彼女は知らない
ギンに名を呼ばれて振り向いた絢女は色白の肌に赤味が射していた。目元も熱っぽく潤んでいる。悪い報せが的中したことを悟り、ギンは小さく溜息を零した。
「どうなさったんですか?」
小首を傾げて問い掛ける絢女の傍らに歩み寄り、ギンは黙って彼女の額に掌を押し当てた。面食らった絢女はぱちくりと瞬きを繰り返している。
「はぁ…。やっぱり、熱が出とるな」
「え?」
「身体、怠くあらへん?」
「…そういえば、少し…」
戸惑いながらも肯定した絢女に、ギンは、
「さっき、十二番隊から地獄蝶が飛んで来たんや」
と告げた。
「一昨日、絢女が討伐した
ギンの説明に、絢女が真っ先に心配したのは部下たちに
「空気感染はせぇへんタイプのウィルスらしい。せやから、二次感染の心配はまずないようや。ただ、瀬戸はやっぱり感染しとるかしれんな」
一昨日、現世駐在の瀬戸から緊急救援要請が入り、絢女が救援に赴いた。瀬戸には手に負えなかった厄介な虚は強力なだけではなく
特殊能力を持つ珍しい虚が生体で手に入ったことで、涅は極めて上機嫌だった。他人を称賛することがまずない彼にしては珍しく、生捕りにした絢女の判断を誉めちぎっていたことからしても、その浮かれぶりが窺えた。今回、わざわざ地獄蝶を飛ばして連絡して来たのも、その機嫌の良さの延長だろう。珍しい虚なら可能な限り生きたまま捕縛して十二番隊に引き渡す気配りが出来る絢女に対して、「これに懲りずに今後ともよろしく」の下心を込めた親切かもしれない。ウィルス自体は涅の興味を惹くような希少なものではなかったことも幸いだった。
ギンは四席に向き直った。
「瀬戸も怪我したて報告を受けとるし、感染の疑いがある。潜伏期間からして発症しとるかどうか微妙やけども、何にせよ一旦、瀞霊廷に戻すよし、迎えと交代要員の選定は任したで」
「はっ」
「発症した場合、高熱が数日続くそうや。交代要員も瀬戸が発症した場合を考えて選定しいや。藍染隊長には後でボクから報告するよし、すぐに選定して瀬戸を迎えに行き」
「はい」
ギンはてきぱきと命令を下すと、再び絢女を向いた。
「絢女は四番隊や」
「はい。承知しております」
絢女は五席を手招いて、処理しかけの書類の引継ぎを手早く済ませた。
「市丸副隊長、四番隊には一人で行けます。執務にお戻り下さい」
藍染は流魂街の管轄地の見廻りに出て不在である。留守を預かる副隊長に執務に戻るように促したが、ギンは難しい顔をして絢女を見返すばかりだ。仕方なく、絢女は立ち上がった。
「本当に大丈夫です」
と言いながら、彼女は四番隊に赴くべく部屋の出入り口に向かって歩み始めた。しかし、数歩進んだところで、くらりと視界が歪んだ。
「…え?」
はっと気が付いた時には、ギンに腕をしっかりと掴まれて支えられていた。
「…もうちょっとで倒れるトコやったで」
「すみません」
「病気の時くらい、他人に頼り。特に今回のは体調管理がどうこういう問題やない。討伐に伴う公傷病や」
ギンは上位席官たちを振り返った。
「如月三席を四番隊に連れて行く。後は任したで」
席官たちが一斉に深く頷いたのを見遣って、ギンは絢女の肩を支えながら上位席官室を出た。
四番隊にも涅から連絡が行っていた。直ちに検査が行われ、絢女の発熱は間違いなく虚から検出されたウィルスによるものだと結論付けられた。
「この感染症には特効薬はありません。安静にして、発熱が治まるのを待つしかありません」
と診察した四番隊第六席の虎徹勇音は告げた。
「熱はどれくらい続くん?」
発症後、急激に熱が上がったらしくぐったりとしている絢女に代わって、ギンが尋ねた。
「通常三日程度ですが、七日ほど熱が続いた症例もあります」
「熱だけ?」
「そうですね。発熱に伴う悪寒、倦怠、頭痛が主な症状です。稀に嘔吐症状が出ることもあります。とにかく、安静第一です」
その場合、四番隊に入院するのが一番安心であるのだが、ギンには先ほどから気になることがあった。
「虎徹さん。何や、救護病棟とは思えへんくらい騒がしいのんやけど?」
「申し訳ございません。今朝がた、十一番隊で大規模な討伐を行ったそうで、討伐で怪我を負った十一番隊の隊員が大勢入院しているんです」
「ああ、やっぱりか」
救護と補給を担い、前線に立つことが滅多にない四番隊は他隊から下に見られる傾向がある。補給は生命線だと知るギンに言わせれば愚かな考えなのだが、見識はないくせに腕に覚えのある死神ほどその傾向が強い。その最たる者が十一番隊の面々で、四番隊で彼らを抑えられる者といえば、隊長の卯ノ花くらいだろう。
