名月を取ってくれろと泣く子かな


 灯りを点さない部屋で、男は窓から漏れ入る表通りからの光だけを頼りに酒を呑んでいた。色素の薄い男の顔に色街特有の紅灯が映え、表情は物憂げに煙って見えた。窓辺に凭れ、片膝を立てた姿勢で座っているせいで、夜着の裾から引き締まったふくらはぎが覗いている。緩く合わせた胸元から垣間見える鎖骨と相まってたいそう艶めいていて、美津は自分の立場も忘れて、男に見惚れていた。

 男は花魁である美津の客である。彼が美津を初めて買ったのは、かれこれ七年も前になる。「喜和屋」の女郎として格子に並び始めてから一月もしないうちに、男が美津を目に留めて指名したのである。
 男は瀞霊廷では最も尊敬される「護廷十三隊」に属する死神だった。しかも、ただの死神ではない。名の通り、護廷は十三の隊に別れているが、彼はその中の三番隊の長であった。
 護廷の隊長は上級貴族と同等の地位と見做される。従って、護廷の隊長が妓楼を訪れた場合、敵娼あいかたは最上位の太夫が務めるのが色里の常識だった。実際、喜和屋でも他の店でも、男がやって来たら、何も言わずとも太夫を出していた。ただ、かの男は気紛れなところがあり、時折、太夫を断って別の娼妓を所望することがあったのだ。無論、護廷隊長の希望とあれば、それが一見不釣り合いな下級の女郎であろうとも店は叶える。彼が美津を名指した時も、喜和屋はいつもの気紛れだろうとさして気にも留めていなかった。
 だが、珍しいことに男は美津を気に入ったらしく、その後も度々、彼女を買うようになった。無論、太夫を相手にする方が頻度は格段に多い。けれども、平均すれば一月に一度くらいの割りで美津を名指すことも続け、気が付いたら、馴染み客になっていた。
 女郎になって早々に、彼が客に付いたことは美津にとって非常な幸運だった。何しろ、相手は護廷の隊長である。黙っていても太夫が敵娼を務めるのに、わざわざ美津を買ったということが評判になって、その結果、何人もの上客を掴まえることが出来たのだ。しかも、男は容姿を取っても女出入りの浮名を取っても今業平と囁かれるほどの人物だったから、彼が馴染みだという事実は彼女に箔を付ける結果となった。おかげで、異例とも言える早さで格子女郎からいっぱしの花魁にまで出世することが出来た。格子女郎と花魁とでは揚げ料からして桁が違う。借金のかたに色街に身を沈めざるを得なかった美津にしてみれば、早々に花魁に上がれたということはそれだけ早く借金を返せるということを意味している。彼が客に付いたことで齎された恩恵を鑑みれば、足を向けては寝られないほどの義理があるとさえ言えた。

