風渡る神無月
異口同音。
「隊長を見掛けませんでしたか?」
互いの顔を認識した途端、口をついて転げ出た言葉は冒頭の固有名詞を除けば一字一句とて違わず、思わず苦笑が漏れた。
「残念ながら、見ておりません」
「私もです」
と告げた後、自分たちが既に捜索した場所を教え合い、情報交換する。
「っとに困ったもんですね」
眉尻を下げて溜息を落とす青年に、
「お互いに不真面目な上司を持つと苦労しますね」
と七緒も同病相哀れむな一言を告げる。
「僕はこれから千早通りに行ってみます」
瀞霊廷の目抜き通りである。呉服屋や小間物屋が軒を連ね、有名な菓子舖や甘味処も多い一角である。
「草鹿副隊長とお団子でも食べているかもしれません」
「では、私は霊王廟を探してみます。今日はお天気も良いことですし、昼寝でもしているかもしれませんから」
いつものように、お互いの尋ね人を見掛けたら連絡することを約定して、七緒はイヅルと別れた。
イヅルに告げた通りに霊王廟に向かってせかせかと足を進めながら、七緒は心の中で不真面目な上司に対して思いっきり悪態をついていた。全く、と七緒は思う。ちゃらんぽらんなところがあったのは以前からだが、昔はもう少し真面目だったのではないか。少なくとも、彼女が四席の頃は執務室を抜け出して姿を晦ますなどということはなかっ いや、やっぱり、あったかもしれない。しかし、こうまで頻繁だったろうかと、七緒はこめかみに指を当てた。
霊王廟の境内は死神や、周辺住民の憩いの場になっている。池の畔の東屋や小さな茶店には見廻り途中で休憩しているらしい隊士の姿がちらほらと見え、鬼ごっこやかくれんぼに興じる子供たちの声も響いている。尤も、執務を放り出して雲隠れしたはた迷惑な隊首が表の目立つ場所にいるとは考えられない。七緒はずんずんと境内の奥に進んだ。
現世の寺社によく似た造りの霊王廟の裏手から更に奥に入ると、歳を経た古木が繁るちょっとした林がある。その辺りにまで進むと、さすがにほとんど人の姿は見当たらない。
七緒は頭を上げると木立を見上げた。新暦神無月中旬の今日では小春日と呼ぶには少し早いが、秋の柔らかな陽射しが気持ちの良い日和である。だから、きっと、あの不真面目隊首はこういう人目に付かない大木の枝あたりで惰眠をむさぼっているのではないか、という七緒の推察は半分だけ当たった。さわさわと吹き渡った秋の風が黄葉を始めた銀杏の古木の梢を揺らした時、かなり上方の大枝でざわめく枝葉の隙間から、黒い死覇装と白い羽織の色が覗いたのだ。だが、七緒はがっくりと息を吐いた。
(…市丸隊長だった)
京楽であれば女物の羽織の鮮やかな紅色が混ざり込むはずだったが、葉端が黄色に縁取られた銀杏の扇の重なり越しに見え隠れする色はきっぱりと白と黒だけで、目当ての紅色は見いだせない。
近付く七緒の霊圧に気付いたのだろう。
「伊勢さん?」
と向こうから声を掛けて来た。
「残念ながら、京楽隊長はここにはおれへんよ。他を当たり」
「そのようですね」
と七緒は応じたが、このまま帰るわけにもいかない。イヅルとの約束を果たす為に、おもむろに伝令神機を取り出した七緒に、
「何? イヅルに報せるつもりなん?」
はるか頭上でギンが不愉快そうに問い掛けた。
「はい。お互いに隊長を見付けたら報せると約束しておりますから」
「ああ、もう」
不満そうな声音が降って来る。
「しゃあないなァ。あと
更に半刻もさぼるつもりだったのか、と呆れ返りながら、七緒は幹のすぐ側にまで歩み寄った。彼女が真上に視線を上げると、ギンは腰かけていた銀杏の大枝から立ち上がっていた。
「戻られるのですか?」
「伊勢さんに見付かってもうたもん」
と応じながら、ギンが枝から飛び降りようとした時。
ピィィ
笛の音が高く響き渡った。
ギンは動きを止めた。そして、そのまま、すとんと、再び枝に腰を下ろしてしまった。
この林で霊王廟の境内は終わりである。林の向こう側は比較的裕福な中下級貴族の住み暮らす一角で、どうやら龍笛の音はそこから流れて来ているらしい。稽古中とみえ、素人の耳にも調べは流暢とはいえない。
「伊勢さん」
上方から、再び声がかかった。
「はい」
「京楽はんを探すのん、ちょっとやめにして、休憩しぃへん?」
その提案に、
「…そうですね」
