荒野の果て
「しゃあないなァ」
ギンは嘯いて、目の前の少女を見据えた。
蛇に睨まれた蛙。
慣用表現そのままに、彼女は怯えきって、為す術もなくギンを見返していた。霊圧に中てられ弛緩しきった身体を藍染によって無造作に吊り上げられ、抵抗することさえ出来ずに。
彼女を救いに来たはずの一護も、恋次も、藍染の剣で完膚なきまでに叩き伏せられ、最早、彼女を護れはしない。絶望に身を任せて、ギンの刃を待つルキアは生贄の羊のようにも見えた。
(ほんま、しゃあない)
丘に近付いてくる白哉の霊圧を感じる。今更、ここに来て、彼は何をしようというのだろう。ギンの頬に嘲りが浮かんだ。神鎗の鯉口を切り、ギンはルキアに向かって刃を突き出した。
「射殺せ、神鎗」
刀身を自在に伸ばせるギンの斬魄刀は、名にし負う神速で哀れな獲物に襲い掛かった。
銀鼠で細い縞を織り出した泥大島の紬の小紋に、朽葉色の帯。
相変わらず、若い娘とも思えない渋い、地味な色合わせの装いであるが、着物自体は上物の外出着だ。地味ななりに精一杯に身なりを整えて隊寮を出ようとする絢女を見咎め、ギンは、
「また、朽木はんのお屋敷に行くん?」
と眉を顰めた。声音に思わず詰る色が混じった。
「ええ。お夕食に呼ばれているの」
悪びれずに絢女は答えた。ギンの声に滲む不快に気が付いていないわけがないのだが、知らぬ顔で黙殺し、あっさりと肯定を返す彼女に、ギンの苛立ちは深まった。
「ええ加減にしィ、絢女。朽木はんとのことが妙な噂になっとうの、耳に入ってへんわけないなぁ」
絢女は静かに肯定した。
「いくつかは知っているけど、どれも卑しい憶測よ」
三月ほど前、隊務にどうしても必要で、五番隊は朽木家が所蔵する古文書を借り受けた。仮にも四大貴族から貴重な文書を借用しようというので、隊長の藍染は三席の地位にあり人当たりのよい絢女を遣いに立てた。この時の遣いで白哉の妻である緋真に気に入られた絢女は、以来、ひんぱんに朽木家に招かれるようになっていた。
四大貴族の当主にして、六番隊副隊長の朽木白哉が数年前に娶った妻は、南流魂街戌吊出身の女だった。誇り高い四大貴族当主が、流魂街、それも決して治安が良いとはいえない戌吊出の女を妻にしたということで当時は大騒ぎになったものだし、今でも、口さがない者たちは面白可笑しく噂話を交わしていた。比較的まともで信憑性のある噂と、絢女から聞かされた話を総合して、白哉の妻である緋真は、他人の保護欲をそそる控えめで儚げな佇まいの女性であるらしいと、ギンは見当を付けていた。身体もあまり丈夫な
万事において遠慮がちな、おとなしい女性が流魂街出身の身で四大貴族の当主夫人に納まったのだ。表向きは白哉の目を慮って丁重に扱われても、裏では妬みと蔑みから来る陰湿な嫌がらせを受けただろうことは、ギンにも容易に想像がつく。絢女の話もそれを裏付けており、緋真が病みついた遠因には、この嫌がらせに対する心労もあるらしい。貴族社会に馴染めず、友人の一人もおらず、ただ夫だけを頼りにしている緋真を哀れに思ったか、白哉は藍染の名代で屋敷を訪れた絢女に妻の話し相手を依頼し、それがきっかけで二人は親しくなったのだ。
白哉は、孤独な妻を少しでも慰めたいと思った。絢女は緋真の境遇に深い共感を覚え、彼女の役に立ちたいと願った。それゆえに、白哉は妻女の友人として絢女を招き、絢女もまた緋真を励ましたいとそれに応じた。絢女と白哉の間にあるのは、ただそれだけの、邪なものは何一つない関係であったが、世間はそうは取らなかった。
緋真が健やかであったなら、あるいは、絢女が凡庸な容姿の娘であったなら、噂も違っていたかもしれない。だが、病がちの妻を持つ若き貴族当主の許に美貌の娘が出入りしているという状況は、人々の卑俗な好奇心を煽ったのだ。
あるいは、緋真の死後の後妻の地位を狙って、絢女が白哉に取り入ろうとしている。
