駆け抜けた少年
「おや、まぁ」
部屋に入って来た男を見るなり、丸山は呆れと感嘆が半ばした声を上げた。
「こりゃまた、見違えちまった。京楽さまのおっしゃっていたことは本当だったんだね」
十日足らず前にも、彼は丸山を訪れていた。そして、その時は、年頃で言うと十四、五ほどであった。ここでいう年は尸魂界で便宜的に使われている、現世の人間を基準とした見た目年齢を指す。成長と加齢が一様ではない上に加齢速度が極めてゆっくりな尸魂界では、産まれてからの年数で年齢を計ることは出来ないからだ。一方、現世は子供の成長速度がおおむね揃っている。そこで、死神を中心に「現世の人間でいえば何歳くらい」という計り方が生まれ、現世とはかかわりのない一般人にも広まったのだ。
ほんの十日ほど前に十四、五の、「男」というよりも「男の子」に片足を突っ込んでいたような少年は、丸山が呆れるほどに成長していた。身の丈は確実に一寸は伸びている。肩幅も心持ちがっしりとし、顔も丸みが減って、やや面長に様変わりしていたし、変声期真っ最中だった声はすっかり男のものになっている。見た目の年齢は十七前後といったところか。
「急激な成長で関節痛と筋肉痛を起こしていて、来られなかったんだ」
「ふーん、そうかい」
と丸山は伝法な口調で相槌を打つと、するりと彼の着物を
「たったの十日で大きくなった割りにはきっちりと筋肉がついているじゃあないか。さすがは護廷の隊長さんだ」
「そりゃ、どうも」
と彼は応じた。言葉使いは変わっていないが、声が低く変化したせいで別人のように感じる。だが、全体に漢くささを増したとはいえ、翡翠色の双眸も、滅多に見ない満月の光のような銀色の髪も健在で、やはりこの男があの少年なのだと納得せざるを得なかった。
彼が丸山の許に通い始めたのは、一月ばかり前からである。護廷八番隊の隊長である京楽春水が、同僚だと連れて来たのが彼だった。
最初、揚屋の女将から相手をするようにと名指しされた時、
「あたしでいいんですか?」
と丸山は思わず反問してしまった。京楽の同僚ということは、護廷の隊長である。護廷の隊長は上級貴族と同等と見做されている。それ故、
「ちぃっとばかり、訳ありの隊長さんなのさ」
驚く丸山に、女将はこともなげに告げた。
「京楽さまから『是非、丸山に』とお願いされちまってね。事情をよくよく聞いたら、確かに、吉原や島原よりはあんたが適任だとあたしも納得したもんさ」
「はぁ…? どういう訳なんです?」
と返した丸山に、女将は芝居がかった様子で声を潜めて、京楽から聞いたという事情を語った。
「分かりました。太夫でないあたしが敵娼に出ても、失礼だとか、手を抜いたとか、後になって文句を言われることはないんですね」
「それはない。心配おしでないよ」
「吉原さんや島原さんは…」
自尊心の高い太夫から、護廷の隊長という上客を奪われたと恨まれては敵わないという危惧も、
「あたしがちゃんと言い聞かせておくよ。丸山は何も心配するこたないんだよ」
「女将さんがそうまでおっしゃるなら」
と、ついに丸山はその訳ありの隊長の相手となることを承服したのだった。
そして、翌日。
丸山は件の隊長と
(こりゃまた、綺麗な子だこと)
部屋に入って来た少年を一目見て、真っ先に抱いた感想がそれだった。尸魂界では滅多に見かけない冴え冴えとした銀髪と宝玉を思い起こさせる翡翠の眸が目を惹くが、それを差し引いても、容貌自体が繊細な芸術品のように整っている。年の頃はせいぜい十五。まだ顔立ちに子供の面影を色濃く残しているだけに、肌もきめ細かく、瑞々しく、
(これで男だってんだから勿体ないもんだねぇ。女なら傾城の美女間違いなしだってのに)
内心で思いながら、
「丸山と申します。年増であいすみませんが、お相手を務めさせて頂きます」
と丁寧に口上を述べた。
「いや…」
少年は溜息をひとつ落とすとその場に正座した。
「女将と京楽から事情は聞いていると思う。その…、よろしくご指導を頼む」
指先をきっちりと揃えた綺麗なお辞儀を目にした途端、丸山はやっと太夫では駄目な理由が腑に落ちた。
くくく、と思わず忍び笑いを零した彼女に、少年隊長は怪訝な目を向けた。
「ずいぶんとしゃちほこばったご挨拶だねぇ」
丸山は口調をがらりとくだけたものに変えた。
「まるで、芸事の師匠に弟子入りの挨拶をしているようじゃあないか」
「あ…、すまない。その…、こんなところは初めてで、その…」
遊里に足を踏み入れたのが初めてなせいか、まごついて落ち着きのない様子は、
「構わないよ。実際、女の抱き方を教わりに来たんだろ?」
「…うっ…、まぁ…。そういうことだ」
「つまり、あたしゃ、房術の師匠ってこったろう?」
「…そう…なるのか?」
「『お師匠さん』って呼んでくれたって構わないよ」
そこまで言われて
「や、それはいくら何でも…」
