Love Affair
歓楽街にあるビル。一階には花屋とランジェリーショップ。二階から上には小料理屋、スナック、クラブなどが入店している典型的な飲み屋ビルの最上階に、バー、「プルート」はあった。
この店は四楓院夜一の気に入りの店だった。マスターはロマンス・グレイの髪が渋い老境の男だ。その年齢にしては背が高く、姿勢のいい彼はほんの少しだけ一番隊副隊長の雀部に似ていた。もの静かで余計な無駄口は一切叩かないが、夜一が話し相手を欲しがっている時には敏感に察して、煩わしくない程度におしゃべりに付き合ってくれる。そんな気配りが好ましく、夜一はかれこれ十五年以上、この店にふらりと立ち寄るようになっていた。十五年、全く変わらぬ若さを湛えている夜一のことを、もしかしたら、マスターは内心不審にも、気味悪くも思っているかもしれない。それとも、美容整形を駆使して若さを保っていると呆れているだろうか。彼の本音がどこにあるかは知らないし、知りたいとも思っていない。夜一が訪れると、柔和な笑みを浮かべて、
「いらっしゃいませ」
と出迎えてくれる。それが夜一には重要なことだった。
プルートというのはローマ神話における冥府の王たる神の名だ。だが、昔、夜一が店の名の由来について尋ねた時、マスターは幽かに笑みを浮かべ、
「表向きはそういうことにしておりますが、実はポーのファンなんですよ」
と内緒話をするように打ち明けた。アメリカの作家、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「黒猫」は夜一も読んだことがある。主人公を破滅させる飼い猫はプルートという名だった。その話を聞いて、夜一はますますこのバーが気に入った。
飲み屋にもピンからキリまであるが、このバーが入っているビルは、どちらかといえばピンの方に属する店が集まっていた。社用とみられる客も多く、そのせいか、酔客といえども、それなりの節度のある者ばかりなのも、夜一には好ましかった。
プルートには、いつも夜一は一人で来た。もっと庶民的な居酒屋や一杯飲み屋の類なら、喜助やテッサイと連れ立って出かけることもあるが、このバーは夜一の隠れ家みたいなものだから、ここを訪れるのはひとりで、と決めていた。
尤も、帰りも一人で出ていくかというと、そういうわけではない。三回に一回は、彼女は男連れで辞する。相手はこのバーにやって来た客で、当然、行きずりの男である。それが目的で店を訪れているわけではないのだが、結果として、一夜の相手を得てしまう、ということはよくあることだった。褐色の肌に金の眸のエキゾチックな美女が、連れもなしに一人でしっとりと飲んでいるのだ。男の関心を惹いてしまうのは、全くもって当然のことだろう。
夜一は喜助と性的な関係を結んでいる。もう何百年越しの付き合いだ。口に出しては決して言ってやらないが、愛している、と称しても差支えないだろう。だが、彼女は彼だけに縛られることは望まないし、彼を縛ろうとも考えていない。夜一がしばしば行きずりの男と一夜を共にしていることを、喜助は承知している。夜一も彼がたまに街娼を買ったり、一晩だけの遊びの女を引っかけているのを知っている。知っているが、互いに何も口を挟まない。また、喜助が他の女と寝ても、夜一は別段、嫉妬を覚えたりはしない。そして、どうやら、喜助も同様らしかった。
良い、悪いではなく、夜一と喜助はそういう性分に生まれつき、そういう関係を育んで来たのだ。例えば、かつては同僚であった四番隊隊長の卯ノ花烈と十三番隊の浮竹十四郎などは脇目もふらずに互いだけを見つめ、求め合っていた。間違いなく、烈は十四郎以外の男は知らぬはずだし、十四郎だとて烈の他に女を知っているかというと怪しいものだと夜一は睨んでいた。だが、彼らの純粋な一途さを、夜一は羨望しない。かといって、蔑んだりもしない。彼らの愛の形はそういうものであった、と納得しているだけだ。
