La Vie en Rose
「明日出来ることは今日はやらない」
隊務における市丸ギンのポリシーである。イヅルを筆頭とした部下にとっては何とも傍迷惑な主義だ。だが、それでも、隊が破綻しないのは一方で、
「明日では間に合わないことは、仕方がないから今日中にやってしまう」
という、多少引っかかりを覚えるフレーズが混入されてはいるものの、これだけはまっとうと言える矜持を手放していないからだ。
そんなわけで、ギンはこの日、朝から隊務に励んでいた。数日前からふらふらとさぼっていた為、さすがに「明日では間に合わない」というのっぴきならない状況になったのだ。もっとも、さぼっていた間に優秀な副官や上位席官があらかたは片付けてしまって、隊長印を押せばいいだけになっている。残っているのは本当に隊長、つまり、ギンでなければどうしようもないものだけだ。
イヅルが空になった湯飲みに新しい茶を淹れて持ってきてくれた。
「ああ、ありがとさん」
と顔を上げたギンは、
「お腹空いてきた思たら、もうすぐお昼やねんなぁ」
と時計を見て言った。
(お昼、何食べよ?)
昨日はうどんだった。今日はもっとがっつりしたものを、と考えかけたところで、ふと、絢女が今日は非番だと言っていたのを思い出した。仲の良い友人たちとは都合が合わなかったとも聞いた。
(ほんなら、隊長舎におるな)
とギンは考えた。
「イヅル」
と副官に呼びかける。
「はい?」
「今から地獄蝶を飛ばして、桃ちゃん、お昼に誘ってみ」
「え、しかし…」
「絢女は今日、非番や。桃ちゃん一人のはずやから、チャンスやで」
「ですが、市丸隊長は?」
ギンの提案は魅力的であったが、隊長を放ってというわけにもいかず躊躇うイヅルに、
「ボクは絢女のトコに行くから」
とギンは答えた。
「多分、隊長舎におるはずやし、行ったら、何か食べさしてくれる思うし」
「お約束なさってはいらっしゃらないのですか?」
「今、思いついたんや」
「では、地獄蝶を飛ばしてご連絡なさっては?」
「いきなり訪ねて、びっくりさせたろ思うねん」
楽しそうにギンは笑った。
「せやから、イヅルはボクのことなんか気にせんと桃ちゃん誘い」
珍しく、さぼりもせずに根を詰めて隊務に励んでいたのだ。昼休みくらい恋人に甘えて息抜きしたいのだろう、と察したイヅルは、
「ではお言葉に甘えます」
と五番隊に地獄蝶を飛ばした。桃からはすぐにOKの返答が返って来た、心はすでに絢女を訪れることに向いてしまっている隊首の傍らで、イヅルもともすれば緩みそうになる頬を押さえつつ、昼休みを待ち望んだ。
下手に霊圧を探ると気付かれてしまうので、彼女がいるかを確かめないまま五番隊の隊長舎に来てしまった。
「居いひんかったら、どないしょ」
ままよ、と隊長舎の塀に音を立てずに飛び乗る。もちろん、自分の霊圧はきっちりと閉ざしたままだ。塀の上から隊長舎を窺うと、開け放した居間に絢女の背中が見えた。
彼女は縫い物をしている様子だった。
「絢女!」
と声を掛ける。
全く気がついていなかったのだろう。びくっ、と彼女の背中が大きく跳ねた。
振り向いてギンを認めた彼女は、慌てた様子で縫い物を畳むとそばにあった風呂敷を被せ、それから、改めて、ギンを出迎えた。
「ギン、どうしたの?」
「お昼ご飯、一緒に食べたいなぁて思て」
「連絡してくれたら、準備してたのに」
と絢女は恨めしそうに軽くギンを睨んだ。
「びっくりさせよう思てな。ありあわせでええから、何か食べさせて」
「本当にありあわせしかないわよ。急に来るんだもの」
「うん、ええよ」
