そして僕は途方にくれる


 古代エジプトのファラオとロックスターが談笑し、フランケンシュタインの怪物の肩に殭屍キョンシーが座っているという何でもありなハロウィーンの仮装パーティ会場であってさえ、目の前に繰り広げられている光景は、こういうのを現世ではシュールというんだろうな、という感想をイヅルに抱かせるものだった。現世の敬虔な基督教徒が見たら、まず卒倒するような図であることは確実だ。何しろ、聖母マリアに魔王ルシファーがまめまめしく傅いているのだから。むろん、仮装と分かっていてさえシュールに感じてしまうのは、扮装している人物がドハマリしているからに他ならない。
 やちるが更なる菓子の獲得を狙って現世から取り入れようと目論んだハロウィーンは、娯楽の普及に熱心な女性死神協会の後押しもあって、思惑通りに少しずつ瀞霊廷に定着しているようだ。新暦十月に入ると南瓜の飾り付けをする商店や南瓜を使った限定の菓子を売り出す菓子舗はこの数年で目に見えて増えてきた。
 ハロウィーン定着の一環にと、女性死神協会の提唱で始められた隊長格の仮装パーティも、今年で八回目を数えている。最初の数回は、「何でこんなことを」とか、「楽しみたい奴だけが参加すればいいだろう」とぶつくさ言っていた一部の隊長(主に十番隊隊長と六番隊隊長)も何も言わずに仮装に袖を通すまでになっていた。それを成長したと解釈すべきか、諦めの境地に達したとするかはかなり微妙であるけれども。
 各隊の仮装については、一昨年までは副隊長が持ち寄ったお題をくじ引きで各隊に振り分けるやり方で決めていた。だが、この方法だとどうしても無理なお題を引き当ててしまう隊が出て来る。実際、記念すべき第一回のパーティで「現世アニメの美少女戦士」の題目を引いてしまった一番隊の雀部が土下座せんばかりの勢いで、四番隊の勇音に題目交換を泣きついたのは今でも語り草になっているほどだ。そうして、昨年、ついに題目を交換しても追いつかないほど無理のあるお題のオンパレードとなり、揉めに揉めた結果、各隊の仮装は自己決定するということで落ち着いたのだった。
 自分で決める方式は面白みや意外性は減少したが、仮装の完成度という点では大幅に上昇したというのが大方の見方であった。やはりそれぞれのキャラに合った仮装というものがあるのだろう。
 そんなわけで、今年もハロウィーン・パーティーの季節になったのだが、五番隊が決定した今年の題目は「聖母マリアの受胎告知」であった。五番隊の隊主である日番谷絢女は現在妊娠中である。子供の成長が一様でない尸魂界では妊娠期間も現世よりやや長い上に胎児によって差がある。絢女は現世妊婦でいうと妊娠五ヶ月相当だと、勇音に診断されている。つわりは治まり安定期に入った。着衣の上からだとまだ良く分からないが、夫であり胎児の父親であるギンによると、腹も膨らんできているらしい。まだ、産休に入っておらず、隊長職は継続しているが、討伐は全面的に副隊長である桃に任せている。そんな隊主の為に、締め付けのないゆったりとした服装で、かつ椅子に座りっぱなしになっても違和感のない仮装ということで桃が選択したのが「受胎告知」だったのだ。
 壁際の革張りの長椅子に座している絢女は、まさにラファエロかレオナルド・ダヴィンチの宗教画の中から抜け出たような佇まいである。踝まで丈のあるゆったりとした深紅のロングドレスの上に青いローブを羽織り、頭にはレースのヴェールといういでたちで、実際に妊娠中であるせいか、たたえられた微笑は聖母そのものと称しても過言ではない。副官である桃は受胎告知の大天使ガブリエルに扮した。白いロングドレスを身に纏い、白鳥の羽根を背中に取り付けている。ただし、彼女は絢女ほど扮装は板についていない。童顔で可愛らしい桃は単に天使なら適役だったかもしれないが、大天使ガブリエルを演じるには貫禄に不足があった。
