雲隠れの夜半の月


 井上織姫の自宅に向かって、俺たちは歩いていた。
 姉さまのことはもちろん護廷に報告する必要がある。護廷との通信装置は井上織姫の部屋に設置してあるし、姉さまの姿を総隊長に見せる為にも姉さまも井上の家に来て欲しい。そう言った言葉に嘘はないけれど、どっちかというと建前に近かったように思う。
 浦原商店で事情説明と情報交換を終えた後、姉さまと離れがたかった。ずっと、ずっと捜していたんだ。もう離れたくなかった。
 姉さまは仮死状態から目覚めてすぐに、破面と交戦した。身体に無理が来ているかもしれない、仮死状態だったせいで何か不調があるかもしれない。少なくとも今晩までは浦原に預けてきちんと診て貰った方がいい。理屈では理解していた。でも、離れたくなくて、俺の視界の届く範囲にいて欲しくて。総隊長への報告を理由にして、半分強引に姉さまを連れ出した。
 浦原が既に姉さまの義骸を用意していたことには驚いた。だが、説明を受ければすぐに納得出来た。姉さまはいつ目覚めるかも分からない状態だったわけだが、逆に言えばいつ覚醒してもおかしくなかったのだ。そして、姉さまが覚醒したとして、すぐに瀞霊廷に帰せるかというと、そうではなかった。
 姉さまが仮死状態に陥ったのは、新人の討伐実習の引率の最中に大虚に襲われ瀕死の重傷を負ったからだ。虫の息のところを四楓院に拾われ、浦原の救命措置で何とか一命をとりとめて、そのまま浦原に匿われた為、護廷では遺体が見つからないままで殉職扱いになっていた。だが、公務中に行方不明になったのだから、生きていると判明すれば大手を振って瀞霊廷に帰還出来る立場だった。本来であれば。
 だが、四楓院が見かけた不審な捜索隊、そしてそいつが破面と接触したことなどから、姉さまが大虚に襲われたのは偶発的な事故ではなく、謀略だと推察出来た。藍染に嵌められて無実の罪に問われ、現世に逃亡せざるを得なかった浦原が、危機感を持ったのは当然だ。下手に瀞霊廷に戻せば、姉さまは再び命を狙われる。だから、姉さまが目覚めたとして、安全を確認できるまではそのまま匿い続けるつもりで義骸を用意していたと聞かされりゃ、頭を下げるしかない。へらへらして掴みどころのねぇ胡散臭い男だと思っていた。まぁ、胡散臭いという印象は変わらないにしても、その芯の部分は信用に足ると確信するには充分だった。
 そんな訳で、現在、姉さまは浦原から提供された義骸に納まっている。服は四楓院から借りた。正直、姉さまの洋装、それもTシャツにジーンズなんてくだけた服なんて初めて見たので、どうにも落ち着かない。ちなみに、四楓院の私服はどれもこれも露出が大きく派手なものばかりで、一番地味で無難なのがまさに今、姉さまが身につけているヘンリーネックの黒Tシャツとジーンズだった。しかし、姉さまにしてみれば、細身でぴったりと身体の線に沿う服というのがどうにも落ち着かないようで、変じゃないかと頻りに気にしていた。
 俺のきっちり三歩分後ろを姉さまと並んで付いて来ていた松本が、のんびりした口調で、
「隊長、晩御飯はどうします?」
と尋ねて来た。
「どっかで食べて行くか?」
 正直、破面との交戦で疲弊していた。松本も夕飯を作るのは億劫だろう。
「そうですね~」
 あっさりと松本は頷き、姉さまに、
「というわけで外食だけど、何が食べたい?」
と確認した。
「現世の食べ物屋さんは分からないから…。お任せするわ」
「ああ、そっか。あたしは洋食がいいで~す。ドリアかグラタン希望!」
「ボンソワールでいいか?」