最初に囁かれたのはそういった類のものだった。喜んで囃し立てる者の品性が疑われる内容であるが、その頃はまだおとなしめであったのだ。しかし、噂というものは尾鰭がつくのが宿命である。三月が過ぎた今では、絢女と白哉は、緋真が病で床を離れられないことをこれ幸いと、朽木の屋敷で堂々と逢引きしているというものに変わっていた。
ギンはそれが悔しかった。白哉に悪い噂が流れるのは一向に構わない。自業自得だ。しかし、それに絢女を巻き込んでいるのが我慢ならなかったのだ。だが、当の絢女は、
「私と朽木副隊長は疾しい関係じゃないわ。私はただ、緋真さまの話し相手に呼ばれているだけよ」
と全く意に介していなかった。
「せやけど、絢女。噂はどんどん酷うなっていっとるで。嫁入り前の娘が淫乱みたいに言われるのはようない」
「心配してくれてありがとう。でもね、ギン。私には、どうでもいい人たちが面白がって流している根拠のない噂なんかより、緋真さまにちょっとでもお元気になっていただく方が大事なの。言いたい人には言わせておけばいいのよ」
「けど…」
「緋真さまがお元気になられて外出が出来るようになったら、一緒にお買い物に行く約束をしているの。朽木副隊長の奥様と私が仲良く一緒に歩いている姿を見れば、噂なんて、全然根拠がないんだって、すぐに分かるわ」
一体いつ、緋真は元気になるというのだ。ギンは心の中で臍を噛んだ。彼女が病みついたと噂されるようになってから、もう何ヶ月も過ぎている。絢女が朽木家に出入りするようになってから数えてさえ、既に三月が過ぎているというのに。病人は四大貴族の当主夫人である。医者も薬も最高の手を尽くされているにも拘らず、一向に良くなる気配がないのだ。もう治らないと考えた方が良いのではないか。
「縁起でもないことを言わないで」
ギンの言葉にキッと眦を決して、絢女は反論した。
「言ったでしょう。緋真さまとお買い物に行く約束をしているって。緋真さまがお元気になられたら、一緒にお買い物に行って、甘味処でおぜんざいを食べるのよ。緋真さまはきっと良くなられるわ」
それは言霊の符呪。元気になる、良くなる、と繰り返し囁き、楽しい未来を約束することで、絢女は緋真に纏いつく病魔を払おうとしているのだろう。
「もう行くわ。遅くなったら失礼だもの」
最早、引き留める術を持たず、ギンは朽木家に向かう絢女を見送った。
絢女と白哉に男女の関係は言うまでもなく、恋愛感情さえ欠片もないことは事実だ。白哉が愛しているのはあくまでも緋真であるし、絢女にしても、白哉に対して一般的な意味での好意は抱いているにしろ、友人の夫という認識でいることは間違いない。だが、ずっとそうだとは限らないと、ギンは考えていた。例えば、緋真が闘病の甲斐なく身罷ってしまったならば、白哉はしばらくは最愛の妻を亡くした悲嘆に暮れるに違いない。だが、そこから立ち上がった時、彼は絢女に惹かれないだろうか。愛しい妻の友人として最期まで寄り添った、容姿ばかりか心根も美しい娘を女として意識しないでいられるだろうか。そして、絢女も白哉ほどの男に望まれて、心が動かないなどあるだろうか。
絢女には幸せになって欲しい。そして、彼女を幸せに出来るのは決して自分ではない。緋真の死を前提に考えるなら、白哉ほど絢女を幸せに出来そうな男をギンは思いつかなかった。六番隊の副隊長で、隊長就任も遠くないと囁かれる死神としての実力。四大貴族としての地位と権力。高い自尊心の為せるわざか、言動がやや尊大なのが鼻につきはするが、ギンとは違って清廉な生い立ち。絢女と話している姿など、一対の雛を見るようだ。白哉ならば、絢女を幸せに出来る。彼女を護れる。だが、目の前で彼女を攫われてしまうのは、どうしても、ギンには耐えられそうになかった。絢女の幸せを願い、白哉ならばそれが可能だと認めておきながら、一方で、自分のものですらない彼女を渡したくないと望む。裏腹な心を、ギンは持て余していた。
「緋真さん、元気になってくれるとええんやけど」
緋真が存命である限り、白哉が絢女に惹かれることはない。身勝手な理由で、ギンは会ったこともない女の本復を願わずにはいられなかった。
瀞霊廷では、月の満ち欠けが一巡りしたところで、