会話しながらも、絢女は風呂敷の下の縫い物が気になるらしく、自らの体でギンから隠そう隠そうとしていた。そんな態度を取られると、却って気になってしまうのが人情だ。
「縫い物、しとったん?」
「え、ええ」
絢女の目が不自然に
「何、縫っとたん?」
「えっと、その…。繕いもの」
「ふーん」
絢女は嘘が下手ではない。何しろ、ひたすら彼女だけを見ていた人一倍敏いギンにさえ、彼女自身の口から告白するまで本心を悟らせなかったほどなのだ。だが、彼女は嘘に覚悟が必要なタイプだった。何か目的があって、その為に嘘をつき通そうと決心した後なら、偽りを貫ける。だが、咄嗟の嘘というのが苦手だった。
傍らに座ったギンの手がすっと風呂敷に伸びた。反射的に、絢女は風呂敷の端を押さえた。
「何、縫っとたん?」
「だから、繕いもの…」
「やったら、何で隠すん?」
「それは…」
「見られたら困るもんなん?」
「そういうわけじゃないけど…」
「やったら、何で隠すん?」
問いを繰り返したギンに、
「見せるほどのものじゃないもの。いいでしょ。別に」
と、絢女は話を強引に打ち切ろうとした。
「そない、疚しい縫いもんなん?」
ギンの言葉に、絢女は男の顔を見返した。
「ボクから隠さんならんようなもん、縫っとたんやね」
「…」
風呂敷に伸びていたギンの手が引っ込んだ。
絢女は溜息をひとつ零すと、無言のまま覆いを外した。
風呂敷の下から現れたのは男物の浴衣地だった。
「 冬獅郎はんの?」
そうではないという予感はあったが敢えて尋ねると、絢女は首を横に振った。
「冬獅郎には乱菊がいるわ。出しゃばるわけにはいかないでしょ」
弟がまだ幼くて流魂街の老婆の許に預けていた頃、彼の着物を縫ったり、似合いそうな反物を届けたりするのは、絢女の密かな楽しみであった。本音を言うと、冬獅郎の浴衣を用意したい気持ちは今でも確かにある。だが、もう彼は子供ではなく、乱菊という美しい恋人もいる身だ。彼の浴衣を見立てる楽しみは、姉の自分ではなく、乱菊のものだと絢女は認識をしていた。
「ほんなら、ボクのてうぬぼれてええ?」
「どうぞ」
と答えると、絢女は立ち上がった。
「ご飯、作ってくるわ。待ってて」
と離れようとした彼女の手首を、ギンが掴んだ。
「放して。ご飯の支度が出来な…い…」
邪魔をする男に抗議しかけた絢女の声は尻すぼみに消えてしまった。
「…ギン?」
ギンは捨てられた猫のようだった。
「絢女、怒っとる?」
「怒ってないわ」
絢女は返したが、ギンは納得しなかった。
「嘘や。怒っとる」
「怒ってない」
「やったら、何でさっきからボクの顔、ちゃんと見てくれへんの? 絢女が隠しとったもん、ボクが強引に見たの、気に障ったんとちゃうの?」
「違うわ」
絢女は立ったままで腰をかがめると、ギンのすぐ近くまで顔を寄せてしっかりと彼の目を見つめた。
「本当に怒ってないし、ギンは何にも悪くないわ。ただ、ちょっと、悔しかっただけなの」
ギンは僅かに首を傾げた。
「それ、ね。内緒で仕立ててしまいたかったの。花火の日に、出来上がった浴衣を『これ着て』って渡したら、あなた、どんな顔するかしらって…」
「絢女…」
「喜んでもらえるかしら、気に入ってもらえるかしら、まさか、こんなのいらないとかは言わないわよねって、どきどきしながら縫っていたのよ。だから、出来上がってもいないのに見付けられてしまって悔しかったの」
「かんにん」
「あなたに声を掛けられるまで気がつかなかった私が呆けてただけよ。ギンは悪くないわ。それなのに、つんけんした態度を取ってしまってごめんなさい。子供っぽかったわね」