と、すんなりと頷いてしまったのはどうしてだろう。手に持ったままだった伝令神機を懐にしまうと、七緒は軽く地を蹴った。低い位置の枝に飛び移ると、そこから数度飛んで、彼女はギンの斜め下の大枝に腰を落ち着けた。
「習ったばかりなのでしょうか? こう言っては申し訳ありませんが、正直なところ、下手ですね」
「うーん。そやね。けど、ずいぶん上達した方なんやで。一月前は聞けたもんやなかった」
ギンは嘯いた後、四角い箱を七緒の目の前に下ろした。
「蕗屋の大福やけど、食べへん?」
「いただきます」
七緒は悪びれずに、箱に納まった大福餅をひとつ手に取った。
「お茶もあるけど」
とギンは更に水筒を掲げて見せた。これには思わず、七緒は苦笑を零した。
「お茶菓子に飲み物までご持参ですか? 京楽でもそこまでしませんよ」
「ええお天気やったしなぁ。外でお茶にしたい気分やって」
「確かに、心地よいお天気ですね。是非は別にして、さぼりたくなるお気持ちだけは分からないでもありません」
「意外やな。伊勢さんがそないなコトを言うなんて」
「是非は別にして、と申し上げましたでしょう。お気持ちは分かりますが、実行するかどうかはまた別の話です」
「伊勢さんもつくづく生真面目やなァ」
くつくつと、ギンは笑った。この男の笑い顔は小馬鹿にされているような気がしてどことなく不愉快なのだが、今日の笑みには嫌味を感じなかった。
七緒は笛の調べに聞き覚えがあった。これは「小夜啼鳥」だ。今はもういない七緒の友人の
「…この曲…。好きだったんです」
つい、七緒は呟いていた。すると、
「奇遇やね。ボクも好きや」
とギンは静かに、とても静かに微笑した。
「今はまだ下手糞やけどな。熱心に練習したはるから、このままくさらんと精進すれば、そのうち上手ァなるよ」
どうやら、彼は以前にも何度かこの龍笛の練習を聞いていたようだ。七緒はひとつ、息を吐くと、
「お茶を頂いてもよろしいでしょうか」
と尋ねた。ギンは無言で水筒の茶を竹筒の湯呑に移して、七緒に差し出した。
ピィィ、ピッ…
ああ、また音程が外れた。
まだ充分に熱を持った茶をゆっくりと味わいながら、七緒はひっそりとギンを窺った。彼は銀杏の幹に背を預け、足を大枝に長く伸ばして笛の音に耳を傾けていた。かつて七緒が好きだった旋律と同じ曲だとは到底思えないほどに未熟な調べ。それでも。銀杏の葉と前髪が邪魔でしかと表情は窺えないが、ギンの口許に湛えられている笑みは平常の人を食ったようなものではなく、穏やかなもののように見て取れた。
「…市丸隊長」
「何、伊勢さん?」
「吉良副隊長がずいぶん困っていらっしゃいましたよ」
「…うん、そうやろね」
しらっと答えたギンに、七緒は敢えて真面目くさって、
「吉良副隊長は温厚な方ですが、あんまり困らせるとさすがに堪忍袋の緒も切れてしまいますよ」
と忠告してみた。
「確かにな。日頃はおとなしいモンほど、ぶち切れると厄介やもんなァ」
再び、ギンはくつくつと笑った。先ほどと同じ、嫌みのない緩やかな笑い方だ。
「ま、ホンマに臍を曲げられても困るしなァ。もうそろそろ戻るコトにするわ」
「そうですか」
彼が何故、イヅルをわざわざ五番隊から譲り受けてまで三番隊に引っ張って来て副隊長に据えたのか、七緒はおぼろげにその理由が分かったような気がした。滅多に見ることのできないギンの裏のない笑みを何ということもなしに眺めていると、
「伊勢さん」
と今度はギンが七緒に声を掛けた。
「何でしょう?」
「亥原の外れの丘に野生の竜胆の群生地があるんやけど、…京楽はんから聞いたことない?」
ギンの問いに、少し考えてから七緒は答えた。
「存じております。二、三年前でしたか、京楽に案内されて訪れたことがあります」
「綺麗かった?」
「はい。とても見事でした」
「八日ばかり前にボクが行った時は、蕾がようさん大きゅうなっとって、早咲きの花がぽつぽつ咲き始めとったなァ」
「はぁ」
「多分、今日あたり、見頃や思うで」
七緒を見下ろす表情に、いつもの人を食った笑みが混じり込んでいる。だが、心持ちの問題なのか、何故か不愉快さを覚えなかった。ギンの言葉の裏にある意図に感付いて、七緒も薄く笑みを浮かべた。
「貴重な情報をありがとうございます。早速、見に行ってみます」
七緒は茶を飲み終えた湯呑をギンに返した。
「おご馳走さまでした」
と謝意を述べれば、
「お粗末さんでした」
