拓かれた道


 病の噂は乱菊も耳にしていた。だが、死病だとは知らなかった。尤も、三席の堀田をはじめとした先代隊長の頃からの隊士たちの様子からすると、乱菊が知らなかっただけで、長くは持たないということは十番隊の古株の者たちの間では認識されていたのかもしれない。
 彼が死病だと承知していたとしても、乱菊の立場で今更、見舞いになど行けるわけがない。どのみち、もう何十年も昔に切れた男だ。過去は過去のこととして、気にすることなく教えて欲しかったと考えないでもなかった。だが、おそらく、当時の事情を知る者たちは乱菊を気遣って耳に入れないようにしていたのだろうから、その心には感謝すべきなのだろう。
 冬獅郎は昼過ぎから葬儀に参列する為に出て行った。亡くなった錦部にしきべ春馬はるまは四大貴族に次ぐ高い地位を誇る上級貴族の当主である。しかも、錦部家は毎年、護廷に対して莫大な額の寄附を行っていたから、護廷隊長はよほどの差し迫った事情でもない限り、葬儀へ出向くのは礼儀だ。留守を預かった形の乱菊だったが、冬獅郎が出てからというもの書類は一向に減ろうとしてくれない。意図的にさぼっているわけではないが、どうにも心が乱れて、目の前の仕事に集中出来ないのだ。部下が上げて来た討伐の報告書が、文字ではなく、ただの記号に見えた時、乱菊は自分で自分に匙を投げた。

 錦部春馬は乱菊の初恋の男だ。そして、俗な言い方をするなら、乱菊を女にしたのは彼だった。
 討伐で死神を続けるには致命的な大怪我を負って引退したのは、乱菊と別れてから六年後のことだから、もう八十年以上も前になる。その当時、春馬は七番隊の第三席だった。もしかすると、怪我さえ負わなければ、現在、七番隊副隊長は射場鉄左衛門ではなく、春馬が務めていたかもしれない。あるいは、隊長に就任していたという可能性もある。それだけ、将来を嘱望された男だった。
 引退当時は七番隊に属していた春馬だが、彼はもともと十番隊の隊員だった。乱菊が新人隊士として護廷入隊した当時で、春馬は第九席だった。そして、乱菊と破局した時は、彼は第四席で乱菊は十二席にまで席次を上げ、共に席官の地位にあった。その為、周囲への影響を慮った春馬が異動を願い出て、七番隊に移籍したのである。
「…もう、八十…七年にもなるのね」
 改めて別れてからの年月を数えて、乱菊は吐息をついた。本当に昔々になってしまった。
 彼と乱菊が別れたのは、春馬に縁談が舞い込んだからだ。春馬は中級貴族の三男で、縁談の相手は上級貴族・錦部家の一人娘。つまり、春馬の将来性を見込んだ錦部家が婿養子の話を持ちかけたのだ。当初、春馬は話を断ろうとした。彼は乱菊を愛しており、彼女と結婚するつもりでいたからだ。だが、隊では祝福されていた春馬と乱菊の仲も、彼の実家である渋澤家ではずっと反対されていたらしい。乱菊が流魂街、それも最貧区の出身だったことが理由である。人物以前に出自で、乱菊は渋澤家から厭われていたのだ。そこに降って湧いた上級貴族への入婿の話に、両親兄弟はむろん、一族全てが乗った。中級貴族だった渋澤家にしてみれば、錦部家ははるか高みの地位にある家柄だ。その高貴な一族と縁戚関係を結ぶことが出来れば、渋澤の一族にもたらされる利益は計り知れない。春馬の一存では断れないくらいに、一族の圧力は大きかったのだ。彼は必死に庇おうとしていたが、縁談が持ち込まれてからというもの、乱菊は彼の一族からかなりの嫌がらせを受けた。いくら春馬が目を光らせたところで、家族はともかく一族全員を監視できるわけもない。別れろと、邪魔だと、あからさまに罵られても、乱菊は男に泣き言を零せなかった。そして、春馬も一族を、家族を捨てられなかった。その結果が破局である。
