紅葉の錦 神のまにまに


    ちはやぶる神世もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは
*1

 六歌仙、三十六歌仙に名を連ね、稀代の色男としても知られる平安歌人、在原業平が詠んだ紅葉の歌である。藤原定家編纂とされる小倉百人一首にも収められており、和歌に興味のない者にも流布しているほどに良く知られている。水面に散った夥しい紅葉をくれないの絞り染めに見立て、神代にさえこのように美しい光景は見たことがないと、竜田川
*2 の紅葉の美しさを讃えたものだ。
 川こそ竜田川ではないが、現在、ギンの目の前に広がっている景色はこの和歌を髣髴とさせるほどに見事なものだった。
 渓谷に聳える崖の上に建てられたホテルのテラスである。対岸、そしてホテルの建つ側の崖にもイロハ椛を中心に、楓や七竈ナナカマドハゼなどが紅く山肌を彩り、その合間を水楢ミズナラ、柏、欅、春楡ハルニレなどの黄葉、褐葉が埋めている。見下ろせば、張り出したテラスの真下を流れる渓流の水面も紅葉が刻々と形を変えながら流れゆく。上空の青空以外、視界のほとんどを紅葉の彩りが占める息を呑むように美しい風景を眼前に、彼は浮かない顔でソーセージを齧っていた。
 銀髪、翠眼の整った顔立ちの男が紅葉の山を背景に憂い顔で食事を摂る図、というのが実に絵になっているというのは本人の預かり知らぬことである。傍目には文学作品か、はたまた印象派の絵画から抜け出たような佇まいを見せながら、実際のところ、彼の心境はやさぐれていた。
 彼とて、この光景を美しいと感じる感受性は歴としてある。だが、何が悲しくて紅葉の綺麗な高原の爽やかな朝をおっさんと過ごさねばならないのだ、というのが、ギンの心境を憂鬱にさせていた。ついでに言うと、テーブルに乗ったイングリッシュ・スタイルと呼ばれる朝食も気に喰わない。かりかりに焼いたベーコンとボイルしたソーセージを添えたオムレツ。焼きトマト、グリーンサラダにたっぷりのミルクティ。そして、苺ジャムを塗ったトーストといった献立は量的には満足だが、
(やっぱり、朝はご飯とお味噌汁や)
 絶妙な半熟具合のオムレツはおいしいとは思うが、それでもなお、朝食ならば出汁の利いた卵焼きの方が、彼としては好ましい。
(甘いパンなんて、おやつや。ご飯とは認めへん)
とバターだけで良いと言ったにもかかわらず、連れによってたっぷりとジャムが塗られたパンをやるせなく咀嚼する。決して、パンが嫌いなわけではない。しかし、ギンにとって、パンは小腹が空いた時に食べるおやつ以上食事未満な食べ物であって、三度の飯の主食になるものではないのだ。
 はぁぁ、とギンは深い溜息を付いた。
(ったく、あのおっさんがこんな乙女思考の持ち主とは思てへんかった)
 ギンの言う「おっさん」とは、彼の上司にして、不本意ながら情人イロでもある藍染惣右介である。藍染に近付く過程で、彼がギンの身体に野心を持っていることを覚った。性交渉を手段と考えるギンはその事実を有効活用すべく、忠誠の証として、自らの身体を差し出したのだ。心の奥底に秘めた目的を達する為に、藍染の信頼が欲しいギンとしては、身体を提供することで信用が得られるなら安いものだと考えていた。
 身体の関係を結んでから知ったことだが、藍染という男は、けっこうなロマンチストである。文学ならバイロンの詩を好み、源氏物語や伊勢物語などの王朝文学にも造詣が深い。一方、密かに恋愛小説を愛読していて、彼の書斎には翻訳物の女性向けの恋愛小説本がかなり大量に存在している。本人は隠しているつもりなのだろうが、ギンはちゃっかりそれらを発見してしまった。興味を持って、こっそりと二、三冊拝借して読んでみたこともあるが、どれもこれも余りの甘ったるさに胸やけがしてしまい、ただ一冊も読了出来ないままに戻したという敗北の過去もある。
 今回の現世での逢瀬も、そのロマンチシズムの延長から来ている。満天の星空を二人して堪能した後、高原に建つ洋館風の老舗ホテルのスイート・ルームで甘い夜を過ごし、紅葉の美しい景色を眺めながらテラス席で共に朝食。これが女の子であれば確実に喜ぶシチュエーションだろうが、相手を間違っていると言わざるを得ない。藍染の信頼を得る為に身体を提供しただけで、性的嗜好はストレートであるギンは、男同士でこんなところに来ても少しも楽しくないし、ロマンチックな気分にもならないのだ。
 共に過ごしているのが藍染ではなく、見目麗しい女性であれば、気分はもっと盛り上がるのに。
(絢女か、乱菊やったら、この景色見たら大喜びするやろなぁ)
 霊術院の同期であり、同じ五番隊の同僚でもある如月絢女は、こういう綺麗な景色をとても喜ぶ。やはり霊術院の同期で幼馴染の松本乱菊も同様だ。密かに想いを寄せる絢女か、妹も同然の乱菊とこのテラスで食事をしているのなら、ギンの心はもっと爽やかで甘い感傷にも浸れたろう。この二人は別格だが、たとえ、性欲の捌け口として遊びで付き合っている相手であろうと、とりあえず見目の良い女であれば、そこそこにいい気分になれるはずだ。
 にこやかな笑みを浮かべてテーブルに近付いてくる上司を認め、ギンは素早く笑みを浮かべた。オムレツが絶品だったとおかわりを取りに行った上司は、オムレツの他にトーストを数枚トレイに乗せていた。
「これもおいしそうだと思ってね。食べてみないかい?」
 差し出されたトーストを一瞥すると、今度はジャムは塗られていない。内心の安堵を押し隠し、
「ありがとうございます」
とにっこりと笑った。最貧区を生き抜く上で身に着けた最強の営業スマイルに対して、上司も一見すると爽やかな笑みで応える。
 受け取ったトーストを一口食べた途端、予想していなかった甘さが口中に広がり、ギンは愕然とした。
「藍染はん」
「何だい、市丸?」
「これ、えろう甘いんですけど、バター・トーストとちゃいますのん?」
「ああ、ピーナツ・バターだよ。口に合わなかったかな?」
「いえ、おいしいですけど、甘いとは思てへんかったから吃驚してもうて」
 油断した。ジャムが塗られていないから、うっかりバター・トーストだと信じてしまった。バターと名はついていても、ピーナツ・バターは甘い。
(これはおやつや。絶対、ご飯とは認めへん)
 心の中で拳を固めながら、ギンは甘いトーストをおいしそうに咀嚼する。そんな情人を、「陽だまりのような」と形容される穏やかな微笑で見守る藍染。
 爽やかな高原の朝。業平の竜田川もかくやと思われる美しい紅葉を背景に、狐と狸の化かし合いは際限もなく続くのだった。


