紫陽花日和
冬獅郎が乱菊を夕飯に誘ったのは、数日ぶりに雨が上がった梅雨日のことだった。
「今日は定時で上がれそうだからな。久しぶりに外で飯を食わないか」
という隊首の誘いに、乱菊は、
「お供しまーす!」
と、満面の笑みで答えた。
冬獅郎は食生活においても、乱菊に世話になりっぱなしである。彼女の「一人分でも二人分でも作る手間は一緒、むしろ二人分の方が食材が無駄にならず効率よく作れる」という言葉に甘えて、朝晩の食事のほとんどを彼女のところで食べさせてもらっている。もちろん、手間賃込みで食費は渡しているのだが、それだけでは申し訳ない気持ちもあり、時々、彼女を高級料亭などに連れて行くのだ。
「今日はどこに連れて行って下さるんです?」
食べることが大好きな乱菊はわくわくと目を輝かせている。
「この間、京楽に教えて貰った店が旨かったからな。今日はそこに行こうと思っている。それに…」
と言いかけた冬獅郎は不意に口を噤んだ。
「それに、何です?」
「いや、何でもない」
だが、冬獅郎の眸はいたずらを企む子供のように楽しそうに揺れている。乱菊は追及を諦めた。食事以外に何か趣向がありそうなあんばいだが、黙っているということは、きっと乱菊を驚かそうとしているのだろう。もちろん、それは嬉しい方の驚きに決まっていたから、乱菊はおとなしく、冬獅郎の企てに乗ることに決めた。
緊急事態も発生せず、冬獅郎と乱菊は予定通り定時で仕事を終えて隊舎を出た。いったん隊寮に戻って私服に着替えた乱菊は、冬獅郎に導かれるままに瀞霊廷の南の郊外にやってきた。
その辺りは風雅な土地柄で、上級貴族や裕福な中級貴族の寮が点在していた。その一角になだらかな丘があり、その麓のこじんまりとした田舎造りの建屋が、冬獅郎の目的の店だった。
「いらっしゃいませ」
出迎えた柔らかな笑顔の女将に、
「京楽から話はいっているか?」
と冬獅郎は尋ねた。
「はい。承っております」
ふっくらとした笑みを浮かべて、女将は応じると、玄関に下り立ち、
「ささ、こちらからどうぞ」
と先に立って二人を庭の方へ案内した。店の裏手、客を通す座敷に面した庭は、楓や山法師、夏椿などが植えられ、美しく整えられていた。趣のある庭に感嘆しながら、女将についてゆくと、敷地を囲う塀の角にしつらえられた小さな戸の前に案内された。
「ごゆっくり」
女将の声に送られ、冬獅郎の後ろから戸を潜り抜けた乱菊は、思わず、
「うわぁ!」
と感動の声を上げた。
目の前の一面に紫陽花が広がっていた。目を瞠って、紫陽花に見入る乱菊に、してやったりと冬獅郎はほくそ笑む。京楽に頼み込んで、一番の見頃を迎える時に予約を入れて貰った甲斐があったというものだ。紫陽花は雨に濡れた姿が風情があって美しいが、降っていてはゆっくり見て歩くのもままならないと、こっそりと氷輪丸を使って昼八つ過ぎに雨を上がらせたのは、もちろん誰にも内緒である。おかげで、紫陽花はいいあんばいに濡れそぼって瑞々しい。梅雨時は雨さえ上がれば日が長いので、定時に上がれば、夕食前にゆっくりと紫陽花の庭を堪能できる、という話は耳よりだった。
「たいちょ、きれいですねぇ。昼間、おっしゃりかけていた『それに』って、このことだったんですか?」
「ああ」
と冬獅郎は肯定した。
「ここな、京楽の叔母上の寮なんだそうだ」
冬獅郎は説明した。
「その叔母上って方が紫陽花好きだそうで、この庭に紫陽花を植えまくって、それでここは『紫陽花屋敷』と呼ばれているそうだ」
「そうなんですか。ああ、だから、京楽隊長の紹介なんですね」
乱菊はすっかり納得した様子だ。
