接吻キスまでの距離


 覗き見をするつもりは毛頭なかった。
 ちょっとした用事があって、雨乾堂を訪ねたのだが、浮竹は不在だった。四日ほど前の隊首会で顔を合わせた時、暖かくなったせいかこの半月ほど自分でも驚くほど調子が良いのだ、と語っていたのを思い出し、きっと隊舎の方に出勤しているのだろうと、冬獅郎はそのまま十三番隊に向かうことにした。
 雨乾堂から十三番隊の隊舎に向かう途中には霊王を祀った廟がある。綺麗に整備された広い境内があり、死神たちの憩いの場にもなっているところだ。そして、十三番隊に行くにはその境内を突っ切った方が近道だった。だから、冬獅郎もそこを突っ切ることにした。
 境内には池があり、そのほとりに東屋が設けられている。十三番隊に急ぐ途中、何気なく東屋に視線を向けた冬獅郎は、そこに見慣れた長い白髪を目にして声を掛けようとした。だが、その声はすんでのところで呑み込まれた。浮竹の長身の向こうに小柄な女性の姿を認めたからだ。わずかに覗く白い袖はその女性が隊長であることを示しており、そして、袖付きの隊長羽織を身に着ける女性は卯ノ花以外にはいなかった。
 声高に噂されることはないが、浮竹と卯ノ花が恋仲であることは隊長格の間では周知の事実だ。恋仲の二人が仲良く東屋で語らっていたとしても不思議はないし、邪魔するのは野暮である。そう考えた冬獅郎は、そのまま踵を返して立ち去ろうとしたのだ。
 けれども、それよりも早く、浮竹と卯ノ花の距離が縮まった。卯ノ花の上げられた両手が浮竹の肩にかかる。浮竹が僅かに長身を屈め、そして、卯ノ花はうんと背伸びをして、

     浮竹に口接けた。

 冬獅郎は茫然とそれを見ていた。
 時間にすれば、ほんの数秒の出来事だったのだろうが、とても長く感じた。我に返った彼が慌ててその場を離れたのは、唇を離した卯ノ花がそのまま浮竹の胸に撓垂れ掛かったのを目にした後だった。
 二人に気付かれないよう霊圧を閉じ、立ち去る冬獅郎の顔は自分でも自覚できるほどに火照っていた。同僚の、所謂「ラブ・シーン」と称されるものを垣間見てしまった後ろめたさは大きかった。けれども、それ以上に彼をどぎまぎさせたのは、一瞬だけ目に入った卯ノ花の顔だった。
 彼女のあんな表情は初めて見た。同僚とはいえ、隊長としては遥かに大先輩で、ずっと年上の卯ノ花は、冬獅郎にとって常に大人の女性だった。慈母のように穏やかでありながらも威厳を湛えた微笑も、隊首会で偶に見せる冷静にして的確な意見も、冬獅郎に尊敬の念を与えこそすれ、それ以外の感情をざわつかせることはなかった。彼女のことは外面的にもかなり美しいとは認識していたが、大人の女性で大先輩でもあるかの女傑を可愛らしいと感じたことは一度たりともなかったのだ。だが、さきほど、浮竹に口接けた後にみせた卯ノ花の表情かおは、冬獅郎の目から見てさえ、可愛らしいとしか表現出来なかった。
 あれは、恋をしている女のものだ。
 そして、卯ノ花のあの表情を見ることが許されているのは、浮竹だけのはずなのだ。悪気はなかったとはいえ、浮竹の特権を侵したようなばつの悪さを抱えて、冬獅郎は大急ぎで隊舎に戻った。

 執務室に戻れば、
「おかえりなさーい」
 いつもの緩い口調で副官が出迎えた。
「早かったですね」
「あー、浮竹は留守だったからな。出直すことにした」
「そうですか」
と答えた乱菊は、冬獅郎がひどく赤い顔をしていることに気が付いて、空色の眸をきょとんと瞬かせた。
「隊長?」
「…何だ?」
「顔、ずいぶん赤くなってますけど、どうなさいました?」
 顔だけではない。耳たぶから、首筋まで真っ赤だ。
    