と彼も応じた。
「吉良副隊長が本気で立腹される前に、お戻り下さい」
しつこいか、と思いながら七緒は念を入れてみた。対して、ギンは気を悪くしたふうもなく、存外あっさりと頷いた。
「うん、分かっとうよ」
立ち上がった七緒はとん、と枝を蹴って一飛びで着地した。最後にもう一度だけ一礼すると、樹上でギンがひらひらと手を振っているのが見えた。
亥原は瀞霊廷の北西の外れにある鄙びた村落である。農耕を営む下級貴族たちが暮らしている。竜胆の群生地はその村でもさらにはずれの小高い丘陵地にあった。
群生地はギンの見込みに違わず、丁度、花の盛りであった。園芸種とは異なり、小ぶりで茎も短めの竜胆が濃い青紫の花を天に向けて咲かせている。竜胆の原に足を踏み入れた七緒はほんのしばらく、本来の目的を忘れて可憐な花に見入ったが、視界の端に異質な色彩を捉え、すぐに表情を引き締めた。
(いた…)
少し離れた斜面に、いつ見てもふざけた派手な女物の羽織と編み笠が転がっていた。
七緒の推測を裏切らず、呑気に昼寝をしていたものらしい。編み笠を顔の上に乗せて日除けとして、男は手枕に大きな図体を草の上に横たえていた。その傍らに佇んで、七緒は冷ややかに編み笠とその下に隠れて今は見えない顔を睨みつけた。気分的には蹴っ飛ばしてやりたいところだが、腐っても相手は隊長。そして自分は彼の副官だ。足蹴にするのは流石にまずいだろう。彼女の気配に気が付いていないわけがないのに、まるで身動ぎもせずに狸寝入りを決め込んでいるところも、嗚呼、本当に腹が立つ。
七緒は斬魄刀の鞘を払った。
そのまま、どすっと刃を男の身体ぎりぎりに突き立てる。
「もっと優しく起こしてよ、七緒ちゃん」
ほんの僅かでも動けば肌を切り裂かれる至近距離の刃に、全く動じずにいつもの緩い声を発した隊首に、
「それなら、優しく起こしたくなるように振る舞って下さい」
と七緒は温度のない声音で言い切った。地に付き立てた斬魄刀を引き抜くと、軽く土を払って鞘に納める。京楽はゆるゆると半身を起こすと、日除けにしていた編み笠を被り直した。七緒は無言でその隣に腰を下ろす。京楽は僅かに目を細めた。
「あれえ、七緒ちゃん。帰るんじゃないのぉ?」
冗談めかした問いに、彼には視線を送らず、前方に揺れる竜胆の群れだけを見つめて七緒は言った。
「どこかの不真面目な隊長のせいで、こんな外れまで足を延ばす羽目になってしまったのです。正直、疲れましたし、それにせっかくこんなに綺麗に花が咲いているのです。ちょっとくらい眺めてから戻っても罰は当たらないでしょう?」
「そうだねえ」
「隊長はたっぷり休憩を取られたようですしね。気力充分、さぞかしお仕事も捗ることでしょうし」
七緒は敢えて声を低めた。これは戻ったら本気を出さないとまずい、と京楽が首を竦めているのを気配で確認し、心の底でほくそ笑む。彼女はそれきり口を噤み、目の前の花に見入った。さらさらと草原を渡る風が優しく彼女の頬を撫で、前髪を揺らす。柔らかな風が無性に懐かしくて、彼女は手近に咲いていた竜胆を一枝、折り取った。
「…竜胆の花言葉をご存知ですか?」
竜胆の茎をくるくると廻しながら、七緒は問い掛けた。不意打ちの問いに、さすがの京楽も即座には返答できず、一瞬詰まった後で答えが返って来た。
「『悲しんでいるあなたを愛する』もしくは『慰めたい』、だったっけね」
「ええ」
「竜胆は四番隊の隊花だけど、いかにもらしい花言葉だねぇ」
「そうですね…。他に『貞節・誠実・さびしい愛情』といった花言葉もあるようです」
と補足しながら、七緒はおもむろに立ち上がった。
「戻りましょう、京楽隊長」
まっすぐに目を見て促せば、
「うん」
逆らわず、京楽も腰を上げる。彼は着物についた枯草を軽く払っていたが、七緒は待たずに先に歩み出した。
歩み出して、けれど、数歩も進まぬうちに、彼女は足を止めた。
「京楽隊長」
「なんだい、七緒ちゃん?」
背中から響く、間延びした、でも温かな声。
「京楽隊長はちゃんと帰ってきて下さい」
言ってしまったのは、竜胆の原を渡る風があんまりにも優しかったから。
少しの間の後、
「七緒ちゃんが迎えに来てくれたからね。ちゃんと帰るよ」
という言葉が聞こえた。期待した返答からずれているようでいて、よく噛みしめれば的確な答えに、七緒は薄く笑みを浮かべると、再び歩み始めた。