 一人、黙って手酌で呑んでいた男がことりと盃を置いた。開け放していた通りに面した出窓の障子を閉め、手前の板戸を細い隙間を残して閉ざしてしまえば、もともと暗がりだった部屋に更に濃い闇が落ちてくる。
 外の灯火が届かぬ部屋の隅に控えていた美津の目はすでに闇に慣れており、あえて閉ざし切らずに作った隙間から入り込んで来る僅かな光だけを頼りに床まで進んだ。
 ぱさりと、床の傍らで着衣を落とすと、すぐに男の腕が伸びて来た。褥に横たえられた美津の身体を、肉が薄く、しっかりとした骨格を持った、男にしてはすんなりとした手指が這いまわる。乳房を揉みしだかれ、腰を撫で上げられ、美津はびくびくと身体を痙攣させた。女出入りが激しいと噂されるだけのことはあって、男は閨事に長けていた。初めて彼に買われた時、女郎になりたての美津は完全に翻弄された。あられのない嬌声を上げ、素人娘のように受身一方で幾度も絶頂させられたものだ。現在はそれから七年も経過し、彼女も経験を積んで花魁と称される地位にまで上がった。それに伴い、女郎としての手管もずいぶんと身に着いた。しかし、この男を相手にする時だけはそれらは意味を為さなかった。美津は買われて、男に奉仕するべき立場だ。しかし、この七年もの間、色里で称されるところの奉仕という行為を、美津は一度たりともしたことがなかった。初めて買われた時と同様に、男に身を委ね、受身一方で酔わされるばかりだった。
 男の唇が耳朶を這った。彼は美津の名を呼ぶ。囁くように、その名を繰り返す。同時に男の手指が彼女の秘部にかかり、谷間に滑り落ちた。
「あ…、ああ…」
 たまらずに美津の唇から、細い悲鳴のような喘ぎが迸った。早い動きで指を抜き差しされ、切羽詰まった美津の喉は、はっ、はっ、と荒い呼吸を繰り返す。
 再び、男は美津の名を呼んだ。ねっとりと熱く湿り気を帯びた吐息が美津の耳をくすぐり、美津は背中を走り抜けた強烈な疼きに四肢を突っ張らせた。
「…う…、ううぁ…」
 美津の声帯が震え、言葉にならない呻きにも似た音がまろび出る。
 ずぶりと、いきなり男の屹立が美津を侵した。ずぶずぶと彼女の加減などお構いなしに侵入してくるそれは、熱した鉄の塊に相似していた。彼女の裡を激しく掻き回し、理性を剥ぎ取り、何ひとつ分からなくさせる。
 花魁の矜持など、男の前では粉々に砕け散る。易々と高みに抛り上げられ、美津はただただ喘ぎ続けた。

