味噌煎餅の月
濡れ縁に腰掛けて、冬獅郎はひとり、酒杯を傾けていた。
縁は西に面していて、傾き始めた破鏡の月が丁度、副隊長舎の屋根にかかっていた。
「もう、そろそろ…」
と冬獅郎が心の中で頷いた時、副隊長舎の塀に立つ影を認めた。
小さな、子供の影。
「草鹿」
と呼びかけると、
「あ、ひっつー」
と、やちるは文字通り冬獅郎の傍らに飛んできた。
「一人? らんちゃんは?」
「呑みに出てる」
「なぁんだ、いないのかぁ」
やちるはあからさまにがっかりした顔つきになった。
「松本のところに泊りに来たのか?」
「うん。明日、お登喜さんお休みだから、朝ご飯食べさせて貰おうと思ったんだ」
お登喜というのは、十一番隊の賄い方である。
十一番隊はやちるを除けばひたすらに男所帯である。しかも、全員が全員、戦いに生き強き者と闘うことだけに生き甲斐を見出す男・更木剣八に心酔し、剣八の下で戦って死ぬことを本望とするような血の気の多い戦闘集団だ。戦場においてはそれこそ鬼神のようなめざましい働きをみせ、他隊からも一目を置かれている十一番隊であるが、こと平時には生活能力ゼロの役立たず野郎どもの集団と成り果てる。「男やもめにうじが湧く」と揶揄する言葉があるが、十一番隊士だけで生活をしていたら、それこそ、蛆どころか、成虫になった蝿が飛び回りかねない。というわけで、十一番隊は健全な日常生活を送る為に、炊事・洗濯・掃除を遂行してくれる外部の人間を雇い入れている。
お登喜はそのうちの炊事を担当している中年女性だ。入れ替わりの激しい十一番隊の雑役婦の中にあって、もう六十年近く務め続けている古強者の女丈夫だった。荒くれ者の集団である十一番隊隊士に「おふくろさん」の愛称で慕われる彼女がいなければ、隊士たちはまともな食事にもありつけない。
明日は月に数回ある彼女の休暇の日である。あらかじめ分かっていることなので、その日だけは皆、外に食べに行ったり、出来合いの惣菜を調達してきたりして凌ぐ。一番困るのは朝飯で、飲食店のほとんどは昼前からしか営業を開始しないので、前の晩から店に頼んで弁当を作らせる者、妓楼に行って泊り込みそこで朝食を食って出勤する者、数少ない早朝から営業している飲食店に出かける者、
と隊士たちはさまざまな対策を取っているらしい。蛇足であるが、「筋肉馬鹿」と揶揄されることも少なくない十一番隊士には、朝飯を抜くという選択肢は存在しない。
やちるの朝ご飯対策は、料理の上手い他隊の隊長・副隊長のところに泊るというものだった。乱菊、卯ノ花、絢女らがやちるの主なターゲットである。
「あやあやもいなかったし…」
縁側で足をぶらぶらさせながら、やちるは不満そうに呟いた。
「姉さまのところにも行ったのか?」
「うん。この間、あやあやが作ってくれた玉子焼きが食べたかったのにいないんだもん。ギンちゃんのトコかな、と思って行ってみたけど来てないって…」
やちるの返答に、
(市丸のところまで押しかけるなよ)
と冬獅郎は頭痛を覚えた。
「卯ノ花さんもお留守だったし…」
卯ノ花は雨乾堂を訪れているのだろうと、冬獅郎は推測した。昼間、所用があって四番隊を訪れた際、楽しそうに夕飯の献立について話している卯ノ花と浮竹を目撃していたのだ。
「そうだ、うっきーのところに行こう!」
やちるはぴょんと立ち上がった。
「卯ノ花さん、きっとうっきーのところにいるもん」
「待て、草鹿!!」
冬獅郎はすんでのところでやちるを止めることに成功した。
「松本は姉さまたちと呑んでいるんだ。もうちょっと待ってれば戻るから、浮竹のところには行くな」
成長して、事情が察せられるようになってきたのだが、浮竹の体調が万全な時でないと卯ノ花は雨乾堂に泊ることをしない。長い付き合いの二人であるが、逢瀬はなかなかにままならないらしいのだ。やちるの朝ご飯の為に、二人の貴重な一夜が犠牲になってしまうのは余りにも忍びない。
今晩の呑み会は、七緒や桃たち仲の良い女同士の集まりだ。だから、冬獅郎は迎えに行かず、一人で月見をしながら乱菊の帰りを待っていたのだ。