 渋澤春馬は乱菊と袂を分かち、錦部家に女婿に入った。乱菊は捨てられたのである。
 初恋の終焉は乱菊をひどく傷付けた。けれども、春馬を恨んでいたかというと、そうではなかった。彼が乱菊との仲を認めて貰おうと懸命に家族を説得していたことは知っていたし、それこそ断腸の思いで別れを決意したことも理解出来ていた。結局、身分違いだったのだと、別れよりも先に、乱菊の心の方が折れてしまった。仲を裂いた形の彼の家族や一族、錦部家には恨めしさを感じていたが、春馬本人に対しては諦念が先立っていた。
 春馬が乱菊と別れて錦部との婚姻を選んだ時、絢女やギンは彼に対して随分と腹を立てていたようである。だが、乱菊の親しい友人の中では唯一人、上級貴族の地位にあった逆瀬川顕子だけは、今はつらいかもしれないけれどこれで良かったのではないか、という意見を述べていた。自身が上級貴族の姫君である顕子には、当時の乱菊やギンや絢女には見えていなかった貴族のしがらみの重さや流魂街出身者への根強い偏見がはっきりと見えていたのだろう。もし、春馬が我を通し、乱菊と結婚していたとしたら、
「乱菊さんは乱菊さんの良さを失って萎れてしまったことと思います」
というのが顕子の考えだった。
 そう。今なら、乱菊も分かる。顕子の主張は的を射ていたことを。どんなに愛し合っていたとしても、そうして、あの縁談がなかったとしても、春馬と乱菊の仲はいずれ終わりを迎える運命にあったのだ。それほどに、流魂街出身者と貴族との身分の隔たりは重かった。だが、まだ若く、思考も経験も幼かった乱菊にはそれが呑み込めなかった。だから、ひたすら傷付いた。ただ、ただ、悲しかった。

 定時になっても冬獅郎は戻らなかった。もちろん、それは想定内のことである。上級貴族ともなれば、葬儀は壮麗で大掛かりに営まれる。数時間で終わる一般庶民の葬儀とはわけが違うのだ。
 書類に急ぎのものはなかった。それをいいことに、乱菊は執務を切り上げることにした。どう頑張っても身が入らない以上、足掻いても無駄だと悟ったのだ。隊舎を引き上げようとした直前、八番隊からの地獄蝶が飛んできた。珍しくも七緒からの呑みの誘いである。彼女も春馬との過去を知る一人であったから、乱菊を気遣ってのことなのだろう。冬獅郎はむろんのこと、ギンも絢女も隊長職にある以上、錦部家の葬儀に参列しており乱菊の傍にいてやれない。それを了解した上で、乱菊を一人にさせまいと、七緒は乱菊を誘って来たのだ。気持ちはとても嬉しかったが、今日ばかりは酔えそうになかった。だから、丁寧に断りを入れた上で、乱菊は一人、隊寮に戻った。
 本来であれば、副隊長舎に帰るべきだとは弁えていた。冬獅郎と乱菊が隊長とその副官という公の関係に加えて、恋人という私的な関係を結んでから六年を越した。乱菊の生活の場はすっかり隊長舎に比重を移してしまっていた。仕事を終えたら冬獅郎と共に隊長舎に戻り、夕餉をともにする。抱き合って情を交わす宵は無論のこと、本当にただやすむだけの夜でさえ、隣り合った布団で枕を並べて眠る。副隊長舎は実質的に衣装置場になってしまったが、それでも、完全に機能を失ったわけではない。隊長舎も、副隊長舎も、私邸ではなく十番隊として所有している寮なのだ。そこには自ずと則があり、乱菊は主たる隊首が不在の夜は副隊長舎に戻るのを常としていた。例えば、冬獅郎が出張に出ている晩や、非番で流魂街の祖母の家に帰っているような夜だ。今日は、冬獅郎はいつ帰って来るのか分からない。彼からは、遅くなる可能性が高いので、気にせずに先に寝んでおくように伝えられていた。ならば、言われた通りに先に寝てしまうにせよ、帰りを待つにせよ、副隊長舎にいるべきだ。
 それが分かっていたのに、乱菊は隊長舎に入ってしまった。