 正確には「ボンソワール食堂」。仏蘭西料理をベースにした洋食屋で、現世派遣されて早々に松本が見つけてきた店だ。仏蘭西料理っても堅苦しいコース料理とかはなくて、ちょっと小綺麗な洋風大衆食堂って感じ。細身で寡黙な親父さんと、まるで対照的に恰幅が良くて賑やかな女将さんが夫婦で営んでいて、手頃な値段なのにけっこう美味いというかなりの優良店舗だ。松本が即座に賛成し、姉さまは任せると言っていたので、自動的に行先決定。ボンソワールに向かう為、俺たちは井上宅への道から逸れた。

 夕飯の為に連れて行かれたお店は、こじんまりとした洋食屋さん。
 四十五年前、私が大虚に襲われたのはここよりもう少し南の隣町だった。当時はほとんどビルなんてなくて、雑木林や空き地もたくさん残っていて、民家だってお庭の大きい農家が多かったのだけど、今、この辺り一帯はビルが建ち並んでいて、途中には民家が密に並んでいた。当時の面影はないから、ここがあの現場近くだなんて、全然実感が湧かない。
 私はあの討伐で大怪我を負った。それは覚えている。自分でもこれはかなり拙い、死ぬかもと頭を過ったほどの重傷で、実際にあのまま死んでいたとしても少しも不思議ではない。というよりも、今現在、生きていることの方が奇跡に近いと心から思う。私は凄まじく幸運だったのだ。現世に隠れ暮らしていた元二番隊隊長にして隠密機動総司令官の四楓院夜一さんに発見され、元十二番隊隊長で初代技術開発局局長である浦原喜助さんに救命していただけたのだから。けれども、夜一さんに保護されるまで命を保っていられたのは、私の執念だったのじゃないかとも感じている。だって、意識を失う直前まで、死ねない、絶対に死ねないとそれだけを念じ続けていた。
 救われて命は繋がったけれど、私は仮死状態で眠り続けていたそうだ。半世紀近い長い間、全く目を覚まさない女の面倒をみて下さった浦原さんたちには本当にどれだけ感謝してもしきれない。
     四十五年。
 死神の感覚でも決して短い年月ではない。けれども、眠っていた私にとってはなかったに等しい日々だ。私の感覚では、あの討伐はつい昨日のことなのに、目が覚めたら四十五年が過ぎていました、なんて浦島太郎もいいところ。信じられない気持ちでいっぱいだけど、周囲の変化は私にこれが現実だと突きつける。
 一番驚いたのは、冬獅郎が十二年も前に十番隊の隊長に就任していたということ。あの子の霊力の高さは私が一番知っていたつもりだった。でも、この現実を前にすると、認識が甘かったことを痛感しないではいられなかった。先ほども感じた通りに、四十五年という歳月は死神にとってさえ決して短くはない。けれども、流魂街にいた子供が護廷の頂点たる隊長にまで上り詰めるには余りにも短すぎる期間だ。
 私がいなくなってから    
 冬獅郎は死神になり、子供の外見のままでたったの三十年足らずで隊長に就任した。今では、十番隊を掌握し、部下にも慕われていると、乱菊が嬉しそうに教えてくれた。
 庇護すべき小さな弟だったはずの冬獅郎の現在に、自分の驕りを突き付けられた心地がした。冬獅郎の生を歪めているのを承知で死神の目から隠し続けたのは、ただの自己満足に過ぎなかったのだと。聡い冬獅郎はそれを承知しているだろう。それなのに、私を恨むことも、詰ることもなく、ただ再会を心から喜んでくれるばかりで、私はどうしていいのか分からなくなってしまった。
 洋食屋さんで晩御飯を食べながら、冬獅郎と乱菊から四十五年間の出来事を色々と聞いた。眠りっぱなしだった私には話すべきことなんてないから、ひたすら二人の歩みに耳を傾けた。
 流魂街の菓子店での冬獅郎と乱菊の出会い。制御しきれずに溢れる冬獅郎の霊力に気付いた乱菊から死神になることを勧められたこと。霊術院をたった一年で卒業し、いきなり一番隊で上位席官に任じられたこと。