「多分、もうちょっとしたら、姉さまが松本を担いで帰って来るから」
「ほんと?」
「本当だ。間違いねぇ。ちゃんと草鹿に朝飯を食べさせてやれるから、ここでおとなしく俺と待ってろ」
おそらく、乱菊は潰れてしまっているから二日酔いで朝食をこしらえるどころではないだろうが、絢女は大丈夫のはずだ。清純可憐を絵に描いたような見かけで、お酒なんて弱くて、というイメージのある絢女だが、こと
納得したのか、もう一度縁側に腰を落ち着けたやちるだったが、
「ひっつー」
「何だ?」
「お菓子ないの? お腹すいた」
と主張を始めた。
「…ばあちゃんが届けてくれた甘納豆がある」
「食べる!」
即答だ。
冬獅郎は奥に引っ込むと菓子鉢に大袋いっぱいの甘納豆をあけて、やちるの許に戻った。
「ばあちゃんがくれた貴重な甘納豆なんだからな。いつもみたいに流し込むんじゃねえぞ。味わって食え」
と注意してから鉢を隣に置くと、彼女は、
「わーい」
ともりもりと食べ始めた。一応、冬獅郎の注意は聞いていたらしく、いつもに比べると遠慮がちなペースであったが、一般的な見解でいえば凄まじい咀嚼スピードである。
あっという間に菓子鉢は空になった。
「おいしかったぁ」
「そりゃ、良かったな」
投げやりに、冬獅郎は返答した。
「ひっつー」
「何だ?」
「あのお月さまってさぁ、」
「ああ?」
「東春堂の味噌煎餅みたい」
がっくりと冬獅郎はうなだれた。やちるに情緒などを期待しても無駄だとは知っていたが、東春堂の味噌煎餅はないだろう。ちなみに東春堂の味噌煎餅は米粉で焼いたいわゆる「煎餅」ではなく、小麦粉と砂糖、卵で作った生地に味噌を混ぜ込んで薄い丸型に焼き、熱いうちに半月に折り畳んだ薄焼き砂糖煎餅で、名代のものだ。
「あやあやの玉子焼きもあんな形だったなぁ」
やちるの連想は、食べ物方面にしか働かないらしい。
「ああ、帰ってきたぞ」
と、冬獅郎が告げた直後、隊長舎の塀の上に人影が現れた。
乱菊を背中に負ぶった絢女である。彼女は危なげなく、隊長舎の庭に降り立つと、やちるを認めて、
「やちるちゃん。来てたの?」
と、笑顔を浮かべた。
「うん。お泊りして、朝ご飯食べさして貰おうと思って」
「明日は、お登喜さんはお休み?」
「うん!」
絢女はすっかり酔いつぶれて寝入っている乱菊を冬獅郎に渡すと、
「乱菊は朝ご飯作るの無理っぽいし、私もやちるちゃんと一緒に泊っていい?」
と尋ねた。
「そうして貰えると助かる」
やちるは絢女にまとわりついて、
「この間の玉子焼き! あれ、食べたい」
と
「この間のって、オムレツのこと?」
「うん。ケチャップがかかってたあれ」
「いいわよ。冬獅郎、卵とケチャップと牛乳はあるわよね?」
「ああ、問題ねぇ」
「砂糖パンも食べたい!」
「砂糖パン!?」
冬獅郎が顔を顰めたのに、
「シナモン・トーストのことよ」
と絢女が訂正を入れた。
「食パンは…」
「冷凍したのが一斤ある。けど、
「明日の朝、取りに行くわ」
勝手知ったる何とやらで、絢女はさっさと客間に布団を敷いてしまった。
「冬獅郎、乱菊を着替えさせて」
「ああ」
と素直に指示に従いながら、脱力しそうに平和な会話だ、と冬獅郎はしみじみと感じていた。
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隊長と乱菊さんが恋人になったあと、
復興中のソウルソサエティで日番谷がやちるとお月見をした
月残る弥生の山の霞む夜をよよしとつげよまたずしもあらず
水無瀬恋十五首歌合(春の恋) 後鳥羽院
この和歌をイメージして執筆開始したはずなのに、何故にこうなったんだか?
やちるちゃんではありませんが情緒もへったくれもない小噺になってしまいました。管理人の頭の中では、時期を叛乱終結の四ヶ月後くらいの春先と想定しているので、ソウルソサエティは復興中のはず、なんですが、文章に一行たりともそれを入れられませんでした。ちょっと、いえ、かなり玉砕した気分です。