 一人で副隊長舎にいたくなかった。主が不在であっても、隊長舎には冬獅郎の匂いが、霊圧が色濃く残っている。だからこそ、冬獅郎を感じられる隊長舎にいたかった。
「おじゃまします」
 冬獅郎と一緒なら「ただいま」と帰る隊長舎に他人行儀な言葉を呟いて上り込む。冬獅郎の書斎に入り、文机の前に座ると、乱菊は傍らに用意してある彼の着替えを引き寄せて手に取った。着物は洗濯済みのものだった。しかし、長年使用して馴染んでいるものだったせいか、外に干して乾かした洗濯物特有の日向の匂いに混じって、仄かに彼の香りがした。着物に顔を埋め、乱菊は冬獅郎の匂いを吸い込んだ。
 愛しい男、大切な男、今の乱菊には唯一人の男。
 今更、昔の男に未練などないけれど、亡くなったと聞いて平然と出来るほど、乱菊は冷めた女ではなかった。
 縋るかの如くに今の男の着物を抱きしめたまま、乱菊は遠い昔に想いを馳せた。

 乱菊と錦部春馬    当時は渋澤春馬との交際期間はおよそ六年半だった。乱菊が冬獅郎と結ばれてからの年月が、丁度、同じ長さだ。春馬とはずいぶん長く交際していたような気がするが、そう考えるとさしたる長さではなかったのかもしれない。
 最初はままごとのような清らかなお付き合いから始まって、初めて春馬に抱かれたのは四年目の晩秋だった。乱菊は現世の人間換算の外見年齢からすると、十六、七歳の小娘だった。春馬の方は二十歳すぎ。二十二、三くらいの見かけだったろうか。
 霊力があり成長出来る魂魄であっても、現世に比べて何倍もゆっくりと成長する上、滅多なことでは子を孕むことのない尸魂界では、外見年齢十六、七歳で異性と性的関係を結ぶというのは決して早いとはいえない。家柄の良い上級貴族の子女ほど、厳格なモラルに縛られて初体験が遅い傾向があるが、中級以下の貴族や流魂街出身者ならば、外見年齢十五歳前後で男を知ったという娘はかなりの数に上るだろう。そういう性事情があるから、春馬も交際期間が一年を過ぎたくらいから、もっと先の関係に進みたいという意向を見せていた。にもかかわらず、四年もかかったのは、乱菊が躊躇った、というよりも性的関係に怯えていたのが理由である。
 現世で死んだ乱菊が最初に流された場所は、無法地帯とも呼べる最貧区だった。食料が乏しくて荒廃した貧困地域では力の弱い者を守る為の法律や道徳は届かない。弱い者は暴力でもって踏みにじられるのが、無法地帯の理である。幸い、乱菊には強い霊力があり、しかも最貧区に流されて早々に市丸ギンという稀有な霊力を持つ少年と巡り合えた。それ故、他の非力な少女たちと異なり、暴力に対して霊力で対抗することで身を守ることが出来た。だが、霊力は完全でも無限でもなかった。数を恃んだ暴力には対抗しきれないこともままあった。しかも、乱菊は金髪という尸魂界にあってはかなり目を惹く髪色で、それでなくとも目立つというのに、容貌がまた整っていたものだから、獣のような者たちの標的にされることはとても多かった。
 理性も道徳もない下卑た男に力づくで押え込まれ、身体を弄られることを、乱菊は最貧区で何度も体験した。それは幼い少女に血も凍るような恐怖と忌まわしさを刻み込み、性への嫌悪を植え付けた。それ故、春馬に求められ、彼ならばいいと納得の上で泊まったはずの宿で、いざ事に及ぼうとした時、乱菊は怯えきって錯乱し、春馬を拒絶してしまったのだ。がたがたと震えて、恋人である男から逃げようとする乱菊に、彼は呆然としたことだろう。乱菊が我に返った時、最初に目にしたのは、困惑と傷心がないまぜになった顔でぼんやりと彼女を見つめる恋人の姿だった。
