細雨に煙る


 会議が終わってから、半月ほど先に計画されている合同演習の件で狛村と話し込んでいた為、他の隊長たちとはかなり遅れて会議室を出た。
「ああ、やっぱり降り出したか」
 廊下の窓から見遣ると、外は細かい霧雨が煙っていた。降り出しそうな気配に傘は用意していた。だが、こんな細雨さいうならば傘をさして歩くよりは、瞬歩で戻った方が濡れないかもしれないと思案しつつ階段に向かっていると、少し先に佇む副官を認めた。
 今日は隊長会議と同時刻に副隊長会議も開催されていたから、冬獅郎は乱菊と連れ立って隊舎を出た。隊長会議と副隊長会議が同日同時刻に行われるのは、よくある。しかし、概ね、隊長会議の方が長い時間が掛かるので、副隊長たちは自分たちの会議が終わると隊長を待たずに先に隊舎に戻るのが常だ。現に乱菊以外の副隊長の霊圧は感じないから、皆、すでに引き上げてしまったのだろう。
 乱菊は窓辺に立っていた。外を、会議舎の中庭を眺めているように見えた。いや、見つめている、だろうか。常に明るく陽気に振る舞う彼女には珍しく、その横顔にほの昏い憂愁を感じて、冬獅郎は声をかけるのを躊躇った。
(何を見ているんだ?)
 彼女から距離を保ったまま、さり気なく窓に寄り、冬獅郎は中庭に視線を向けた。ここは二階である。見下ろした先に、番傘をさして立っている人物を見付けた。
 顔は番傘に隠れて見えなかった。だが、長身で細身な体躯と袖無しの白い隊長羽織から、市丸ギンであることは瞭然だった。乱菊が屋内の窓辺に立ち尽くしてギンを見守っているのと同様に、彼もまた、何かを見つめて佇んでいるように見えた。
 乱菊に視線を戻せば、彼女は近くにいる冬獅郎にも気付かぬままに、凝然とギンの背中を見下ろし続けていた。愁いを浮かべた表情も動いていない。冬獅郎は彼女が今にも泣き出すのではないか、という錯覚に捉われた。

 ギンも、乱菊も、冬獅郎も、時が止まったかの如く、動かなかった。

 やがて、最初に時を取り戻したのはギンだった。
 先まで彫像と化していた長身を、彼はゆっくりと屈めた。その動きから、中庭の植物を折り取ろうとしているのだと分かった。目的はすぐに達せられたらしく、彼は背を伸ばし、踵を返して歩み去った。身体の向きを変えた時に、番傘の向こう側に一瞬だけ、彼が折り取った植物が見えた。
菖蒲あやめ?)
 彼が持ち去ったのは菖蒲の花だった。彼が佇んでいた場所を検めると、そこは菖蒲を植えた一角で、すっと鋭い剣先のような葉が林立し、紫色の筆のような蕾も見て取れた。ギンが手折ったのはどうやら咲き初めの一番花だったらしい。花壇に残った菖蒲には、蕾が綻びかけているものは幾つかあったが、開花しているものは見当たらなかった。
 ギンが建物の向こうに消えてしまうまで、乱菊はその背を追っていた。その姿が見えなくなって、彼女はほっと息をついた。やや俯かせていた顔を上げた乱菊は、この時に漸く、すぐ近くで彼女を見ている冬獅郎に気が付いた。
 刹那、乱菊の面に、しまった、と読み取れる狼狽が過ぎった。だが、それは瞬きするほどの間のことで、いつもの明るい陽気な笑顔を浮かべた。
「やだ、隊長。そんなところに突っ立ってないで声を掛けて下されば良かったのに」
と乱菊は告げた。彼女の一瞬の表情は見逃した振りをして、
「他の副隊長はみんな戻ったっていうのに油を売っている怠け者がいやがるな、と思って見ていたんだ」
と冬獅郎は答えた。
「隊長を待っていたんです」
「いつもは待っていないだろうが」
「今日は副隊長会議が終わって、ちょっとしたら隊長会議も終わったんです」
と乱菊は主張した。
 冬獅郎が狛村と話し込んでいて会議室を出るのが遅れたように、乱菊も桃と話していて部屋を出るのが、皆よりも少し遅れたのだという。桃はつい七日ほど前に、急な昇格人事で副隊長に就任したばかりである。就任が丁度、補正予算案の作成期に当たっていた為、彼女は通常業務に慣れる暇さえないうちに大仕事である補正予算案に着手しなければならなくなった。不慣れな彼女はベテラン副隊長である乱菊を非常に頼りにしていて、今日もその相談を受けていたのだと乱菊は語った。桃は冬獅郎とは流魂街では一つ家に暮らしていたほどの親しい幼馴染であったから、席官時代から十番隊に入り浸っていた。その関係で、乱菊とも親しくなっていたから、他の副隊長よりも相談がしやすいというのもあるのだろう。
「二人で会議室を出たところで、ばったり藍染隊長にお会いしたんです。伺ったら、藍染隊長が会議室を出られた時には、隊長は狛村隊長とお話しされていて室内にいらしたということでしたから、すぐに出て来られるだろうと思って待っていたんですよ。さぼっていたわけじゃありません」
 ぷうとむくれてみせた乱菊は、本当にいつも通りだった。先ほどの愁いなど微塵も感じさせない態度に、冬獅郎は微かな苛立ちを覚えた。
「ふうん…」
 釈然としないまま、彼は乱菊を促した。
「まぁいい。戻るぞ」
「はい」
 歩み出した冬獅郎の後ろに乱菊が従う。いつもの立ち位置、いつもの距離だ。振り向かなければ、乱菊の顔は見えない。もし、今、急に振り返ったら、彼女は先ほどと同じ表情を浮かべているのではないか。
 そんな気がして、冬獅郎は一度も振り向かないままで隊舎に戻った。