と彼は言葉を濁した。
「好きな女がいるんだってねぇ」
丸山は表情を改めた。
「ああ…」
「ずいぶん歳上なんだって?」
「…今はな」
「ふうん、今は、…ね。まぁ、いいさね。何にせよ、その女と情を交わす時にちゃんと満足させられるように、このあたしが腕によりをかけて、隊長さんを男にしてやるよ」
「 よろしく頼む」
この護廷の隊長だという少年が抱える厄介な事情。
それは彼が尋常ならざる成長を遂げつつあるということだった。丸山はまだ信じられない気持ちで一杯だったが、目の前の、十四、五に見える少年はほんの一月足らず前まではせいぜい十歳の見かけだったそうだ。つまり、尸魂界では成長が極めて早い子供であっても二十五年ほど、遅い子ならば百年くらい。成長・加齢速度が比べ物にならないほどに早い現世であってさえ、五年の歳月が掛かるところを、わずか一月という異常な速度で一足飛びに成長してしまったというのである。歪みが出ない方がおかしい。
彼は護廷の誇る「天才児」なのだと、京楽から聞いていた。まるっきり子供の、まだ霊力も成長途上である外見年齢で隊長職に就いたことも異例なら、霊術院を卒業してから隊長に就任するまでの期間の短さも異例。尸魂界史上、最速最年少の隊長である。だが、いくら見た目が子供そのものであっても、実際に隊長に就任し、彼よりもずっと年かさの隊員から構成される一隊を纏め上げていたのだ。精神的な意味合いではとても老成していたらしい。
だが、肉体的にはどうあがいても子供だった。
外見年齢が十歳から十五歳に成長するのと、十五歳から二十歳に成長するのは全く意味も、重みも異なる。十歳から十五歳への成長は子供から大人への脱皮であるが、十五から二十歳は大人としての成熟度を増しているだけの話である。
十歳の子供にはまだ性欲がない。ないと言い切るのは語弊があるかもしれないが、少なくとも肉欲という形で顕在化はしていない。精通も未だである。一般的には外見年齢十二歳前後で精通をみるが、この段階でもまだ性欲と呼ぶには幼い状態である。具体的な欲望というよりも、何となくむずむずもやもやと、漠然とした欲求が澱の如くに水底に蟠っているというのが適切だろう。その薄ぼんやりとした欲求は成長に伴い具体的な肉欲へと凝りながら、ゆっくりと水面に浮上してくる。大人の男と同等の性欲が備わるのが大体、十四、五歳くらい。周囲に世話焼きの兄貴分やら、訳知りの親父やらがいた場合に、筆下しにと初めて色里に連れて来られるのが、おおむね十六前後といったところが、瀞霊廷の性事情である。
つまるところ、数十年の時をかけてゆっくりと形成されるべき性欲が、僅か一月足らずで完成してしまったというのが、現在、丸山の前で身を縮めている隊長の抱える困りごとだった。子供から一足飛びに大人になってしまった為に、宥める術も、誤魔化したり、逃がしたりする手段も知らないままに、暴れ出す欲望を持て余してしまったのだ。噴き出した欲は、まっすぐに好きな女に向かう。だが、彼の好きな相手というのは、その荒々しい本能をぶつけるには、受け止めるには、純な女なのだそうだ。彼女に手を伸ばせず、かといって、身裡からせり上がる強烈な欲求をどうすることもできずにもがく彼に、救いを差し伸べたのが京楽だった。
丸山が女将を通じて、京楽から依頼されたのは次の三つのことだった。
第一に、少年隊長が持て余している性欲を手っ取り早く宥めてしまうこと。第二に、彼が欲望を理性で制御出来るように、逃がしたり、誤魔化したりする方法を覚えさせること。身も蓋もなく言ってしまえば、自慰の方法を教授しろということだ。そして、第三に、いずれ彼が好きな女と結ばれる時に、労りと思いやりをもって彼女に対することが出来るように、女の抱き方の指導をすること。
「隊長さん。女の抱き方はおいおい教えるとして、」
にっと、鉄火でありながら人の好い笑みを浮かべて丸山は続けた。
「まずは、隊長さんを今苦しめている男の本能って奴を、とりあえず満足させちまおうかね」
するりと、彼女は身に着けていた着物を我から脱ぎ捨てた。尋常な相手であれば、男に脱がせるものなのだが、すっかりまごついているこの少年には無理な相談だ。眼前にさらされた年増の熟れきった肉体に、それでなくても滾っていた少年の本能は簡単に爆発した。翡翠の眸に荒ぶる肉欲が奔るのを、丸山はむしろ心地よく感じた。並みの男ならば買った女に遠慮はいらぬと齧り付くところを、それでもなお、必死に理性で留めようとしているのにいじらしさを覚え、彼女は無造作に少年のものを衣ごと握り込んだ。
「あっ、やめ…ろ…」
「やめるこたないだろう? 隊長さん、苦しいんだろう? 楽にしたげるよ」
慣れた手つきで帯を解き、少年の胸元を
あっけないほど簡単に、少年は果てた。
「…早いねぇ。下帯を解く