 実をいうと、その時、乱菊は一度別れを覚悟していた。錯乱して恋人を拒否するような厄介な女は捨てられて当然だと思ったからだ。それに、いくら最貧区出身と承知の上で付き合っていたとはいえ、実際に彼女があの無法の地で体験してきたことを知れば、良家の子息である春馬は引くだろうとも考えた。無理だと、別れようと切り出されるのを覚悟の上で、最貧区での経験を語り、春馬に触れられた途端、その時の記憶が甦って恐ろしかったのだと告白した乱菊だった。だが、春馬は彼女を許してくれた。
 思い出を紐解いて、改めて、乱菊は知った。
 当時の春馬がどれほどに彼女を愛し、慈しんでくれたのかを。
 肌を合わせることで愛を確かめられない女を、春馬は見捨てなかった。気長に、辛抱強く恐怖を和らげてくれた。彼は丹念に時間をかけて、乱菊を呪縛から解き放ったのだ。冬獅郎と結ばれた時、恐怖を感じることもなく、混乱して拒絶することもなくして男を受け入れられたのは、性への嫌悪という呪いを春馬によって解かれ、悦びを教え込まれていたからだ。
 乱菊は耳が弱く、冬獅郎に甘い声音で囁かれるとついつい流されてしまうのだが、実は耳への愛撫に対する弱さは春馬に開発された面がなきにしもあらずだ。抱きしめて、服の上から愛撫するだけで身体を強張らせて怯える乱菊に、春馬はいつも優しく囁いて安心させようとしたからだ。
「綺麗だよ、乱菊」
「可愛い」
「怖がらないで、乱菊が嫌だと思うことはしないから」
 柔らかくて艶のある低音で、吐息を吹き込むように囁かれると、乱菊はいつもぞくりとした震えを覚えた。身体の芯に何だかよくわからないジンとした疼きを感じることもあった。あの頃はおさなくてその疼きの正体に思い至らなかったけれど、要は感じていたのだろう。
(春馬さんの声…、好きだったな)
 冬獅郎の声も負けず劣らず好きである。だが、春馬の声もしっとりと優しくて、男の色香の漂う良い声だったと、乱菊は少しうっとりとした。
「乱菊、好きだよ」
「愛してる」
「可愛いね、乱菊は…」
 流し込まれたのは蠱惑的な薬。彼の声は漢方薬のようにじわじわと乱菊の身体に染みて、彼女の強張りをほどいていった。いつしか、抱きしめられても、硬直しなくなった。身体に触れられても、身を捩って逃れようとはしなくなった。初めて着衣の上からではなく、入り込んできた掌で直接肌を撫で上げられた時にも、最初こそ怖ろしさに震えてしまったが、すぐに心地よさを感じるようになった。あくまでも優しく、柔らかく、壊れやすい硝子細工に触れるように、春馬は繊細に乱菊を愛撫した。
 辛抱強い男だった。優しくて、労りのある男だった。
 触れ合うこと    現世でいうところのペッティングまでは平気というよりも、気持ちよさを感じるようになったのに、彼とひとつに繋がるまでは更に時間を要した。促されて、勃起した性器に触れたことがあったのだが、その大きさと太さに乱菊は完全に怯えてしまったのだ。暴行を受けた際に幾度か目にしたことがある棍棒のようにいきり立ったいちもつを嫌でも想起してしまい、怖ろしさと嫌悪感を抱いた。恋人のものを嫌悪するなんて、と乱菊は申し訳なさでいたたまれなかったが、その反応は彼には予想の内だったようだ。
「いきなりで錯乱されても困るからね」
と頭を撫でてくれた春馬を、乱菊は思い返した。
 この時に、乱菊は男に対して手淫を施す方法を教えられた。推測になるが、手淫を繰り返すことによって、彼女に男の性器に慣れさせると同時に、挿入できない不満を解消させていたのかもしれない。
 因みに、春馬は乱菊に口淫は教えなかった。性への嫌悪を乗り越えられない彼女に口淫は敷居が高すぎるとの彼の思いやりだろう。従って、口淫は冬獅郎が初めてである。乞われてのことではなく、彼を少しでも心地よくさせたくて、自分から願って施した。冬獅郎は乱菊に口ですることを強要することはむろん、打診することさえそれまでなかったので、知識はあっても実践する勇気を得るまで六年近くかかってしまった。