 五番隊の題目を聞いて、
「あっちが天国なら、ボクとこは地獄で決めてみよか」
という隊長の有無を言わせぬ独断で、三番隊は悪魔の扮装をすることに決定した。ギンが魔王ルシファーで、イヅルが魔侯爵ベリアルというのがコンセプトである。そしてまた、ギンの魔王がおそろしく似合っているのだ。服装は真っ黒なシャツ・ベスト・ズボンにふくらはぎ丈の闇色の長外套、黒革の長靴。外套にはウロボロスの文様が刺繍され、背中の翼はいかにも魔王らしい漆黒の六枚羽根という大仰さである。もともと、うさん臭さと不気味さを兼ね備えていた人物だけにこの魔王ははまり役以外の何ものでもなかった。パーティ会場に到着するまで、何度呼び止められて写真撮影に応じたことだろう。おかげで、付き従うイヅルはパーティ前にすでに疲弊してしまっていた。ドハマリしている隊長に比べて、副官がいまいちというのは実は三番隊も同じである。イヅルはギンと同じく黒づくめの服で頭部に黒山羊の角を取り付け、背中には蝙蝠を模した翼という扮装だった。金髪だといまひとつ悪魔っぽくないからと、ギンが部下に命じて現世で入手させたヘアマニキュアによって、髪は地の金とアッシュグレイのメッシュになっている。仮装自体には隙がないが、やはり貫禄のなさと根の善良さが敗因となって違和感が醸されているのは本人も認めている。
 会場に辿り着き、他の隊長格と挨拶を交わすまでは威風堂々たる魔王ぶりを見せつけていたギンだったが、
「ちょっと疲れた」
と絢女が壁際のソファに腰を落ち着けた途端、素の愛妻家ぶりを遺憾なく発揮し始めた。妻にジュースやサンドイッチを運ぶという甲斐甲斐しい妊婦の夫の姿は普段なら微笑ましいが、魔王の格好でやるものではないと、生ぬるく見守るベリアル・イヅルに、
「ナザレのヨセフでもさせておいた方が、良かったんじゃないの?」
と呆れ口調で話しかけたのは、現世アニメのクイーン・エメラルダスに扮した乱菊である。髑髏のマークが付いた丈の短い緋色の上衣に脚線美が丸分かりのぴったりとした白のズボン、黒革の長靴に緋裏の黒いマントといういでたちは凛々しくも色っぽく、男性陣よりもむしろ、桃や七緒や勇音といった女性隊長格の称賛を浴びていた。
「市丸隊長に似合うと思います?」
 溜息まじりでイヅルは反問した。それに対して、
「世界中の基督教徒から抗議が来るぞ」
と乱菊に代わって、キャプテン・ハーロックな冬獅郎が応じた。
「イスカリオテのユダならはまってたかもしれねえが」
「それ、洒落になりません」
とイヅルは再び溜息を落とした。
 背中の翼が邪魔で絢女の隣に座れず、立ったままで彼女の世話を焼いているギンに、七番隊・狛村と鉄左衛門の主従に十一番隊の綾瀬川弓親が歩み寄った。七番隊は「ギリシャ神話の怪物」、十一番隊は「古今東西の妖魔」が題目で、狛村がミノタウルス、鉄左衛門が一つ目のサイクロプス、弓親がドラキュラ伯爵に扮してるものだから、
魔宴サバトかよ」
というハーロックからの突っ込みが入った。
「そういえば、桃はどこに行ったの?」
 乱菊が辺りをきょろりと見回した。
「総隊長のところです。絢女隊長が動けない分、自分がしっかりしなきゃって、挨拶に行きました」
 山本元柳斎重國に対する隊長格の基本姿勢は「敬して遠ざける」である。無論、護廷を束ねる総隊長に対する尊敬の念は強い。しかし、皆、積極的に絡もうとはしないのだ。この傾向は副隊長により顕著で、向こうから呼ばれたのでない限り、自分から御前に参るということはまずない。それは桃とて例外ではないのだが、今年は絢女が妊娠中である。責任感と絢女に対する気遣いが、妙なやる気につながったらしく、桃は自ら総隊長詣でを決行したのだ。
