April Fool Love
日当たりのよい図書館の窓際。春の陽射しがぽかぽかと背中を
ぺち、と額にひんやりとしたものがぶつかって、織姫はうっすらと目を開けた。
目の前、数cmに自分のノートがある。
「へ?」
慌てて勢いよく頭を上げた織姫は、自分の額にぶつかったのが誰かの掌だったのを知った。
「おはよ」
笑いを堪えながらの声に、
「黒崎くん!?」
大声を出しそうになり、織姫は慌てて自分の口を塞ぐ。
「な、な、何で?」
声は何とか潜めることに成功したが、動揺は消せずにどもってしまった織姫に、
「あー、もうちょっとで机に激突しそうだったから」
と一護は答えた。
「え、激突、え?」
ぽかぽか陽気の居眠りで知らないうちに机にぶつかりそうになったのを一護が止めたのだと、織姫はようやく理解した。真っ赤になってうろたえる彼女に、一護は笑いを噛み殺した顔だ。
「気持ち良さそうに寝ていたな」
「ううっ…」
織姫の顔の赤味が増し、茹で上がったばかりの蛸のようだ。彼女は必死に気を取り直すと、
「黒崎くんも勉強に来たの?」
と尋ねた。
「いや、この間借りた本を返しに来たんだ。そしたら、井上がいたから…」
「あ、そうなんだ」
会話が途切れた。
せっかく、思いもかけずに一護と会えたのだ。もっとおしゃべりしたい、と望む心と裏腹に言葉はうまく紡ぎ出せない。何となく、気まずい思いで黙り込んでしまった織姫に、
「二年になったら、」
と一護が言った。
「あ、うん?」
「クラス、分かれちまうな」
「…そうだね」
父の跡を継ぐと明確に意識しているわけではないが、一護は医学部志望の理系である。一方、小学校教諭を目指す織姫は文系なので、クラスが分かれることは確実だった。
「井上」
「何?」
「地歴は何を選択した?」
「日本史だよ。黒崎くんは?」
「俺も日本史。理系なら地理の方が有利ってアドバイスされたんだけど、歴史の方が面白そうだったからな」
「そうなんだ」
「日本史…。同じクラスになれるといいな」
一護の言葉に織姫は目を見開き、それから、勢いよく、
「そうだね!」
と肯定を返した。
再び、会話が切れた。一護の言葉が嬉しくて頷いたものの、それ以上、何を言えばいいのか織姫には分からなかった。もどかしげに焦っている織姫を一護はしばらく見つめていたが、やがて、意を決したように深く息を吸ってから、
「井上」
ともう一度呼びかけた。
織姫の眸が、何? と問いたそうに一護に向けられる。
「あのさ…」
「ん? 何、黒崎くん?」
「俺と…」
「黒崎くんと?」
次の言葉はなかなか発せられなかった。気の長い織姫も何事だと焦れ始めた頃、ようやく、一護はぼそりと吐き出した。
「 付き合わねぇ?」
「え?」
織姫はぽかんと一護を見返した。何を言われたのか、咄嗟に理解出来なかったのだ。
「今…、何て…?」
「だからっ!」
一護は照れ臭さの余りに織姫から視線を逸らしてしまった。
「俺と付き合わねぇかって訊いたんだ」
「付き合うって…?」
日頃のトリップした織姫の思考回路に思い至り、一護は慌てて言い足した。
「買い物に付き合ってくれとか、そんなんじゃねぇぞ。つまり、その…、ええと…、俺の…かの…じょ…」
気恥ずかしくて後半はごにょごにょと口の中で呟いた一護は、織姫から視線を逸らしたままだったので、彼女の変化に気付かなかった。一護の言葉を理解すると同時に満面に朱をのぼせた織姫は、最初、驚愕と歓喜が入り混じった表情をしていた。けれど、突然、本当に突然、はっとしたように瞠目し、それから、霜にやられた植物のようにみるみると萎れていったのだ。
織姫から視線を逸らしたままで返答を待っていた一護だったが、あんまり反応がないので、そっと彼女を伺った。織姫は俯いていて、どんな顔をしているのかよく見えなかった。
「いの、」
呼びかけは最後まで言えなかった。ほとんど同時に、織姫が、
「黒崎くん…」
と呟いたのだ。その声が幽かに震えていた。
「ごめんね」
「え?」
「あたし、その嘘、笑えない」
かたん、と椅子を引いて、織姫は立ち上がった。机の上に広げたノートや教科書もそのままに、彼女は一護に背を向けた。
逃げた。
「おいっ!?」
何が起こったのか分からず、一護は呆けた。だが、それは長い時間ではなく、すぐに彼は立ち上がった。織姫の目に涙があったような気がするのは、多分、見間違いではない。
(くそっ、何がどうなっているんだ?)