 特に冬獅郎が力を御しきれず、垂れ流された霊圧でおばあちゃんが衰弱したという話には、身体が一気にぞっと冷えた。それは、敵に気付かれまいと無理矢理に冬獅郎の霊力を縛った歪みのツケ以外の何ものでもなかった。私が霊木の中に封じたりしなければ、力を押さえ込んだりしなければ、この子は霊力の自然な上昇に合わせて成長していって、自分の力もきちんと制御出来るようになっていたに違いないのに。ごめんなさい、と心の中だけで謝った。言葉にしてしまえば、きっと冬獅郎は気に病む。私に再会出来て喜んでいる冬獅郎の気持ちを萎ませたくなくて、謝罪を音にする前に飲み込んだ。
 冬獅郎と乱菊が上司部下として、しっかり絆を結んでいるのも吃驚したことだった。だけど、すぐに腑に落ちたというか、しっくりと心に馴染んだ。だって、私と冬獅郎は好みがとても似ているもの。人間関係でもそこは同じ。私が好きな人はだいたい冬獅郎も気に入る。もちろん、冬獅郎が好意を持つ相手に私が嫌悪を抱いたこともない。逆に、私が苦手な相手は冬獅郎も煙たがっていたと思う。私の親友なら冬獅郎が信頼するのも当然だって、納得する自分がいた。乱菊はおおらかに見えてかなりの気配り上手だ。きっと、子供の姿で隊長になった冬獅郎をさりげなく、けれども的確に補佐してくれたに違いない。乱菊は冬獅郎が部下にも慕われているって自慢気だったけれど、それは絶対に乱菊の貢献があってのことだ。冬獅郎はとても優しい子だけれども、不器用で誤解されやすいから。
 乱菊も冬獅郎にはずいぶん絆されているのね。気を許した相手にしか見せない甘え方をしている。
 …というか、
「たいちょ、一口、味見!」
 言うなり、返事も聞かず、乱菊は冬獅郎の手を引き寄せて、ぱくんとフォークの先に刺さっていた蟹クリームコロッケを口に入れてしまった。
 それって、私やギンや七緒さんが相手だったら、よくしていたことよね。冬獅郎にもするんだ。仮にも上司を相手に。でもって、冬獅郎、あなたも微塵も動じていないわね。つまり、慣れているのね。これ、日常的なのね。
 なんだか、上司部下というよりも兄弟みたいな感じがした。いえ、私自身が冬獅郎の姉なんだけれど、その私から見ても乱菊と冬獅郎の馴れきった姿は兄弟に見えた。外見的には姉と弟だけど、会話とか雰囲気は兄と妹みたいな趣きがある。冬獅郎が上司だからかしら? 見掛けの割に老成しているからかしら? と観察していたのだけど、食事が進むにつれて、じわじわと兄妹とも言い難いように思えてきた。何というか、冬獅郎と桃ちゃんだとあからさまに兄妹感が醸し出されるのだけど、乱菊が相手だとあの感じからはずれていた。ええっと、何だろう? この妙な安定感は。鴛鴦おしどりみたいに仲好しで酸いも甘いも噛み分けた熟年夫婦…。とそこまで思考が辿り着いて、おもむろに機能停止した。
 四十五年で何が起こったの?
 少しばかり落ち込んでいたはずの私は、いつの間にやら弟と親友が醸し出す謎のこなれ感に中てられてしまっていた。
 いくら何でも熟年夫婦なんてないわねって、頭を軽く一振りして追い出した単語が、ブーメランみたいに高速で戻って来た。乱菊、あなた、何で、「ん」の一言でお醤油だってわかるの? 今、冬獅郎、私の方を見ていたわよね。お醤油なんて一瞥もしていなかったのに。姉の私でさえ、あれが「お醤油を取って」とは判断出来なかったのに。
「絢女、グラタン、美味しいわよ。食べてみて」
 乱菊がグラタンをフォークに乗せて、私の目の前に突き出して来た。
「ありがとう」
 躊躇いもなく、私はそれを口に入れた。ちょっとばかりお行儀が悪いのは解っているけれど、乱菊が嬉しそうに差し出してくれるものを拒否なんてあり得ないもの。お返しにポークピカタを少し切って、乱菊のグラタン皿の隅に置く。