と呟きながら、丸山は男の精に塗れ汚れた下帯を外した。歪んだ成長で極限まで昂っていた欲望は、一度果てたくらいで治まるはずもなく、すぐにむくむくと漲りはじめている。彼女はまだ幼さの残る少年の性器を、ぱくりと銜え込んだ。
「!?」
彼は声も出せずに驚愕している。
(ふーん、口淫も知らなかったんだねぇ。可愛いもんだ)
と舌を遣うと、頭上で少年の息遣いが荒くなった。
海千山千の花魁の性技に翻弄され、溜まりに溜まっていた欲望を、少年はすっかりと吐き出してしまった。
精も根も尽き果てて、ぐっすりと眠る少年のまだあどけなさを残した寝顔を眺め、
「可哀そうに…」
と丸山はぽつりと呟いた。
花魁である彼女にみせたあの綺麗なお辞儀ひとつで、この少年が大層、生真面目なことが分かってしまった。男には性欲の捌け口として女を金で買うことに抵抗のない者が多い。もし、彼がそういう男だったとしたら、性の歪みから欲望が暴走したとしても、ここまで苦しむことはなかっただろう。足を踏み入れたことがなかったにしろ、遊郭の存在は彼も知っていたはずだし、隊長ならば女を買う金に困るとは思えない。さっさとここに来て、手っ取り早く、娼妓で本能を発散させていたはずだ。だが、彼はおそらくであるが、色事にも情を求める者で、女を物のように金で売買することに抵抗が強かったに違いない。だから、対処が遅れた。
丸山によって本能を解放され、夢中で彼女を貪りながらも、好きな女への後ろめたさからか、情のない相手を犯していることへの罪悪感からなのか、時々、苦しげに、
「すまない、すまない…」
と呟いていたのが、何とも痛々しくもやるせなかった。
(こんなとうの立った女郎に、遠慮するこたぁないんだよ)
丸山は花魁としては盛りを過ぎている。経験が長いだけに性技には長けており、さっぱりとした気性もあいまって馴染み客も多いので商売を続けているが、格子女郎として、他の花魁たちと並ぶといかにも年増で見劣りするのは否めない。
だからこそ、京楽は太夫ではなく、丸山をこの少年の相手に選んだのだろう。
太夫は花魁の中でも最上位。容色や色香が抜きんでて優れているのは無論であるが、それだけでは太夫にはなれない。上級貴族とも対等に渡り合えるだけの教養や機知、場を盛り上げるなにかしらの芸事を身に着け、人を魅了する才を持たなければ、太夫と称される花魁は到底務まらないのである。それだけに、太夫と呼ばれる者たちは皆、とてつもなく自尊心が高い。好きな女の身代わりとして、性欲を発散させるための単なる道具としてその身を供するのは、太夫の矜持が許さないに違いない。まして、相手が瀞霊廷でも尊敬と憧れを集める高い地位にある隊長職で、瑞々しい若さと眩しいほどの容姿に恵まれた美丈夫となれば、太夫の意地に賭けて、落とそうと躍起になるのが目に見えている。
だが、この少年隊長自身も、彼の後見である京楽も、そのような事態は望んでいないのだ。駆け足の成長が完了した暁には、好きな女と結ばれること。少年隊長の望みはそこにあり、京楽もまた、揚屋の女郎よりもその女と落ち着くことが善き道だと考えていると推察された。
盛りを過ぎた丸山であるが、百戦錬磨の経験を積んでいるだけに、歪んだ成長によって性の発達までもがいびつに捻じれてしまった少年の矯正役としてはうってつけである。それに、花魁としての意地と誇りはあっても、太夫のような高い自尊心は持ち合わせていないから、教師役に徹することも出来る。
(京楽さまには随分と借りもあるしねぇ)
と、丸山は少年の銀髪をさらりと撫でた。
京楽の話では、少年の急激な成長はもうしばらく続くはずということだった。子供から大人への変化の激しい期間を、通常なら何十年も要するところを、僅か数ヶ月で、彼は駆け抜けようとしている。苦しくないはずがない。つらくないはずがない。だが、隊長職という重責は、彼に弱音を許さないのだ。
「ちゃんと、楽にしたげるよ…」
丸山は独り言ちて、再び、少年の髪を撫でた。
「…う…ん?」
少年がうっすらと目を開いた。ぼんやりとした寝惚け眼が女を認めて、はっと焦点を結んだ。勢いよく跳ね起きて臨戦の構えを取った彼は、驚き呆れた女の着崩れて
「すごい形相で飛び起きたねぇ。あたしを賊だとでも思ったかい?」
「すまない…。寝惚けた」
がりがりと少年は頭を掻いた。その照れくさそうな横顔に、
「どうだい、隊長さん? ちったぁ、楽になったかい?」
と尋ねる。すると、少年は何とも決まり悪そうな表情を浮かべた。
「その…」
「まだ足りないかい?」
「いや、楽になった。ありがとう」
「そりゃあ、良かった」
丸山は破顔したが、少年隊長は決まりの悪さはそのままで、顔を俯かせた。
「すまなかった」
彼の謝罪に、
「何がだい?」
と丸山は問い返す。
「…随分と手荒に、乱暴に扱ってしまったから…」
「ああ…」
合点がいった丸山は、ずいと身を乗り出すと、彼の鼻っ柱をぴんっと人差し指の先で弾いた。