 喜和屋を訪れた隠密機動から話を聞きたいと申し入れられた時、自分が疑われているということを美津はすぐに察した。
 美津の客だったあの男    護廷三番隊の隊長が叛逆を企て、護廷を去ったという噂は色里にまで届いていた。護廷では箝口令を敷いていたようだが、それらは無意味だった。何故なら、叛逆は瀞霊廷の中心部に聳えたつ双殛の丘で白日の下に行われたのだ。瀞霊廷内であれば、はずれからでも望める巨大な磔架が音を立てて崩れ去るさまも、天から降って来た光の柱の中を昇ってゆく人影も、死神ではない多くの一般人に目撃されていたのだ。
 美津が住み暮らす妓楼からも、それは見えた。そして、彼女もまた、目撃者の一人だった。妓楼から双殛の丘を望んだ時、天へと消えゆくものは辛うじて人と識別できるくらいで、比喩ではなく真実、豆粒ほどの大きさにしか見えなかった。だから、その時はまさかに三番隊隊長であるとは思いも及ばなかった。しかし、すぐに噂が立った。処刑の磔架を砕いたのは現世からやって来た旅禍だと。そして、護廷の隊長の幾人かが叛逆し、虚圏ウェコムンドと呼ばれる異界に逃げ去ったと。まさに、人の口には戸は立てられるものではなかったのだ。護廷がどれだけ厳重に箝口を命じようと、噂はおかまいなしに千里を走った。やがて、追って来た別の噂は叛逆したのが、三・五・九番隊の隊長であることを知らしめた。
 その話を耳にした時、美津は驚きはしたものの、同時に腑に落ちるものを感じた。反逆者の名にあの男の名が連なっていることに、彼女は納得したのだ。
 隠密機動が喜和屋にやって来たのは、叛乱から四日後のことだった。かの男は喜和屋だけを贔屓にしていたわけではなかった。遊郭街には夜鷹に毛が生えたような最下級の女郎専門の安妓楼から太夫を抱える高級妓楼まで、幾つもの店が軒を連ねている。そのうち、太夫を置く常盤屋、倭屋、望華楼、そして喜和屋に叛逆した三番隊隊長はまんべんなく足を運んでいた。無論、気紛れに太夫でない娼妓を抱くことも、その四つの見世ではしばしば行われていた。従って、隠密機動の捜査を受ける羽目になったのは、喜和屋だけではなかった。だが、喜和屋だけ、特別だったことがある。隠密機動総司令官が自ら捜査にやって来たという点である。
 男が最も頻繁に買っていたのは、もちろん太夫である。だから、最初に太夫が取り調べられた。だが、護廷隊長という身分と地位に見合う相手として宛がわれた太夫のことは、喜和屋に限らず疑ってはいなかったのだろう。太夫に対する尋問は通り一遍のものだった。そして、次に呼ばれたのが美津だった。
 隠密機動の尋問の為に喜和屋が明け渡した座敷に美津が入室するなり、ぴり、と張り詰めた空気と、いつもは貫録を湛えて落ち着き払っている喜和屋の主人がそわそわと彼女を見遣る目付きに、美津は自分が隠密機動の本命なのだという予想が当たったことを悟った。だが、彼女には慌てる理由などひとつもなかった。それ故、主人も目を瞠るほどに冷静に、堂々と隠密機動の前に着座し、まっすぐに隠密機動総司令官を見据えた。
 総司令官というくらいだから、貫録のあるいかつい中年男だろうと、美津は想像していた。だが、目の前には予想外に若い女がいた。見た目だけなら少女といってもぎりぎり通るくらいの童顔の女が、顔立ちにそぐわない刃で削いだような剣呑な気と底知れぬ威圧感を滲ませて座っていた。
「隠密機動総司令官、砕蜂だ」
と女は自己紹介をした。実態は尋問だが、表向きは単なる事情聴取である。先に尋問を受けた太夫も、美津も、一般人が隠密機動に協力してやっているという態を取っている為、筋を通したのだろう。
 総司令官の傍らに座していた彼女の部下らしき男が、尋問を始めようと口を開きかける。しかし、それよりも一呼吸早く、美津は、
「呼ばれた理由は承知しております。私のお客だった護廷三番隊の隊長さまのことですね」
と告げて機先を制した。息を呑んだ男に対して、総司令官の砕蜂は皮肉っぽく唇の端だけを持ち上げて笑い、
「話が早くて助かる」
と返した。
「ご協力したいのはやまやまでございますが、私は何も存じません」
「まぁ、そう言うだろうな」
 砕蜂は応じた。
「真実、何も知らぬにしても、あやつらに通じていたにしても、そなたにはそれしか言えまい」
「そうでございますね」
と美津はいったん目を伏せて、砕蜂から視線を外した。
「あやつが最初にそなたを買ったのは七年前だな」
 気を取り直したらしい、隠密機動の男が尋問を開始した。
「はい。わたしが喜和屋の娼妓として見世に出始めてから一月もしないうちのことでした」
「それから、ずっとあの男は途切れることなくそなたを買っているな。二月ほど間が空くこともあれば、数日のうちに立て続けだったこともあるようだが…」
「間違いございません」
と肯定した後、美津は再び面を上げた。尋問を担当している部下の男ではなく、砕蜂をまっすぐに見つめて、彼女は切り口上に、
「私の方から、隠密機動さまに申し上げたきことがございます」
と告げた。
 男が総司令官を窺い、砕蜂は目配せで頷いた後、美津に視線を戻した。
「いいだろう。言え」
「ありがとうございます」
 礼を述べてから、美津は語った。
「あの方は確かに七年もの間、私を買って下さいました。ですが、あの方はおそらく道端ですれ違ったとしても、私を分からないと思います」
「どういうことだ?」
「あの方は私の顔をご存じではありません。言葉を交わしたこともほんの二、三度のことでございます」
「…まさか」
 男の顔にあからさまな不審が浮かび、砕蜂は美津の本意を探るようにさらに視線を鋭くさせた。
「あの方が私を買う時、部屋の照明は一切付けませんでした。暗闇の中で、私はあの方と抱き合っておりました」
「だが、あの男はそなたの部屋で酒食を口にしたこともあろう」
「はい。ですが、そのような時も暗闇の中、表通りの灯りだけを頼りに手酌で呑んでおられました。私はあの方にお酌したこともございません。一度、申し訳なさにお酌を試みましたら、強く手を跳ね除けられて、部屋の隅の暗がりに控えておくようにと叱られました」
「…」
「…あの方は私の声も記憶にないはずです。話すことも禁じられておりましたから」
「…」
「おそらく、あの方が私の顔を見たのは最初に買われた日、格子に並んで客を引いていた私に目を留めたその時だけだったと存じます。その時さえ、単に新顔の女郎が入ったことを認めた程度のことで、別段、私に惹かれたわけではないと、…私はそう感じておりました」
「どういうことだ?」
 隠密機動の男が困惑したように同じ言葉を繰り返した。
「顔も見ず、言葉も交わさず、それなのに何故、そなたを…」
 混乱する部下に対して、総司令官は動揺を表面に見せなかった。ただ、ひりつく殺気が美津に纏いついた。
 美津は吸い込んだ息を吐き出す勢いに乗せて、腹の底に溜まっていたものを曝け出した。