彼女の手首を掴んだままだったギンの手が外れた。
絢女は両手を彼の肩にかけて身体を支えると、さらに半身を屈めて顔を近づけた。こつん、と額がぶつかる。
「この浴衣。縫い上がったら着てくれる?」
「当たり前やん。家宝にするわ」
「柄、嫌いじゃない?」
「いいや。ええ柄やと思う。気に入ったで。めちゃくちゃ、うれしい」
「よかった」
微笑を浮かべ、絢女はくっつけていた額を離した。
「ご飯の支度をしてくるわ。ちょっとだけ待っていてね」
と彼女が台所に行ってしまい、居間に一人残されたギンは縫いかけの浴衣を引き寄せるとつくづくと検めた。
生地は手触りからして綿麻上布だろう。麻特有のしゃり感があるが、麻だけの生地にくらべて手触りがやわらかい。
(凝った柄やなぁ)
とギンは唸った。
その生地は裏表で柄の違ういわゆる両面染めの生地だった。実のところ、「両面染め」でなくても、たいていの浴衣は両面を染めてある。表面だけを染色すると裏面が白いままになってしまうからだ。歩みに従って裾がひらひら裏返った時、裏が白かったり、表の染色がかすれて見えるようではあまりに野暮なので、浴衣に限らず単仕立てをする着物生地は裏面にも表と同様の染を施して、裾が裏返った時にみっともなくないようにしてあるのだ。表と裏でぴったりと柄をあわせて染色を施すのには技術が必要だが、裏表に反対の面に染色が響かないように異なる紋様を染めるのは更に高い技術が必要となる。ことに浴衣地は生地自体が薄い為、両面染めは難しいはずだ。その一事だけでもこの浴衣地が特別のものだということが分かる。
片面は「神通網に六ツ手毘沙門亀甲」という変わった小紋柄だった。この紋様は幕末の絵師・葛飾北斎が物した「新型小紋帳」という絵手本に見える北斎考案の柄である。「神通網」と呼ばれる獣を捕る網の目を紋様化した柄が敷き詰められた中にところどころ、大きく丸型に六ツ手毘沙門亀甲柄が散らされている。ちなみに六ツ手毘沙門亀甲柄というのも北斎の考案だ。もともとの伝統紋様である毘沙門亀甲は、六角形の亀甲紋を連続させた紋様にさらにもう一組の亀甲紋を籠を編む要領で上下が互い違いになるように重ね合わせた柄で、上になった部分が三叉に分かれて見えることから「三ツ手毘沙門亀甲」とも呼ばれる。「六ツ手毘沙門亀甲」はそれを更に進化させたもので、上になった部分が六叉に分かれた複雑な亀甲籠紋様だった。生成りの生地に紺鉄色と呼ばれる青緑がかった黒で型染めしてある。
もう片面は生地の端から端を生成りから紺青色のぼかし染めにしてあり、絢女はこちらの面を表にして仕立てていた。この柄は仕立てると極太の片瀧縞の着物に化ける。ただし、濃い色の部分を中心に持っていくか、脇に持っていくか、襟に濃色を持ってくるか薄色をもってくるかで、出来上がりの印象ががらりと変わってしまう。大胆で粋になるか、野暮ったくなるかは、お針子の腕次第という難しい柄でもあった。
彼は縫いかけの生地を丁寧に畳んで、再び風呂敷をかけた。
「ギン、お待たせ」
空腹の身には殊更に幸せを感じるおいしそうな匂いとともに、絢女が戻ってきた。
炒め物、煮物、もずくの酢の物、炊き込みご飯に海藻の汁という立派な献立だ。
「うわ、おいしそう。ありあわせとは思えへん」
「ご飯と煮物は昨日の残りの温め直しよ」
と笑いながら、絢女は料理を卓に並べた。
「いただきます」
と両手を合わせて、ギンは昼餉を始めた。
「この炒め物、変わっとるなぁ。これ、麩やないの?」
「そうよ。口に合わなかった?」
「いいや。好きやで」
「この間、桃ちゃんからお土産にもらった本に載っていたの。『フーチャンプルー』っていうお料理よ」
