弥生〜菫〜
「大切にしていた鉢が割れたから、みたいです」
と、乱菊の報告に、京楽は首を傾げた。
「鉢って、鉢植えのこと?」
「ええ。菫を植えた染付けの浅鉢です。あたしも、七緒が留守の時に水遣りを頼まれたことがあるので、大切にしていたのは知っていましたけど…」
どことなく、元気がないように見える己の副官を案じて、彼女と仲の良い乱菊に、それとなく様子を探って欲しいと京楽が依頼したのはつい昨日のことだった。乱菊は早速に七緒を呑みに誘い、言葉巧みに理由を聞き出してくれたようだった。
「やちるが遊びに来て、割っちゃったそうなんですよ。鉢を割っただけなら、菫を植え替えれば何とかなったんですけど、やちるが慌てたはずみで菫の株まで思いっきり踏んづけちゃって、株がだめになったのがショックだったみたいです。やちるもさすがに悪いことしたと思ったらしくて、柄にもなくしょんぼりしているのを見たら、怒るに怒れなかったようで…」
「珍しい品種の菫だったのかな?」
「いえ、ごく普通の菫です。一遍、何でそんなに大切にしているのか尋ねたことがあるんですけど、『内緒』ってはぐらかされちゃったんですよね。昨日も、結局、そこは白状しなかったし」
「そうか。乱菊ちゃん、ありがとう」
乱菊と別れて、ぶらぶらと歩きながら、京楽は七緒が大切にしていたという菫の鉢に思いを巡らせた。
その鉢は、染付けの浅鉢だったと乱菊は言っていた。植わっていたのは変哲もない菫。
けれど、その組み合わせに、京楽は覚えがあった。
七緒が八番隊の副隊長に就任して間もない頃。まだ、一年も経っていない頃だ。
春先の、ちょうど、今日のように暖かな日差しの穏やかな日だった。春ののどけさに風流心を誘われて、京楽は隊務をさぼって郊外の野原をそぞろ歩いていた。
ぬるみ始めた季節に、寒い冬を縮こまっていた草木はいっせいに目覚めていた。
こぶしが咲き染め、ねこやなぎが花穂を伸ばし、カタクリが淡い紫の可憐な花を咲かせ。
愛らしい野山の花に心弾ませている時に、道端に咲く菫を見付けた。
その菫は、濃い紫の花色に凛とした気品が漂い、控えめながら存在感があって、京楽は目を惹かれた。
「七緒ちゃんみたいだなぁ」
ようやく副隊長の職務にも慣れ、てきぱきと仕事をこなす有能な副官の姿が思い浮かび、京楽は思わず笑みを浮かべていた。
「そうだ、この菫、七緒ちゃんのお土産にしよう」
と思いついて、彼はその菫を株ごと掘り起こした。株のまま渡すのは、七緒に失礼だし、京楽の美意識からいっても芳しくなかったので、帰りに植木屋に立ち寄って、掘ってきた菫をきれいな染付けの鉢に植えてもらった。
「どこに行っていらしたんですか?」
隊に戻った途端、追及する構えを見せた七緒に、
「はい、お土産」
と、菫の鉢を渡すと、彼女は目をまん丸にして言葉を飲み込んでしまった。
今なら、菫の鉢植えごときでは動ぜずに京楽を弾劾するだろうが、当時の七緒はまだそこまで隊長の扱いに慣れていなかった。隊長がわざわざ七緒の為に掘ってきてくれたという事実に感激して、
「ありがとうございます」
と、礼を述べるのがやっとの七緒はひどく可愛らしくて、やっぱり菫に似ていた。
「大事にしていてくれてたんだ」
嬉しい、と思う。
乱菊に話を聞くまで、そんな出来事などすっかり忘れていた。
けれど、七緒が自分の渡した菫を、それもそこらの野原で掘ってきた何の変哲もない花を、大切に慈しんでくれていたことが、京楽の心を満たしていた。
「ちょっとはうぬぼれて、いいかな?」
と、彼は自問する。
自分が贈った花だから、大事にしていたと考えてもいいだろうか。
きっと、七緒に尋ねれば、
「そんなわけ、ありません」
と一刀両断に否定されるだろうが。
出勤してきた七緒は、自分の執務机に小ぶりな植木鉢が乗っているのに気付いた。
青磁色の八角形の浅鉢だった。
そして、鉢には菫が植わっていた。
濃い紫の、いわゆる菫色の花がつつましやかに咲いている。
早起きの七緒はいつも京楽よりも早く出勤する。彼よりも早く執務室に入って、出勤してくる京楽を出迎えるのが七緒の矜持だった。今日もまだ京楽の姿はない。けれど、かすかに霊圧の名残があった。
おそらく、贈り主は常にはなく早起きして、七緒の机にこの鉢を置いたに違いない。そうしておいて、隊寮に戻り、もう間もなく、なにくわぬ顔で出勤してくるつもりなのだろう。
だったら、私も知らん顔していよう。
七緒は思った。
お礼なんか言わない。言っても、きっと、
「何のこと?」
と、あの狸親父はとぼけるに決まっている。
嬉しくてたまらないなんて、態度にあらわしてやるもんですか。
けれども、自分の心は、きっと見抜かれてしまうだろうと、七緒は自覚していた。
隠しても、隠しても、溢れてしまう喜びはどうしたって隠し切れないから。
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菫の花言葉:誠実・ひかえめ
突発的に京七です。
菫、という花を思い浮かべた瞬間、脳内を七緒ちゃんの姿が駆け巡ったもので。どうも、管理人は七緒ちゃんに菫のイメージを抱いているようです。
菫は種類が多いのですが、この話の菫は濃い紫の花を咲かせる、いわゆる一番一般的な「スミレ」です。
福寿草の時に断念した株ごとお持ち帰りというのを、京楽隊長にやっていただきました。
管理人は親父好きなので、拙宅の京楽隊長は何気に待遇がいいです。長編でも、出番は少ないですけど、妙においしい役どころを振られていますしね。
文中で、七緒ちゃんは「お礼なんか言わない」と強がっていますが、律儀そうなので、最後にはちゃんとお礼を言っていると思います。