「総隊長ならあちらにいらっしゃるけど、桃、いないわよ」
 乱菊が指さした方を見ると、確かにダースベーダーに扮した総隊長とオビワン・ケノービの雀部が並んでいたが、彼らの前にいるのは源義経一行に扮した十三番隊の主従で、桃は見当たらない。
「あれ?」
 イヅルは慌てて、恋人の姿を求めて会場に視線を走らせた。直後、
「ただいまー、イヅルく~ん」
という言葉と共に、斜め後ろから腕にギュッと抱きつかれ、イヅルは吃驚して振り返った。
「えへへ、ただいま」
 愛らしい満面の笑顔。しかし、
「桃? もしかして酔っている?」
「酔ってなんかないもーん」
と桃は否定するが、明らかに、
「酔っ払っているな」
「ですね」
 傍らにいた十番隊主従は断言した。
 桃は余り酒が強くない。飲めなくはないのだが、酔いが回るのが早く、笑い上戸になるのが特徴である。この無駄ににこにこした表情。少し甲高く、そして子供っぽくなった声音。明らかに桃が酩酊した時のそれである。
「オレンジジュースと間違えて、カクテルを一気飲みしちゃったんだよ」
 背後から解説を加えたのは、八番隊の京楽春水である。
「山爺に挨拶するのに緊張していたんだろうね。挨拶が終わった後、咽喉が乾いたって言って、飲み物コーナーに行ってね」
「すみません。私もオレンジジュースだとばかり思い込んでいて止めなかったものですから…」
と七緒が補足する。エジプト王妃の扮装の七緒はいつもの眼鏡を外し、裸眼である。近視に加えて乱視の気がある彼女は、この日ばかりは春水のエスコートを素直に受け入れ、常に彼に肩を抱かれるようにして行動している。七緒の話からすると、どうやら桃は白葡萄酒ワインをオレンジジュースで割ったワインクーラーをジュースと勘違いしたらしい。実際、見ただけではワインクーラーとオレンジジュースの判別は難しい。まして、春水のエスコートなしには足元もおぼつかない七緒にその誤りが指摘できるわけもなく、緊張から咽喉がからからに乾いていた桃がワインクーラーを一気飲みするのを咎めることなく見過ごしたのだ。会場にはオードブル類やサンドイッチなどの立食向きの軽食を中心に料理も用意されており、この日はそれが夕食代わりとなる。だが、桃は冒頭の乾杯で少量のシャンパンを干した後、食べ物を何一つ摘ままずに総隊長に挨拶に出向いたので空きっ腹の状態だった。そこに酒精アルコールを一気飲みした為に、急激に酔いが回ったのだ。しかも、春水と七緒の証言によると、その後、
「これ美味しい」
とにこにこしながら、ワインクーラーが満たされた別のグラスを手に取り、サンドイッチを食べながらもう一杯を飲み切ってしまったのだそうだ。さらに続けて三杯目に手を出し、そのグラスが半分ほどに減ったところで、春水がどうもおかしいと気が付き、桃を保護できそうなイヅルと十番隊主従の許に誘導して来たのだ。
「悪いな、京楽」
「お手数をおかけしました」
と冬獅郎とイヅルは春水に謝意を述べた。冬獅郎は桃のことを、妹、ないしは手のかかる子供っぽい姉と認識しており、イヅルは桃の恋人なので、春水に礼を述べるのは何も間違っていない。
「いや、もっと早く気が付けば良かったんだけどさぁ。桃ちゃん、だいぶ回ってちゃっているみたいだよ」
 確かにイヅルにしがみついている桃は、全体に力が抜けてふにゃふにゃしている。
「桃、あっちの椅子に座ろうか?」
「うん、いいよぉ」
 イヅルは桃を連れて、絢女のいるソファに向かった。気を利かせた乱菊が、