「痛てっ!」
目を見開いた彼に、
「なまをお言いじゃないよ」
と丸山は軽く凄んで見せた。
「あたしが何十年この商売を続けていると思っているのさ」
「あ…」
「あんただってさぁ、表じゃ、泣く子も黙る護廷の隊長かもしれないがねぇ。ここでは筆下しにやって来た、ただの童貞の坊やでしかないんだよ。あたしが今まで男にしてやった何十人もの坊たちと変わりゃしない」
「…」
「閨の技じゃ玄人の花魁が、童貞の坊やがちょいと暴れたくらいで音を上げると思われているんじゃ名折れってもんさ。何なら、もうちょっと、隊長さんの精を絞り取ってやろうか?」
更に迫って来た丸山に、瞠った目のままで背後に仰け反りながら、
「いや、いい!! 今日はもう充分だ!」
と少年は叫んだ。
丸山はすっと身を退くと、
「冗談だよ」
と表情を緩めた。
「あのくらいの暴れ方、御せないようじゃ花魁は勤まらない。だから、隊長さんが謝るこたぁないんだよ」
「…馬鹿にしたつもりはなかったんだ。すまない」
「分かっているよ。あたしを気遣ってくれたんだろ? でも、無用な気遣いさね」
「ああ」
少年はまた、頭をがりがりと掻いた。
「けどねぇ」
「あ?」
「花魁なら平気だけどもさ。素人の初心な女にゃ、ありゃ、無理だ」
少年は無言で項垂れた。きっと、彼の脳裏には、あのまま暴走状態が続いていたなら、近いうちに本能に負けて踏みにじってしまったかもしれない好きな女の面影が浮かんでいるのだろう。
「そんなに悄気ることはないさ。そもそも、隊長さんと、隊長さんの好きな女を守る為に、京楽さまはここに連れてきたんじゃあないのかい?」
「ああ…。京楽には感謝している」
と少年は呟いた。
「今晩は隊長さんを楽にしたげるのが先だったから、好き放題に暴れさせてやったけどね」
丸山はゆっくりと告げた。
「次からはびしびしと鍛えるからね」
「鍛えるって、何を?」
「最初に言ったろう? 隊長さんが好きな女と情を交わす時に恥ずかしくないように、女の悦ばせ方を教えるって」
「あ…、ああ」
「あたしには太夫になれるほどの器量はなかったけどもさ。閨の技だけなら、
と丸山はさっぱりと笑った。
少年隊長は再び目を瞠った。翡翠の宝玉がまん丸に見開かれるのを、
(可愛いねぇ)
と愛でながら、彼女は続けた。
「いいかい、隊長さん。女を抱くってのは料理と似たようなもんさ」
「料理?」
「そう。料理。ひと暴れする前の隊長さんみたいにさ、お腹が減って減ってどうしようもない時には、味なんて二の次で、とにかく腹を満たすのが先だろう」
この喩えに頷いていいものかと、少年は戸惑いを隠せずにいる。だが、次の、
「けどさ、三度三度きちんとおまんまを食べていて時分どきになってお腹が空いたなんて時には、どうせならおいしいものを食べたいものだろう」
という喩えには肯定を返した。
「同じ材料と同じ調味料を使ったとしても、味の染み方とか口に入れた時の食べやすさとかまで計算して材料を切ってさぁ、出汁も効かせて、灰汁も丁寧に取って、手間かけて料理したのと、火が通って食べられりゃいいさってぞんざいに料理したのとじゃ、出来上がりの味は全然違うだろ?」
「確かにそうだな」
「女も一緒さぁね。男の中には自分だけ満足すりゃあそれでいいってんで、女を悦ばす手間を惜しんで好き勝手するような輩がいるけどね。馬鹿な話さ。同じ女でも、手間をかけたらかけた分だけ味は良くなるんだよ。それを飲み込めずに勝手ばかりしてると、女の極上の味を知らないままで終わっちまう。勿体ないことさ」
「…」
「いいかい。相手を充分に慣らして悦ばせるのは、もちろん、第一には好きな女を大切にする為に必要なことさ。けどね、結果として、女の極上を味わえるんだから、男の為にも得になることなんだよ」
いつの間にやら、少年は正座して、傾聴の姿勢を取っている。それに気付いて、
(ほんっと、生真面目だねぇ。京楽さまが放っておけなかった気持ちがよくわかるよ)
と丸山は心の中だけで苦笑を落とした。
「隊長さんもさ」
「ああ?」
「三味線とか、長唄とか習おうとするなら師匠におあしを渡すだろう」
「ああ」
「あたしの揚げ料はそういうおあしだと思っとくといい」
静かな丸山の結論に、少年隊長ははっとした後、もう一度、深々と綺麗なお辞儀をしてみせた。
「ありがとう。よろしくお願いします」
最後だけ妙に丁寧な語調になった少年に、丸山は思わず大笑いをしてしまった。
十五の風体の時に都合、五度。男が言うところの、急激な成長に伴う筋肉痛と関節痛から回復し、十七歳前後の外見の時に四度。件の隊長は常盤屋を訪れて、丸山を相手にした。
(京楽さまはこの子を「天才児」だとおっしゃっていたけど…)
と三度めに少年を相手にした時、丸山は内心で呆れた。
(天才ってのは、こういう道でも、そつなくこなしちまうものなのかねぇ?)
