貴方を愛しているのに


 古代ギリシャにミダースという名の王がいました。彼は半神半獣の牧神パーンをたいそう崇拝しておりました。
 ある時のことです。パーンは太陽神アポローンと音楽の腕前を競うことになったのです。まず、パーンが葦笛を奏でました。その調べは素朴でありながら深い味わいがあり、聞く者をたいそう感動させるものでした。続いて、アポローンが竪琴をかき鳴らしました。その音色の美しさ、荘厳さは人ならぬ森の動物も、木石さえもが聴き入らずにはいられないほどのものでした。審判を務めた山の神はアポローンを勝者と判定しました。無論、両者の演奏を聴いていた全ての者がこの判定に賛同したのです。しかし、唯一人、ミダース王だけが不服を唱えたのでした。
 アポローンは不満を述べるミダース王の言葉に立腹し、
「このような不埒で役に立たない耳は驢馬の耳に変じてしまえ」
と呪いをかけました。
 こうして、ミダース王の耳は驢馬の耳に変わってしまったのです。
 王は自らの姿を恥じ、頭巾を被って驢馬の耳を隠していました。けれども、やがて髪が伸びて来ると、理髪師の召使に髪を切らせなければなりません。そうして、髪を切る時には頭巾を取らなくてはならないのです。ミダース王は理髪師の召使に秘密を守ることを厳命し、脅しつけた上で頭巾を取り、髪を整えさせたのでした。
 厳罰を恐れた理髪師は長い間、誰にもこのことを告げず、秘密を守っていました。しかし、とうとう自分一人の胸に秘密を納めていることに耐えられなくなってしまいました。とはいえ、もし、誰かに秘密を語れば、その者に自分と同じ苦しみを与えることになります。また、万が一、王に知られてしまったら、秘密を打ち明けた相手まで処罰されることになりかねません。けれども、理髪師は誰かに話さずにはいられなくなっていたのです。思案の果てに、彼は町はずれの葦野原に赴き、穴を掘り、その穴に向かって、
「王様の耳は驢馬の耳」
と思う存分、秘密を吐き出しました。秘密を囁いた穴は埋め戻してしまいました。そうやって、彼は秘密を言わずにいられなくなる度に、葦原に赴いては、
「王様の耳は驢馬の耳」
と繰り返したのでした。
 季節が移ろい、夏が訪れると葦はぐんぐん成長します。草丈高く成長した葦原に風が吹き渡ると、そよそよと風に靡いた葦は葉擦れの音を響かせます。ところが、理髪師が誰にも言えない秘密をこっそりと囁いた葦原では不思議なことが起こっていました。葦の葉擦れの音が、
「王様の耳は驢馬の耳」
と囁いているように聞こえるのです。風が吹くたびに、葦原は、
「王様の耳は驢馬の耳」
「王様の耳は驢馬の耳」
と一斉に囁き交わします。こうして、葦の葉擦れによって、ミダース王の秘密は民に知られてしまったのでした。