全く訳が分からなかった。何で「嘘」になるのか、彼女の思考が理解できなかった。ばたばたと図書館を全力疾走する彼を、他の利用者が非難がましい目で見ているのは承知していたが、
(悪い、非常事態なんだ!)
と心の中で謝って、一護は織姫を追った。鬼の形相をしている司書の前を走り抜けた時、カウンターに表示してある本日の日付が目に入った。
四月一日。
エイプリル・フール、という言葉に思い至ったのは、廊下に飛び出した後だった。生真面目な日本人気質に馴染まないのか、ずいぶん早くから知られている割に、いまいち定着しきれない西洋のイベント。嘘をついて人を騙すことが許される日 。
(エイプリル・フールの嘘だって思われたのか!?)
よりによってこんな日に告白してしまった己の迂闊さを呪うと同時に、腹が立った。
(嘘にされてたまるかよ!)
清水の舞台から飛び降りる、という慣用句があるが、一護にしてみれば東京タワーから飛び降りるくらいの勇気を振り絞った告白だったのだ。
図書館の入口で、織姫に追いついた。
左手で彼女の肩を引っ掴み、右手で彼女の手首を捕えて拘束する。
「嘘じゃねぇ」
織姫が振り向くよりも、言葉を発するよりも早く、一護は怒鳴った。びく、と織姫の肩が震えた。彼は慌てて、声を落として言い直した。
「嘘なんかじゃねえんだ」
「…」
「今日が四月一日だってことも、たった今、気付いたんだ。嘘なんかじゃねぇよ」
「…」
「井上…」
背を向けたままで何も言わない織姫に、一護は真剣にどうしていいのか分からなかった。
「何か言ってくれよ、井上」
弱りきった一護の懇願に、
「手…」
と織姫は小さな声で返した。
「あ?」
「…離して」
言われて、一護は織姫の手首を掴んだままだったことに気付いた。
「あ、悪い」
と離しかけたところで思いとどまる。
「逃げねぇって約束してくれなきゃ、離せない」
織姫が頷いたので手を離す。手首がうっすらと赤くなっているのを認め、一護は自分がどれだけきつく彼女を掴んでいたのか知った。
「うわっ、井上、悪い」
織姫は首を横に振った。
「平気…」
「けど、こんな赤くなって…」
「逃げ出したあたしが悪いの。黒崎くんは悪くないよ」
織姫はぎこちない動作で振り向いた。その瞳が潤んでいるのを見て、一護の胸が軋んだ。
「悪かった、井上」
「ううん。あたしが勝手に勘違いして…」
「いや、よりによって、こんな勘違いされそうな日に告った俺が悪い」
実を言うと、少しだけ織姫に対しても腹を立てていたのだ。たとえエイプリル・フールでも、一護は人の心を弄ぶような嘘はつきたくない。こんな性質の悪い冗談を口にする男に織姫には見えていたのか、と考えると面白くなかった。けれど、彼女の泣き顔を見たら、そんな些細な不快など消し飛んでしまった。
「本当は、ホワイト・ディの日に言うつもりだったんだ」
それなのに気恥ずかしさからどうしても言い出せず、ずるずると半月も引き延ばしたのがそもそも悪いのだ。
「ホワイト・ディ…?」
「ああ。その…、井上、ヴァレンタインにチョコ、くれただろ?」
織姫は目を瞠った。
確かに、織姫は一護にチョコを贈った。だが、面と向かって渡したわけではない。渡そうとしてどうしても叶わなくて、結局、放課後の遅い時間に、誰もいない教室でこっそり一護の机に入れたのだ。もちろん彼はすでに下校した後だったから、実際に一護がチョコレートを見つけたのは翌日になる。
「どうして…?」
チョコには名前もメッセージも入れなかった。それなのに、どうして織姫からだと判ったのか。
「違ったか? 箱に井上の霊圧が残ってたからそうだと思ったんだが」
「あたしの…霊圧?」
「ああ。ありがとな、井上。チョコ、美味かった」
エイプリル・フールの嘘ではないというのなら夢ではないだろうか、と織姫は思った。ほっぺたを力いっぱい抓ってみる。
「痛い…」
「あの、井上? 漫画じゃねえんだから」
「だって…」
「夢でも、嘘でもねぇから。頼むから信じてくれ」
そうだ、と一護はブルゾンのポケットを探った。指先にぶつかったものを取り出し、