「お水、取ってきますね」
と踵を返す。
(つーか、あれも結構、シュールな図だよな)
 真正面から顔を見ていればさほど違和感はないが、桃とイヅルが冬獅郎に背を向けている今は、悪魔が天使を魔宴サバトに連れ込もうとしているようにしか見えない。エスコートぶりが優しいだけに、不条理感が募るというものだ。

 魔宴サバトの中心で妖怪たちと談笑していた聖母マリアは、己の副官がおぼつかない足取りでイヅルに伴われているのを見て、目を丸くした。
「桃ちゃん? もしかして酔っているの?」
「酔ってなんかいないもーん」
「…」
「今日はねぇ、お姉ちゃんの代わりにあたしが頑張らなきゃなの。だ~か~ら、全然、酔ってないもーん」
「ていうか、完璧に酔っ払っとるけど?」
 魔王ルシファーが呆れたように溜息を零した。
「ジュースと間違えて、カクテルを一気飲みしたみたいで…」
とイヅルが春水から聞いた話を伝えると、
「カクテル…、一気飲みって…」
 絢女は眉を顰めた。桃は絢女の隣に座ると、
「ちゃんと総隊長にねぇ、挨拶したの。ねー、シロちゃん」
と一緒に行ったわけでもないのに、冬獅郎に相槌を求めた。
「これはまた、見事な酔っ払いだね」
 ドラキュラ伯爵が再度、事実を淡々と述べ、人のいいミノタウルスが、
「雛森副隊長、大丈夫かね?」
と心配そうに桃を覗き込んだ。
「えへへ、お姉ちゃん、楽しいねぇ」
「え、ええ…」
「お姉ちゃん、綺麗。ねぇ、市丸隊長。マリアさま、綺麗だよね~」
「そうやね」
「シロちゃんは似合ってなーい」
「あ?」
「キャプテン・ハーロックはねぇ、もーっと渋くて大人っぽいの。シロちゃんなんて、ぜーんぜん、凄みも渋さもないんだからぁ!」
 今や立派な青年に成長した十番隊長に向かっては、いくら桃でも素面ならここまでの暴言は吐けない。これも酩酊していればこそである。
「桃、お水を持って来たわ。飲んで」
と乱菊に渡されたコップを桃は素直に受け取った。そして、酔っ払いのテンションの高さのまま、ぐびぐびと一気に呷った。
「ちょ、桃!」
 案の定、噎せて桃はけほけほと咳き込む。背中を擦ってやりたいところだが、何しろ、大天使ガブリエルは背中に翼を背負っているので、それもままならない。だが、咳き込みが治まった途端、
「イヅルくんの意地悪ぅ~」
と桃はいきなり抗議を始めた。
「え?」
「ひどいよ。苦しかったのにぃ。なんで、背中、擦ってくれないの~」
「あ、ごめん」
 翼が邪魔で擦ってやれなかったのが実情なのだが、桃は噎せた時に出た生理的な涙が溜まった眼でイヅルを見上げると、
「どうして? あたしのこと、嫌いになった?」
と悲しそうな顔で呟いた。
(ンな訳、あるか!!)
 キャプテン・ハーロックとルシファーと愉快な魔宴サバトの参加者たちが心の中だけで、全身全霊を込めて突っ込む。
「やだぁ…、イヅルくん…。あたしのこと、嫌いにならないで…」
 瞳に溜まった涙がさらに盛り上がり、ころんと転げ落ちた。
(ちょっと。桃って笑い上戸じゃなかったっけ?)
(笑い上戸よ…。泣き上戸になったことは多分、ない、と思うけど)
 クイーン・エメラルダスと聖母マリアも慌てて目と目で会話する。
「嫌いになんてなるわけないよ。桃のこと、大好きだよ」
 酔っ払いを相手に体面など構っておられない。ギャラリーを前に臆面もなく言い切ったイヅルに、桃はふにゃりとした笑みを浮かべた。
「あたしもねぇ~。イヅルくん、だーい好き」
「うん、ありがとう」
 いたたまれなくなったらしい。ドラキュラ伯爵・弓親がそーっと気配を殺しながら、魔宴から去ってゆく。
(何というか…)
(すっごく性質たちの悪い酔っ払い方してません?)