 御坂市場で夕餉の買い物を終え、絢女は隊寮に向かって夕暮れの通りを歩んでいた。西空は茜に染まり始め、反対側の東の方角は早くも薄闇に煙っている。護廷十三隊の日勤定時の勤務時間が終わって間もなくの時刻だ。無論、死神ではない瀞霊廷に住み暮らす一般の人々にとっても、不特定多数を相手にする飲食店や小売店といった商売を生業なりわいとしていない限り、やはり一日の仕事を終える時間帯である。めいめいの家に帰宅する者、繁華街に食事や飲みに出る者などが行き交っていて、人通りは多かった。
 特段急ぐでもなく、隊寮への道を進んでいた絢女だった。しかし、不意に足を止めると霊圧を完全に閉ざし、それからおもむろに踵を返すと細い小路へ逸れた。
 進行方向の随分と離れたところに、見慣れた男の姿を認めたからだ。おそらく、相手は絢女に気が付いていないだろう。本当にかなりの距離があったのだ。彼はひときわ長身で、通りを歩いていると周りの人間よりも頭一つ分くらい飛び抜けている。護廷の死神は職業柄だろうか、一般人に比べると体格が良く平均身長もやや高めであるのだが、そんな死神の中であってさえ、彼はかなり長身の部類だ。おまけに、黒髪が圧倒的多数派の瀞霊廷にあって、珍しい銀色の髪をしている。髪の色素を失った白髪とも、稀に見かける薄墨のような灰鼠色の髪とも異なる、独特の輝きを放つ銀髪は少なくとも瀞霊廷内では彼しか持たないものだ。刻々と闇の気配を纏う黄昏時にあっても、彼の明るく輝く髪はひときわ目立っていて、だから遠目にもすぐに視界に飛び込んで来た。
 彼は絢女とは霊術院からの同期で、護廷でも同じ五番隊に属している。しかも、彼が副隊長なのに対して絢女は三席。公には直属の上司部下の間柄にあり、私的にも同期の友人である彼とは近しい関係だった。にもかかわらず、彼を認めるや否や、避けるように脇道に逸れてしまったのは男が絢女の知らない女を連れていたからだ。
 あまり褒められた話ではないのだが、彼の女性関係は奔放だった。遊廓街に赴いて女郎を買うことは当たり前のように行っていたし、素人の女もとっかえひっかえしていることは周知だった。どうやら、相手はきっちり選んでいるらしく修羅場になったという話だけはついぞ聞かないが、わずかひと月の間に異なる複数の女の名が噂に上ることなどしょっちゅうだ。間違いなく今日の女性もその類で、だからこそ顔を合わせるのが気まずくて、絢女は道を変えることでやり過ごしたのだ。
 細い裏小路を回り道して、かなり先で表通りに戻った。霊圧を閉ざしたまま振り返ると、絢女に気付くことのなかった男の遠ざかって行く背中が見えた。
 小さな棘が刺さったように、気持ちのどこかがずきずきと疼いている。絢女は知らず、重たい溜息を落とした。
 彼とは恋人でも何でもない。部下で友人というだけだ。だから、絢女は女性関係に口出しを出来る立場ではなかった。彼の奔放さは責任ある地位に就いている者として、いくら何でも度を越しているのではと感じる時があった。そういう場合には、近い位置にいる部下として、あるいは友人として意見したことはある。しかし、それ以上に踏み込んで干渉する権利はないことは弁えていた。彼が色里で何人の遊女と関係を持とうと、女と遊び半分で付き合おうと、それは彼の勝手である。妻でも恋人でもない絢女には文句を付ける筋合いなど一つもない。

 ないけれど    

 何重にも鍵をかけて、奥底に沈めたはずの心が痛みだす。
 何の権利もないくせに、嫉妬がどろどろと胸を焼く。

 霊術院で出会った時から、絢女は彼が好きだった。
 絢女に好意を抱く男は、これまでに何人も現れた。中には、彼よりもずっと誠実で本当に絢女を大切にしてくれそうな男だって、ずいぶんといたのだ。けれども、どれだけ真摯に想いを告げられても、親しい友人たちが口を揃えて、
「あんないい男を振るなんてもったいない。試しにでもいいから付き合ってみれば」
と勧めるような相手であっても、絢女の心は少しも揺らがなかった。彼以外には目に入らない呪法でもかけられているのではないかと疑うほどに、絢女の気持ちは脇目もふらずにかの男だけに向いていた。
 正直に自分の気持ちを吐露すれば、彼と絢女の関係は違っていたかもしれない。何故なら、彼も絢女に対して、特別な想いを抱いていたからだ。最初にそれを感じた時には、自意識過剰ではないかと自分で否定した。けれども、他所目にはどうということのない、飄々とした彼の言動に滲む色は年を重ねるごとに鋭さと切なさを増して、絢女に突き刺さり、ついには自惚れだとか、勘違いだとかと否定することが出来なくなってしまった。
 もし、絢女が彼に好きだと告げれば…。
 女遊びをすっぱりと止め浮気もしないはず、と言い切れるまでに想われている自信はなかった。だが、今ほどの女出入りはなくなるだろうとは予測出来た。彼の女性遍歴のいくつかは、絢女に対する当てつけではないかと感じさせるものがあったからだ。
 彼は絢女を特別に想っている。そして、絢女も彼を愛している。
 普通ならすんなりと結ばれるはずの二人が平行線を辿っているのは、絢女の側に責任があることである。何故なら、彼女は男としての彼を拒絶していたからだ。いや、根本的に他の男は目に入っていなかったということは置いて、絢女は彼に限らず色恋自体を遠ざけていた。ただ、流魂街に匿っている弟を護るという、自らに誓った使命の故に。
 どんなに好きでも、想いを彼に告げられない。熱を孕んだ視線を彼から向けられても、気づかないふりをしてやり過ごす。そうやって、男の想いを拒み、踏みにじっておきながら、嫉妬するなどお門違いもいいところだ。