 今になって思い至ったのだが、彼とひとつに繋がることに時間がかかったのは、もちろん嫌悪と恐怖が第一の要因だったが、もうひとつ、乱菊の心に巣食っていた疑惑も足を竦ませた理由だったようだ。
 その疑惑というのは、自分は処女ではないかもしれないという怖れだった。
 最貧区で、身体を舐めまわすように探られたことは何度もあった。一対一、或いは一対二くらいなら確実に逃れられても、数を恃んで襲われると躱しきれなかったからだ。それでも、ギンに教わった通り、ぎりぎりまで嬲られるのに耐えて相手が油断したところで霊力を爆発させれば、どうにか逃げ出せることがほとんどだった。しかし、相手の数と体の頑健さによっては、彼女ひとりではどうにもならないことは一度や二度のことではなく、かろうじてギンに救われたということも何度もあったのだ。
 乱菊が記憶している限りでは、男のいちもつを挿入されるまでに至ったことはない。二度ほど女性器に触られたことがあったが、それが彼女が覚えている最大の屈辱体験である。だが、意識を失っている間のことは分からなかった。
 男に押さえつけられ、殴る蹴るの暴行を受けた揚句に気を失ってしまったことが、少なくとも四度はあったのだ。意識を取り戻した時にはねぐらにしていたあばら屋や洞窟などに寝かされていて、ギンが心配そうな顔で傍にいた。失神していた間に起こったことを尋ねる乱菊に対して、ギンはいつも、
「間に合うたよ」
と答えた。
「身体はずいぶん撫でまわされてしもたけど、ぎりぎりで間に合うた。穢されてへん。乱菊は綺麗なまんまや」
 ギンのその言葉を、乱菊は額面通りに捉えることが出来なかった。ただ一度のことなら信じられたかもしれない。けれども、四度も上手いこと間に合ったということがあるだろうか。ギンは乱菊を傷付けまいと嘘をついているのではないか。どんなに問い質しても、彼は同じ言葉を繰り返すばかりで、乱菊はそれが真実なのか、優しい嘘なのか判断が出来なかった。
 ギンの言葉を信じるなら、乱菊は処女のはずだ。けれども、違うかもしれない。本当は獣じみた見知らぬ下卑た男に犯されてしまったのかもしれない。
 付き合っていた当時の乱菊の外見年齢ならば、処女でないことは珍しくなかった。春馬も別にそこに拘りを持っていたわけではない。だが、好きな男と合意の上で事に及んで処女を喪失したのと、強姦されて無理矢理に散らされたのとでは意味も重みも異なる。もし、処女でなかったとしたら、乱菊は穢された女だということになる。獣に犯された汚らわしい女は、春馬に相応しくない。彼の家族もきっと許さないだろう。彼と繋がることで処女でないことが明るみになるのではないかと無意識のうちに懼れ、それが彼女と春馬が結ばれることを阻む壁になった面は否めなかった。
 冬獅郎に言わせると、乱菊の性格が「豪放磊落」などというのはまるで彼女のことを分かっていない証拠だということらしい。確かに彼女はものに拘らない太っ腹な面があり、それが「豪放磊落」という評価に繋がっているわけだが、その拘りのなさや太っ腹さは常に他者に向いたものだ。ことが自分の瑕疵についてであると、
「他の誰も気にしないようなどうでもいいことまで、おまえはうじうじと気に病むからな。本当に豪放磊落な女がそういうことに拘るわけがねぇだろう」
と冬獅郎は語っていた。
 だから、無意識下で処女でないかもしれないと懼れていたのは、実は冬獅郎がいうところの乱菊の悪癖が発揮された結果の無駄な心配だったと言える。何故なら、乱菊の過去を聞かされた時に、春馬は最悪の事態を想定していたはずだからだ。その上で、彼は彼女を許容し、呪縛から解放する為に腐心していたのだ。彼の家族にしたところで、正直に乱菊の過去を打ち明ける義務はない。もし仮に彼の家族が乱菊の処女性に固執したとしても、春馬が処女だったと主張すればそれを覆す証拠などありはしないのである。それを信じるか信じないかは彼の家族の問題だ。