夜一は喜助に貞節を捧げる気はない。おそらく、ずっと喜助とは切れないだろうと確信しているが、彼だけを見つめ、彼だけに身を許すなどという堅苦しい関係は真っ平だ。実際、行きずりの火遊びではない、「恋人」と呼んでもいい間柄となった喜助以外の男がいたことは、過去に幾度もあったのだ。だが、どの相手とも長続きはしなかった。喜助の存在が理由ではない。彼らが喜助のようには夜一の奔放さを認めなかったからだ。一定以上関係が深まると、彼らは夜一を縛ろうとした。だが、何者からも自由でいたい彼女を縛ることなど決して出来ず、結果、破綻してしまうのだ。何度もそのようなことがあり、いい加減、懲りてしまった夜一は、ここ四十年ほどは特定の相手と付き合う真似はしていない。プルートを筆頭に、気に入りの夜の店で、相手を見繕っている。
その男は四十代前半くらいに見えた。身に着けているスーツは上等である。量販店の吊るしとは明らかに異なる、テーラーメイドの仕立てだと夜一は観察した。その佇まいからして、大手金融機関のディーラーか、商社マンかと見立てたのだが、話してみると、大型重機の製造を行っている重工業会社の課長だった。
プルートで一杯目のバーボンを飲み終え、おかわりを注文しようかとした時に、
「あちらのお客様からです」
とマスターがグラスを差し出して来たのだ。安直な造りのドラマやコミックスなどでしばしば描かれ、最早、ネタ扱いされているような一幕である。さすがにちゃんとした小説ではそういうシーンを読んだことはないが、これは作家のプライドの問題だろう。職業作家の矜持として、ネタになるほどベタなシチュエーションは書けないのだ。
だが。と、夜一は「あちらのお客様」をちらと確認した後、差し出されたグラスを手に取った。
現実の人間は案外と分かりやすい行動を取るものだ。安っぽい虚構の中でしか成立しないだろうと多くの人が考えているこの手の誘いは、実は夜の街では頻繁に行われている。夜一自身、こうして誘われたことはこれが初めてではないし、他の女が同様の手口に乗るのを幾度も見てきた。
グラスを手にしたのは奢られることの了承。ついでに、話しかけても構わないという意思表示だ。ただし、その後の展開まで受け入れたわけではない。経験の浅い男はしばしばその点を誤って、女がグラスを手にしただけで交渉成立と意気込んでしまうが、一夜の火遊びを好む奔放な女だとて、酒の一杯で身を許すほどには安くもないし簡単でもない。
幸いなことに、その男はこの手の駆け引きに慣れたふうだった。
顔立ちはいわゆるイケメンの類ではないが、少なくとも醜男ではない。年齢なりの貫録が備わった味わいのある顔つきをしている。単に造作が整っているだけののっぺりと中身のないイケメンには少しも関心がない夜一にしてみれば、外見についてはなかなかに好ましいタイプと言えた。
「日本の方ではありませんね?」
夜一の褐色の肌や、眸の金を見て、日本人だと判断する者はまずいない。
「お国はどちらで?」
問われて、
「さてのう?」
にやりと夜一は哂う。バーの輝度を落とした照明に、金の眸が猫のように煌めき、男は一瞬、息を呑んだ。
「この国に来てずいぶんになるからの。忘れてしもうたわ」
流暢であるが、奇妙に時代がかった言葉遣いがアンバランスだ。明治初期の華族の姫が使用人に対する時になら、こんな言葉使いをするかもしれない。
「子供の頃にいらしたのですか?」
夜一の見た目は二十代だ。雰囲気や服装は爛熟した大人の女の匂いをぷんぷんと振りまいているが、少なくとも顔立ち、肌の色つやや張り、身体の線を眺める限りでは二十代。どんなに老けて見積もってもせいぜい三十前半で、それ以上には見えない。だから、故郷を忘れ、流暢な日本語を操るほど長く日本にいると聞いた男は、子供の頃かと尋ねたのだ。だが、十五年以上前から夜一がこの姿のまま変わっていないことを承知しているマスターは、男には気付かれないように目の奥で苦笑いを零した。
「どうでもよかろう、そんなこと」
名を訊ねられたので、好きな名で呼べと答えると、男はほんの少し考えた後、
「ドゥニヤザード」
と答えた。
「千夜一夜か。シェヘラザードではなく、ドゥニヤザードというところが捻っておるな」
「高校生の頃の愛読書でした」
「ませた子供じゃのう」