半月ほど前だが、桃はイヅルや恋次・ルキアとともに現世の沖縄に遊びに出かけていた。
「あー、あん時のな。ボクへのお土産は趣味の悪いアロハシャツやってけど。本て、料理の本?」
「そう。郷土料理の本を買ってきてもらったから、色々、挑戦しているの」
「こっちの煮物も沖縄料理?」
「ええ。『ナーベラーンブシー』っていうの。へちまの煮物よ」
「え、これへちまなん? 茄子みたいやけどちょっと違うし、なんやろって思てたんやけど」
「私もへちまを食べるって発想がなかったからびっくりしちゃった。でも、おいしいでしょ?」
「うん。おいしい。へちまって食べられるし、おいしかったんやなぁ」
もずくの酢の物を、ちゅるんと一息に啜り込み、ギンはそういえば、と話を継いだ。
「海行った時の話、桃ちゃんから聞いた?」
「ええ。大体は…」
「結局、進展なして…。イヅルもええ加減へたれとる思うけど、桃ちゃんも鈍すぎやで」
半月前の沖縄行きは、阿散井恋次の立案によるものである。桃との仲を進展どころか、友人の位置から踏み出せないでいる親友の為に一肌脱ぐという彼だったが、本音は「ルキアと一緒に海に行きたい」であることをギンは見抜いていた。二人きりでは絶対に白哉が許さないから、イヅルと桃をカモフラージュに使ったのだ。だが、イヅルを案じている恋次の友情は決して嘘ではなかったし、確かに、真夏のビーチという絶好のシチュエーションは仲を進展させるのに効果的であると思われたので、ギンはその計画に乗ってやった。「イヅルの恋を応援する会会長」を自称するギンは、副会長(ギン任命)である絢女に頼み込んで桃の非番をイヅルや恋次に合わせてもらった。更に白哉に気に入られているという絢女の立場を存分に利用して、ルキア同行の許可を取り付けた。
「現世の子らと仲良うなって、一緒にビーチバレーして遊んだて、健全すぎや」
と、ギンは溜息をついた。
「でも、恋次くんとルキアちゃん、気を利かせて夕暮れ時に二人きりにしてくれたんでしょ? 半分は自分たちが二人きりになりたかったのかもしれないけど」
「そうや。白い砂浜、夕日が沈む海。いつもと違うて、水着姿の桃ちゃん。こんだけ舞台装置が揃とるのに手ェひとつ握れへんかったって報告された時には、ボク、目の前、真っ暗なったで」
ギンの大袈裟な慨嘆に、
「そういう純情なところが吉良くんの良さだと思うけど? 男の人がみんながみんな、ギンみたいに女の子を口説けるわけじゃないのよ」
と絢女は応じる。
嘆きながらも、しっかりと動いていたギンの箸がぴたりと止まった。
彼は箸を置くと、絢女を見据えた。
「絢女。誤解があるみたいやから言うておくけど、ボク、女を口説いたこと一遍もないで」
「え、でも…」
「花街の妓は生理現象の処理の為に金で買うてた。払った金の分、奉仕してもらうだけや」
「だけど…」
「商売女やないのも相手にしとった、言いたいん? あれは向こうから勝手に寄ってきたのを拒まへんかっただけのことや。ボクが自分から口説いたことなんて、ほんまに一遍もない」
射抜くようにギンに見つめられ、絢女は言葉を失くした。
「ボクが口説きたかった女は絢女だけや。絢女をよう口説けへんかったのに、他のどうでもええ女をわざわざ口説くわけない」
きっぱりと言い切ると、彼は再び箸を取って、残った食事を片付け始めた。
「ご馳走様でした」
ギンに告げられて、はっとして絢女は顔を上げた。
「何、ぼーっとしとったん?」
いつものもの柔らかな口調で、ギンは尋ねた。
「ううん…、何でもないの」
