ある夕暮れに
乱菊、絢女、ギンの三人は霊術院への帰路だった。この日、霊術院は公休日だった為、彼らは乱菊の提案で西流魂街にある甘味処に出かけたのだ。
乱菊たちのように流魂街出身であったり、名ばかりの貧しい貴族の出で親の援助が望めない者には霊術院から幾ばくかの小遣いが支給される。その他に、彼らは成績優秀であったので、あまり成績の芳しくない上級貴族に個人教授したり、試験のヤマを張ってやったりなどで馬鹿にならない額の小遣い稼ぎをしていた。その為、贅沢などはとても出来なくとも、たまの休みに甘味処に行ける程度の余裕はあった。
滅多に口に出来ない甘味を楽しんだ後、日和も良かったので治安のよい流魂街を散策した。そして、帰る途中、白道門にほど近い橋の袂にかかった時のことだった。
突然、絢女がつんのめりそうになった。横を歩いていた乱菊が慌てて腕を掴んで、身体を支え、辛うじて転倒を免れた。
「どうしたん?」
前を歩いていたギンが振り向いて尋ねた。
「鼻緒が切れたの」
絢女が応えた。
ギンが絢女の足元に視線を落とすと、鼻緒を支えるつぼが切れて彼女の草履はぷらぷらと宙ぶらりんに揺れていた。
「あ〜あ、これじゃあ歩けないわねぇ」
と乱菊が眉を顰める。
「ずいぶん草臥れていたもの。よく持った方よ」
絢女は淡々と草履を捨てて、裸足になろうとした。
彼女が履いていた草履は霊術院の支給品だ。おそらくどこぞの貴族の下げ渡し品で、元は大層高級な上物であったのだろうが何分にも使い古されていた。鼻緒自体も表面がかなり擦り切れていたし、鼻緒を支えるつぼも傷んでいた。
「貸して」
とギンが手を差し出した。
「ここいら、道がようないから、履き物なしはつらいで。すげてあげるから貸して」
「ありがとう」
乱菊の肩を借りて身体を支え、絢女は草履をギンに渡した。履き物を受け取ったギンはその場にしゃがみ込むと、懐から手拭いを出して細く裂いた。紐状になった手拭いを鼻緒のつぼにかけ、彼は器用に鼻緒をすげてゆく。
「あんたって、ほんとそういうの、器用よね」
乱菊がギンの手許を覗き込んで、感心した様子で頷いた。
「別にこんなん、難しゅうないで」
と答えるそばから、
「出来た」
ギンはすげ終えた草履を掲げて見せた。
「これで霊術院に帰り着くまでくらいなら持つ、思う。けど、これ、もうあかんなぁ。ほかして、新しい草履の支給を申請する方がええよ」
「ん、そうね」
絢女も素直にその提案を受け入れた。
流魂街出身のギンたちは衣食住の全てを霊術院に頼っている。寮に無料で住まわせて貰っているし、学院の制服の他、普段着や履き物などの生活必需品も無料で支給される。制服だけは新品が与えられるが、衣類や履き物の類は主に貴族からの下げ渡し品が多いので、どうしても手にした時点である程度は傷んでいる。尤も、だからといってギンも乱菊たちもそれを不満に感じているわけでも卑屈になるわけでもない。最貧区出身の彼らにしてみたら、少々傷みがあったとしても支給される品は充分に使用に耐えるものばかりだし、死神となって働く将来の為に霊術院がそれらを提供していることを充分に理解していたからだ。
ただ、卑屈になるのを免れているのは、彼らの優秀さも理由のひとつに挙げられるかもしれない。ギンたちは入学直後、特進級と呼ばれる特別な組に編入された。学院が特にその将来を見込んだ優秀な人材を集めた組だ。それからずっと三人は特進級に在籍し続けて、卒業と同時の護廷入隊は確実視されていた。中でもギンは百年に一人の逸材などと囁かれ、飛び級により通常より早く卒業させ、護廷入りという話も出ていたそうだ。ただ、この話はギンが自分で断った。飛び級は長い目で見て自分の為になると思えなかったから、と彼は断った理由を説明したが、本音は単に絢女と離れたくなかっただけだと乱菊は睨んでいる。
ギンにすげて貰った草履を絢女は履いた。
「どない?」
「うん、大丈夫そうよ。ギン、ありがとう。助かったわ」
絢女は掴まっていた乱菊から手を離した。そうして、一歩踏み出した途端に、
「あっ!」
彼女はバランスを崩した。
「きゃあっ!」
「うわっ!?」
悲鳴が交錯した。
支えようと伸ばした乱菊の手は間に合わず、絢女は前にいたギンにまともに倒れ込んだ。咄嗟に受け止めようとしたギンだったが、彼自身、立ち上がりかけていた中途半端な姿勢だった為、踏ん張りきれなかった。