「…隊長?」
 乱菊も浮竹と卯ノ花の関係は知っている。隠すほどのことでもないだろうと判断した冬獅郎は、不可抗力で二人のキス・シーンを目撃したことを白状した。
「それは…」
 いいものを見ましたね、と言ってよいのか、災難でしたね、と告げるのが的確なのか判断に迷い、乱菊は語尾を濁した。美男美女のキス・シーンだ。さぞかし絵になったことだろう。あの二人ならば、見られたと知っても悪びれることはないだろうから、乱菊個人としては、あたしも見てみたかった、と冬獅郎を羨む気持ちがある。だが、首筋まで真っ赤になって照れている純情な少年隊長を見ると、茶化すのも可哀そうな気がして、
「冷たい飲み物でもお持ちしますねー」
と乱菊は給湯室に向かった。
 乱菊のいなくなった執務室で、
「だせえ…」
 額に手を当てて、冬獅郎は吐き出した。
 濡れ場を目撃したというならいざ知らず、たかだか接吻キスくらいで狼狽えている自分がひどく子供じみているようで、冬獅郎は情けなく感じた。
 それにしても、と彼は改めて思い返した。
(卯ノ花でもあんな表情かおするんだな)
 身近なところでは、藍染に対する桃や、ごく稀にだが京楽に対する七緒に、さきほどの卯ノ花と同じ表情を見出す時があった。頬を染め、はにかんだ微笑を浮かべた桃や七緒は余所見にも可愛らしく見えたものだが、卯ノ花までそんな表情をするとは想像出来なかった。乱菊に言えば、きっと、
「何を言っているんですか、好きな人の前では、女はいくつになっても乙女なんですよー」
と主張するだろう。その口調まで予測がついてしまい、彼は少しだけ笑った。笑ったことで、動悸がようやく治まって来たのを感じた。

 給湯室から戻って来た乱菊が冬獅郎の前に置いたのは、冷やし飴だった 麦芽水飴を湯で溶き、生姜の搾り汁を加えて冷やしたもので、夏場の暑気払いに用いられる。流魂街で暮らしていた頃に、祖母がいつも作っていたので、冬獅郎の好物のひとつである。
「陽気が良くなってきたから、そろそろと思って作っておいたんです」
 ほんのりと甘く、生姜の効いた飲料で咽喉を潤した冬獅郎は、にこにこと笑っている乱菊をじっと見つめた。
「何です?」
 宝石を思わせる綺麗な翡翠に視線を固定され、乱菊はいささか居心地が悪くなってしまった。
「冷やし飴、おいしくなかったですか?」
「いや、旨い」
と答え、まだじっと見つめている。
「たいちょ?」
「あ?」
「何ですか? あたしの顔に何かついてます?」
 たまりかねて質すと、
「いや、別に…」
と答えて、漸く視線が外れた。乱菊は要領を得ない顔で、自席に戻った。

 乱菊も、好きな男の前ではあんな表情かおをするのだろうか。

 彼女の顔を見つめながら、冬獅郎はそれを考えていた。自分でも、埒のないことをと、思う。けれど、一度掴まってしまった思考から、冬獅郎は抜け出せなくなってしまった。
 先ほど目にした、浮竹と卯ノ花の様子を改めて思い返す。卯ノ花は背伸びをして、浮竹に口接けていた。長身の浮竹と、女性死神としてはごく平均的な身長の卯ノ花とでは一尺近い身長差があるから、卯ノ花から接吻キスしようと思えばあんなふうに思いっきり背伸びをするしかないのだろう。
 乱菊は女性としてはかなり大柄で、男性死神の平均身長に近い長身なので、たいていの男とは背伸びの必要がないはずだが。とここまで考えて、二人の男性が心によぎり、冬獅郎は無意識で頭を払った。ともに六尺近い長身の、市丸ギンと檜佐木修兵。彼らになら、乱菊でも背伸びが必要だと考え付き、その思考に至った自分をぶん殴りたくなったのだ。
 ギンは乱菊の幼馴染だ。冬獅郎が十番隊の隊長になってからに限れば、ギンと乱菊が親しげに振る舞っているところを見たことはないが、幼い頃は生活を共にしてたらしく、以前は相当に親しかったらしい。
 ギンは不特定多数の女と関係を持っている。そのほとんどは妓楼の女だか、たまさかには堅気の素人の女を相手に選ぶこともあるらしい。だが、どの女も、ギンとの間柄は「付き合っている」ではなく「関係している」としか称せない、極めて即物的な身体だけの関係であるようだ。そんな彼が、唯一人、執着していると言われるのが乱菊だった。実際、彼は乱菊に想いを寄せる男には、かなりえげつない脅しをかけて回っているらしい。彼から脅されたという隊士の話はよく聞くし、乱菊とギンがデキているとの噂も根強い。冬獅郎はかつての乱菊とギンの関係がどうだったのか、実際のところは知らない。ただ、たとえ昔は男女の関係があったとしても、少なくとも、現在に限って言えば「デキている」という噂は嘘だ。
 だが、今は切れてしまっているとしても、もしかしたら、かつての乱菊はギンを愛していたのかもしれないと考えると、冬獅郎は胸苦しさを覚える。決して、言葉にも態度にも表さないが、彼女にとって今でもギンは特別なのだと感じる瞬間は殊更である。そして、冬獅郎は知っている。その胸苦しさに名を付けるとしたら、「嫉妬」だということを。
 修兵の場合、過去に嫉妬する必要がない分、ギンに向けるような重苦しさはない。ただ、冬獅郎としては彼に対する時、常に戸惑ってしまうのは事実だ。
 修兵個人に対しては、冬獅郎はかなり好感を持っている。戦闘能力も高いし、事務能力においても有能だ。盲目の東仙が隊長業務を円滑にこなせるようにと、修兵が凝らした工夫の数々は冬獅郎も感心しているし、他の隊長格の間でも評判が良い。正義感が強く、まっすぐな人柄は部下からも慕われている。顔に入れた刺青はどうかと思うが、それを除けば、公平に見てかなりいい男だ、と同性である冬獅郎でも認めるぐらいだ。だからこそ、彼があからさまに乱菊に対して好意を抱いているのが、困るのだ。相手が乱菊でなければ、きっと冬獅郎は修兵の恋を余所ながら応援しただろう。見る者を微笑ましく感じさせる一途さが、修兵にはあるからだ。だが、乱菊だから、応援できない。彼に乱菊を攫われたくはない。その意味では彼は冬獅郎の敵なのだ。
 しかし、おそらく、修兵にとっては冬獅郎は敵ではない。冬獅郎は子供で、修兵のような立派な大人の男性から見れば、乱菊の恋愛の相手にはなり得ないからだ。実際、彼の冬獅郎に対する対応は、あくまでも乱菊の上官というものである。乱菊が冬獅郎に仕掛ける過剰なスキンシップも、表面は羨ましがってはいるが、心の底から羨んでいるかというと、違うだろうと冬獅郎は考えている。乱菊があんな振舞いをするのは冬獅郎が子供だからだ、と修兵は見做しているがゆえに。
 冬獅郎にとって修兵は恋敵だが、修兵にとっては煩い上司というだけで恋敵にさえなり得ていない。乱菊に対する感情は腹立たしいが、個人的にはいい奴だと思っている。だから、いつも、修兵に対してはどういうふうに接していいのか迷った挙句に、素っ気ない態度になってしまう。そして、そのことを、冬獅郎は何となくであるが申し訳なくも感じていた。