 日付の変わった深夜。
 絢女はひっそりと隊寮を抜け出した。
 日勤の者は無論、早番の夜勤の者も帰宅し寝静まっている時間。無論、遅番の夜勤の者はとっくに隊舎に出勤してしまっている。
 眠りの中にいる隊寮を後にして、絢女が向かったのは霊王廟だった。死神の本拠のある瀞霊廷の中心部は住み暮らす人も多く、開けているために年を経た古木は少ない。ただ、霊王を祀った廟の境内は神域であるせいか、奥の林には古木が多く残っていた。
 その中のなぎの巨木の根元に、絢女は腰を下ろした。梛は雌雄異株だが、霊王廟には幹の一部が癒合した夫婦梛と呼ばれる老木がある。雄株は古木の茂る霊王廟の鎮守の林の中でも一番樹齢が古く、雌株の方もそれより僅かに若いくらいで充分なよわいを重ねている木だ。現世の神社であれば、間違いなくご神木としてしめ縄で結界されているに違いない。
 さわ、と風が吹き抜けて、梛の葉が揺れた。
     絢女、かい?
 先に声を掛けたのは雌木だった。
「夜更けに申し訳ありません」
と詫びの言葉を口にした絢女に、
     なんぞ、つらいことでもあったか?
と雄木の方が気づかわしげに問うた。
 人と木は言葉を交わすことが出来ない。霊木と称されるほどに樹齢を積み大地の力をつけた巨木であろうと、どれほどに霊力の強い、護廷で隊長に就任するほどの者であろうと、異種族である人と木は意思を交わすことなど出来ない。それがことわりだと、絢女に出会うまで梛の老木も信じていた。だから、ある日、絢女に話しかけられて、とても驚いたのだ。
 尸魂界で住み暮らす人々が称するところの霊力とはまた別種の、極めて特異な能力でもって、絢女は植物との交感を可能としていた。それはまさに特殊能力としか呼びようがないものだった。林の古木たちは皆、一様にその力に驚嘆したが、同時に彼女に好感を抱いた。大地に根を張り、移動することが叶わない木々にとっては『ここ』以外の場所は未知であったから、絢女と交感することで見知らぬ場所の様子を知ることは非常に興味深かったのだ。夫婦梛に限らず、銀杏も、楠も、この林の古木は皆、絢女と話すことを楽しみとし、すぐに彼女を受け入れた。すでに彼女がこの林にやってきて、古木たちと心を通わすようになってから数十年が過ぎている。そうして、いつしか古木たちは、彼女の誰にも言えない悩みを打ち明けられる間柄になっていた。
 意思の疎通が出来るとはいえ、異種族である以上、相互に理解することは困難だ。だから、絢女から悩みを聞かされたところで、助言してやれることなどありはしない。だが、彼らもそのうち分かってきた。絢女はただ、話を聞いてほしいのだ。自分の心ひとつに留めておけない痛みや悲しみ。他人に打ち明けられる話であれば、彼女とて同属の仲間に相談するだろう。だが、誰にも言えないことだからこそ、こうして人目を憚って夜中にこんな林にやって来て、彼女以外とは言葉を交わせないが故に決して秘密を漏らすことのない古木たちに打ち明け話をするのだ。
「ギンが…女の人と歩いていたんです」
と絢女は震える声で呟いた。
 ギンというのが、絢女が想いを寄せる青年であることは知っている。ただ、彼女のその「想い」は梛たちにとって理解の範疇外であった。自分ではない他者に愛着を感じる気持ちは植物といえども了解できるが、友情と恋情、親子の情愛といった愛着の質の違いは分からない。ましてや、愛着を持つ他者が別の他者と親しくしていることを疎ましく感じる「嫉妬」などというものは植物である古木たちには存在しない心のありようだ。つがいの相手を能動的に選択し交尾することによって繁殖する人を含めた動物と、虫や風などを媒介に受粉によって結実し繁殖をする植物との間にある根本的な違いである。
 梛たちの理解が及ぶのは、絢女が「ギン」と呼ぶ青年をとても好きなことと、彼を愛するが故に苦しんでいるという事実までだ。彼らには絢女が苦しんでいる理由は全くもって分からない。けれども、気に入っている絢女の痛みを少しでも和らげてやりたくて、分からなくともただ話を聞いているのだ。
 好きな男が女と歩いていたこと。自分にはそれを咎めるような権利などなく、ただ黙って見ていることしか出来ないこと。
 ぼつり、ぽつりと、絢女は呟く。理解できないなりに耳を傾け、時折、相槌を打ってくれる梛の古木を相手に、他に誰もいない林の奥で悲鳴を上げる心を吐き出すことで、絢女は自分の心の蓋が外れてしまわないように押さえつけ続けるのだ。