「あの方が気に入っていたのは、私の源氏名です」

 部下の男は見事に惚けた。
 隠密機動総司令官すら、一瞬、威厳を剥ぎ取られ、ぽかんと瞠目した。

「…源氏名…」
 砕蜂は呟いた。
 喜和屋は抱える娼妓に花の名を与えるのが習わしである。美津に先だって尋問された太夫の源氏名は糸菊。以下、桔梗花魁、白梅花魁、朝顔花魁と続く。そして、美津の源氏名は、

菖蒲あやめ…花魁…か」

 美津は頷いた。
「あの方は牛太郎との世間話で私の源氏名を知って、それで、私を買う気になられたのです」
「…そう…か…」
「はい…。ですから、あの方は私個人にはこれっぽっちも興味がありませんでした。私の容貌も、私の声も、あの方は必要としておられなかった…。いえ、…むしろ邪魔だったのだと存じます。あの方にとって必要でしたのは、欲を吐き出す為の単なる器としての女の身体と、そして、見世から与えられたこの源氏名だけでした」
「…」
「ただ、私の源氏名を…、いえ、私の源氏名と同じ響きの音を、誰はばかることなく呼ぶ為に、それだけの為に、あの方は私を買っておいででした」

 かの男との逢瀬には温度がなかった。
 買った、買われたという金銭がらみの泡沫のような関係とはいえ、膚を重ねる客と娼妓との間には情が確かに存在する。かりそめでもいくらか互いの心の温度は通じ合う。
 だが、何度抱かれようとも、幾度、執拗な愛撫に理性を融かされ、熱い飛沫をその身で受け止めようとも、美津は男の感情に触れられなかった。膚を合わせ、物理的にはゼロの距離にいるはずなのに、男の心は美津の臨めない遥か彼方に置き去りにされていて、遠隔操作で身体だけがここに来ているという錯覚を覚えるほどだった。
 ただ。
 美津の源氏名を呼ぶ、その時だけ、声音に僅かに温度を感じた。隠しきれずに滴った感情が、
「あやめ」
と呼ぶその響きに潜んでいた。
 それ故に、美津には理解わかったのだ。男がその名を、その音を、ただ口にする為だけに美津を必要としたことを。きっと、心の中では何度もその名を呼んでいるのだろう。声に出さずに呼び続けたその想いが降り積もって、重みに耐えられなくなった時、音にして散らす為に美津は存在していた。「菖蒲あやめ」というのは、見世から与えられたかりそめの名である。だが、それさえも、あの男にとっては美津を意味してはいなかった。