驚くよりも呆れるのが先立つほどに、彼は呑み込みが早かったのだ。彼女が教えた、一般的に女が感じやすい場所をただ一回ですべて覚えてしまったのもさることながら、愛撫の手つきにしろ、舌遣いにしろ、ツボの心得方が滅法早かった。
十五歳ほどの年恰好での最後となった五回目の逢瀬の時、
「腕試しに、次は太夫を買ってみちゃどうだい?」
と丸山は彼に勧めてみた。
「別に太夫に興味ねぇし…」
恬淡と、少年はそれを断った。
「俺は姐さんに教わる方がいい」
「隊長さんは欲がないねぇ。太夫なんて、男の憧れだよ。大金積んで、拝み倒してでもお願いしたいって男がごまんといるってのに」
「他の男はどうか知らねえけど、俺は興味がない」
今度はきっぱりと、少年隊長は言い切った。よほど、彼は好きな女が大切なのだろう。まだ心は通じ合っていないということだったが、それでも、彼女に義理を立てたいのだ。丸山は最初の時に閨房術の師匠の立場だということにしてしまったから、彼の心の中でぎりぎり許容範囲に納まっているらしい。
「ふうん…。隊長さんの好きな女ってのは、よっぽどいい女なんだね」
「まぁな」
まるで悪びれずに、彼は肯定した。
「実際、すげぇもてる」
「へぇ? でも、初心で純情なんだろ?」
「つか、鈍いかも」
と彼は苦笑した。
「おかげで俺としちゃ助かっているけど、あいつが親しくしている男の中に、あいつのことが好きだって丸分かりな奴が二人ばかりいるんだ。で、周りはみんなそれを知っているんだが、あいつだけがまるっきり気付いちゃいねえ」
「なるほどねぇ。そりゃ、大物だ。助かっている代わりに、隊長さんも苦労しそうだ」
「…実際、苦労している。俺を振り回すことにかけちゃ、あいつは天才的だ」
丸山は大笑した。
「あっはっはっ、けどさぁ、隊長さん、全然嫌そうじゃないね。惚れた弱味って奴かい?」
「 否定はしない」
「で、美人なのかい?」
「ああ」
再び、彼は臆面もなく肯定した。
「多分、容姿なら太夫に負けやしないだろう」
「随分、大きく出たね」
「本当のことだ。俺が言ったんじゃねえ。ここの見世のかは知らねえけど、実際に太夫を見たことがある奴が言っていたんだ」
「ははぁ。けど、隊長さんはその女が美人だから惚れたってわけでもなさそうだね」
「ああ」
不意に彼の面に浮かんだ例えようもなく穏やかな、優しい笑みに、丸山はつい見惚れてしまった。
「魂がとても綺麗なんだ」
と表情と同じ、優しい声音で彼は続けた。
「ガキの
嗚呼、だからこそ却って、簡単に手を伸ばせなかったのかと、丸山は得心する思いだった。
「もういいだろう?」
急に照れくさくなったらしい。少年は強引に話を打ち切った。
「それより、姐さんに聞きたいことがあったんだ」
「何だい?」
「姐さんの『丸山』っての、源氏名だろう?」
「もちろんさ。けど、本当の名は教えられないよ」
「ああ、それは分かっている。そうじゃなくて、何で『丸山』なのか、由来が知りたかったんだ」
「何だ」
と丸山は拍子抜けた。
女将と京楽の計らいで、最初に問答無用で丸山を宛がわれ、その後はひたすら彼女を指名買いし続けている彼は他の花魁を知らないのだ。
(飲み込みが早いかと思えば、妙なところが抜けている子だねぇ)
煙草盆を引き寄せ、煙管に火を付けた丸山は、
「
とおもむろに告げた。質問からずれた返しに、少年はきょとんとしている。
「御職を張っているのが吉原太夫。二番手で吉原さんと張り合っているのが、島原太夫」
「 現世の遊郭の名前?」
やっとぴんときたらしい。
「ご名答」
「長崎の丸山遊郭か」
「よく知っておいでだね」
「これでも護廷の隊長だから」
現世のことならば、丸山よりはよほど詳しいと言いたいらしい。丸山はふふと含み笑いを漏らした。
「それなら、今日はあたしが隊長さんに教えて貰おうかねぇ」
「何を?」
「現世のことさ。名前の由来になった丸山遊郭がある長崎ってのがどんなところなのか、ずっと知りたかったんだよ」
目を輝かせて強請る花魁に、少年は笑いながら、長崎の街について、知っている限りのことを語った。
十七歳の見かけでの四度目に相手をした数日後、京楽から例の少年は最後の成長の準備に入ったので、当分は丸山の許を訪れられないと連絡があった。