絢女に押し倒される格好で、ギンは地に仰向けに倒れた。それでも、彼女には怪我をさせるまいと両腕をしっかり支えているあたり、
(根性だわ)
と傍で一部始終を目撃していた乱菊は感心した。
「ごめんなさい…」
告げる絢女は首まで朱に染まっていた。
「ああ、うん」
と答えるギンも常の飄然とした佇まいを失い、へどもどと要領を得ない。二人の距離は異常に近かった。
(これはもしかして…)
乱菊の眸がキラッと光った。
のろのろと絢女は半身を起こす。ギンも上体を起き上がらせた。ギンの顔もうっすらと赤らんでいた。
(ふ〜ん)
乱菊の納得顔を視界の端に捉え、ギンは何とも嫌っそうな表情を刹那浮かべた。すぐに彼はいつもの人を喰った笑みで武装すると、
「何、乱菊?」
と自分から聞いてきた。
「別に」
芸のない返答を返し、真っ赤な顔のまま呆然と座り込んでいる絢女に、乱菊は視線を移した。
「大丈夫?」
頷いた絢女に問いを被せる。
「一体、どうしたの?」
絢女はかぶりを振った。自分でも事態が掴めていないらしい。
と、ギンが黙って、彼女の足元を指差した。
「あらら〜」
先程ギンがすげたのと反対側の鼻緒が切れていた。
「本当に駄目ね。これ」
「みたいやなぁ」
ギンは絢女の草履を脱がせると、地面にしゃがみ込んだままで再び鼻緒をすげはじめた。絢女は無言でギンを見守っている。黙々と作業を行うギン、見守る絢女と乱菊の間にしばしの沈黙が流れた。
「出来たで」
差し出された草履を受け取り、
「ありがとう」
ぽつりと絢女は呟いた。ギンは立ち上がり、尻の土埃を払った。絢女も草履を履き直すと立ち上がった。ギンと目を見合わせないように埃を払う、絢女の頬にはまだ赤味が残っていた。
「行こか。門限に遅れる」
ギンに促され、絢女と乱菊は頷いて、再び帰路を辿り始めた。
幾日か経ってから、乱菊は絢女に内緒でギンを捕まえることに成功した。
「あの時、何があったの?」
「あん時って?」
ギンはしらばっくれたが、乱菊に通用するはずもない。
「この間の帰りよ。絢女の草履の鼻緒が切れて…」
「ああ、あん時な。別に何もないよ」
「よく言うわね。あんたも絢女も思いっきり挙動不審だったわよ。絢女なんて、帰り着いてもしばらくあっかい顔してたんだから」
「…」
「白状なさい」
ギンは吐息をついた。
「その調子で絢女を追及したん?」
「まさか。あたしが絢女を困らせる訳ないでしょ」
「何、それ?」
とギンはもう一度、溜息をついた。
「ボクは困らせてええみたいな言いようやなぁ」
「そう言ってるのよ」
けろりと乱菊は言い切った。
「で?」
「せやから、何もなかったて」
「嘘ばっかり」
乱菊は納得しない。仕方なく、ギンは教えた。
「接吻しそうになっただけや」
「接吻!? 詳しく聞かせて」
「せやから、しそうになっただけでしたわけやない」
とギンは勢い込む乱菊を制した。
「転んだ絢女を受け止めようとした時、失敗して、あの娘の唇が頬を掠めたんや」
ギンは自らの顔を指差した。頬というより唇のすぐ脇を指し示し、
「この辺」
と教える。
「ふ〜ん」
乱菊は意味ありげな半眼になった。
「…そういうことにしておいてあげる」
「ありがとさん」
誠意なくギンは応じたが、乱菊は一向に気にすることなく上機嫌に去っていった。
「ほんまに寸止めやってんけどなぁ。信じてへんなぁ、あれは」
ギンは半ば諦めを滲ませた苦笑を浮かべた。
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真央霊術院の学生時代、西門のはずれの橋の袂で、
絢女が市丸隊長と寸止めでキスをしそうになった
学生時代なので厳密には市丸隊長ではないのですが、そこはそれ(日本語って便利)。原作だと市丸さんや乱菊姐さんの学生時代となると、叛乱の百年以上前になってしまうのでしょうけど、拙宅の捏造設定だとだいたい叛乱の九十五年ちょっと前くらいを想定しています。多分、三人とも四、五年生の頃です。
この作品が入院中にちまちまとスマートフォンを使って下書きしていたものです。いくら暇だったからとはいえ何をやってるんだか? ねぇ?