*1 在原業平 『古今集』より(294番)
*2 大阪府と奈良県の県境に位置する生駒山系から発し、大和川に合流する川。紅葉の名所。

******************************************

 紅葉の美しい時期、夜景の綺麗なお店で、ギンが自分の彼氏と初めて朝食にパンを食べた

 すみません。書き終えた後、「夜景の綺麗な」に言及していないことに気が付いて、大急ぎで「満天の星空」の一文を入れて誤魔化しました。一般に夜景が綺麗といえば、香港の百万ドルの夜景とか、六甲山から見る神戸の街とか、スカイツリーから見渡す東京の街だとかを指すと思うのですが、高原の澄んだ空気の下で見る星空も広い意味で綺麗な夜景ということで押し通す管理人でした。
 時間軸は叛乱の六十九年前。当サイトの捏造歴史で、市丸さんは副隊長に昇進する直前で第三席の地位です。ちなみに絢女は四席で、乱菊さんは十番隊の五席。ただし、乱菊さんは四席を飛び越して三席になったので、三席への昇進は絢女よりちょっとだけ早いと想定しています。話には関係ないですけど。
 藍染さまが恋愛小説ファンというのは管理人の捏造ですが、原作での藍染さまのポエマーな面を見る限り、あり得なくもないと思うのですがどうでしょう? 叛乱の六十九年前にはハーレクイン・ロマンスはまだ存在していませんが、管理人の脳内では藍染さまの愛読書はハーレクイン・シリーズと決定されています。
 市丸さんはパン自体は初めて食べたわけではありません。朝御飯として食べたのが初めてという設定です。また、市丸さんが藍染さまに対して辛辣ですが、これはまだ絢女が行方不明になる前で鏡花水月に捕まっていなかった頃だからです。この頃は目的も見失っていなかったし、藍染さまは仇と認識していたのです。

駄文倉庫に戻る
トップへ戻る
2012.08.18