怪我をして四番隊の厄介になっている身で他を顧みず大騒ぎする馬鹿げた連中である。ギンがひと睨みすれば、一旦はおとなしくなるだろうが、それが持続するとは信じられない。
「安静に休める環境やなさそうやね」
とギンの言葉に、
「申し訳ございません」
と勇音は長身を縮こまらせた。
「しゃあない。隊寮で静養させるから、往診をお願いするわ」
「はい」
勇音は隊寮で静養するに当たっての注意点として、脱水症状を防ぐ為水分を補給出来るようにしておくこと、粥や饂飩、果物でもいいので、きちんと食事を摂るように心がけることを説明した。更に、水に溶かす粉末タイプの経口栄養剤を処方して診察を終えた。
「ほな、隊寮に戻ろう」
ギンは絢女に背を向けてしゃがみ込んだ。
「負ぶさり、絢女」
「ですが…」
躊躇う絢女にギンは一旦立ち上がった。先ほど、絢女に告げた通り、これは公傷病なのだから副隊長権限を振りかざしても問題ないだろうと判断すると、表情を厳しくして告げた。
「絢女。特別に選ばしたる。俵担ぎと姫抱き、おんぶの三択や。それ以外は認めへん」
「あの…?」
「選べへんのやったら、ボクが勝手に決めるで、姫抱きに」
「 おんぶでお願いします」
ギンなら本当に、有無を言わさずに姫抱きを決行すると絢女は理解している。ならば、選択の余地があるうちにと、彼女は一番無難なおんぶに即決した。
(熱でぐったりしとっても、そこらへんの判断力は鈍ってへんなァ)
と少し残念に思いながら、ギンは再び絢女に背中を向けてしゃがんだ。さきほどのやり取りで観念したとみえ、絢女はあっさりとその身を彼に預けた。
「夕方に一度、往診に伺います」
勇音の約定が、絢女を負って四番隊を出るギンを追いかけた。
絢女の部屋の勝手は知っている。
ギンは部屋に上がり込むと、まず絢女を寝室の壁に凭せ掛けるように座らせてから、押入れを開けて布団を敷いた。
「寝間着はどこ?」
「箪笥の一番下」
言われた通りに一番下の抽斗を開けるときちんと折り畳まれた夜着が納められていた。上にあった一枚を取り出すと、絢女に手渡す。
「ちょっと待っとって」
とギンは告げると台所に行って湯を沸かし、風呂場から取って来た洗い桶に湯を張って手拭いを浸して絢女の許に戻った。
「自力で着替えられる?」
さすがに熱でぐったりしている絢女相手に、「着替えさせてやろうか」などという冗談を言う気にはならなくて、ギンは真面目な顔で問い掛けた。
「無理そうやったら、手すきの女の子を呼ぶけど…」
「大丈夫。着替えくらい出来るから」
「うん、せやったら、着替える前にこれで体を拭きや。だいぶん汗をかいとるみたいや」
ぬるま湯に浸した手拭いを絞って手渡すと、絢女は力なく、
「ありがとう」
と受け取った。
ギンは寝室の襖を閉めた。襖の向こうでごそごそと着替える気配がしている。ギンは襖越しに絢女に呼び掛けた。
「死覇装は畳まんと脱ぎ散らかしとき」
「はい」
もう一度、台所に行ったギンは処方された経口栄養剤を分量の水に溶かしたものと、普通の水とをそれぞれ大きめの水差しに注いだ。それらを盆に載せ、コップをひとつ添えて寝室へ戻る。
「着替えは終わった?」
「はい」
襖を開けて寝室に入ると、絢女は既に布団に横たわっていた。脱ぎっぱなしで良いと言っておいたにもかかわらず、きちんと畳まれた死覇装に、
(やっぱりなぁ)
と苦笑をひとつ落とし、ギンは水差しを乗せた盆を絢女の枕元に置いた。
「水、ここに置いとるから」
「…はい」
「さっき、乱菊に連絡した。乱菊、今日は早番の夜勤なんやて。出勤前に晩御飯を作りに来てくれるそうや」
公傷病なのだから、自隊の部下に世話をさせてもよいのだが、絢女は部下が相手だと却って気を遣うだろう。その点、乱菊ならば一時期一緒に暮らしていたこともある気心の知れた親友で、彼女の具合の悪い時は絢女も看病しに行っている。お互いさまということで割り切れる間柄だ。
「ん、ごめんなさい」
「万一のこともあるし、部屋の鍵は治るまでボクが管理しとくな」
「お願いします」
濡らした手拭いを絢女の額に置いて、氷嚢を載せ、ギンは指先でそっと絢女の頬に触れた。
「したら、ボクは戻るけど、何か困ったことがあったら伝令神機でも地獄蝶でもええから連絡するんやで」
「はい」
本当はずっと傍に付いていたい。だが、生真面目な三席は、これ以上、副隊長の手を煩わせることを善しとしないはずだ。発熱のせいで潤んだ彼女の眸に後ろ髪を引かれる思いで、ギンは部屋を後にした。