 途端に、冬獅郎が目を細めた。
「どうかした?」
 私の問いに、
「いや…」
と冬獅郎は微笑んだ。
「本当に親友だったんだなって」
 乱菊から話は聞いていたけれど、実感したって。冬獅郎は嬉しそうにそう言った。

 隊長はね。お姉さんに、絢女に再会出来て嬉しいばかりだったと思うのよ。隊長相手に初めて絢女の思い出話を話した翌日に、実は絢女は隊長の実のお姉さんだったという第一級の機密を打ち明けられて驚愕したのだけれど。その後、折々に隊長が語った断片的な絢女の話は、全て美しい姉弟愛に満ちていた。絢女も隊長もあたしに姉弟のことを内緒にしていたから(隊長曰く、ただただあたしを巻き込みたくない一心からで決して信用していなかった訳ではない、らしい)、露と知らなかったけれど、絢女は隊長を溺愛していたようだ。そして、彼女の愛を一身に受けていた隊長の方も、朽木隊長なんて目じゃないほどの姉さま愛に溢れていたわけで。
 何しろ、真顔で、
「姉さまより綺麗な女なんてこの世にいない」
ってきっぱりと断言して下さいました。ついでに、
「つまり、あたしは絢女以下の女ですかぁ?」
と拗ねて見せたところ、
「ああ、姉さま以下だな」
と真顔を保持したまま、サクッと肯定されましたけど、何か? もっとも、その直後に、
「知ってるか、松本。数学の比較演算では『より大きい』『より小さい』『未満』の場合、比較対象の定数と同値は『偽』と判定されるが、『以上』『以下』の場合は判定は『真』だぞ」
とにやりと嗤って付け加えたところが質が悪い。絶対、隊長は天然誑しだ。
 そうですか、お姉さんを超えるほどの美貌の女はいなくても同等の女はいると思っているわけですか。でもって、あたしはお姉さん『以下』なわけですか。へー、ほー、ふーん。
 それで気分が浮上するあたしも大概単純。
 だけど、隊長が女の子の美醜(あくまで外見の話ね)について、やたらと辛口だった原因がやっと分かりました。基準が絢女だったとはねぇ。そりゃあ、辛口にもなるでしょうよ。だって、あたし自身からして、基準を絢女にしてしまえば、会う女の子をことごとく絢女『未満』だって判定しちゃうもの。隊長、基準が余りに高すぎます。
 それはともかく。そんなシスコンな隊長だから、行方不明のお姉さんが見つかったとなれば、そりゃあ嬉しいに決まっている。喜びに浮かれて、離れがたいと感じるのは最早、必然と言えよう。
 けれども、絢女の方は微妙に気持ちが上下しているように感じられた。
 もちろん、弟との再会は無条件に嬉しかったはずだ。それは絶対に間違いない。にもかかわらず絢女が喜びだけに浸れない理由は、不在の間に弟が手に入れていた「護廷の隊長」というとんでもない肩書だ。絢女はずっと弟を必死に護ろうとしていた。それなのに庇護していたはずの弟は、いつの間にやら十番隊の隊長。しかも、史上最速・最年少での就任という称号のおまけつき。友達だったあたしや一角や弓親が部下として、自分の弟に従う姿は絢女には衝撃だったことだろう。
 絢女にはかなり強い自省癖がある。だから、しっかり十番隊の隊長を務める弟の姿を目の当たりにして、自分が今までやって来たことは間違いだったのではと疑心に囚われてしまった、とあたしは見た。絢女と隊長が似ていると思う点は多々あるけれど、他人には甘々のくせに、己に対しては異様に厳しいってとこも挙げられる。ぜ~ったい、自分のせいで隊長の成長が歪んでしまっただとか、霊力の一部が縛られているのが原因で護廷隊長としての任務で不必要に危ない目に遭ったんじゃないかだとか、うだうだ考えて落ち込んでいるに違いない。
 まぁ、ね。絢女が駆け付けた昼の戦闘でも隊長、わりかし満身創痍でしたし?