と絢女は答えた。彼女の顔が火照っているのに、気付かぬ風情で、
「絢女、ご馳走様」
と、ギンは繰り返した。
「お粗末さまでした」
「充分ご馳走やったで。急に来てしもてごめんな」
言いながら、彼はさりげなく座卓を回り、絢女の側に座り直した。
「ギン?」
火照りの引かない顔で絢女が見返した時、ぐいと腕が引かれて、あっという間に彼女は彼の腕の中に捕まってしまった。もがく暇さえなく、唇が重ねられる。
「…ん…んん!」
いきなりの狼藉に体を強張らせていた絢女だったが、ギンはしっかりと彼女を拘束したまま、執拗に口接けを続けた。逃げ惑う舌を絡め取り、吸い上げ、存分に味わっていると、やがて、くたりと彼女の体から力が抜けた。
彼は唇を離した。ぼぉっと上気した彼女を覗き込み、
「ご馳走様」
と告げる。
「デザートまでおいしかったわ」
「私…デザート?」
「うん」
「馬鹿…」
力の入らない身体に無理矢理に力を込めて、絢女はギンから離れた。座卓に肘を突いて額を支え、溜息をついた彼女に、
「やりすぎた?」
と尋ねると、その問いには直接返答せず、
「もう、お昼休みが終わるから…」
と、あくまでも生真面目に絢女は返した。
「戻って」
ギンは笑んだ。
「続きは夜、な…」
と囁く。
「馬鹿…」
絢女はもう一度、呟いた。
佇むギンを見つけて、絢女はかたかたと下駄を鳴らしながら、小走りで駆け寄った。
「ごめんなさい。待った?」
「いいや、ついさっき来たばっかり」
絢女の顔を覗き込み、
「似合う?」
と問いかけるギンに、彼女は口許をほころばせた。
「とっても似合っているわ」
乱菊や七緒と一緒に自分自身の浴衣を買いに出かけた時に目に付いた生地だった。一目見た瞬間に、絶対にギンに似合うと感じた。乱菊たちも同意してくれたので思い切って購入したものの、気に入ってもらえるか少し不安を覚えていた。けれども、案ずるまでもなく、彼は絢女の選んだ浴衣をたいそう喜んだ。
昼間、絢女は書類を届けに行く桃に預けて、縫い上がった浴衣を届けさせた。自分で持って行こうかとも考えたのだが、気恥ずかしくて出来なかった。戻ってきた桃にギンの反応を尋ねると、その場で風呂敷を広げ、彼女とイヅル相手に自慢と惚気を繰り広げたそうで、
「おご馳走さまでした」
とからかわれてしまった。
絢女はわずかにギンから距離を取ると、自分が縫った浴衣を身に纏った男を上から下まで、つくづくと眺めた。
仕立て上がったことによって、大胆な生成りと藍の大柄の縞に変化した浴衣は粋でギンの男っぷりを上げているようだ。ほのかに浅黄色がかった白い紗の博多帯をきりりと締め、帯に「一つ提げ」と呼ばれる刻み
「ギンは上背があるから何を着ても似合うけど…、でも、本当によく似合ってる」
「おおきに。絢女もよう似合うとるで。きれいや」
絢女の浴衣は格子状に入った絽目が涼しげな
彼女の浴衣姿はこれまでも見たことがあるが、こんなふうに娘盛りの女らしい姿を目にするのは初めてだ。彼女はずっと美しく装うことを禁忌にしていた。浴衣というより「
そっと頬に手を添えて、顔を上向かせると、彼女がほんのりと紅を注しているのが確認できた。絢女は普段、化粧をしない。けれども、今日のように外でギンと会う時だけは薄く化粧をして来る。その行為は、彼の為に装っているのだと感じられていつもギンを満ち足りた気持ちにしてくれた。
けれど。
彼女の髪を確認して、ギンはずきんと心が軋んだ。
浴衣を届けられた時、彼は自隊に戻る桃に小箱を託した。箱の中身は銀の飾り櫛である。浴衣の礼のつもりだった。絢女はギンが贈ったものをいつも喜んで使ってくれるので、きっと今日も早速挿してくれると信じていた。しかし、ギンが贈った櫛は彼女の髪を飾ってはいなかった。気に入らなかったのだろうか、と落胆と不安が過ぎる。