 つまらない陰口や噂で自分は冬獅郎に相応しくないのではないかと落ち込んだ時、冬獅郎はよく、
「俺を見くびるな」
と乱菊を諭したが、だとすると、少女だった乱菊は春馬を見くびっていたことになるのかもしれない。処女でなければ春馬を失望させると、勝手に決め込んでいた。

 春馬の忍耐力の持久戦は、紅葉の美しい流魂街の宿でゴールを迎えた。
 共に非番が取れた晩秋に、泊りがけで紅葉狩りに行こうと春馬に誘われて、乱菊は頷いた。
 泊りがけ、という彼の言葉に含まれる意味は乱菊も重々に承知していた。彼は充分すぎるほどに時間をかけて、乱菊を癒していったのだ。もうそろそろ受け入れてくれてもいいだろう、と言いたかったに違いない。同時に乱菊自身も気持ちは昂っていた。過去を乗り越えて、彼と愛し合いたいと切に望んでいた。
 深い深い椛の赤、燃えたつような七竈の紅葉に酔いしれた後、春馬が手配した瀟洒な旅館に案内された。夕餉の膳に口当たりの良い酒が用意されたのも、乱菊の箍を少しでも緩めておきたいと願う彼の気持ちの表れだったろう。
 風呂に入って、宿の浴衣を纏った乱菊は緊張で倒れそうな心を押さえて部屋に戻った。今晩こそはという想いがあった。これ以上、春馬を待たせたくないという気持ちが、性への嫌悪と自分自身に対する疑惑から来る不安を凌駕した日だった。
 布団に押し倒された乱菊は、ぎゅっと目を瞑り、春馬に身を任せた。絶対に抵抗しないと心に決めていた。
 そして春馬は、丹念に、丹念に、乱菊に愛撫を施して、彼女の緊張をほぐしていった。胸を優しく揉まれ、捏ねられ、腰や太腿を撫で上げられ、その心地よさと身体の奥深いところからせり上がってくるぞくぞくとした疼きを、乱菊は持て余した。疼きを怖いと感じたが、それは未知の領域に踏み込むことへの恐ろしさで、最早嫌悪はなかった。淡い黄金の繁りを割って、初めて女性器に触れられた時、途端に身体は強張ってしまったが、嫌だとは思わなかった。
「乱菊…、続けてもいいかい?」
 眉尻を下げて、気遣わしげに尋ねてきた男に、乱菊はこくりと頷いて返した。
「続けて…。あたし、本当に春馬さんのものになりたい」
 ひたむきな乱菊に優しく口接けを落とし、春馬は谷間の入口に隠されていた豆粒のような瑪瑙玉をそっと摘み上げた。そこに触れられるとたいていの女が感じてしまう小さな宝玉をゆっくりと優しく擦られた途端、乱菊は、
「ひゃ…あぁぁん…」
と自分自身でも吃驚してしまうような甘く萌しきった吐息混じりの嬌声を吹き零してしまった。それが恥ずかしくて必死に唇を噛みしめていると、
「可愛いよ、乱菊」
と甘い声音で囁かれた。
「声、もっと聞かせて」
 彼の指がつぷっと音をたてて、乱菊の火陰ほとに埋まった。内側から壁を指で撫で上げられ、乱菊は初めて知覚したその感触に総身をぞわぞわと震わせた。指が二本に増えた時には痛みを感じたが、乱菊は我慢した。それに、彼から内壁を擦られる度に深いところからせり上がってくるものがあって、痛みだけを覚えたわけではなかった。指を早い動きで抜き差しされ、火陰と瑪瑙玉にこれまで知らなかった刺激を与えられ続けているうちに、内部からぶわっと熱い塊りが押し寄せてきた。
「え? なに…? や、いや、こわい…!」
 思わず悲鳴を上げた時には、もうその熱い塊りに呑まれてしまっていた。カーッと頭が痺れ、乱菊の身体は知らず、びくびくとのたうっていた。意識が瞬間的に途切れ、浮遊感に見舞われた。