「…あと百五十年くらいかかるか…」
 気付かぬうちに、声に出してしまっていたらしい。
「何があと百五十年なんです?」
 怪訝そうに乱菊に問われ、
「いや、何でもねぇ」
と芸のない誤魔化しを返すしか出来なかった。
 心情的には遅々として一向に成長していないように感じるが、客観的には冬獅郎はごく平均的な速度で成長を続けている。毎年行われる健康診断でも、年ごとにちょっとずつ身長は伸びているのだ。
 肉体的にも、霊力的にもピークを迎えた死神は、その後は霊力のない魂魄並みに加齢速度が鈍る。ピークは現世の人間の年齢換算でだいたい二十五歳前後と言われているから、乱菊はそろそろ加齢が鈍くなり見た目の年齢はほとんど変化しなくなるだろう。一方、成長を続ける冬獅郎はどんどん外見年齢が高くなってゆくから、相対的に二人の見た目の年齢差は縮まっていくことになる。
 このまま平均的な成長が続くなら、冬獅郎が乱菊の外見年齢に追い付くにはあと百五十年ほどが必要な計算になる。
 百五十年。
 彼女は誰のものにもならずにいるだろうか。修兵や、あまり考えられないが鉄左衛門とどうこうならずにいてくれるだろうか。よりを戻すというのが適切なのか、過去を知らないから判断できないが、ギンと男女の間柄になりはしまいか。
 考え出すと気が遠くなりそうだった。
 背伸びをして、浮竹に口接けていた卯ノ花。
 今の冬獅郎が乱菊と接吻しようと目論めば、卯ノ花がしていたように、冬獅郎の方が目一杯背伸びをしなければ無理だ。
「うわ、だせえ…」
 思わず零せば、
「さっきからどうなさったんです?」
と乱菊は胡乱な目を向けた。
 滅多に見られない上司の一人百面相の原因が自分にあるとは露とも思わず、乱菊は、
(キス・シーンなんて、隊長にはまだ刺激が強すぎたのかしらね)
とあくまでも呑気だった。

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 「接吻までの距離」

 一ヶ月ほど前に"ひらひら"管理人のひのかさまから拙宅オリキャラの絢女のイメージイラスト(宝物蔵展示)を頂きました。この作品はそのお礼に献上したというか、押し付けたというか、ひのかさまへの捧げものになります。よそさまに差し上げるものなので、意図的に独立して読める話に仕上げましたが、拙宅設定では叛乱の三年ほど前の想定です。それまでは、無自覚に乱菊さんを好きだった日番谷隊長が「恋」を自覚して間もなく、拙宅には珍しく初々しい(青臭いともいいます)隊長が棲息しています。
 とはいえ、百五十年かかるはずが、数年で成長してしまい、すぐさま初々しさを失ってしまいましたけど、うちの隊長は。
 「風が還る日」の冒頭で、ギンには他に好きな女(隊長の姉さんですが)がいたと教えられているせいか、日乱サイトとしては珍しく、拙宅隊長はギンに対してほとんど嫉妬していませんが、叛乱前はそれなりに悶々としていたようです。

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2012.05.14