(ええ、確かに性質が悪いわね)
(見ていらりゃぁせん)
 困惑する一同の中で、
「隔離した方がよくねえか?」
 ぼそりと、冬獅郎が呟いた。その意見は一瞬にして、イヅルを除く全員の賛同を獲得した。
「桃ちゃん、イヅルくんに送ってもらって、先に帰っていて」
 まず、絢女が言ってみた。
「えー、今日はお姉ちゃんの代わりにあたしが頑張るのぉ」
 桃はかぶりを振った。唇を心持ち尖がらせ、子供のように拗ねた表情を浮かべている。それを見遣ったギンがかがみこんで椅子に腰かけている桃と視線の高さを合わせた。
「そやなぁ。絢女の代わりに総隊長はんのとこにご挨拶に行ったり、桃ちゃん偉かったもんなぁ」
 完全に子供をおだてる口調だが、桃は嬉しそうだ。どうやら、酒精アルコールによっていくらか幼児退行しているとみえる。やり過ぎかと危惧しつつも、試しにギンが頭を撫でてみると、桃はさらに嬉しそうに笑み零した。
「ちゃーんとご挨拶出来たし、桃ちゃんは頑張ったから疲れたなぁ」
「うん」
「せやなぁ。せやったら、早ううちに帰ってゆっくり寝たいなぁ?」
「うん」
「桃ちゃん、もう充分、頑張ったで。絢女のことはボクに任してくれへんかなぁ」
「市丸隊長、旦那さまだもんね~」
 桃はにこにこと邪気なく、続けた。
「お姉ちゃん、独り占めしたいんだぁ?」
「凄いなぁ、桃ちゃん。よう分かっとるやん。お願いや、大天使ガブリエルさま。お慈悲をもって、マリアさまを独り占めさせてくれへん?」
「はーい」
「ほな、桃ちゃんは先に帰っとこな?」
「うん」
 見事な誘導で桃を頷かせたギンは立ち上がると、イヅルの背中から蝙蝠の羽根を毟り取った。
「イヅル、ほら、桃ちゃん負ぶって、送って行きィや」
と反論の余地のない命令を下す。
「お願い、イヅルくん」
と絢女からも頼まれて、イヅルに否はない。
「桃、負ぶさって」
 イヅルは桃に背中を向けてしゃがみ込み、桃は素直に彼の背中に身を預けた。その時、
「送り狼になっても構わないから…」
 イヅルにだけ辛うじて聞こえるような小さな声で、絢女がぽつりと呟いた。おそるおそると振り返ると、聖母の微笑の絢女がイヅルを見詰めていた。
「桃ちゃんをお願いね」
と静かに告げる絢女に、イヅルは、
(今のは聞き違いだ)
と言い聞かせながら、無言で頷いた。

 イヅルの背中で弛緩したまま、桃はひどく上機嫌だった。
「イヅルく~ん」
「何?」
「大好き~」
 ちゅ、といきなり耳の後ろに温度を感じて、イヅルは危うく桃を取り落としそうになった。
(今のは…)
 耳朶の後ろ側に口接くちづけられたとしか考えられない。しかし、普段の桃からすると、全くありえない行動だ。
 イヅルが桃との交際を始めてからもう四年になるが、未だに一線は超えていない。桃の度を越した奥手ぶりが原因である。初歩的な唇を触れ合わせるだけの接吻キスさえ、恥ずかしがって、怖がって、ごく自然に交わせるようになるまで一年以上かかった。舌を差し挿れる大人な接吻まではそこから更に半年である。しかも、最初にした時は突き飛ばされた。その後、狼狽えた桃から必死に謝られなければ、イヅルは立ち直れなかったかもしれない。今では深い接吻ディープ・キスも受け入れてはくれる。だが、その度に彼女はがちがちに緊張して震えてしまうので、それを目の当たりにしたイヅルは落ち込むことを繰り返すばかりだった。