 僅かに理性が戻った時に、春馬からイッたのだと教えられた。そうして、生まれて初めての絶頂から冷めやらぬうちに、彼の剛直が乱菊の谷間に押し当てられた。
 ゆっくりと入り込んでくる男の分身は指などとは比べ物にならない太さと質量で、乱菊は思わず大声を上げそうになり、咄嗟に掛布団の端を噛みしめた。
 痛かった。凄まじいまでの痛み方だった。
 乱菊も席次を持つ死神だ。討伐で深手を負うことは数えきれないくらいあった。しかし、男を受け入れることに伴う苦痛は怪我とは全く異なる、今までに体験したことがない種類のものだった。身体を内側から引き裂かれるような心地がした。やがて、千切れるような一際鋭い痛みを伴って、乱菊の内部で何かがブツッと切れた。だが、それを知覚した時、彼女は歓喜した。その千切れた感覚こそ、破瓜はかだと本能が悟ったのだ。ギンの言葉は嘘ではなかった。乱菊は男たちから理不尽な暴力を受けて来たけれども、最後の砦だけは陥落せずに守り通せていたのだ。破瓜の痛みは想像以上のもので、実際のところ、初めての交わりは苦痛しか覚えていない。けれども、乱菊は嬉しかった。やっと彼と繋がれたことはもちろんだが、それ以上に、自分が穢されてはおらず、春馬を失望させなくて済んだことが嬉しくてたまらなかった。
 破瓜は出血を伴う。失神してしまったので、春馬から聞いた話になるのだが、乱菊は処女喪失の際、大量出血したらしい。春馬は乱菊よりずっと年長で、彼女より以前にも付き合った女性はいた。従って、乱菊と異なり性交の経験はそれなりにあったし、処女を相手にしたのも乱菊が初めてという訳ではなかった。だが、乱菊ほど出血した娘はおらず、なかなか止まらない血に春馬は青褪めながら、手当てを施したのだそうだ。

 一度受け入れてしまえば、もともと愛し合っていた二人だ。仲が深まるのは当然だろう。
 前戯で軽く達したとはいえ、最初の挿入は苦痛だけに終わった乱菊だったが、二度目で快楽と本格的な絶頂を体験した。最初の数回は男のものを受け入れる度に痛みと異物感が快感の邪魔をしたが、いつの間にかそれすらもなくなり、ただ悦楽と幸福に溺れるようになった。
 それから二年後に春馬に縁談が持ち上がり、乱菊との関係は暗転してしまった。彼が苦渋の決断で乱菊と別れ、錦部家に婿養子に入るまでの数ヶ月間は針の莚に置かれたような哀しみと苦しみに彩られていたけれども、その前の二年の間は、乱菊は本当に幸せだったのだ。
(でも…)
 もう思い出せなくなってしまった。
 あの頃の春馬がどんなに乱菊を慈しんでくれたか、彼の腕に抱きしめられてどれほど幸せだったか。それははっきりと覚えているのに、接吻キスも、愛撫も、乱菊を貫いた牡の猛りも、まるで思い出せなくなった。それらの記憶は全て冬獅郎に塗り変わり、どんなに記憶を探ろうと冬獅郎が混じり込む。唯一、混じり気なしで思い起こせるのは、甘く囁かれた低音の声だけだ。
 だが、それで正しいのだろう。
 かつてどんなに愛していたとしても、春馬はもう終わってしまった過去の男だ。乱菊とは添えない宿命にあった男を覚えていたって惨めなだけだし、あの頃の彼以上に乱菊を愛してくれていると信じられる今の男    冬獅郎に対しても失礼だろう。
 もし、あの時、春馬が縁談を断っていたら。
 或いは、婿養子の話自体がなかったら。
 乱菊と春馬は婚姻に至っていたかもしれない。けれど、結婚に漕ぎ着けたとしても、きっと長くは続かなかっただろう。仮に破綻せずに婚姻を継続していたとしても、幸福とは遠かったに違いない。何故なら、春馬の家族と親戚たちは最貧区出身の乱菊を決して受け入れられないからだ。
 春馬が最貧区出の乱菊に拘りを持たなかったのは、彼が死神だったという側面に因る。