 でも、それは絢女のせいじゃない。それに、あたしは、…ううん、あたしだけじゃない、瀞霊廷で待っている十番隊のみんなだって、今の隊長が好きなの。絢女に護られて、流魂街のおばあちゃんに可愛がられて、雛森と兄弟みたいにして育って、今の隊長は形作られた。ぶっきらぼうで不器用で、だけども、隊長はすごく優しい。あたしたちはそんな隊長のことが大好きなの。
 もしも、絢女が隊長を封じたりせずに、一緒に里に下りていとしたら、隊長は絢女と一緒に成長していたはずだから、もっと強い霊力と成長した外見になっていたことだろう。絢女の傍で育ったなら、力に溺れて心を歪ませるなんて真似、彼女が絶対に許すわけがないから、やっぱり優しくてさぞかし男前のいーい男。うん、想像しただけでそそられます。
 だけど、それは今の隊長じゃない。子供の体で重責を担うことで隊長が感じている戸惑いや苦しみ。周りからの偏見との戦い。絢女が封じなかった隊長(仮)は、きっとそんな痛みは知ることもないままだったろう。それらは隊長にとっては苦い経験かもしれないけれど、今の隊長の糧にもなっているの。
 振り返ってみれば、ああしておけば良かったとか、こうしておけばとか、後悔はつきものだ。でも、それは後になって、結果を見てしまったからこそ言えることだと思う。悩んで、考えて、その時には最善だと信じた選択の結果で、今がある以上、仕方がないのだ。
 もちろん、あたしだってたくさん後悔している。絢女が隠し事をしているのに、あたしは実は気付いていた。でも、知られたくないことならって、敢えて気が付かない振りをしていた。ギンのことだってそう。アイツが何を考えてあたしを置き去りにしたのかとか、何で絢女に気持ちを伝えようとせずにあたしが本命みたいな振りをするのかとか、問い詰めたいことはたっぷりあったのに、何にも聞けずじまいだった。そうして、絢女を失くして苦しむアイツの手を離して、目を背けて、挙句に何にも分からないままで反逆されてしまった。
 時を戻れるなら、問い詰めたい。帰れるなら、アイツの傍で支えてやりたい。それが出来なかったから現在がある。そして、あたしはそれを受け入れて前に進まなきゃならないのだ。
 絢女、あんたもそうだよ。あんたがいっぱい後悔しているのが分かる。自分を責めているのが分かる。でもね、あんたの選択が客観的に見て正しかろうと、過ちだろうと、隊長にとっては絢女のしてきたこと全部が正しいことなの。分かるでしょ? 隊長が絢女ともう一度会えて、元気な姿を確認出来て、とても、とても喜んでいること。あたしも嬉しい。絢女が帰って来てくれて。また、あんたと一緒にいられる。ギンは失くしてしまったけど、入れ替わるように絢女が戻って来た。そのことにあたしがどれだけ救われているか、絢女には分かんない?
 笑って、絢女。隊長の為に。あたしの為に。
 そんな思いを込めて、あたしはグラタンをフォークに乗せた。
「ほら、絢女。グラタン、美味しいわよ。食べてみて」
「ありがとう」
 あ、笑った。

 井上織姫の家に戻って、瀞霊廷との通信装置を通じて、総隊長に報告をするつもりだった。詳しいことは戻ってからにしても、最低限、俺と姉さまが姉弟であることは伝えて、姉さまがごたつかずに尸魂界に戻れるようにしておきたかった。しかし、浦原商店の地下で発生していた霊波障害が回復していないようで、どうしても瀞霊廷に連絡が取れなかった。
 霊圧から、修行の為と瀞霊廷に一時帰還していた朽木ルキアが現世こっちに戻っているのは分かっていた。破面アランカル虚圏ウェコムンドに引き上げた後、黒崎と朽木ルキアは俺たちとは合流しなかった。おそらく、井上織姫と一緒に黒崎の家だろうと、俺は判断していた。
 姉さまにこのアパートの家主である井上織姫のことを説明し、彼女が先遣隊の一員である朽木ルキアと行動を共にしていることを話した時のことだ。
「冬獅郎、ルキアさまは…、その…朽木副隊長とのご兄妹仲は…どう…?」
 口ごもりながら姉さまが尋ねた。
「え?」
 面食らって姉さまを見返す俺。その横で、
「ああ」
と松本が頷いた。
「そっか、あんた、朽木隊長の奥さんと仲良くしていたっけね」
 はぁあ?
