣える。乱菊に殺気石の枷をかけた手際からしても只者ではない。霊力を封じられた乱菊に使えるのは白打だけだ。体力や膂力はまず若い乱菊の方が勝っているだろうから、素手の戦いであれば勝算はあった。しかし、老人がどの程度まで鬼道の能力があるかが分からないだけに迂闊に動けなかった。
「松本副隊長」
老人が呼びかけた。
「二十五年、いや三十年くらい昔でしたか。新年の賀会で舞を披露されたことがあったでしょう?」
「…」
「美しかった。実に美しかった」
老人の眸にねっとりと好色なものが加わった。
「縛道の一、塞!」
老人が鬼道を放った。横に跳んで、乱菊は躱した。だが、立て続けに衝が打たれた。強引に躱そうとして、体勢が崩れた。
「縛道の三十、
乱菊の身体が壁に叩きつけられた。両の腕と腰が巨大な三本の嘴で壁に固定され、乱菊は磔になった。壁にぶつかった際に切ったらしく、口の中に血の味が広がった。
老人は倒れている男たちを邪魔そうに足蹴にして乱菊に近づいて来た。顔立ちだけは好々爺然としているが、眸にどす黒いものが噴き零れていた。老人はゆっくりと手を上げると乱菊の唇に滲む血を掬い取り、ぺろりと舌先で舐めた。それから、彼女の胸の合わせに手をかけると、ぐいと左右に広げた。
(いや!)
圧倒的な嫌悪感に支配され、咄嗟に乱菊は目を閉じ、顔を背けた。
老人の手が乱菊の胸元に入り込んできた。
(いや…、いやだ…。隊長…)
その時、冷気を感じた。
「そこまでだ、じじい」
氷輪丸の切っ先が老人の首筋に突き付けられていた。
「たい…ちょ…」
ちらと乱菊を一瞥した冬獅郎は、次の瞬間、老人を力いっぱい蹴り飛ばした。
冬獅郎も桃と同様におばあちゃん子だったので、年寄りには基本的に親切である。だが、副官を穢そうとした老人には手加減をしてやる気は全くないらしく、倒れた老人の腹を土足のまま踏みにじった。冬獅郎の怒気はそのまま凍気になって、黴臭い室内に吹き荒れ、一気に室内を氷点下にまで押し下げた。
「その辺にしておけ」
地下室の入口から、女の声がした。
「おまえの副官まで凍えているぞ」
砕蜂だった。彼女は埃と氷と鼻血にまみれた老人を乱暴に引き起こすと、その懐を探った。すぐに目当てのものを見付けたらしく、ぽいと老人を抛り捨てると壁際に歩み寄った。老人が気を失ってしまった為、嘴突三閃の拘束はすでに消えていたが、霊力を封じられた状態で冬獅郎の強烈な霊圧と凍気にさらされた乱菊はその場に蹲って震えていた。砕蜂の手が先ほど老人に乱されて
「これで、少しはましだろう」
「ありがとうございます。砕蜂隊長」
砕蜂は冬獅郎を振り向いた。
「雛森三席は保護した。だが、どうも睡眠薬を打たれているようで意識が戻らん。四番隊に収容して、明日、事情聴取させてもらうぞ」
「分かった」
「悪いが、松本には事情聴取に付き合ってもらう」
「ああ…」
砕蜂の指示で警邏隊の隊員たちが地下室に入ってきて、老人と男二人を拘束した。もう一人の女もすでに捕縛ずみであるらしい。
冬獅郎は未だに凍えている乱菊に歩み寄ると、隊長羽織を脱いで彼女に着せ掛けた。
「すまん…。おまえのことにまで気がまわらねぇで凍気を振りまいてしまった」
乱菊は緩く首を振った。
「隊長…どうしてここが…」
乱菊は結局、冬獅郎に二次報告できないままに捕われてしまった。だから、助けが来るなど思いもよらなかった。
「おまえから連絡を受けて、すぐに
冬獅郎は答えた。
「そうだったんですか…」
「いきなり、霊圧が消えたから焦った」
「すみません。ドジ踏んじゃって」
「いや、おまえはよくやってくれた。雛森が無事だったのも松本のおかげだ」
と冬獅郎は優しく乱菊をねぎらった。
警邏隊での事情聴取を終えた乱菊と冬獅郎が隊寮に戻った時には、すでに暁の八つ *1 をまわっていた。乱菊は冬獅郎に、四番隊に収容された桃に付き添うことを勧めたが、彼は、