と、彼女がギンの目の前に手を差し出した。
「え…?」
絢女の掌の上に、飾り櫛が載っていた。
「つけてくれる?」
彼女の言葉に口許が緩む。
「つけて来てくれへんかったから、気に入らんかったかと思てどきどきしたわ」
「まさか。こんなに綺麗な櫛、気に入らないわけないでしょ?」
艶を抑えて梨地仕上げを施した櫛には螺鈿で草花が描かれていた。片面は朝顔や芙蓉などの盛夏の花。もう片面は桔梗・萩・撫子といった晩夏から初秋にかけての花だ。浴衣に合わせて秋草の面が表に出るように絢女の髪に挿しながら、
「もしかして、仕返し?」
とギンはこそっと囁いた。
びっくりさせようと内緒で縫っていた浴衣を出来上がる前に見つけられてしまったことの意趣返しかと問うたギンに、
「ちょっとだけ意地悪したかったのは確かだけど」
と絢女は答えた。
「でも、そんなことよりも、せっかくだからあなたにつけて貰いたかったの」
初めて心が通い合った夜に髪留めを贈った時も、一緒に買い物をしていて目に留まったかんざしを買ってやった時も、必ず「つけてほしい」と頼まれていたことに、ギンは今更のように思い至った。思わず、背中からぎゅっと抱きしめると、
「ギン、ありがとう」
と絢女は告げた。
「とっても嬉しかった」
「ボクもものすご嬉しかったで」
忙しい絢女が、それでもギンの為に浴衣を縫ってくれた。彼の浴衣を自分の手で仕立てたいと考えてくれた。
「この浴衣、寸法もぴったりで着心地ええのや」
「ほんと? よかった」
「そういえば、寸法、よう分かったな」
とギンの疑問に、絢女は笑いながら種明かしをした。
「ギンがお風呂に入っている間に、こっそり着物の寸を測っておいたの」
「なるほどなぁ」
絢女はギンと手を繋いだ。
「花火の前に出店を覗きたいんだけど、いい?」
と彼女は尋ねた。
「金魚すくいでもする?」
「それも楽しそうだけど、江戸風鈴が欲しいの。お祭りの時、風鈴屋さん、いつも出ているでしょ」
「部屋に吊るすん?」
「ええ。隊長舎の居間と執務室にね」
「ああ、凉しゅうてええな」
絢女の歩調に合わせてゆったりと歩きながら、三番隊の執務室にも揃いの風鈴を飾ってもいいな、とギンは思案した。
傍らで、絢女の帯飾りがちりり、ちりりと愛らしい音を響かせていた。
《参考文献》
「小紋紋様」田啓史・著 グラフィック社。
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2周年記念リクエスト小噺 その2
2周年記念リクにご応募下さった櫻井梓さまのりクエストは「『風が還る日』第22話以降の設定で市丸隊長と絢女さんの休日の話。ほのぼの系」でした。
まず、休日なのは絢女だけです。市丸さん、仕事の合間です。あと、ほのぼの系というより微妙にばかっぷる? 仕上がりに若干難があるような気がしてなりませんが、リクエスト作品です。櫻井梓さま、お納め下さい。
この二人、絢女はもともとお姉さん気質な上、市丸さんに対しては罪悪感も持っているので、無意識で甘やかす態勢に入っています。市丸さんは市丸さんで、何しろ相手は「お姫さま」なわけですから根っこのところでかしずいていたりして、結果、甘やかし合戦状態になっているようです。迷惑なのは副官。いい加減、当てられっぱなしとみました。
実は一番難渋したのがタイトル。どうしても相応しいタイトルを思い付かず、苦し紛れにピアフの名曲から頂きました。