 古代ギリシャに、アポローンによって驢馬の耳に変えられた王がいた。髪を整えることを生業とするが故に、王の秘密を知ってしまった理髪師は誰もいない葦野原で、
「王様の耳は驢馬の耳」
と吐露することで、誰にも言えない秘密を抱え続けようとした。
 古い説話の理髪師は、正に今の絢女だった。

「ギンが好きなんです…。絶対に言えないけど…、でも…好きなんです」

 小さな小さな呟きを、梛の葉擦れの音が消していった。

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 貴方を愛しているのに

 8周年感謝企画第2話めのタイトルは茨薔薇さまからいただいた「貴方を愛しているのに」です。
 時間軸は叛乱の五十数年前。ギンが五番隊副隊長、絢女が三席の頃です。でもって、拙宅の話をまんべんなく読んで下さっている方ならお気づきかもしれませんが、この話、拍手お礼で書いた「風こそかをれ 〜式子内親王で七話〜」の絢女編、及び幕間の小話「名月を取ってくれろと泣く子かな」と思いっきりネタ被りしています。自分で自分の話をパクってどうする? ってもんなのですが、他所さまのネタをパクったわけじゃないので、ま、いいかと作品化。
 人にもよるんでしょうが、秘密を誰にも言えないというのは、結構きつい状況だと考えています。誰かに聞いてもらいたい、言葉にして散らしたいというのは、あると思うのです。一人暮らしの女性や老人がペットに向かって悩みを吐露したり、愚痴を吐き出したりっていうのも、多分、根っこは同じところでしょう。日本には言霊信仰がありますが、言葉に、音にすることで僅かでも心に溜まった苦しさを散らせる効果はあるんじゃないかなと感じています。
 それもあって、「名月を取ってくれろと泣く子かな」では、市丸さんは花魁を相手に「あやめ」と呼ぶことで、心で呼び続けていた「絢女」を散らしていたという設定にしたのです。一方、絢女は木々と交感できるという特殊能力を生かして、古木相手に愚痴吐きです。「王様の耳は驢馬の耳」では、床屋さんが誰にも知られないように葦原で吐き出した秘密を、葦が風に乗せて暴露しておりますが、あれは説話ですもんね。実際のところ、葦には暴露出来ません。絢女の愚痴を聞いた梛も同じです。ある意味、究極の愚痴吐き相手と言えそうです。

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2016.07.10