 就寝する前の半刻はんときほど、読書をするのは冬獅郎の楽しみだった。多少行儀が悪い自覚はあるが、布団に寝そべって、行灯あんどんの灯りで切りがいいところまで読む。長編は選ばないようにしている。面白い本だと、ついあと一頁、あともう少しと読み進んでしまい、気が付くと辺りが白んでいたということが幾度かあったからだ。寝る前に読むのは主に短編集と決めている。前夜までで1/3ほど読み進んだ本は、瀞霊廷で最近出版された新刊本である。各話がそれぞれに洒脱で、昨晩も後一話読み進めたいという誘惑を振り切って、途中で止めたのだ。
 今日も本に手を伸ばした。だが、数行、読み進んだだけで、冬獅郎は本を閉じてしまった。女が窓から外の雨模様を眺める出だしで、昼間に見た乱菊の表情が甦ってしまい、話に全く浸れなくなってしまったのだ。
 乱菊とギンが幼馴染だというのは知っている。昔、京楽と浮竹から教えられた。彼らによると、四十年ほど前までは、乱菊とギンはとても親しい付き合いをしていたのだそうだ。だが、ある事件がきっかけで二人の間に亀裂が入り、気が付いた時には取り返しがつかないほどに溝が広がり、疎遠になってしまったのだのだと聞いている。きっかけとなった事件というのを、実は冬獅郎は知らない。京楽たちは乱菊が語らない話を勝手に明かすわけにはいかないから、と教えてくれなかった。乱菊とはその話をしたことがない。間違いなく、話しを振れば語ってくれるのだろうとは感じている。しかし、京楽たちの口振りで、その一件が乱菊にもギンにも癒えない重い傷を与えたと察せられるだけに、軽々しく問うことは憚られた。
(何で、あんな顔をするんだよ…)
 現在の二人はほとんど接触はない。隊長と副隊長の差こそあれ、同じ護廷の隊長格に属しているのだから、公のつながりはもちろんある。だが、少なくとも冬獅郎の目にする範囲内では、二人の会話も態度も所属の異なる隊長と副隊長のものでしかなかった。
 疎遠になって、言葉遣いも他人行儀になって、けれども、心の底では互いを大切に想う感情が今でも消えずにいる。ギンが乱菊にちょっかいをかける男どもに圧力をかけて回っているというのは有名な話だ。乱菊の妖艶で色っぽい外見から奔放な女だと誤解し、いやらしい下心で手出ししようとする者は制裁を喰らっていたし、純粋に乱菊に惚れている男でも霊圧で心が凍りつくような牽制を受けるのだ。九番隊副隊長の檜佐木修兵や七番隊副隊長の射場左衛門もギンからの圧力を受けたらしく、いつもは乱菊のことで競争関係にある二人が、妙に意気投合してギンに対する愚痴を零している現場を見たことがある。
 乱菊にしたってそうだ。三番隊やギンに対する話が耳に入ると、思わず聞き入ってしまっていることがよくあった。十中八九、本人は無意識だ。だが、冬獅郎はいつしかそれに気が付いてしまっていた。
(あんな顔であいつを見つめるくらいなら、何で離れてしまったんだ…?)
 冬獅郎の前で、乱菊は常に明るく笑っていた。
「大丈夫です、何とかなりますって!」
 困難に直面した時、へこたれずに笑顔で言い切る乱菊にどれだけ救われたか知らない。彼女には笑っていてほしい。もちろん、作り笑いではなく、心から幸せだと笑っていて欲しい。それなのに、
(何であいつにあんな顔をさせるんだよ)
 冬獅郎は心の中で、ギンを罵った。ギンの関心が乱菊から離れ、どうでもいい存在になってしまったというのならまだ納得が出来る。だが、ギンは未だ乱菊を大切にしている。彼女に手出ししようという男を、隊長の権力と霊力をちらつかせて脅さずにいられないほどに気にかけている。
(そんなに大事なら、どうして手を離したりしたんだよ?)
と冬獅郎は腹が立った。少なくとも、自分なら大切な相手の手は離さない。つらい表情なんて浮かべさせたくもない。
(俺なら、あんな顔させねえのに…)
 冬獅郎は思った。
 寝返りを打つ。
 何だか気分が悪い。怒りというよりも、苛立ちだろうか。あれほどにつらそうに、切なそうにギンを見つめていながら、冬獅郎を目にした途端に笑って見せた乱菊にも、失望に似た感情を覚えた。彼女の笑顔が嘘くさくて、冬獅郎は腹の底がずんと冷えた。
「何で、市丸なんだよ」
 冬獅郎は呟いた。
 上司の前では笑うくせに、つらさも、痛みも曝け出そうとしないくせに、
「何でだよ?」
 考えたって、分かるわけがない。ただ、もやもやと、むしゃくしゃと、心の底にわだかまるものがあって、不快だった。
(寝よう)
 ついに思考を停止し、冬獅郎は行灯の灯りを消そうと手を伸ばしかけた。