「まぁな。それで、あの店は京楽の親戚筋の経営だ。花時は二階の座敷から紫陽花屋敷が借景になって人気なんだが、京楽に頼んで、予約を取って貰ったんだ」
乱菊はきれいな空色の眸を笑みの形に細めた。
「ねぇ、たいちょ?」
「ん?」
「もしかして、京楽隊長にお願いして、このお庭に特別に入らせて貰ったりしてません?」
一瞬沈黙した後、冬獅郎は、
「そうだ」
とすんなりと認めた。親戚筋とはいえ、この庭はあくまでも京楽の叔母の屋敷であって、店の敷地ではない。通常は借景として二階の座敷から眺めるだけなのだ。
京楽が冬獅郎をここに連れて来たのは、まだ紫陽花の季節には早い時期だった。ほつり、ぽつりと早咲きの紫陽花が色を添えていたが、庭はほとんど一面緑だった。
「想像してみてよ、冬獅郎くん。見渡す限り紫陽花だろう? それが盛りになったらものすごく綺麗だと思わないかい?」
「確かに見事な眺めだろうな」
と冬獅郎は認めた。
「うん、そりゃあ綺麗なんだよ。七緒ちゃんを初めて連れて来た時なんかねぇ、七緒ちゃん、すっかり感激しちゃて、二、三日、すっごく優しかったんだ」
基本的に、仕事中の七緒は京楽に手厳しい。その彼女が、ほんの数日とはいえ、京楽に甘い顔をしたというのだから、見事さも察しがつくというものだ。
「今年も花時になったら七緒ちゃんを連れて来るつもりなんだけど、」
と京楽は緩い笑みを浮かべた。
「乱菊ちゃんも花とか大好きだよね。連れてきてあげたら喜ぶんじゃないかな」
京楽に水を向けられ、冬獅郎はあっさりと頷いた。話を聞いた時から、乱菊にも見せてやりたいと考えていたのを見抜かれた形だが、気恥ずかしさは感じなかった。
「喜ぶだろうな。松本には世話になっているしな。京楽、予約頼めるか?」
「任して。一番、花が綺麗な頃に予約、頼んであげるよ。それとね、これは特別。叔母に頼んで、庭に入れるように手配もしてあげるから」
「いいのか?」
「構わないよ」
後になって考えてみると、京楽が桃ではなく、乱菊の名を出したのが引っ掛かったが、あまり気にしないことにした。実際、冬獅郎は乱菊に紫陽花を見せてやりたかったのだ。
嬉しそうににこにこと笑んで、
「きれいですねぇ」
を連発する乱菊に、冬獅郎は満たされる想いだった。
植えられているのは、普通によく見かける一般的な園芸品種の紫陽花と額紫陽花が圧倒的に多いが、紫陽花好きだけあって、珍しい品種の紫陽花も相当数、植えられていた。
線香花火のような花が咲く小紫陽花。葉に柏葉のような切れ込みがあり、山形に盛り上がった白い花を咲かせる柏葉紫陽花。額紫陽花の変種である甘茶。園芸用の改良品種と思われる、渋みのある紅や薄緑の花の紫陽花もあった。
「これ、変わっていますねぇ」
「こんな紫陽花、初めて見ました」
華やいだ乱菊の声音を耳にする度、ここを教えてくれた京楽に対する感謝の念が深まった。
丘の斜面を利用した広い庭だったので、一通り巡った頃には陽もすっかり傾いて薄暗くなり始めていた。
「そろそろ、戻って飯にしよう」
冬獅郎の提案に、乱菊は、
「はい」
と嬉しそうに笑んだ。
料理が美味いのは、京楽と訪れた時に自らの舌で確認済みだ。だが、もうひとつ、乱菊を喜ばせることがある。陽が落ちて暗くなると、庭は篝火で照らされるのだ。これは紫陽花屋敷を借景にしている料亭が、京楽の叔母の許可を得て、花の季節だけ行っていることだ。陽の光の下で見る紫陽花も見事で美しかったが、きっと篝火に照らされた花も幻想的で風情があることだろう。
それを目にした時の乱菊の顔を想像するだけで、冬獅郎は幸せな気持ちになれるのだった。