定時で勤務を終えたギンは副隊長舎に戻り、夕餉を済ませてから、隊寮の絢女の部屋を訪れた。本当は直行で行きたかったのだが、親しい友人とはいえ異性でしかも上司という肩書も持つギンがあまり頻繁に見舞っては、絢女も気づまりを感じるだろうと自重したのだ。それに定時の少し前まで、乱菊が絢女の看病をしていたはずだ。だから、少し時間を空けた方が良いという判断もあった。
預かっていた合鍵で部屋に入ると、玄関の下足箱にギンに宛てた乱菊のメモ書きが置いてあった。それによると、絢女は夕飯として粥を茶碗一杯ほど食べたらしい。食欲が落ちている絢女の為に乱菊が用意した果物のシロップ煮と林檎があることも書かれていた。
夜勤には早番と遅番があり、早番の場合、申の中刻 *1 から勤務が始まって子の下刻に勤務が終わる。夜勤とは言いつつ、飲みで日を跨いでしまったのと大差ない時間に家に帰れるし、翌日の日中帯は夜勤明けということで勤務は免除されるから、実質、非番のようなものである。子の中刻から辰の下刻という深夜帯勤務である遅番に比べると、同じ夜勤でもかなり楽なのは間違いない。乱菊は早番の夜勤で明日の日中は自由なので、絢女の看病に来る旨もメモに書かれていた。
(せやったら、明日は乱菊が付いててくれるし安心や)
とギンは安堵した。
寝室に入ると、絢女は眠っていた。色白なだけに発熱による赤味がひどく目立って、痛々しい。出がけに乱菊が変えたであろう氷嚢の氷は既に溶けて、温い水に変わっていた。ギンはすぐに氷を入れ替えた。固く絞った手拭いで額や首筋の寝汗を拭っていると、絢女がうっすらと目を開いた。熱のせいかどこかぼんやりと焦点があっておらず、眸はとろんと潤みがかかっている。
「…ギン?」
「うん」
「仕事は…?」
発熱が咽喉の炎症を引き起こしたのか、声が掠れている。
「終わったよ」
とギンは笑んだ。
「ちゃあんと真面目に仕事しとうから安心しぃ」
実際、ギンは真面目に働いた。五番隊の誇る優秀な三席が病に倒れたのだ。彼女が憂いなく身体を休めることが出来るように、ギンは久方ぶりに真剣に仕事に取り組んだ。残された上位席官たちから、
「普段からそれくらいお仕事をされれば、如月三席も喜ばれるでしょうに」
とちくりと嫌味を言われるくらいに勤勉であったのは、残業をしたくなかったというのもある。絢女の容体が気掛かりだったのだ。
「藍染隊長から伝言や。『仕事のことは忘れてしっかり養生するように』やて」
「ええ…。ご迷惑をおかけします、と伝えて…」
と絢女は弱々しく微笑んだ。
高熱は三日ほどは続くということだったが、計ってみると三十九度四分であった。
「ギン」
水銀体温計を振って、目盛を下げているギンに絢女が尋ねた。
「瀬戸は? やっぱり感染してた?」
部下のことが気掛かりだったのだ。
「うん。迎えに行った時にはもう発症しとった。連れて帰って、養生させとる。瀬戸は実家暮らしやよし、家には両親も兄弟もいてる。彼のことは心配いらへんよ」
「そう…」
「絢女、乱菊が果物のシロップ煮を持って来てくれとうのんや。食べられそうなら食べた方がええ。冷蔵庫で冷やしてあるから冷たくて美味しい思うで?」
「…そうね。少しいただく」
絢女が頷いたので、ギンは台所に取りに行った。冷蔵庫を見ると密閉容器が二つ重ねて納められていて、桃と無花果のシロップ煮がそれぞれの容器に入っていた。とりあえず、上に置いてあった白桃の容器を取り出す。水屋から硝子の小さな鉢を出して、半割りの桃を一つ入れる。少し考えてから、もう一つ追加で入れて、絢女に持っていった。
「ありがとう」
半身を起こすのさえ、絢女は億劫そうだった。乱菊が着替えさせたらしく、ギンが渡したのとは異なる夜着を纏っていたが、それもすでに汗でじっとりと湿っている様子だ。食べ終わったら、もう一度着替えさせた方がいいだろうと、ギンは判断した。
食欲は落ちているようだが、ひんやりと冷えた果物は高熱の身にも食べやすかったようだ。絢女が美味しそうに口に運んでいるのに、ギンは安堵した。彼女が桃を食べている間に、彼は着替えの準備を整えた。昼間、絢女を連れ帰った時と同様に湯を沸かして洗い桶に張り、手拭いを浸した。
「果物、まだあるで。もっと食べる?」
「ううん、もういい。ありがとう」
「したら、着替えようか。ずいぶん、汗をかいとるみたいやし」
「ええ…」
箪笥から出した新しい夜着と身体を拭く為の手拭いを渡すと、ギンは一旦寝室を出た。着替えを手伝ってやりたいのはやまやまだが、ギンは男で、絢女は女。そして、二人の関係は上司・部下、または同期の友人だ。肌を見ることが許される間柄でない以上、男のギンに絢女の手助けは出来なかった。