詳しい事情は護廷の機密事項らしく明かされていないのだが、彼の成長は日決めで何らかの事柄を行うことが引き金で発動し、その急成長が一旦落ち着いてしまえば、後は尸魂界の常識通りの成長の仕方しかしないものらしい。急成長の発動となる「何か」は五回あるそうで、初めて丸山のところにやって来た時には、すでにそのうちの三回分は終わっていたのだ。
彼の訪れが十日ほど空いたところが四回目だったので、今度が最後。成長してみないと何ともであるが、おそらく、十八~二十歳くらいの見かけにはなるのではないかというのが、京楽の見立てであった。
彼が来なくなって、十三日目の夜。丸山は手酌で酒を呑みながら、今度会う時にはもう少年とは言えなくなっているだろう男に想いを馳せていた。
(二十歳かぁ。すっかり男だね)
あの綺麗な男の子だ。二十歳ほどの年頃になれば、女が目の色を変えずにはいられないような、水も滴る色男になることだろう。
(周りの女の子たちはちょっとかわいそうかもしれないねぇ)
いくら目も覚めるようないい男に成長したとしても、彼の心には唯一人の女が確固と根を生やしているのだ。どんなに秋波を送られようと、色仕掛けで迫られようと、ふらつくことはないだろう。
(ふふ…。何しろ、この丸山姐さんが腕によりをかけて鍛えてあげたからね)
もう、初めて妓楼を訪ねて来た時のまごついた男の子ではない。わずか九度の逢瀬といえ、性技にかけては常盤屋一の花魁の英才教育を受けた天才児だ。色の道でもいっぱしの振舞いが出来るだけの器量はすでに身に付いている。
こくりと、咽喉を鳴らして盃を干した時、
「姐さん、夜分にあいすみません」
と部屋の外で
「何だい?」
「例の隊長さんがお見えです」
「すぐに通しとくれ」
「はい」
単に部屋に通す前に声を掛けただけだったようで、すぐにからりと襖が開いて、男が入って来た。
「姐さん、すまない。前もって、連絡出来れば良かったんだが…」
「構わないよ」
もうそろそろだと考えていた。常盤屋も重々心得ていて、ここ数日は、彼がいつ訪れてもいいように早い時刻以外は丸山の客を全て断っていたのだ。
「ああ、また大きくなったねぇ」
丸山は目を細めた。京楽の見立ての通り、年頃は二十歳足らずといったところか。身の丈は、
「五尺八寸」
丸山の視線の動きで意図を覚ったか、男が先んじて答えた。
「例の女の背は越したかね?」
「あんま変わらねぇ。かろうじて一寸」
「一寸も高けりゃ充分だろう?」
丸山は目にしていないが、急成長が始まる前の十歳くらいの見かけの頃は、女の胸の高さまでしか身の丈がなかったというのだから。
男はどかりと丸山の前に胡坐をかいた。
「姐さん」
「あいよ」
「あいつから、答えを貰えた」
「そうかい。好い返事だったんだろ?」
と丸山は男がぶら下げて来た柄樽に目を向けた。
「ああ」
男は頷いた。
「一緒に生きてくれると約束を貰った」
「良かったねぇ。で、首尾はどうだったんだい?」
丸山が精魂込めて磨き上げた男だ。しくじりはないと信じたいところだが、男というものはえてして、思いつめた女相手だと緊張しすぎて最初は失敗してしまうこともままある生き物なのだ。だが、彼はほろ苦い笑みを浮かべて、
「まだだ」
と答えた。
「まだ?」
「ああ。近々、大きな討伐がある。それが終わるまでは浮かれてはいられないからな」
「…」
「討伐が終わったらって、約束した」
「そうかい」
丸山は徳利から酒を注ぐと、男に盃を差し出した。
「隊長さん。あんた、今日が最後のつもりでここに来たろう?」
男は目を見開いた。容貌もぐっと漢っぽくなったというのに、こんなふうに驚いた表情になると、初めて訪れた時の少年が立ち現れるようで、丸山は懐かしさを感じた。
「何で…」
「判るさ。隊長さんの気性で将来を約束した女を裏切るような真似、出来っこないからね」
と丸山はこともなげに言い切った。
「今日は、姐さんに礼を言いたくて来たんだ」
「そうかい」
「世話になった。ありがとう」
「…討伐ってのがいつ終わるのか知らないけどさ」
「ああ」
「あたしが教えた通りにして、乗り切るんだよ」