 もしかしてもしかすると、接吻が壊滅的に下手で、そのせいで桃が気持ちよく感じられないのではと悩んだりもした。その悩みをうっかり冬獅郎に漏らしたところ、彼とギンから大量のさくらんぼを贈られたのは昨年の初夏だ。何故にさくらんぼと訝しんでいたら、現世では「口の中で舌だけを使ってさくらんぼの茎を結べる者は接吻が上手い」という話が伝わっているとギンから教えられた。尤も、それは単なる都市伝説の類で、接吻の技術とさくらんぼの茎の固結びとの間に明確な因果関係はないのが実情らしく、その点について、ギンは口を噤んだ。その為、素直に信じたイヅルは飽きるほどさくらんぼを食べ、舌が疲弊するほど特訓して、長い茎なら固結びが出来るようになった。ここで、思いついて、贈り主であるギンと冬獅郎に固結びが出来るのかを尋ねてみたところ、ギンは結べるという回答だったが、冬獅郎からは、
「ンなめんどくさくて役に立たないことなんて、試したこともねえ」
という身も蓋もない答えを返された。要するに、あまりの桃との進展具合の鈍くささにうんざりした冬獅郎が、イヅルをおちょくるのにさくらんぼを用意し、それを知ったギンが乗っかったという手のかかる嫌がらせだったのだ。桃の前で披露したところ、目をキラキラさせて尊敬されたので、全く役に立たなかったわけではないが、少なくとも接吻技術の向上にはつながらなかったのは確かである。
 閑話休題。兎にも角にも、桃との交際は一見順調そうに見えて、実態として仲は遅々として深まらず、イヅルの多大な忍耐の上に成り立っていたのだ。桃から接吻なんて、滅多なことではしてくれないし、稀に落とされるそれも軽く触れるだけの現世でいうところのバード・キス。そんな桃から、いきなり耳裏に口接けられて、イヅルは混乱した。
(何で…、何で、こんな?)
 扮装は大天使ガブリエルでも、今の桃はイヅルを迷わせる淫魔サキュバスだと言えた。
「あたしねぇ」
「うん」
「イヅルくんにぎゅってされるの好き」
 イヅルは必死に心を無にしようと努めた。今の彼女は酔っ払いだ。本気に受け取ってはならないと、自分に言い聞かせる。彼女の言葉に、
「うん、うん」
と相槌だけは打ちながら、イヅルは心の中で戦いにおける三番隊の矜持を唱え、一番から順に破道の詠唱を復習し、五番隊寮に辿り着いた時にはくたくたに疲れ切っていた。
 恋人関係になってから、五番隊副隊長舎はイヅルにとっても勝手知ったる場所となった。
「お邪魔します」
と律儀に挨拶し、無人の副隊長舎に上がり込む。桃はいよいよ酔いが回ったのか、イヅルの背中でうつらうつらと眠りに落ち始めていた。
 申し訳ないと思いつつも寝室に入り、桃を畳に降ろすと、イヅルは押し入れを開けて、床を延べた。そうして、彼女を布団に寝かせようとして、彼ははたと動きを止めた。彼女の背中に広がる翼に、改めて思い至ったのだ。翼を装着した状態では桃を寝かせることは出来ない。横向きか俯せならば横たわらせることだけは出来るが、寝返りが打てないから、桃にとっては眠るのには辛い態勢ということになる。
「桃、桃、起きて…」
 やむなく、イヅルは彼女を揺すり、小さな声で呼びかけて起こそうとした。
「ううん…」
 ほとんど眠りに引き込まれかけていた桃は、ぼんやりと瞼を開いた。ぼうっとした寝惚け眼が目の前のイヅルを捉える。途端に彼女はふんわりと嬉しそうな笑みを浮かべた。その愛くるしい笑顔に、最前、やっきになって鎮めた動悸が蘇った。まずいと慌てたイヅルは渾身の理性を振り絞った。
「桃、この背中の翼はどうやって取ったらいいのかな?」
 その問いに対して、彼女は答えの代わりにイヅルの首に腕を回し、抱きついた。
「桃っ! ちょっ…!!」
 慌てて引きはがそうとしてバランスが崩れ、二人はもつれ合うように布団に倒れ込んだ。
「桃…、離して…」