 護廷は数の面で言うと男社会・貴族社会なのだが、反面、昇進に付いてはかなり実力主義なところがある。虚討伐という命を張った戦いを主業務とする以上、戦闘力が低い者は足手纏いになる。力のない者が上長に就けば、最悪、率いる部隊の全滅にもつながりかねない。それ故、霊力が凡庸なばかりに何十年、何百年と平隊士の地位に甘んじる者が多数いる反面、霊力が強ければ入隊後五十年足らずで上位席官の地位まで駆け上がれるのだ。実際、乱菊は三十年で三席まで昇進したし、ギンに至っては三席就任までわずか二十三年である。これが副隊長となると隊長との関係性を筆頭に、実力以外の比重が大きくなるのでそう簡単には昇進に至らないのだが、少なくとも上位席官までは霊力と戦闘センスがあればどんどん昇進していける。事実、現在の護廷の三席から五席までの席官に上位席官に就任するまでに半世紀を要した者はいない。そして、上位席官以上に限るなら、流魂街出身、ことに治安の悪い貧民区出身者の比率は跳ね上がるのだ。同じ実力であれば貴族が圧倒的に優遇される護廷にあって、流魂街出身者が入隊を果たすには並みの貴族以上の高い霊力が要求される。まして、貧民区出身の者は無法地帯の生存競争に勝ち抜いて這い上がって来ただけの実力の持ち主である。昇進が早いのは理の当然というものだ。
 時に命を預けることとなる上官に流魂街出身者が数多く存在する環境にあっては、貴族出身の死神の偏見や差別意識は急速に薄まる。もともと公平なタイプの者は早々に偏見から脱却するし、強い偏見を持つ貴族であっても差別意識を表面に現さないことくらいは学習するのである。春馬は明朗快活で公正な青年だったから、死神になって早々に差別意識を捨てた。だが、身近に流魂街出身者のいない一般貴族は幼い頃から培われた根強い偏見をそう簡単には改められないのだ。だからこそ、春馬の両親も、兄弟も頑なに最貧区出身の乱菊を拒み続けた。
 春馬と結婚していたら、受け入れられよう、気に入られようと、乱菊は己を殺して彼の家族に接していただろう。逆瀬川顕子が述べたように、乱菊が自分を偽ることに疲れ切って疲弊してしまうのは想像に難くない。また、そんな乱菊を護る為に春馬が家族と決別したらしたで、自分のせいで縁切りさせたと乱菊は悩み、彼に対して深い罪悪感を抱くはずだ。どちらにせよ、そんな結婚生活を幸せとは呼べない。二人が添えなかったのは必然だったのだ。

 春馬はもしかしたら、乱菊の為に道を拓いてくれたのかもしれない。
 真実、運命の相手と寄り添えるように、乱菊の性への怖れを拭い去り、愛の歓びを教えて、そうして、役目を終えて去って行った。
 乱菊にはそんなふうに思えた。
「春馬さん、ありがとう…」
 別れ際には悲しくて、苦しくて、どうしても言えなかった。けれども、本当は一番言わなければならない言葉だった。
「ありがとう」
 もう一度、乱菊は呟くとそっと目を伏せた。彼の魂が安らかであることを、乱菊は祈った。

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 7周年記念リクエスト小噺 その6

 リクエスターはこう多朗さまで、「乱菊さんの初めてのお話」。
 1周年記念の「Look No Further」を初出として、何度か「初恋の男」と言及していたのが気になられたようです。「Look No Further」は冬獅郎目線の話たっだので、同じテーマを乱菊視点で書いてみました。
 けっこうテーマが重たいせいか、しっかり性描写が入っているにもかかわらず、艶っぽさや官能性が微塵もなく、全体に理屈っぽい話になってしまいました。こんなんで良かったんでしょうか?

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2015.10.12