     何で、市丸なんだ。

 だが、先ほど呟いた自身の言葉に、冬獅郎は凍りついたかのように動きを止めた。

     何で市丸なんだ。俺ではなくて。

 彼女には笑っていてほしいのに、あの愁いの後に見せられた空虚な笑顔では納得出来ない。彼女に悲しい顔をさせるギンに言いようのない腹立たしさを覚えていながら、一方で、あんな表情にさせることが出来る彼に羨望を覚えてしまっていることに、冬獅郎は今、はっきりと気が付いた。
    俺は…)
 この感情を意味する適切な言葉を、彼は知っている。

 嫉妬。

 冬獅郎は一気に何もかもが腑に落ちた。
 乱菊とギンの関係を知った後、乱菊が深層で信頼を寄せているのが自分よりもギンであると悟った時に覚えた焦燥の正体を。先の五番隊副隊長だった男と乱菊が親しげに話していても何とも感じなかったくせに、修兵や鉄左衛門が相手だと何故だか不愉快さを感じていた原因も。乱菊が冬獅郎に半分命がけのようなスキンシップを繰り出しても、決して振り払えなかった理由も。
(そういうことか…)
 理解してしまえば、全ては単純だった。
 彼女に誰よりも信頼される者でありたかった。彼女に下心があって近付く者が煙たかった。彼女を拒絶するなんて出来なかったから、振り払えなかった。
 何故なら…。