箪笥には着替えの寝間着があと一枚しか残っていなかった。乱菊は着替えさせた夜着をどうしたろうかと、
(ほんなら、ボクも洗って干しとこう)
寝室に戻ると、絢女は最初に送って帰った時と同様に、既に布団に横になっていた。怠いだろうに着替えた寝間着をきちんと畳む律義さに、ギンは呆れと感心が半ばした。
「ギン…」
細い声で呼び掛けられ、ギンは優しく絢女を見返した。
「迷惑をかけてごめんなさい」
「迷惑とか思てへんよ。友達やもん、具合の悪い時はお互いさまや」
「…そうね…。ありがとう…」
友達、と口にした時に、一瞬、つきりと軋んだ自身の心にギンは気付かない振りをした。傍らに座って、子供にするように髪を撫でてやると、彼女は安心したようにすぐに微睡んでしまった。彼女を起こさないように気を配りながら、ギンは汗で湿った寝間着を抱えて部屋を出た。寝間着には絢女の匂いが濃密に残っていた。
(ボクまで頭がくらくらしてきたわ)
腕の中の夜着を見下し、彼は太い溜息を零した。
額に浮かんだ汗が玉になって零れ落ち、敷布に染みた。
自分でも獣じみていると感じる嬌声を喘ぎとともにまき散らすと、
「善い声だ」
と上司は満足そうに囁いた。
元来が受け入れる側の性ではない身体に、無理矢理に捻じ込まれた剛直がみしみしと軋みを上げている。相手の性癖に心はうんざりとしていても、流魂街最貧区時代に男娼紛いの行為を繰り返してきたせいで、ギンの身体は男を受け入れることに慣れて、貪婪に快楽を吸い上げるように作り替わっていた。腸壁を抉るように擦られ、悲鳴に似た喘ぎを噴き零して善がりながらも、ギンの脳裏を占めていたのは今も高熱に苦しんでいるはずの絢女だった。
二晩、続けざまに求められた。
その理由は嫉妬だと、ギンは分析済みである。どういうわけだか、藍染はギンに執着している。本来の性的嗜好は異性愛で受け入れるよりも攻める方を好むギンは、自らの性的欲求を満たし、牡としてのアイデンティティーを確認する為に頻繁に妓楼の女郎を買っている。また、誘いをかけて来た素人娘を抱き捨てにすることもある。そうした行為を行った翌日は、微妙に苛立っていることが多い上司に、ギンはいち早く気が付いていた。上司である藍染には韜晦趣味があり、相手を騙くらかすことにかけては右に出るものがないという狸親父である。しかし、その狸親父をして、ギンに対する執着や独占欲、そして嫉妬は上手く隠しきれないらしくて、平然を装う上司を、ギンは内心で小馬鹿にしながら観察していたのだ。
昨晩、帰宅直前に、
「今晩、部屋に来るように」
と囁かれたことは実は想定の範囲内だった。性的関係は一切ないにもかかわらず、ギンが乱菊や絢女と親しくすることを藍染は快く思っていなかった。もちろん、乱菊がギンの幼馴染で兄妹のような間柄であることも、絢女が霊術院の同期でずっと親しくしている友人であることも承知しているから、真っ向から不満を述べるような真似はせず、彼等の関係を黙認していた。だが、ギンが絢女や乱菊と飲みに出かけたり、非番を合わせて遊びに出たりした時には、藍染は他人には気取られない程度の苛立ちを見せていたのだ。ギンが前の晩に絢女を見舞ったことも、その日の朝に様子を見に行ったことも、藍染には知れていた。だからこそ、昨晩は敢えて絢女の許に行かせないように、誘いをかけて来たのだと見当がついた。見舞いに行けないことは不満だったが、乱菊が付いていたことがあって、ギンは心配はしていなかった。夜勤明けの翌日、乱菊は親友の部屋に赴いて、一日ずっと看病していたのだ。更に、変わらず高熱が続き体力が落ちている絢女を心配した乱菊は、そのまま泊まり込んで、今朝は五番隊寮から出勤したのである。だから、昨晩は絢女を案ずる必要がなかった。
しかし、今晩は乱菊はいない。彼女は今宵も泊まることを申し出たらしいが、絢女が断ったのだ。
「別に泊まるくらい、全然どうってことないんだけどさ」
と昼休みに様子を見に行って鉢合わせた時に、乱菊は溜息交じりで述懐した。
「昨日、まるっと一日、絢女の看病で潰れたことを、あの娘、気にしてるのよねー。夜、何度か起きて氷嚢の氷を取り替えたりとか、水差しの水を補給したりとかしたもんだから、あたしが充分休めなかったって考えているのよ。お互いさまだからいいのに、ずいぶん気にしてるみたいだからさぁ。無理に泊まってこれ以上負担に思わせるのも逆に可哀そうだし、今晩は泊まらないことにしたから。寝る前に一度、様子は見に来るけど、夜の間、絢女のこと、気にしてやってね」