忌流しの儀に参列したのを最後に、絢女が朽木家を訪れることはなくなった。
白哉がそれを望んだのだ。彼は自分と絢女の間に囁かれる不名誉な噂を耳にしていた。そして、そんな風評が流れるようになった原因は、頻繁に絢女を屋敷に招く自分にあることも理解していた。白哉を貶めるだけならば、「くだらぬ」と切り捨てることは出来た。小物が何を騒ごうと、四大貴族の当主である彼を揺るがせることなど出来はしないのだ。だが、絢女のように清らかで真っ直ぐな娘までもが、云われない中傷に晒されるのは忍び難いものがあった。絢女の為を想うなら、屋敷に招くのを控えるべきだと重々承知していながら止められなかったのは、彼女が緋真が瀞霊廷に入ってから初めて心を許した唯一の友人であったからだ。絢女の訪れを心待ちにしている妻の顔を見ると、自分と彼女の間が邪推されていて、その為に彼女が迷惑を蒙っているのだとは、白哉はどうしても打ち明けられなかった。知れば、緋真は絢女を招くのはもう止めようと言うだろう。だが、絢女を失ってしまったら、緋真は再び、他愛のないおしゃべりに興じる友人の一人もいない孤独に戻ってしまう。
済まぬ、と頭を下げた白哉に、
「面白がって噂しているのは、私にとって、どうでもいい人たちですから」
と絢女は微笑んだ。
「私と親しくて、信じて欲しい人たちは、朽木副隊長と私が何でもないっていうことをちゃんと理解ってくれています。ですから、私は平気です。朽木副隊長の方こそ、緋真さまという誰より大切な方がいらっしゃるのに、私みたいな女と噂されてご不快でしょう? 申し訳ありません」
優しさに甘えて、彼女を貶めた。だから、緋真が逝ってしまった時、これ以上、絢女に迷惑をかけることなど出来ないと思い極めた。今後一切、絢女との関わりを断てば、絢女が緋真を見舞っていただけで、白哉との間には何もなかったと、皆、納得せざるを得ないだろう。
白哉の提案を、絢女は受け入れた。彼女もまた、緋真だけを想っている白哉が中傷されることに心を痛めていたのだ。緋真を偲び合える相手との付き合いを断つのは淋しかった。だが、互いに、自らではなく、相手の名誉の為に関わりを切ることを決めたのだ。
一月が過ぎ、二月が過ぎ、半年を過ぎる頃には噂もめっきりと囁かれなくなった。執念深い幾人かは、こっそりと密会しているのではと疑っていたが、それだけだった。
そうして、緋真の祥月命日を過ぎて、十日ばかり経った頃、藍染の遣いで八番隊の京楽を訪れた帰り道で、絢女は白哉に呼び止められた。
一年前、仕事以外では話さない、道で会っても儀礼的な挨拶以外は言葉を交わさないと約定してから、二人は忠実にそれを守って来た。だから、白哉に声を掛けられて、絢女はたいそう驚いた。
どうしても話しておきたいことがあるのだ、との白哉の言葉に頷き、絢女は彼に従って人気のない林に入った。人目に触れてせっかく下火になった噂が再燃してはと、白哉が慮ったのだ。薄暗い林の中で、白哉は、
「ルキアが見つかった」
と絢女に教えた。
「え?」
目を瞠った絢女は、次に泣き笑いを浮かべた。
「そう…ですか。見つかったのですね。…良かった。ですが、せめてあと一年早ければ、間に合ったのに…」
「そうだな。私ももっと早くに見つけられなかったものかと悔いている」
ルキアは緋真の実の妹である。緋真はおそらくは事故に遭ったか、事件に巻き込まれたかして、妹と共に死んで、共に流魂街に流されて来た。尸魂界に魂葬されてきた当時、緋真はまだ少女で、ルキアは赤子であったという。流されたのが番号の若い治安のよい地域であれば、二人はきっと仲の良い姉妹としてそこで健やかに暮らしていけただろう。しかし、緋真が妹と共に辿り着いたのは、最貧区ではないが余り豊かではない戌吊だった。少女の身で赤子を連れて、貧しい戌吊を生きるのは過酷だった。必死に妹を守り、養おうとした努力したが、ついに耐え切れなくなって、緋真は妹を置き去りにして逃げてしまったのだ。楽になりたくてルキアを捨てた緋真は、しかし、すぐに激しい後悔に苛まれた。だが、妹を取り戻す為に、置き去りにした場所に舞い戻った時には、ルキアはすでに影も形も見当たらなかった。