    よく分かった」
 不意に、砕蜂が言った。続けて、
「時間を取らせてすまなかった。協力、感謝する」
とだけ言い置いて、彼女はさっさと立ち上がった。表情には変わらず威厳と威圧感が纏い付いていたが、美津が入室した時に感じた丸裸に切り刻まれるような殺気は消えていた。
 部下の男が慌てて後を追ったところを見ると、彼は呑み込めていないのだろう。しかし、少なくとも砕蜂は納得したのだと、美津は悟った。現在の隠密機動総司令官は、先代と同様に護廷の隊長も兼務しているということを、客の誰かから聞いた記憶があった。護廷隊長格の同僚であったのなら、砕蜂には「あやめ」の心当たりがあったのかもしれないと、美津はぼんやりと慮った。
 彼女の傍らで、喜和屋の主人が安堵の太い息を吐いた。それから、真顔になって美津を顧みた。
菖蒲あやめ、今の話は…」
「全部、本当のことです」
と美津は答えた。
 もしかしたら、あの男は一番最初さえ、美津の顔を見てはいなかったのではないだろうか。喜和屋は創業当時から、娼妓を花の名で呼び習わして来た。だとすると、男は待っていたのかもしれない。「菖蒲」の源氏名が与えられる娼妓が現れる日を。新しい女郎が抱えられる度に、彼は源氏名を確かめていたのかもしれない。
「私でなくても良かったんですよ…。『あやめ』でさえあれば。偶々、私が『菖蒲あやめ』に当たったんです」
 そう呟いて、美津は微笑った。

 砕蜂を追って喜和屋を出た部下の男は、思わず、
「良かったのですか?」
と総司令官に尋ねていた。
「碌な尋問もしていないのに」
「構わん」
 砕蜂は、しかし、斬って捨てるかの如く言ってのけた。
「あのおんなは叛乱のことなど、何も知らん。探るだけ時間の無駄だ」
「しかし、あの妓だけなんです。七年も続いているのは。何もなかったなど信じられません」
と言い募る部下に、
「逆だ」
と砕蜂は応じた。
「何もなかった…。だからこそ、七年も続いたんだ」
 それは直感に過ぎなかったが、同僚として知り得た三番隊長の為人ひととなりや言動を顧みる限り、まず正解だと砕蜂には信じられた。
 菖蒲花魁は聡明な女だった。だが、同時にとても愚かでもあった。
 花魁は早々に悟ったのだ。自分が代償行為の道具でしかないことを。手に入らぬ女を遊女に重ねて欲を発散する男はずいぶんといるらしいが、叛逆した三番隊隊長はその極端な例だと言える。花魁が看破していた通り、彼には『菖蒲花魁』などどうでも良かったに違いない。一個の人格を備えた娼妓は、彼には無用の長物だったのだ。だから、顔を見ないように部屋を暗がりにした。声を聞かないように言葉を禁じた。そうして、代償行為の妨げにしかならない菖蒲の「個」を封じて、欲をぶつける為の人形として利用したのだ。菖蒲の聡い点は、もし彼女が人形ではなく、『菖蒲花魁』として扱われることを望んだならば、その瞬間に男に切り捨てられることを承知していたことだ。

     そして、彼女は傀儡くぐつに甘んじ続けた。

 金で買われた一夜妻としてさえ一人の女として必要とされない虚しさと、男に見限られる悲しさとを天秤にかけ、決して望めない男を引き止める為だけに、菖蒲花魁は己を捨てたのだと、砕蜂は解釈していた。
「馬鹿だな…」
 砕蜂は小さく洩らした。
 菖蒲花魁は聡明だった。にもかかわらず、心に触れられない男に溺れた馬鹿な女だった。
 だが、菖蒲花魁よりも、他の誰よりも、愚かしいのは虚圏ウェコムンドに去ったあの男だ。
「馬鹿だ」
ともう一度、砕蜂は繰り返した。
 ふと空を見上げれば、昼下がりの空に半月が浮いていた。夜の帳の降りた空にある時と異なり、輝くことなく、ただ白々とそこにある月に、砕蜂はしばらく見入った。
    名月を取ってくれろと泣く子かな」
 脈絡もなく、現世の有名な俳句を口に上せた彼女に部下が怪訝な目を向ける。砕蜂は、
「何でもない…」
とかぶりを振ると、
「行くぞ」
 踵を返し、振り返ることなく色街を後にした。

駄文倉庫に戻る
トップへ戻る
2016.03.22