もう妓楼を訪れず、好きな女を裏切らないということなら、約束の日まで禁欲の日々が続くことになる。それでなくても、いわゆる「やりたい盛り」の若い男には、なかなか厳しい修行生活になりそうだ。
「そうだ」
と丸山は男を制し、長持ちをごそごそと漁った。
「餞別にこれをあげるよ」
彼女が差し出したものを見て、男は破顔し、声を上げて笑った。
「やっぱ、姐さん、いい女だなぁ」
「何を今更。で、要らないのかい?」
「いや、要る。ありがたく頂く」
「丸山姐さんの秘蔵品さ。そんじょそこらのものとは、ものが違う。大事に扱うんだよ」
「おう。大事に役立たせて貰う」
丸山が渡したのは、いわゆる男女の秘戯を描いた艶本集である。しかも、花魁の所蔵品だけに、一般的に出まわっているものよりもかなりどぎつい。
くい、と盃を干した男に、丸山は嫣然とした笑みを向けた。
「当分、清らかな生活を送るってのなら、最後だしね。きっちり抜いてあげようね」
その言葉に、男は慌てた。
「いや、俺は…」
「分かっているよ。女を裏切りたくないんだろ? けども、あたしは隊長さんの房術のお師匠だからね。卒業試験は受けて貰うよ」
「卒業試験…?」
「ああ、今日はあたしは手出ししない。生娘みたいにそこに転がっているからさ。隊長さんはあたしが教えたことを思い出しながら、何もしない、出来ない女を悦ばせてみな」
「…」
「正直、溜まっているんだろ? それに妓楼に来て、花魁の部屋まで入り込んどいて、何もしないってのも失礼なんだよ」
「分かった…」
もう少し抵抗するかと思ったが、生理的、本能的な欲求と丸山に対する義理立てが勝ったのだろう。男はあっさりと承知した。これが最後だという思いが、件の女に対する罪悪感の言い訳になったのかもしれない。
男は丸山に手を伸ばした。前よりも明らかに大きくなった掌がやんわりと彼女の乳房を揉みしだく。
(ああ…、本当に巧くなったねぇ)
男の愛撫に身を委ねながら、丸山はひっそりと不思議な達成感を覚えていた。
最後の交わりを終えた後、俯せに寝そべったままで丸山は
何だかんだ言いつつも、やはり本能に基づく欲求は溜まっていたらしい。花魁相手にしっかりと発散した男は、気怠げに天井を仰いでいる。
「隊長さん…」
「ん?」
「女と巧いこといったらさ」
「うん?」
「知らせておくれ。弟子の首尾は気になるからね」
「ああ。礼をしないとだな」
と男は
「そうだね。礼をして貰ってもいいね」
と丸山も微笑を返した。
「だけど、来なくてもいいからね」
「あ?」
「ずっと焦がれていた女なんだろう? 大事にしたいんだったら、二度とこんなところに来ちゃいけない」
「…そうか」
先ほど「妓楼まで来ておいて何もしないのは花魁に対して失礼だ」と告げられたことを思い返し、男は頷いた。
「花がいいねぇ」
暫くの沈黙の後、不意に丸山が呟いた。
「え?」
「さっき言ってた礼さ。花がいい。あたし、いっぺん、この部屋が埋もれるくらいの花を飾って、その中で眠ってみたかったんだ」
年増の海千山千の花魁には似つかわしくない乙女な望みだとは知っていたが、丸山は敢えて言ってみた。
「花くらい、隊長さんなら安いもんだろう?」
「まぁな。姐さんの好きな花は何だ?」
男は尋ねた。丸山の頼みを承知したということだろう。
「花なら何でも好きさ。隊長さんが選んでおくれ」
「分かった。必ず、この部屋が埋もれるくらいの花を贈る。多すぎたって文句を言って来ないでくれよ」
「言うわけないだろ」
男は身を起こした。
手早く身支度を整えた彼は、最後にもう一度正座して、花魁に相対した。
「姐さん。本当に世話になった。感謝している。ありがとう」
最初に見たのと同じ、指先をきっちりと揃えた綺麗なお辞儀。
「さようなら、隊長さん」
「さようなら、姐さん」
男は立ち上がった。去ってゆく彼の、最初とは比べ物にならないほど広くなった背中に向けて、丸山は静かに告げた。
「ご武運を」
ぴく、と彼の肩が一瞬震えた。振り返らないまま、
「姐さん、達者で」
と応じ、男は消えていった。
男と別れたのが新暦霜月の末。
だが、師走に入っても、年が明けて新年を迎えても、一向に花は届かなかった。