船乗りシンドバッドの冒険や、アラジンと魔法のランプなどの物語は「アラビアンナイト」と称されて子供向きの本も出版されているし、ディズニーのアニメーション映画なども存在している。だが、子供向きの本には狂言回しのシェヘラザードも、その妹で姉とともに王に奉仕していたドゥニヤザードも出て来ない。その名がすらすらと出てくるということは、大人向けに翻訳された岩波文庫か、ちくま文庫あたりを愛読していたのだろう。気に入った、と夜一は思った。
「では、儂はそなたを『シャリフ』とでも呼ぶとするか」
「光栄です」
妻に裏切られて絶望し、国中の若い女に伽をさせては殺していた王の名はシャリフヤールである。賢王が残虐な王に変じてしまい、伽に差し出す女に窮した大臣を見かねた彼の娘のシェヘラザードが、自ら王の夜伽を買って出たのが千夜一夜物語の幕開けである。千夜一夜物語とは、シェヘラザードによる夜伽話であったのだ。
交渉成立。
男の奢りのバーボンを飲み干した夜一は席を立ち、男は彼女をエスコートして店を出た。
シティ・ホテルの一室のベッドで、傍らで泥のように眠り込んでしまった男を尻目に、夜一は身を起こした。裸のままシャワー室に入り、汗ばんだ身体を軽く流すと、彼女は身支度を整えた。
男と朝まで共に過ごす心積もりは全くない。ほんの数時間の遊びが終わってしまえば、赤の他人である。
彼は現世の人間にしては伽の経験が豊富なようで、それなりに女を悦ばす技術に長けていた。また、そのテクニックに自信があってのことだろう。最初のうちは、主導権を握った上で夜一を自由に弄ぶつもりでいたようだ。だが、しょせん、数百年を生きて、多くの男との場数を踏んだ夜一には敵わない。彼女の手管に翻弄され、望むままに奉仕させられ、今は精根尽きて眠っているという訳だ。
部屋を出ようとして、ふとくずかごが目に入り、夜一は眉を顰めた。使用済みのゴムが無造作に捨ててあったのだ。
「存外、デリカシーのない男じゃのう」
と夜一はゴムを摘み上げると洗面所に向かった。中身は流してしまい、ゴムは丁寧にトイレット・ペーパーでくるんでサニタリーボックスに捨てる。
「この儂に始末をさせるとはふとい男よ」
と彼女は嘯いた。
本当はコンドームは必要ない。
夜一は義骸に入っており、義骸には生殖能力はないからだ。エイズや性病などを警戒する必要もなかった。現世の人間との性交で病を
だが、現世でこの手の便利で性能が良い避妊具が発明されてからずっと、夜一は男には必ずゴムを装着させた。コンドームが発明される以前の相手には、絶対に体内で射精することを許さなかった。男との情事は愉しみたいが、その精が自分の胎内に放たれるのだけは、どうにもおぞましかったのだ。作り物の義骸に入っていたって、感覚は夜一のものだ。だから、絶対に体内射精は許さずにいた。
唯一人、喜助を除いては 。
夜一自身、どういう心理なのか掴みあぐねていたが、喜助だけは体内で射精されてもおぞましさを感じなかった。
彼と初めて関係を持ってから数百年。それから、彼以外の夥しい男と奔放に性交渉を経験してきた。だが、その精を身の裡に受け入れたのは、喜助以外には一人もいない。もちろん、その事実でもって、彼に操を立てているつもりは全くなかった。ただ、彼以外の男の精は生理的に気持ち悪くて受け付けられないだけだ。
もし。と、夜一は想像する。喜助がこの現世にさえも留まることを許されなくなってしまったなら。
夜一は彼に付き合って、現世を去るだろう。彼のいない現世は、きっとつまらないだろうから。落ち着く先はどこか分からないが、たとえ、行き先が地獄であっても、夜一は喜助に付き合う。この場合、遊び相手は必然的に地獄の亡者ということになるが、それはそれでなかなかにスリリングで楽しそうだ。だが、そうやって亡者と逢瀬を重ねても、喜助とは切れずに繋がったままに決まっている。
(もう研究は一段落ついたかの?)
ここ半月ほど、喜助は研究に没頭していた。研究にのめり込むと寝食を忘れる喜助だから、夜一はずっと彼に構われずに放置されていたことになる。
プルートに赴いたのは単に久しぶりにマスターの顔が見たくなったのと、旨い酒を飲みたくなったからなのだが、根底には疼き始めた女の性があったかもしれない。一夜の男に身体を宥めさせて、夜一は帰ってゆく。
生涯の共犯者である男の許へと、彼女は深夜の街を抜けてゆく。