同じ敷地内に副隊長舎と隊寮はある。副隊長舎から霊圧を探れば、異変があればすぐに分かるはずだと乱菊に頼まれて、ギンは任せておけと請け負った。昨夜、藍染はさんざんにギンを玩んだのだ。従って、今晩は勤めはないはずと、彼も高を括っていた。藍染はいわゆる「絶倫」で夜の相手は相当に疲労困憊する。女でも藍染の相手は大変なのだが、ギンは男で身体の造りがそもそも受け入れるように出来ていないから、負担はより大きい。それは藍染も承知の上で、そのせいか、これまでは伽の後は最低でも二日は間を空けるくらいの心配りはしてくれていた。だから、続けざまに伽を命じられて、ギンは焦った。実際のところ、昨晩の行為の名残で身体が怠くてたまらず、勘弁してほしいのが紛れもない本音だった。
否応もなく快楽を貪りながら、一方で、前夜の行為のダメージが残る身体は苦痛を訴えている。三度目の絶頂で、ギンの意識は飛んだ。
彼が覚醒した時には、上司の手によって既に後始末がされており、寝間着まで着せられていた。
「無理をさせてすまなかったね」
穏やかに笑んで心にもない謝罪を口にする男に、
「はぁ。さすがに二晩続けては堪えますわ」
とギンは本音で返した。
「藍染隊長はそれでのうても絶倫なんや。ちぃっと加減して下さると助かります」
「悪かったと思っているよ」
口先だけで、上司は反省をしたふりをする。ギンはのろのろと体を起こした。
「帰ります」
「まだ、休んでいた方がよくないかい?」
「ここにおったら、朝まで眠りこんでしまいそうですわ。副隊長が隊長舎から朝帰りするとこ隊員に見られたりしたら、洒落にならへん」
「確かに洒落にならないだろうね」
藍染はそれ以上、引き止めなかった。
副隊長舎に戻り、敷きっ放しの床に疲れ切った体を横たえ、ギンは気怠く息を吐いた。体は休息を求めて眠りに誘い込もうとしていたが、絢女が気掛かりだったギンは生理的欲求に逆らって、隊寮の気配を慎重に探った。
途端、体の疲労感も腰部に感じていた鈍痛も、眠気も、何もかも吹っ飛んで、ギンは跳ね起きた。絢女の霊圧が極端に弱っていたのだ。副隊長舎を飛び出すと、寝間着のまま隣接の隊寮に走る。鍵を開けるのももどかしく部屋に走り込むと、行灯の仄かな灯りの下、寝室の入口付近に蹲っている絢女を発見した。
「絢女、どないしたん?」
抱え起こすと、虚ろな眸とかち合った。
「…水…」
とかそけき声で呟かれ、枕元の水差しに目を遣って、ギンは事態を把握した。
水を入れた水差し、経口栄養剤を入れた水差し、そして、コップ。全部が横倒しになっていて、水は畳と布団に吸い込まれてしまっていた。おそらく、夜中に目が覚めて水を飲もうとして、誤って水差しを倒してしまったのだろう。コップともう一つの水差しは巻き添えで横倒しになったに違いない。
高熱で大量に汗をかく為か、絢女は食欲はなくとも水分だけは欲しがった。水差しを倒したことで手近の水を失い、咽喉の渇きに耐えかねて、台所に行こうとして力尽きてしまったと、ギンは看て取った。
「すぐに飲ましたるから、ちょっとだけ待っとって」
と彼は絢女を離すと、台所から水を汲んで来た。コップを口許に宛がってやると、余程に咽喉が乾いていたのか、彼女は夢中で水を飲み始めた。コップの水を空けて、漸く人心地がついたらしく、
「ごめんなさい…」
と彼女は小さな声で謝罪した。
「ええから…」
絢女を制し、ギンは立ち上った。近くに行って確認すると、敷き布団は枕周りを中心にぐっしょりと濡れていた。これでは、もう使えないと、彼は手早く布団を畳んだ。畳んだ時に匂いを嗅いで確認したが、どうやら零れたのは、ほぼただの水のようだ。もしかしたら、水差しを倒した時点で、経口栄養剤の方はほとんど飲み尽くしていて水しか残っていなかったのかもしれない。
畳の濡れている場所を避けて予備の布団を敷き直し、ギンは濡れた布団を抱えて部屋を出た。居間の、日中であれば日当りのよい窓辺に布団を広げて干し、敷布はまとめて洗おうと風呂場の籠に丸めて押し込んだ。そうして、寝室に戻ったギンは絢女の様子に再び狼狽した。布団の始末をしている間、彼女が楽なように背中を壁に凭せ掛けて座らせていた。だが、目にした彼女は左手を口許に当て、右手は胸を抑えて何かを堪えるように前かがみになっていたのだ。
「気持ち悪いのん? 吐きそう?」
尋ねると、絢女の頭が、ぎりぎり了解できるくらいごく微かに肯定の方角に振れた。たらいか何かを取ってこようとしたギンだったが間に合わなかった。ぐ、う、と苦しげに呻き、絢女は吐き戻してしまった。口許を覆った掌では受け止めきれなかった吐瀉物が指の間から滴って膝に落ち、彼女の寝間着を汚した。