「あいつはずっと眠っていただけで、たいして怖い思いをしたわけじゃねぇし、四番隊にいるなら大丈夫だろう」
と首を縦に振らなかった。冬獅郎が乱菊を気遣っていることは明らかだった。
「たいちょ、お茶でも飲んでいかれませんか?」
副隊長舎の前で、乱菊は誘った。冬獅郎に気まずい思いをさせたままに別れるのは気が咎めた。自分は大丈夫なのだと、平気なのだと、どうしても伝えておきたかった。
副隊長舎の居間で、茶を飲んでいる間、冬獅郎と乱菊の間に会話はなかった。
茶を飲み終えた乱菊がことりと湯呑を卓に置いた時、
「すまなかった」
と冬獅郎は詫びた。
「雛森のせいでおまえにつらい思いをさせた」
「平気ですよ、隊長」
乱菊はことさらに朗らかに笑い飛ばしてみせた。
「雛森を責めないでくださいね。それに、今回の件が解決したのはある意味、雛森のおかげですよ。あれが、雛森じゃなかったら、あたし、酔っぱらいが家に帰っているだけだって気に留めなかったですもん」
上手いやり方だったと乱菊は思う。攫った女を堂々と運べる上に、不審にも思われない。一味に女がいたのも効果的だった。あれが男だけで運んでいたら不審に感じる者ももっといただろう。だが、女が傍についていたから、友人同士だろうと見過ごしてしまう。見られても記憶には残らないのだ。もし、桃ではない違う娘が攫われていたら、乱菊はそのまますれ違っていたし、翌日、新たな行方不明者が出たと聞いてもあの一団と結びつけて考えることもなかったはずだ。
「確かにな。けど、それとこれとは話が別だ。すまなかった」
「よして下さい。隊長が来て下さって、あたしも無事だったんですから」
「しかし…」
冬獅郎は乱菊が身体を
だから、もう一度、乱菊は笑った。
「たいちょ、あれぐらい、全然どうってことないですよ」
「…」
「ほら、隊長もご存知でしょ? あたし、最貧区の出身ですから。あれくらいのことは慣れっこですよ。いちいち、気にしたりしません。本当に平気なんですって」
けらけらと明るい笑い声を立てる乱菊を、冬獅郎はじっと見つめていた。
納得しただろうかと、乱菊が笑い続けながら上司を窺った時、黙りこくっていた冬獅郎が言の葉を吐き出した。
「俺には、慣れているようにも、平気そうにも見えなかった」
心が震えた。
空笑いを続けることが出来ず、口を噤んだ乱菊に、冬獅郎は畳み掛けた。
「最貧区のことは俺も知っている。単なる知識だけどな。だから、おまえが以前にもあんな目に遭ったことがあるってなら、そうかもしれねぇって思う」
自分で同じようなことは何回でもあったと言っておきながら、冬獅郎が肯定したことが苦しかった。思わず、彼から視線を外し、湯呑を睨んだ乱菊に、
「前に同じことがあったとしても、なかったとしても、あんなもん、慣れて平気になれるわけねぇだろう?」
と冬獅郎の声が追いかけてきた。
「もし、松本が本気で平気だと感じているとしたら、それはつらすぎて心が麻痺しちまって、平気だと思い込んでいるだけだ」
「…たい…ちょう…」
「それでもおまえが平気だと言い張るなら、仕方ねぇ。けどな、『最貧区出身だから』っていうのは止せ」
冬獅郎は覗き込むようにして、乱菊と目を合わせた。
「分からねぇか? おまえのその言い方は、おまえだけじゃなくて最貧区から這い上がって来た全部の女を侮辱しているんだぞ」
乱菊には霊力があった。流魂街に流されて間もなく知り合ったギンは、やはり霊力があり、しかも乱菊とは違ってその力を利用する術を身に着けた少年だった。彼が最初に乱菊に教えたことは霊力を使用した護身術だった。また、今にして思えば、彼はその強い霊力で乱菊のことをずっと護ってくれていたのだ。