以来ずっと、緋真は尽きることのない悔恨に責められながら、妹を捜し続けて来たのだ。
「あの、ルキアさまはどこで…?」
「今年の霊術院の新入生の中にいた。私はルキアを養女として引き取るつもりだ」
「はい」
と絢女は頷いた。
「緋真さまもきっとお喜びです」
今度は嬉しそうに、絢女は微笑んだ。しかし、白哉は意外なことを告げた。
「絢女殿、ルキアには緋真のことは告げぬつもりでいる」
「え?」
と再び、絢女は目を瞠った。
「ですが、それでは緋真さまが…」
「緋真の望みなのだ。あれは妹を捨てた自分には『姉』と呼ばれる資格などないと考えていた。それ故、ルキアには緋真のことは明かさず、ただ私の妹として愛してやってほしいと、そう言っていた」
「…」
「ルキアには、亡くなった妻に顔立ちが似ているので気に入った、とだけ伝えた」
死んだ妻の身代わりとして引き取られるのだと聞かされて、ルキアが幸せになれるのだろうか。絢女は疑問を感じたが、口を挟むことは出来なかった。
「分かりました…。それが緋真さまの望みで、朽木副隊長がそう決められたのなら、私は告げ口したりいたしません」
「済まぬ、絢女殿」
「いえ…」
ゆるゆると絢女はかぶりを振った。白哉は続けて、
「絢女殿、もうひとつ、頼みがある」
と言った。
「何でしょう?」
「ルキアには近づかずにいてくれぬか?」
無言で見返す絢女に、白哉は言を継いだ。
「緋真のことを明かすのであれば、このようなことは言わぬ。絢女殿は緋真の大切な友人だ。本当ならば、亡き緋真に代わってルキアの力になってやってほしいと頼みたいところだ」
「はい…」
「だが、ルキアには緋真のことは明かせぬ。ただ面差しが似ているだけの他人ということを通すつもりであるのに、絢女殿が近づくのは不自然だ。それに…」
「それに?」
「私と絢女殿の間の噂…。漸く下火になったが、まだ疑っている者も多い。絢女殿がルキアと親しくすれば、あの噂が再燃し、絢女殿を傷付けよう。それに、ルキアにあることないことを告げる者が出てくるかもしれぬ」
「そうですね」
淋しそうに微笑って、絢女は肯定した。
「確かに、朽木副隊長とあらぬ噂を立てられた私がルキアさまに近付けば、却ってルキアさまを思い煩わせることになりかねませんね」
「済まぬ」
「いいえ」
と絢女は白哉をじっと見つめた。
「亡くなられた今でも、緋真さまは私の友人です。その緋真さまが最期まで気にかけていらしたルキアさまの幸せを、私は緋真さまの分まで願っております。ルキアさまの為に距離を置いた方がいいのならば、そう致します。ですが、朽木副隊長。もし、ルキアさまのことで私が力になれることがございましたら、遠慮なくおっしゃって下さい。ルキアさまは緋真さまの忘れ形見…。私に出来ることであれば、どんなことでも致します」
初めて絢女に妻の話し相手を依頼したあの日、引っ込み思案で人見知りをする緋真が短時間で絢女に打ち解け、心を許した。それは、絢女に備わる温かな思い遣りに触れたからだと白哉は感じていた。
「済まぬ」
何度めか分からない謝罪を白哉は口にした。滅多なことでは他人に頭を下げることをしない彼だが、絢女に対してだけは、幾度謝罪しても、どれほど感謝してもまだ足りなかった。
「話はこれだけだ。引き止めて申し訳ない」
「いえ…。朽木副隊長、ルキアさまのこと、きっと幸せにして差し上げて下さい」
「うむ」
人目に止まるのを恐れているのだろう。別れの挨拶を交わした後、白哉は瞬歩でその場を離れた。絢女はしばらくの間、木立の中に佇んでいたが、遣いの途中だと思い出し、隊舎に戻ろうと踵を返した。
だが、数歩歩んだところで、絢女は怪訝に足を止めた。前方の木の幹の向こうから死覇装の片袖が覗いていた。その腕に自隊の副隊長章を認め、絢女は顔を強張らせた。
「市丸副隊長…、どうして?」
木の影から出てきたギンは、