 だが、桃は逆に体をイヅルに寄せ、抱きついた腕に更に力を込めた。
「えへへ、イヅルくん、あったか~い」
 仔猫が飼い主に甘えるように、無邪気に彼女は恋人に身体を擦り付ける。
    
 健全なる青年であるイヅルの分身はなかなかとんでもないことになっているのだが、桃はお構いなしだ。本能に基付く欲望と、桃は酔っているのだからとブレーキを掛ける理性がせめぎ合う中、
「送り狼になっても構わないから」
とパーティ会場を引き上げる直前に告げられた絢女の言葉が、イヅルの脳内で鮮やかに再生された。
(…据え膳…、これって据え膳だよ…ね)
 使い古された「据え膳食わぬは男の恥」という慣用句が、彼の理性の箍を緩めた。
「桃…」
 開き直ったイヅルが覚悟を決めて抱きしめ返そうとした時、胸元から、すぅすぅと規則的な寝息が響いた。
    
 イヅルにしっかりと抱き着いたままで、桃はぐっすりと寝入ってしまったのだ。
 桃の腕から抜け出そうにも、存外に彼女の拘束は強く、がっちりとイヅルの首はホールドされている。一方、彼の下半身はくの字に身体を折り曲げてこらえても辛いくらいに張り詰めていた。有体にいえば、臨戦状態だ。
「ど…、どうすれば…」
 完全に眠りに落ちた桃に対して、合意もなしに事を進めるほどイヅルは鬼畜にはなれない。もともとそういうことは出来ない性分であるし、彼女はとても大切な女性だからこそ、裏切るような真似はしたくなかった。しかし、右手を親友に厠に籠ろうにも、桃はしっかりとイヅルにしがみついていて放してくれそうにない。
 途方に暮れたイヅルの目に天井の木目が映った。彼は大きな溜息を零すと、ひたすら木目を数えることに集中したのだった。

     端から数え始めた木目が、天井の真ん中あたりまで達した頃。

「帰る途中に雛森が寝落ち、に一票」
と中世独逸ドイツの騎士(但し、悪役)に扮装した恋次が言った。
「じゃのう。吉良が眠っとる女の子に手を出せるわけがないけんのう。副隊長舎に届けて布団に寝かせとしまいじゃろう。」
 鉄左衛門が賛同する。
「ですが…、」
と七緒が疑義を唱えた。
「雛森さんは天使の扮装をしていました。あの羽根をつけたままでは寝かせられないでしょう?」
「あー、そうか」
「あれ、簡単に外れるもの?」
 ファラオな春水が絢女に尋ねた。彼の視線は、ソファに座る絢女の隣に無造作に置かれた蝙蝠の翼に注がれている。魔侯爵ベリアルに扮していたイヅルが付けていた小道具で、桃を背負うのに邪魔になるとギンが毟り取ったものである。
「ギンがしたみたいに力ずくで引っ張れば外れるかもしれませんけど…」
「あいつが雛森相手にンな乱暴なことをするとは思えねえな」
と冬獅郎が首を横に振った。
「ですよねぇ」
 乱菊と七緒が揃って頷く。そこで、絢女が爆弾を落とした。
「あの羽根…、ブラジャーに取り付けてあるんですよね」
「へ?」
 その場にいた全員が目を丸くした。
「それも、ほら、前で開ける…」
「フロントホック・ブラ?」
「そう。それ!」
「…」
「羽根を出す為に背中は大きく開いているし、ゆったりとしたドレスだから、背中の開きから腕を入れれば前は外せると思うけど」
「肩紐付き?」
「肩紐付き」
    吉良副隊長にブラの肩紐が取り外せるという知識があるでしょうか?」
と七緒が眉を顰める。
「なければ、袖を抜かないとブラを外せないわね」
と乱菊がぽつりと呟いた。ブラが外せないのは、翼を除けないのと同意である。
「つか、胸に手を突っ込まれた時点で、いくら寝落ちしてても、雛森が起きるっしょ」
「爆睡してたら、多分、起きねえぞ、あいつ」