 乱菊を好きだったから。

 冬獅郎は腕を両眸の上に乗せて、深い溜息を零した。
「いつからだよ?」
 自問する声が天井の木目に吸い込まれていく。
 冬獅郎は乱菊を好きになったのが、一体、いつなのかを思い出そうとした。
 あの時か、それともあの時、と思い当たる記憶を手繰っても、明確にいつからだとは分からなかった。
 初対面で一目惚れしたというわけではない。確かに、今では日常と化してしまったが、巨乳に埋まった初体験はなかなかに強烈な印象だったし、菓子舖の店主に食ってかかる啖呵も鮮やかだった。何より、冬獅郎の無意識で漏れ出す霊圧に凍える祖母を指し、彼の身の裡に宿る巨大な霊圧を制御する為に死神になれと諭してくれたあの夜のことは、今でも感謝しきれない。だが、あの時は指摘されて覚った己の能力を呑み込むのに精一杯で、乱菊に対する感情は後出しで出てきたように思えた。そして、後から追いついて来た感情にしたって、恩義から始まった好感でしかなかった。
 多分、いつから、と明確に区分けすることは無理なのだろう。
 貝の中に入り込んだ異物に過ぎなかった砂粒が時間をかけて真珠に成長していくように、松脂が時の魔術で琥珀に変化するように、乱菊と共に過ごして来た時間の積み重ねが、単なる好意を恋情に変えていったのだ。
「明日から…」
 感情を面に現さない自信はあった。幼い外見で隊長という重職に就いたのだ、自制心には自負がある。乱菊に勘付かれないよう、今まで通りに振る舞うことは出来るはずだ。
 だが、これからは裡に沸き起こる「嫉妬」に向き合わなくてはならない。無自覚だった時には些細な不愉快に過ぎなかった感情は、覚醒し、名を与えられた瞬間から急速に肥大していく運命にあった。
「…何で、俺は子供なんだよ」
 現在の乱菊には最も近しい男といえば、間違いなく冬獅郎だろう。性別でもって単純分類すれば、の話だが。
 冬獅郎は哺乳類霊長目ヒト科のオトコ族オトコノコ科に属する。オス科のギンや修兵や鉄左衛門とは最初から土俵が違っているのだ。無論、冬獅郎とて成長すればオス科への移行は可能なのだが、それまでに要する気の遠くなりそうな年月を思うと、冬獅郎は比喩的な意味で泣きたくなった。

 そうであっても    

 渡したくない、と自覚したばかりの想いははっきりと主張していた。
 客観的に見て、どんなに乱菊に相応しい素晴らしい男であっても。
 冬獅郎は乱菊を渡したくはなかった。彼女の最も近くにいるのは自分でありたかった。

 長い戦いになりそうだ。

 冬獅郎は再び、布団の中で大きく息を吐き出した。

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 5周年記念リクエスト小噺 その7

 サイト5周年企画、これにてコンプリートです。リクエストは「冬獅郎が乱菊の事を好きだと自覚した時」。真っ先に応募して下さった方のリクエストの出来上がりが一番最後になってしまい申し訳なく思っています。こう多朗さま、遅くなりましたが、どうぞお納め下さい。
 無自覚に乱菊さんを好きだった隊長がしっかり自覚をしたのは叛乱の三年前くらいというのは、拙宅の捏造設定(管理人想定)としてかなり早い段階でありました。しかし、その辺が自覚のしどころと設定していても、どんなふうに自分の気持ちに気付いたのか、とかは一切考えていなかった管理人。だから、リクエストを上げるまでにこーんなに時間がかかってしまいました(苦笑)。
 一方、作品完成の切欠は割と単純で、脈絡もなく脳内に降って湧いたワンシーンでした。
 土砂降りの雨の中、立ち尽くす市丸兄さん、それを少し離れた建物の中から見つめる乱菊姐さん、さらに引いた場所で乱菊さんと市丸さんを見ているしかない日番谷隊長。「あ、これ、話になりそう」と頭の中で捏ね繰り回した結果が、これです。最初の脳内ヴィジョンでは土砂降りの中ずぶ濡れで立っていた市丸兄さんですが、土砂降りだと乱菊さんも隊長も市丸兄さんが見てるのが菖蒲だと分からないじゃないかと霧雨に変更。更に、十番隊主従からは表情が絶対に見えないように番傘装備。
 こういうふうに、最初はイメージでしかなかった断片を纏めていく妄想作業が創作の中で一番楽しい時間です。実際に文に起こしてみるとまた、思い通りにイメージを文章に出来なかったりして悪戦苦闘するのですが。
 思った以上にリクエストが集まったのと(有難い限りです)、管理人のリアルが忙しかったのとが重なって、完了まで三ヶ月半も掛かってしまいましたが、なかなか楽しかったです。リクエスターの方の意に沿える話ばかりではなかったとは思います。ですが、リクエスト下さった方も、ROM専の方も楽しんでいただけましたのなら幸いです。

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2013.10.14