あの律儀な男が約束を違えるとは思えない。もしや、討伐で何かあったのかと案じながら、無情に日々は過ぎていった。
そして、松も取れた睦月十七日。
「花魁、お届けものです」
牛太郎の報せに、丸山ははっと身構えた。
「花かい?」
勢い込んで尋ねる丸山に気圧されながら、常吉は頷いた。
「とんでもないくらいの数の花に、樽酒です」
丸山の顔に笑みが広がった。
「すぐに運んでおくれ。すぐだよ」
常吉が退いてから、丸山は部屋の窓から通りを見下ろしてみた。店の前に大八車が二台、横づけにされている。一台の車には五樽もの樽酒が積まれており、もう一台には、
「水仙?」
正に水仙だった。常吉の案内で丸山の部屋にやって来た花屋の遣いは、大量の水仙を抱えていた。日本水仙に、白水仙、黄水仙、ラッパ水仙に、丸山が目にしたこともないような華やかな八重の水仙や、中心部の副花冠に襞が寄ったような珍しい花もあった。花瓶や水盤も用意されていて、彼らはてきぱきと花を活けていった。あっと言う間に、部屋は右も左も水仙だらけとなり、馥郁とした芳香に満たされた。
「酒はどうしましょう?」
常吉の問いに、
「そうさね。あたしは徳利一本もあればいい。晩になったら、燗をつけて運んでおくれ」
と丸山は答える。
「へぇ」
「残りの酒はあたしからの振舞いだ。みんなで呑んどくれ」
「へぇ。ありがとうござんす。しかし、いいんですか? ずいぶんと高い酒ですよ」
「ふうん。さすがに護廷の隊長さん。豪気なもんだね」
丸山は笑った。
「それとね、常さん。今晩だけは客を取りたくないんだ。埋め合わせはする。だから、その貰った高いっていう酒を存分に振る舞ってさぁ、今晩はお引き取りを願っておくれでないかい」
「あい、承知いたしました」
花を活け終わった花屋が、丸山に向き直った。
「ご注文主から言付を承っております」
丸山が促すと、花屋は覚えて来た口上を諳んじた。
「『水仙は厳しい冬を乗り越えて春に先駆けて咲く花だから、姐さんに相応しいと思った。姐さん、本当にありがとう。どうか息災で』」
一息に述べた後、
「このように、このまま伝えるように言いつかって参りました」
と付け足した。
「ああ、ありがとう。らしいねぇ…」
商売物とは異なる素の笑みで、丸山は笑った。
「花魁からのお言付はありませんか? お伝えいたしますが」
「ないよ。返事なんていらないんだよ」
「そうですか」
花屋は四角い包みを差し出した。
「何だい?」
「これも花魁にお渡しするように頼まれました」
「そうかい。ありがとう。ご苦労だったね」
役目を終えた花屋が引き上げ、常吉も下がってしまってから、丸山は包みを開けてみた。
文ではないはずだという確信があった。
中から出て来たのは、表に写真が印刷してある一分ほどの厚みの薄い箱だった。写真の上には、「異国情緒・長崎」の文字があった。
「…長崎?」
箱を開いてみると、幾葉かの写真が納められていた。現世と関わりのない丸山は知らないものだったが、男が寄越したのは絵葉書であった。現世の観光地では、土産物屋に必ず置いてある定番の土産だ。
「長崎の写真…」
男が語った長崎の話が、丸山の胸に鮮やかに甦った。
「へえ。これが大浦天主堂ってのかい。綺麗な建物だねぇ」
瀞霊廷では見ることのできない、鮮やかな光に彩られた、宝石箱をひっくり返したような夜景の写真には「稲佐山からの夜景」と解説が付けられていた。平屋のこじんまりした洋館はグラバー邸。朱塗りの門は崇福寺。それから、
「思案橋…」
男は言っていた。今はもう、記念の碑が残るだけだけれど、かつて丸山遊郭の手前には「思案橋」と名付けられた橋があったのだと。遊郭を訪れる男たちはこの思案橋を「行こうか、戻ろか」と思案しながら渡り、入口近くの「思切橋」で迷いを思い切って、遊郭に足を踏み入れたのだと。
橋の欄干を象った碑に「思案橋跡の碑」と彫りつけてあるだけの写真を、丸山はじっと見つめた。
やがて、ぱたりと写真の上に水滴が散って、丸山は慌てて袂で水を拭った。
水滴は雨漏りなどではなかった。丸山は自分の頬をも伝う水気を感じた。
これで、本当に終わったのだ。
「幸せになるんだよ」
丸山は小さな声で呟いた。