 幼いころは一つ屋根の下で暮らしたこともある冬獅郎が断言する。
    
 思わず黙り込んだ一同を見渡して、魔王ルシファーがゆっくりと問いかけた。
「イヅル、送り狼になれたと思う?」
 全員が否定の方向に首を振った。

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 そして僕は途方にくれる

 8周年感謝企画第8弾はさらさ様から頂きました「そして僕は途方にくれる」です。大沢誉志幸氏の往年の名曲と同タイトルですね。さらさ様、ご協力ありがとうございます。
 丁度、ハロウィーンの時期だったので、この際とばかりにイベントネタをぶっこんでみました(笑)
 拙宅のイヅ桃はおおむねこーんな感じです。桃ちゃん奥手なくせに天然小悪魔。イヅルくん、ひたすら忍の一文字。「『人生はワンツー・パンチ』だぜ、吉良副隊長」と水前寺清子の国民的ヒット曲を脳内再生しながら、執筆しました。時間軸は「明日、花の咲く場所」の完結時から五か月後の新暦十月三十一日(ハロウィーンの日)です。だので、日乱・ギン絢は夫婦設定です。
 むろん、死神の皆さんの推察通り、吉良氏はあのままの態勢でまんじりともせずに夜明けを迎えます。木目を数え終わったら、破道、縛道、回道の詠唱の復習、尸魂界史の復習と続きます。
 あまり本筋とは関係ありませんが。一応、一通り考えたので、各隊のハロウィーン仮装のテーマと配役を発表。

 一番隊 :スターウォーズ
      ダースベーダー:山本元柳斎重國
      オビワン・ケノービ:雀部長次郎
 二番隊 :美女と野獣
      ベル:砕蜂
      野獣:大前田稀千代(全身着ぐるみ)
 三番隊 :悪魔
      魔王ルシファー:市丸ギン
      魔侯爵ベリアル:吉良イヅル
 四番隊 :ジャパニーズ・ホラー
      番町更屋敷のお菊:虎徹勇音
      耳なし芳一の平家落ち武者:伊江村八十千和
      牡丹灯籠のお露:山田花太郎
      牡丹灯籠の萩原新三郎:荻堂春信
      隊長の卯ノ花烈は産休中で不参加。
 五番隊 :聖母マリアの受胎告知
      マリア:日番谷絢女
      大天使ガブリエル:雛森桃
 六番隊 :ローエングリン
      白鳥の騎士ローエングリン:朽木白哉
      フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵:阿散井恋次
 七番隊 :ギリシャ神話の怪物
      ミノタウルス:狛村左陣
      サイクロプス:射場鉄左衛門
 八番隊 :古代エジプト
      ファラオ:京楽春水
      王妃:伊勢七緒
      神官:円乗寺辰房
 九番隊 :ロックバンド
      ヴォーカル:檜佐木修兵
      ギター・ベース他メンバー:九番隊上位席官。
 十番隊 :現世・松本零士アニメ
      キャプテンハーロック:日番谷冬獅郎
      クイーンエメラルダス:松本乱菊
 十一番隊:古今東西の妖魔
      フランケンシュタインの怪物:更木剣八
      キョンシー:草鹿やちる
      ぬらりひょん:班目一角
      ドラキュラ伯爵:綾瀬川弓親
 十二番隊:ゾンビ
 十三番隊:源義経一行
      源義経:浮竹十四郎
      武蔵坊弁慶:小椿仙太郎
      静御前:虎徹清音

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2016.10.30