「もしかして、朽木が緋真さんの妹だって、絢女、知ってた?」
「ええ。緋真さまは亡くなるまでずっとルキアさまを捜して、案じていらしたから。乱菊が知っているということは、朽木副隊長…、いえ朽木隊長はそのことを公表…、なさったの?」
 朽木白哉が六番隊の隊長に就任したのは姉さまが行方不明になった後のことだ。だから、姉さまはつい朽木副隊長と呼んでしまっていた。姉さまと松本が交互に語ったことによると、隊務に必要な文書を借り受けに姉さまが朽木家を訪れた際、病床にあった朽木の奥方の話し相手を頼まれたのがきっかけで奥方に気に入られ、彼女が亡くなるまで朽木家に出入りするようになったそうだ。妹のルキアの話もその時に奥方の口から聞いていたという。姉さまは朽木が義妹と奥方との関係を公表しなかった理由さえ、朽木から聞かされていたと言った。
「緋真さまに似ているから気に入ったなんて…、そんな理由を聞かされて、ルキアさまが納得するとは思えなかったの。でも、緋真さまの願いと、その約束を守ろうとしていらっしゃる朽木…隊長を知っていたから、口出しなんか出来なかった。ご兄妹仲がギスギスしているって噂されていて、ずっと心配だったのだけど…」
「噂って…、姉さま?」
 奥方と親しくて、朽木と奥方の他は誰も知らないような秘密も打ち明けられていたほどの姉さまが、何で朽木の兄妹仲を噂でしか知らないんだ? 俺の疑問が分かったのだろう。松本が解説してくれた。
「絢女が朽木のお屋敷に出入りしていた頃、ひどい中傷が広まっていたんです」
「中傷?」
「朽木隊長の奥さんって、流魂街出身だったじゃないですか?」
「ああ。それは聞いているが」
「…だから、朽木隊長はいや好みだなんて陰口を言われていて、その…、病気で床に就いている奥様は役には立たないから、代わりにやっぱり流魂街出身だった絢女を、とかって…」
「何だって!」
 思わず、怒りの余り、俺は机をぶっ叩いていた。だが、
「変に邪推して囃し立てたがる人はどこにでもいるわ」
と姉さまは静かに俺を諫めた。
「だからって!」
「そうね。乱菊も、七緒さんも、冬獅郎と同じように心配して怒ってくれたわね。でも、私はどうでもいい人たちが無責任に流す中傷なんか気にならなかった。それより緋真さまの方が大事だったのよ。朽木ふ…隊長からもずいぶんと謝られたわ。朽木隊長は本当に緋真さまのことを愛しておいでだったから、私なんかを相手にしてるなんて誹謗は不本意だったでしょうに」
「…姉さま、あのな?」
「だから、ね。噂を消す為に、緋真さまが亡くなられた後は朽木隊長とは交流を持たないって約束していたのよ。ルキアさまのことは気がかりだったけど、朽木隊長と妙な噂を立てられた私がルキアさまに近付いたりしたら、ルキアさまにあることないこと面白がって吹き込む人も出て来るかもしれない。だから、離れたところから心配しているしかなくて…」
「そうか」
としかもう言えなかった。
「でも、ご公表なさったのね? それで、朽木隊長とルキアさまのわだかまりや誤解は解けたの?」
 あくまでも、朽木と義妹いもうとのことが姉さまは心配らしい。
「朽木はもう開き直ってるぞ」
 安心させる為に、俺はそう答えた。
「義妹に対する愛情を隠さなくなった。今じゃ、朽木のふたつ名は『シスコン』だ」
「そうなの…? それじゃあ、ルキアさまは?」
「朽木妹の方は、まだ少し遠慮があるか?」
と俺は松本を顧みた。
「そうですね。でも、朽木隊長の愛情は疑っていないと思いますよ。何たって、命がけで身を挺して助けて貰ったんですから」
「身を挺して?」
 姉さまは怪訝に訊き返して来た。双殛の丘で起こったことのうち、本筋に関係ないことは話していなかった。だいたい、起こったこと全てを伝えられるわけもないし。朽木が義妹を庇った経緯は、浦原商店で話に出なかったことだ。俺は姉さまにそのことを説明しようとした。といっても、その時は藍染にぐっさりやられて、卯ノ花の救命措置の真っ最中だった俺も、そこらへんは松本や阿散井からの伝聞なんだが。
「ああ、市丸がな」
「…?」
「藍染に命じられて、朽木妹を殺そうとし…、て…」
 目を見開いて、呆然と俺を見返す姉さまに俺の言葉は途切れてしまった。傍らで、松本が、あちゃあ、とでも言いたそうな顔をしている。
「ギンが…ルキアさまを?」
 そうだ、姉さまにとって市丸は同期の友人で、上官だった。姉さまが行方不明になる直前、意識を失う前に最後に見たのも    姉さまを救援に来た市丸    