「絢女が朽木はんに連れられて、こんな淋しい林の中に入って行くのを見かけてな」
「…」
「心配になって、」
「後を尾けていらしたのですか? 穏行を遣って?」
呆れたふうに絢女は溜息をつくと、勤務モードの敬語を解いた。
「ギン、今すぐ、裏挺隊に転職できるわ」
絢女は無論、白哉すらもギンの尾行に気付かなかったのだから、彼の隠密の業はたいしたものだ。しかし、
「話…、聞いていたのね」
「言わへんよ」
先んじて、ギンは告げた。
「ルキア、いう娘ォにも、他の誰にも、いらんこと言わへん。だから、絢女、心配せんでもええよ」
「信じているわ」
立ち聞きを責める気にはなれず、絢女はそれだけを告げて歩き出した。彼女に並んだギンは、
「にしても。朽木はんの奥さんも難儀なことを言うたもんやねぇ…。旦那の首、絞める結果になると想像出来ひんかったのかしらんけど」
とぽつりと呟いた。
「どういうこと?」
「朽木はんが流魂街出身の、霊術院の女の子を養女にしようとしてはるのん、ぼつぼつ、噂が洩れはじめとるん。みんな、養女なんて表向きで、その娘を死んだ奥さんの身代わりの人形に仕立てようとしとる、言うとるわ」
「っ、そんな!?」
「奥さんが亡くなって一年かそこらで、奥さんによう似た顔立ちの女の子、屋敷に入れよういうんやもん。真っ当な常識持っとるモンなら尚更、神経を疑うわ。結果としては邪推かしらんけど、今回ばかりは、そない噂を立てられても、噂を立てる方が悪いとは非難出来ひんよ」
確かにそうかもしれない、と絢女が唇を噛みしめて俯いてしまったのを見遣り、
「せやから、奥さんとの約束が難儀や、言うん。ルキアちゃんが奥さんの実の妹やいうこととか、奥さんとルキアちゃんが別れ別れになってしもた事情とか公にしてルキアちゃんを引き取れば、少なくとも、真っ当なモンは納得する。卑しい噂を立てたがるモンかて、表立っては悪口はよう言えん思うしな」
とギンは続けた。
「…そうね。でも、朽木副隊長は緋真さまとの約束を果たされたいのよ…」
「うん。あの朽木はんがそこまで入れ込んどるんや。緋真さんって、よっぽどにええ女やったんやね」
「可愛らしい方だったわ。私から見ても護って差し上げたくなるくらい。とても純粋で…」
曇っていた絢女の顔が、緋真を語る時だけ少し緩んだ。ギンは、ぽんぽんと絢女の頭を軽く叩くと、
「ルキアちゃんに近付くな、いう朽木はんの頼み、尤もや思うで。絢女が不用意にルキアちゃんと親しゅうしたら、三角関係やとか、朽木はんが二股かけとるとか、無責任な連中がまた喜んで囃し立てるやろしなぁ。絢女も緋真さんには入れ込んどったからつらいかしれへんけど、知らんぷりするのがルキアちゃんの為やで」
と告げた。本音はルキアや白哉などどうでもよくて、絢女を護りたいだけだったのだが、絢女は気付かずに首肯した。
「分かってる…。ルキアさまには近づかないわ」
と彼女は小さく呟いた。
ギンがルキアを気に食わないと感じたのは、近親憎悪が大きかっただろう。
おどおどと怯えた顔を見せながら、白哉の顔色を窺っている姿に苛立ちを押さえられなかった。絢女に何も告げることが出来ず、護るという誓いさえ果たせなかった惨めな己の姿を合わせ鏡で見るようで、ギンはルキアを目にする度に強い嫌悪を感じた。それを表面に出すような真似はしなかったが、彼の心に潜む憎悪を感じ取っていたのか、ルキアはギンの前に立つとますます萎縮するようだった。白哉の影に隠れて息を潜める彼女は、更にギンの気に障った。
ルキアの卑屈な態度を承知していながら、彼女に歩み寄ろうとしない白哉にもギンは腹を立てていた。
心ならずもばれてしまった以上、隠しても意味がないと考えたのか、絢女は緋真の過去やルキアを捨ててしまった経緯をギンにも打ち明けていた。絢女はずっと、白哉とルキアを気にかけていた。不仲の風聞に心を痛め、自分に何か出来ることがないかと密かに案じていた。
「都さんからそれとなくルキアさまの様子を聞いてみたのだけど、朽木家に馴染めずにいるみたい。緋真さまのご遺言だからといって、このまま黙っていていいのかしら」