すぐに二度目の嘔吐の発作が来た。ギンは咄嗟に絢女の夜着の袂を袋状に広げて彼女の口許に宛がい、吐瀉物を受け止めた。発作は長く続いた。食欲が落ちていてあまり食べていなかった絢女は二度めの嘔吐で胃の内容物を全て戻してしまい、後は胃液を吐き、胃液さえ底をついてもなお、空嘔吐を繰り返した。その間、ずっと、ギンは右手で夜着の袂を支えたまま、左の掌で彼女の背中をさすっていた。
嘔吐発作がどうにか治まり、絢女はゆっくりと顔を上げた。
「ごめんなさい」
苦しかったのだろう。目尻に涙が溜まっている。荒い呼吸で肩を上下動させながら、真っ先に謝罪する絢女に、ギンは切なげに首を振ってみせた。
「謝らんでええから…」
「…でも、汚い…」
「具合が悪いんや、しゃあない」
「でも…」
「ほんまにええから」
ギンは吐瀉物の溜まった袂を零さぬように用心しつつ、左手だけで絢女の身体の向きを変え、壁を向かせた。
「絢女、緊急事態やよし、堪忍なぁ」
と囁いて腰帯を解き、引き抜くようにして彼女の夜着を剥ぎ取った。
絢女の身体が大きく震えた。両手で胸元を掻き抱き、俯いて羞恥に震える女の背中がギンの眼前にさらされた。白い肌は発熱のせいで薄く赤味が差していて、寝汗でぬらぬらと輝いていた。知らず、ごくりと唾を飲み込んだギンは脳裏を走った邪まな欲望を頭を大きく振って払い除け、寝間着が納められている箪笥の抽斗を開けた。
着替えがなかったらどうしようかとちらと頭を過ったが、杞憂だった。寝間着の数が不足だと見た乱菊が昨日のうちに買い足しておいたらしく、抽斗には真新しい仕立て上がりの湯帷子が三枚ほど納まっていた。
(さすが、乱菊や)
とギンは幼馴染の気働きを称賛せずにいられなかった。一枚を取り出して広げ、ギンに背中を見せたまま震えている絢女に、ぱさりと羽織らせる。
「堪忍や、絢女」
もう一度、囁くと、絢女はふる、とかぶりを振った。
吐瀉物の臭気を発する汚れた寝間着をとりあえず風呂場に運び、ギンは濡らした手拭いと水を張った洗い桶を手に戻った。本当は湯を沸かした方がいいのだが、さすがに余裕がなかったのだ。
壁を向いて俯いたまま、未だ小さく震えている絢女の背後に座り、背中から抱きかかえるようにして、ギンはまず吐瀉物にまみれた彼女の左手を綺麗に拭ってやった。彼の腕の中で絢女が身体を強張らせているのには気がついていた。だが、彼女の身体を浄める方をギンは優先した。洗い桶で手拭いをすすぎ、ギンは三度、
「ほんま堪忍。ちょっとだけ我慢してや」
と囁きながら、彼女の胸元と腹部、首筋までを拭った。びっしょりと汗をかいた身体を拭いてからでないと、新しい夜着をきちんと着せてやれなかったし、先ほど、汚れた夜着を脱がせた時に両手で胸を押さえて隠していたから、胸元にも吐瀉物が付着しているはずだと考えたのだ。指や掌が直に膚に触れないように気を配りながら、丁寧に手拭いを動かして彼女の
「堪忍なぁ」
幾度目か分からなくなってしまった謝罪を繰り返して、彼は絢女の前を整え、帯をしっかりと結び直した。そこまでしてから、彼女が吐いた後、口をゆすいでいないことに思い至った。
「絢女。口ン中、気持ち悪いな? 水、持って来るな」
自力では起き上がれないほどに弱り切っている絢女を抱きかかえて水を飲ませてやると、
「ありがとう…」
絢女の指がきゅっと弱々しくギンの袖を掴んだ。
「ごめんなさい…。吐いて、後始末までさせて…」
「虎徹さんが嘔吐症状が出るかもしれん、言うとったけど、当たってしもたなぁ。まだ、気分悪い?」
「少し…。でも、吐いたらちょっとだけ楽になったから」
ギンは再び、そうっと絢女を布団に横たわらせた。新しい水と経口栄養剤を水差しに満たして彼女の枕元に置く。嘔吐症状がぶり返しても大丈夫なように盥と濡らした手拭いも用意した。思いついて、林檎を剥いてすりおろし、ギンは絢女に持っていった。
「絢女。林檎をすりおろしたんや。食べられるなら食べといた方がええ。今、胃の中、からっぽやもん」
嘔吐症状を発した時、一番つらいのは吐くものがないことだ。それを防ぐ意味でも、何か口にしておいた方がいいとギンは判断したのだ。絢女が頷いたので、匙で掬った林檎を彼女の口許に運んでやった。絢女は横たわったままで顔だけを横向きにして、林檎を咀嚼した。
「甘くておいしい」
彼女は微笑んだ。だが、無理をして笑っていることを、ギンは悟っていた。仕方がなかったとはいえ、結果として無理矢理に服を剥ぎ取った形になってしまったのだ。着物を奪われて肌を見られた上、手拭いごしとはいえ身体を