 しかし、市丸が藍染に従って叛乱した話を浦原商店でした時は、驚いていても冷静だったのに。何故、市丸が朽木ルキアを殺そうとしたことに、そんなに驚いているのだろう。
 姉さまは、ふ、と息を吐いた。
「そう…」
 表情は冷静さを取り戻していたが、ぽつりと呟いた声音には切なさが滲んでいた。慌てたように、松本が取り繕った。
「絢女。あんたも今日は疲れたんじゃない? そろそろ、お風呂に入って寝ようか」
「そうだな。そうした方がいい」
と俺もついそれに乗っかってしまった。それくらい、先ほどの姉さまの動揺は破壊力があったのだ。
 市丸はいかにも松本が本命みたいに振る舞っていたが、実は姉さまのことが好きだったらしい。姉さまはどうだったんだろう? 俺は昔、姉さまが付けていた髪留めのことを思い出していた。黒漆に菖蒲の図柄の蒔絵が施された、とても綺麗な細工の髪留め。装うことを禁忌にして、ばあさんみたいな地味で色気のない着物しか纏おうとしなかった姉さまが、唯一身に付けた装身具だった。友達に貰った、と姉さまは俺に言った。だが、俺は、姉さまが憎からず思っている男から贈られたものだと気が付いていた。もしかして、あの髪留めは…。
 そそくさと、松本が風呂の準備をしに行った。寝間着を出したり、布団を敷いたりしている松本を、姉さまが手伝い始める。姉さまの市丸に対する感情は気がかりだったが、再会してすぐに根掘り葉掘りと追及することは出来ない。それに、確かにもう遅い。寝んだ方がいい頃合いだった、俺たちも、姉さまも。

 夜中に目が覚めた。
 隣の布団には浦原さんが提供して下さった絢女の義骸が横になっていた。
「絢女?」
 義骸は空っぽだった。眠っているとばかり思っていた絢女は、気が付かないうちに義骸を抜け出したらしい。慌てて霊圧探査を行ったら、あっさりと居場所は判明した。このアパートの屋根の上だ。そういえば、以前、隊長も雛森と通信で話して落ち込んだ時、この屋根の上で黄昏れていたっけ。やっぱり姉弟なんだなぁ。妙なところで行動が似ている。
 あたしも義骸から抜け出して、霊体になって屋根に登った。
「何してるの、こんなとこで?」
「月を見ていたの」
「そう? 風邪ひくよ?」
「大丈夫」
 絢女は動きそうになかったので、あたしも隣に腰を下ろした。絢女の横顔を盗み見る。その表情は凪いでいてとても静かだったけれど、月明かりに照らされた瞳の奥で微かに揺れるものがあった。
「ギンが朽木を殺そうとしたこと、そんなに吃驚した?」
 我ながらずけずけと訊いたもんだ。絢女は何か言いたげに唇を動かしたけど、結局、何も言わなかった。
 あたしは問いを重ねた。
「ギンはあたしが本命でーす、みたいな態度で周りを誤魔化していたけど、本当は絢女のことが好きだったんだよ。知ってた?」
 今まで、敢えて尋ねなかった。それをとうとう口にしてしまった。絢女は、
「知ってた」
とぽつりと、簡潔に応えた後、しばらくしてから付け加えた。
「ギンは、私には隠す気がなかったから…」
 ああ違う。隠す気がなかったんじゃなくて、隠せなかったの。あの嘘の上手いアイツが。いっつも飄々として、人を煙に巻くのが得意なアイツが。あんたへの気持ちは隠せなかった。他の人は欺せても、絢女、あんた対しては嘘で偽れずに、だだ漏れになってしまうくらいに、ギンは絢女が好きだった。
 でも、そんなこと、絢女だって理解っている。絢女はあたしなんかよりずっと他人の気持ちに敏感だもの。ギンが隠したくて隠せなかったことを承知した上で、わざと隠す気がなかったって言い方をした。
「ギンはね、ルキアさまが緋真さまの妹だってことを知っていたのよ」
 絢女の言葉に、思わずぎくりと肩が撥ねてしまった。
「私と朽木隊長がルキアさまのことを話しているのを、隠形を使って立ち聞きしていたから」
 あ、そういうことね。あたしに話してない秘密をギンにだけ打ち明けていたのかって、危うく落ち込むところだった。
「知られてしまったから、私もギンには色々と相談したわ。秘密だから、知っているギンにしか話せなかったし、おせっかいでもルキアさまと朽木隊長が不仲だって噂が心配でたまらなかったの」
「うん」
「だから、ギンがルキアさまを殺そうとしたことが…」
「信じられなかった?」
 あたしの視線から逃げるみたいに、絢女は顔を伏せた。
「自分の傲慢さに落ち込んでいるの」
と絢女は言った。あんたが傲慢だっていうなら、世の中のほとんど全部の人は超がつく傲慢になってしまうけどね。
「ギンの気持ちに気付いていたのに、私、知らないふりをしていたわ。受け入れられなかったから」