幾度か、絢女に相談されたこともある。ずっと、彼女は二人を心配していた。
ほんの少し、歩み寄りさえすれば、腹の底に溜めているものをさらけ出しさえすれば、
だから、しゃあない。
ギンがルキアを殺したと知ったら、絢女は怒るだろう。だが、彼を止められる絢女はもういない。
最愛の妻の忘れ形見であろうと。
その妻から、白哉の妹として愛してやってほしいと、末期の願いで託されていようと。
二人の幸せを願い、案じ続けていた絢女の真心を踏みにじろうと。
(朽木はんは貴族の体面と、誇りの方が大事なんやて。せやからなァ、しゃあないん)
過去に死神が犯した罪と、それに対して下された量刑を顧みれば、今回のルキアに下された刑罰が不当に重いものだと誰しも感じたはずである。にもかかわらず、それに異を唱えることなく受け入れた白哉が、護廷が、ギンには気に入らなかった。護廷が藍染の完全催眠の影響下にあるといえ、あまりにも迂闊すぎる。
(せやから、叛逆にも気ィつかんとのほほんとしとられるんや)
ルキア処刑をよしとせず、阻止しようとした浮竹や京楽は、まだ、ましだろう。だが、義妹の不当な処刑さえ、掟だと従う白哉を、ギンは軽蔑した。
姉さんが待っとるよ。逝って、姉さんに抱きしめて貰い。
「射殺せ、神鎗」
目の前を影が走った。
ギンの神鎗は、白哉の左胸の下部を貫き、背を突き抜けた。
藍染の手からルキアを奪い取り、躱しようのないギンの刃を自らの身体で受けることで、白哉はルキアを護った。
「…兄…様…」
呆然としたルキアの呟き。
夜の
刹那、白哉はギンが
いつもの人を喰ったような、感情の読めない笑みではない。ひどく満足そうな微笑が彼を掠め、一瞬にして消えた。
遅すぎや、朽木はん。
けど、まぁ、間に合うただけ、ボクよりましやな。
血飛沫とともに、神鎗が白哉の身体から抜けた。
「兄様、何故…。何故、私を…!?」
耳許で聞こえているはずのルキアの声が遠い。代わりに、心臓が煩いほどに音を立てていた。
「兄様、どうして…、どうして!?」
意識を保とうとする努力にもかかわらず、ルキアの声が遠くなってゆく 。
白哉が意識を浮上させた時、目に入ったのは反膜に包まれ、虚圏へと去りゆこうとする藍染たちの姿だった。
「私が天に立つ」
藍染に従うギンを認め、白哉は息を吐いた。
(市丸。兄にとって、絢女殿のいない世界はかほどに暗闇であったか)
ギンと白哉は最初から反りが合わなかった。ギンの感情の読めない薄ら嗤いも、不真面目な勤務態度も、すべてが白哉の癇に障った。だから、いくら霊術院の同期で、同じ隊の副隊長と三席の間柄とはいえ、絢女のように生真面目な娘がギンと親しくしていることが、白哉には不可解でならなかった。もちろん、面と向かって、絢女にそのことを質したことはない。だが、白哉の疑問を敏感に感じ取っていたのか、何かの拍子にギンのことが話題に上った時に、絢女は語ったものである。
「確かに、市丸副隊長に非情で残酷な一面があることは、私も否定しません。私や、幼馴染の乱菊さえ窺えない暗闇をあの人は抱えているように思います。でも、朽木副隊長…。市丸副隊長の根っこはとても優しいんです。優しくて、とても不器用なんです」
四十五年前、絢女が行方知れずになった時、ギンがひどく取り乱し、帰還命令さえも無視して絢女を捜し続けたと耳にして、白哉は驚いた。
飲まず食わずの捜索で衰弱したギンは藍染に拘束され、強制的に瀞霊廷に帰還させられた。その後、四番隊で、偶々、ギンの姿を垣間見た白哉は胸を衝かれた。ギンは寝台に座り込み、生気のない虚ろな眸をしていた。そして、彼のその姿は緋真を喪った直後の白哉自身を思い起こさせ、心が震えた。共通点など何もないと思っていたギンに、白哉はこの時初めて、強い
優しくて、不器用なんです。
絢女の言葉が、どうしてこんなに思い出されるのか。
(市丸、兄は先ほどは、何故、
三の文字を負った背中が、藍染に続いて、虚圏へと消えてゆく。
白哉はそれを見つめていた。