だから、乱菊は最貧区で決定的な傷を負うことなく生き延びることが出来た。けれども、無傷ではなかった。相手の膂力や人数が乱菊の霊力を上回り、すんでのところをギンに救われたことは幾度もあったし、身体を探られた経験も数えきれなかった。そして、絶対にそれは慣れられないものだった。
いつだって、怖かった。いつだって、いやでいやでたまらなかった。男に触れられた後は吐き気が治まらず、実際に吐いたことも何度もある。そんな時、ギンは黙って乱菊を抱きしめてくれた。男に触れられるのはいやだったが、ギンに抱きしめられるのだけは少しもいやではなかった。
「松本、平気だったのか?」
もう一度、冬獅郎は尋ねた。
乱菊はかぶりを振った。
「そうか…」
冬獅郎は立ち上がると、乱菊を抱き寄せた。とん、と乱菊の頭が冬獅郎の胸にぶつかった。彼女の頭を抱え込んだまま、冬獅郎は言った。
「すまない。護ってやれなくて」
乱菊は冬獅郎の袖を握りしめた。子供の頃、ギンに抱きしめられるのがいやではなかったように、冬獅郎の腕の中は心地よかった。
とくん、とくん、と規則正しい冬獅郎の心音が聞こえてきた。
乱菊はゆっくりと彼の心臓の音を数えた。千まで数えて、強がりではなく、本当に大丈夫だと確信を持てた。ずっとくすぶっていた吐き気も消えていた。乱菊はそっと冬獅郎の胸から顔を上げた。まだ心配そうに見つめる翡翠の眸を捉え、乱菊は微笑んだ。先ほどまでの作った笑い顔ではなく、自然に浮かんだ笑みであった。
「隊長、ありがとうございます」
と乱菊は告げた。
「もう、大丈夫です」
乱菊の纏う空気が変わったのが冬獅郎にも伝わったのだろう。冬獅郎もふっと笑みを浮かべた。普段は遥か高い位置にあって触れることも難しい乱菊の頭を、ぽん、と軽く叩くと彼は乱菊の身体から手を離した。
「今日は疲れたろう? 明日は休んでもいいぞ」
「ありがとうございます。でも出ますよ。ちょっと寝過ごして遅刻しちゃうかもしれませんけど」
「…明日だけは見逃してやる」
引き上げようとする冬獅郎の背中の「十」の文字を目にした途端、乱菊は言いそびれていた言葉を思い出した。
「隊長」
「おう、何だ?」
「助けて下さってありがとうございます」
冬獅郎は右手を挙げて応えると、
「おやすみ」
と隊長舎に帰って行った。
この事件では、女を買った三貴族が家を取り潰された。主犯の老人を召し抱えていた主家は犯行とは無関係であったが、使用人の管理不行き届きの咎で莫大な賠償金を支払うこととなった。
攫われた娘たちのうち、一名はすでに虐待により衰弱死しており、残り四人のうち、一名は気が触れてしまっていた。
老人は死神崩れだったそうだ。若い頃に討伐で大怪我を負って、死神を廃業したらしく、記録によれば最終的な席次は第六席であった。
*1 暁の八つ:午前2時過ぎ。
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「雛罌粟をあなたから」
この作品は"ひらひら"さまの掲載の「突発落書」に萌えた結果の妄想が形になったものです。元々のイラストでは中人隊長か大人隊長で、私の最初の妄想もそこだったのですが、作品の形が固まるに従って、子供隊長とした方が時間軸からもラストからも無理がないという結論に達して変更し、「風が還る日」の幕間のエピソードにしてしまいました。そのせいで、雛森ちゃんが副隊長になる前は三席だったとか、例によって、拙宅仕様の捏造もてんこもりとなった作品になってしまいましたが。
元絵掲載の"ひらひら"さまへはこちらからどうぞ。
なお、この駄文は"ひらひら"管理人のひのかさまへ捧げます。ありがとうございました。
-- 付記 --
"ひらひら"管理人のひのかさまからこの小説のワンシーンを漫画にしたものを頂きました。とても、素敵な作品をありがとうございます。頂いた漫画は「宝物蔵」に展示してあります。