絢女に林檎を食べさせながら、先ほど感じた強く邪まな想いを、ギンは悔やまずにはいられなかった。絢女の背中を、素肌を目にした瞬間に抑えようもなく湧き上がって来た情欲は、ほんの一瞬であったが理性をなぎ倒す勢いで彼の身体を吹き荒れた。抱きしめたいと、その白い柔肌を思うさまに蹂躙し、貪ってしまいたいと、彼の闇で蠢く獣が猛り狂ったのだ。かろうじて踏みとどまることが出来たのは、皮肉なことに最前まで藍染に抱かれていたという事実があったからだ。
連夜の性交で疲弊しきっていたことは抑止力にはならなかった。自慢になることではないが、ギンは絢女が相手であるなら譬え瀕死の重傷を負っていたとしても抱ける自信がある。彼の理性を留めさせたのは、血塗られ、汚れきった手で触れてしまえば絢女をも穢すことになるという一事に尽きた。復讐を遂げる為、藍染に信頼されその懐深くに入り込む為の手段として自身の身を差し出したことを後悔はしていない。だが、藍染は現世で人間として暮らしていたギンと絢女と彼女の弟を殺害した黒幕なのだ。絢女にとって、憎むべき仇に身を許した男が、彼女を凌辱出来るはずがなかった。
「…ギン?」
「ん?」
「どうしたの?」
病み衰え、高熱でぼんやりと思考が鈍っていても、絢女はギンの変化を見逃さなかった。彼の眸に
「ああ、うん。ちょっとぼんやりしてもうた」
「お仕事…、きついの?」
「まぁ、優秀な三席の穴は大きいからな。ここは副隊長のボクが踏ん張らんと…」
軽口で誤魔化せた。
林檎を食べ終えた絢女の額に掌を押し当てると、燃えるように熱かった。ギンは濡らした手拭いと新しい氷嚢を額に乗せると、
「もうそろそろ、熱も下り坂に向かうはずや。あとちょっとの辛抱や」
と励ました。
「ええ…」
「眠り」
掌で彼女の両眸を覆い、強引に目を瞑らせる。しばらくそのままでいると、絢女はすぐに寝入ってしまった。
「さて、と」
このまま、彼女の傍らにいると、散らしたはずの猥らな欲が甦りそうだった。ギンは立ち上がり、風呂場に向かった。放置したままの汚れた寝間着を洗わねばと思い至ったのだ。風呂場で袂に溜まっていた吐瀉物を綺麗に洗い流し、備え付けの洗濯石鹸をごしごしと泡立てて、湯帷子を洗い清める。よくすすいでからぎゅっと絞り、下屋の物干し竿に広げて干した。
絢女のすぐ傍らに付いて看病するのは理性の問題で無理があったが、嘔吐するほど弱っている彼女を一人にしておくことも出来なかった。思案の末、ギンは一旦副隊長舎に戻り、死覇装に着替えてからもう一度絢女の部屋を訪れた。寝室の隣の居間で、ギンは座布団を枕に横たわった。ここなら襖で隔てられているから絢女の姿は見えない。しかし、異変があればすぐに対処することが出来る。死覇装に着替えたのは、朝、絢女の部屋を出るところを隊寮住まいの隊員たちに見咎められても、出勤前に様子を見に寄ったと言い繕う為である。さすがに藍染は誤魔化されてくれないだろうが、それ以外の者なら納得させる自信があった。藍染については、対策なら他にいくつもある。
畳に直に横たわって、絢女の大事にすっかり飛んでいた疲労感と腰部の鈍痛がじんわりと甦った。その疲労に引き込まれるように、ギンも眠りに落ちて行った。
呻き声が耳に届いて、ギンは浅い眠りから目覚めた。襖の向こう、絢女の寝室から微かに苦しげな声が洩れていた。
「絢女、絢女…」
悪い夢でも見ているのか、びっしょりと汗をかいて魘されている絢女をギンは揺すり起こした。
「…ギン…?」
とろりと蕩けたような琥珀の眸が、茫洋とギンを捉えた。
「ごめん…。魘されとったから起こしてもうた」
「…」
「嫌な夢でも見た?」
絢女は微かに頷いた。
「…ずっと呼んでいるのにいないの…、届かないの…」
「そっか…」
誰が、という主語が抜けているのは熱で朦朧としているせいか。しかし、弟の夢を見たのに違いないと、ギンは推察した。現世の具体的な記憶を失ってしまうという尸魂界の理にも逆らって、彼は絢女を忘れなかった。他の全ては零してしまっても、絢女の記憶だけは抱え続けた。同様に、もし絢女が現世のことで覚えているものがあるとしたら、それは最後まで護ろうとして護りきれなかった弟の記憶に決まっていた。彼女の口からそういった類の話は聞いたことはないが、実際、絢女は弟のことを覚えているとギンは観察の結果、結論付けていた。かなり慎重に行動していたので彼も気付くのが遅れてしまったが、絢女は時折、護廷で何かを探ろうとする動きを見せていた。おそらく、未だ行方の分からない弟の手掛かりを求めているのだろう。