「それは、隊長を護らなきゃならなかったから? あたしに黙っていたのと同じ理由?」
「そうね。その通りよ。ギンを巻き込みたくなかった。私のせいで危険な目に遭わせたくなかった。だけどね、そのくせして、ギンはいつまでも私の味方だって思い上がっていたの。絶対に、私のことも、私の大事なものも守ってくれるって、勝手に思い込んでいたわ。傲慢だと、乱菊も思うでしょ?」
 あたしは否定も、肯定も返せなかった。
「…ギンは藍染隊長に傾倒していたから…、だから、藍染隊長に従って叛乱に加わったことは、つらいけど事実として受け止められた。でも、ルキアさまのことは受け止められなかった。知っていたのに、ルキアさまが緋真さまの妹だって知っていたのにって…」
 絢女は溜息をついた。
「だけど、仕方ないのね。四十五年…経っているから。私を助けに来てくれたギンを見たのは昨日のことみたいなのに、でも、実際は四十五年経っていて…」
「そう…ね」
「好きだった相手が自分勝手でつまらない女だったって気が付いて、気持ちが醒めるには充分な年月だわ」
 醒めてなんていない。ギンはまだ絢女が好きだ。でも、それは慰めにはならないって、あたしは知っていた。ギンが藍染に付いた時点で、あたしたちは敵対してしまったのだ。あの双殛の丘で、反膜ネガシオンに包まれて虚圏に去る直前、ギンはあたしに、
「ご免な」
って謝ったけど、あの謝罪があろうとなかろうとギンは敵。ギンの手を離してしまったあたしには、もうギンが何を望んで藍染に従ったのかも分からなくて、あの言葉は気休めにさえなっていない。それと同じ。まだ好きでも、醒めてしまっていたとしても、どちらであろうともう絢女には意味がないのだ。
 月が雲で翳って、辺りが一段と暗くなった。冷えた秋風が吹き抜けて、あたしはぶる、と身震いした。
「戻ろう、絢女」
 あたしは促した。真下の織姫の部屋で全力で狸寝入りを続けながら、隊長は絢女を心配しているはずだ。
「風邪ひくよ」
 もう一度、屋根に上がった時に告げたのと同じ言葉を繰り返したら、絢女は今度は頷いた。
「ごめんね、乱菊。せっかく会えたのに、何だか辛気臭い話ばっかりしてしまって」
「気にしないで。あたしもちょっと、ギンのこと話したかったし…」
「ありがとう」
 絢女はもう一度、夜の空を、雲の向こうに隠れてしまった月に視線を向けた。ギンみたいだ、とあたしは思った。手が届かなくて、姿さえ雲に覆われて…。
 もう、月は雲間から姿を現しそうになかった。

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 雲隠れの夜半の月

 「現世で絢女と冬獅郎が再会してから尸魂界に帰るまでの冬獅郎・乱菊・絢女の様子」というリクエストで何でここまで後ろ向きで薄暗くなるんだ? まぁ、理由は乱菊姐さんが述べていたように絢女の過剰な自省癖と市丸兄さんにあるわけですが。
 しかしながら、冬獅郎・乱菊・絢女と揃ったら、市丸兄さんは避けて通れないわけで。本当は雛森ちゃんも避けられないところなのですが、あの娘はまだ護廷に踏みとどまっていますから、市丸さんに比べると後ろ向きになる要素は少ないと言えます。
 タイトルは小倉百人一首にも採用されている紫式部の短歌「めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな」から。この歌、Mさんはずっと薄情な恋人をなじる歌だと思っていました。今を去ること〇年前(〇にはお好きな数字をお入れ下さい)、初めて百人一首を手にした時に付属していた解説本にそんな内容としか汲み取れない解説文が掲載されていたものですっかりそれに騙されておりました。しかし、実際は幼馴染と久方ぶりに再会したものの彼女に用事があって時間が取れず慌ただしい、本当につかの間の再会だったことを惜しむ歌だったようです。絢女と市丸さんは再会出来てすらいないわけですが、「雲隠れになった夜半の月」が市丸さんっぽいように感じたのでこんなタイトルになりました。
 何というか、読み返すとヤマもオチもない話になってしまった感はあります。切なめを目指していたのですが、切なさは表現できているのでしょうか?
  ゆうこさま、リクエストありがとうございました。ご期待に添える話だったかは微妙ですがお納めいたします。

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2017.11.15