「これ…」
と織姫に渡そうとして、一護は固まった。
天使の絵がエンボス加工された白い化粧箱は角がぐしゃりと潰れていた。小さな金色のリボンが付いていた筈なのだが、そのリボンも紛失し両面テープの跡が丸く残っているばかりだ。
「 」
箱を差し出したまま絶句している一護に、織姫がおずおずと、
「これ、貰ってもいいの?」
と尋ねた。プレゼントというには余りに小汚く潰れてしまった箱に、一護が困惑しきっているのは理解った。けれども、織姫はそんなことは少しも気にならない。というよりも「ホワイト・ディに言うつもりだった」という先ほどの一護の言葉が、無様に潰れた箱のおかげで急速にリアリティを増してきたのだ。
「あ、ああ。悪い、箱、潰れちまってて」
「ううん」
「ずっと、今日こそ、明日こそ、って…」
「ありがとう、黒崎くん」
「ごめんな、汚くなっちまって」
「あの…、黒崎くん、開けてみてもいい?」
「ああ」
肯定したものの、気恥ずかしさに一護はあさっての方角に視線を泳がせてしまった。ごそごそと、織姫が箱を開ける気配だけに耳を凝らす。
「…かわいい…」
織姫が洩らした声に、一護は安堵した。気に入らなかったらどうしようと内心、戦々恐々としていたのだ。
「これ、本当に貰ってもいいの?」
「いらねぇって突き返されたら、俺、立ち直れないんですけど?」
「ありがとう、黒崎くん」
「あ、いや」
そうっと視線を織姫の手元に下ろすと、彼女は貰ったばかりのリングを指に嵌めているところだった。
「すごい、ぴったり」
左の中指にきれいに納まったリングに、織姫の頬にようやく笑みが浮かんだ。
「黒崎くん、これ、遊子ちゃんが選んでくれたの?」
一護がアクセサリー・ショップでリングを選ぶなど想像がつかない。きっと、妹にでも頼んだのだろうと織姫は思ったのだが、
「…いや」
と一護はかぶりを振った。
「ルキアを拝み倒して、白玉あんみつで付き合って貰った」
「朽木さん? あ、じゃ、朽木さんが選んでくれたんだ」
「あ、や…。まぁそうなんだけど、でも、ルキアが選んだ候補の中から、これに決めたのは俺だから」
そこだけは、ちゃんと伝えておきたかった。
「黒崎くんが?」
「ああ」
プレゼントはリングと決めていた。
一月ちょっと前、一護たちは謝罪したいという市丸ギンと彼の監視役として付き添ってきた冬獅郎の訪問を受けていた。侘びだと高級鉄板焼を奢られた後、一護と織姫はギンが乱菊から命じられた買い物に付き合ったのだが、その時にギンが、
「リングは女の子にとって特別なアクセサリーだ」
と告げた言葉が耳に残っていたのだ。
とはいえ、女の子のアクセサリーなんてどれを選んでいいのか見当がつかなかった。だから、ルキアに織姫が好みそうなものを何点か選んで貰った。「これも可愛い」、「これも井上に似合いそうだ」とルキアが嬉々として選び出したリングは、アクセサリーにはまるきり疎い一護の目から見ても、確かに織姫によく似合いそうな華奢で可愛らしいものばかりだった。フルーツ・キャンディみたいな色合いの半貴石の飾りがついたリングの中で、最終的に一護の目に留まったのは、V字の形状のシルバーの台に雫型の
まじまじと一護とリングを見比べている織姫に、
「まだ、夢かもしれないって疑ってるのか?」
と、一護は問うた。織姫が曖昧な肯定を返す。
「だったら、今日は返事をくれなくていい」
一護は続けた。
「俺、明日もここに来るから、その時に返事をくれねぇかな」
「明日…?」
「ああ。そのリングが明日になっても消えてなければ、嘘でも、夢でもないって納得出来るだろ? だから、明日」
「…うん」
と織姫は頷いた。
「待ってるから」
いっぱいいっぱいだった一護はそれだけ言うと、くるりと背を向けた。その首筋が朱に染まっているのを認め、織姫もまた顔面の火照りを甦らせた。
足早に織姫から遠ざかっていく一護を引き留めることも出来ずに、織姫は見送った。彼の背中が角を曲がって見えなくなった。
織姫はリングの嵌まった自分の指に目を落とした。
ゆらゆらと揺れる