そのことに気が付いて以来、ギンは絢女の行動の痕跡を隠すことと、彼女が藍染を疑わないように仕向けることに腐心した。自ら懐に飛び込んでみたことで、ギンは藍染が強力で容易ならざる相手だということを骨身に沁みて理解した。だからこそ、彼女の行動を藍染に悟られるわけにはいかなかったし、彼女を危険から遠ざける為には藍染こそ黒幕だと気付くことがないように密かに妨害するしかないと思考したのである。無論、絢女の弟は、是が非でもギン自身で見つけ出すと決意をしていた。
「私は子供で…、小さな女の子で…」
絢女は続けた。やっぱり死んだ当時の夢を見たのだ、とギンは思った。
「うん」
「傍にいたの…」
「うん」
「大好きだったのに…、大事だったのに…いないの」
ギンは、
「どんな子やったん?」
と尋ねてみた。ギン自身は絢女の弟について、具体的な記憶を失ってしまっている。だから、手掛かりになればと考えての問いだった。だが、絢女は力なく首を横に振った。
「分からない…。靄に包まれているみたいでぼんやりしてて」
「そう…か」
手掛かりにはならなかったかと、ギンは密かに息を吐いた。
「でも…男の子だったわ」
「うん」
「…私と同じか、少し年上くらいの」
ギンは思わず息を呑んだ。ギンの表情が僅かに強張ったことに気付かないまま、絢女は夢の男の子の話を続けた。
「男の子だって分かった…、ううん、知ってた」
「…」
「私、大好きだったの。ずっと傍にいたかったの」
「…」
「気が付いたら、いなくなってたの。もうどんなに呼んでも届かないの。どこにもいないの」
弟ならば、絢女よりもずいぶん歳下だったはずだ。夢とはいえ、同じか少し年上と認識することはないだろう。
「好きだったのに。大事だったのに」
絢女はうわごとのように繰り返す。
「…絶対に手を離しちゃいけなかったの。それなのに…、私…」
悲しげに眸を揺らす。
これ以上、表情を隠し続ける自信がなかった。堪らずに、ギンは絢女を抱え起こすとそのまま
「ただの夢や」
とギンは囁いた。絢女を宥めるというよりも、自分自身を説得する声音になった。
「埒もない、ただの夢や。その男の子かて夢の住人やよし、絢女が気に病むことはないんや」
「でも…」
「夢や」
夢だと、病が引き起こした悪夢に過ぎないと、ギンはひたすらに重ねた。そんな彼を、絢女がどう捉えたのかは分からない。やがて、弱々しく、
「…ただの夢」
とぽつりと彼女は洩らした。
「夢…」
暗示にかかったように納得したのか、絢女の身体からくたりと力が抜けた。覗き込むと、彼女は糸が切れたように眠りに就いていた。ギンは彼女をそっと布団に寝かせて掛布団をかけ、そして、襖で隔てられた隣の部屋に戻った。
絢女は知らない。
彼女の見た悪夢が、ギンをどれだけ鼓舞したのか。
幾千の闇の夜も、延々と続く血に濡れた茨道も、地獄の業火さえ超えて行ける。絢女を護る為に突き進める。
絢女は知らない。
見失ってしまった、誰とも知れない男の子がすぐ目の前にいることを。
絢女は何も知らない。
*1 申の中刻=午後四時ごろ
子の中刻=午前零時ごろ
子の下刻=午前一時ごろ
辰の下刻=午前九時ごろ
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7周年記念リクエスト小噺 その3
7周年記念フリーリクエストより「熱を出した絢女を看病するギン」。このお題を見た途端、くっついた後の甘やかしモード全開の看病もいいけれど、副隊長−三席時代に設定した方が葛藤とか苦悩とか、藍染さまの妨害とかあってストーリー上美味しいよな、と脊髄反射で考えてしまった私は鬼畜です。
その結果、久しぶりに後ろ向き市丸兄さんご降臨。ついでになりゆきで藍染隊長とのBLシーンが挿入されてしまったのでR18に。あしからずご了承ください。以前にブログでも書いたと思いますが、私はBLメインのストーリーは書けないです。しかし、メインストーリーに効果を添える為のサブエピソードとしてならわりと平然と取り扱いが出来てしまう人なのでさくっと入れてしまいました。
何が書きたかったって、嘔吐して汚れてしまった夜着をギンが剥ぎ取るシーンと林檎を食べさせるシーンだったりします。風邪の時のすりおろし林檎って美味しいですよねー。って、多分、これに頷いて下さる方は昭和な世代だと思う。ついでに桃缶も最早ネタとも言える昭和の風邪の定番のお供です。平成世代だとアイスクリームにグレードアップしていそうな気がするのですが、平成世代のお嬢さま方いかがでしょう?
イメージソングは鬼束ちひろ「茨の海」、時間軸設定は叛乱の五十三年前でお届けしました。リクエスターはリリさまです。ありがとうございました。