Pietà


 その女性は、全身をチューブで繋がれていた。
 腕には点滴の管。口にも、鼻にも、呼吸や食事の為のチューブが挿しこまれている。意識はまだある、ということで、織姫が傍らに立つと、彼女は空虚な視線を少しだけ動かした。
 年齢は五十五歳のはずだ。けれども、末期の病に衰えたせいか、それとも、長年の荒んだ生活のゆえか、もっと年寄りのように織姫には見えた。今年六十七歳になる一番上の伯母の方がよほどに若々しく感じる。
「お母さん…」
 他に呼びようがなくて、仕方なく実感が籠らないままに呼び掛けると、虚ろだった女の表情が動いた。女はじっと品定めするかのように織姫を見つめた。やがて、かさかさに乾いた皺だらけの女の目尻から一筋の涙が零れ落ちた。

 三歳の頃に別れて以来音信不通で会ったことすらなかった実の母親が危篤だと報せて来たのは、織姫をずっと援助してくれていた伯父で、織姫の母親にとっては長兄に当たる人物だった。
「織姫には親とは言っても赤の他人みたいなものだし、今更、会いたくないなら無理には会わなくてもいい」
と伯父は言ってくれた。けれども、危篤で死にかけているという言葉が織姫を動かした。別れたのは三歳の時だから、記憶もない。きっと道で偶然すれ違っても、分からないような女性。しかし、織姫をこの世に送り出したのは間違いなくその人なのだ。ならば、ただ一度だけ会う為に見舞おうと、織姫は決めた。

 織姫の母親である静香は五人兄弟の末っ子だった。上四人が男の子で、ようやくに産まれた両親待望の女の子。しかも一番下の兄である四男とさえ六歳違い。長兄とは十四歳も歳が離れた娘だった。両親も、四人の兄たちも、彼女を溺愛し、どんな我儘も叶えてやった。
「そのせいで、静香はいつまでたっても幼稚なままで、身体だけ大人になってしまったんだな…」
そらの葬儀の後、伯父たちは織姫に懺悔するかのように語ったものだ。
 静香が織姫の兄である昊を産んだのは十九歳の歳。短大一年生だった時のことだ。相手は高校時代の一つ年上の先輩で、当時は大学二年生だった井上昴という青年である。既に中絶は危険といわれる時期に入ってから娘の妊娠に気が付いた両親は昴に「責任を取れ」と怒鳴り込み、その結果、静香と昴は急遽、結婚することになった。
 当時、静香の兄たちは全員がすでに実家から独立していた。長兄から三兄までは結婚し、自身の家庭を築いていたし、四兄は仕事で関西に赴任していた。だから、妹のことに目が届かなかった。
 夫となる意志も、父親になる覚悟もないままに、赤ん坊に対する責任を迫られてほぼ無理矢理に結婚させられた昴と、甘やかされて育ったお姫さま気質の静香と。人の親になる自覚がないままに親になってしまった二人に、ちゃんとした育児など望むべくもなかった。それでも、昊がまともに育つことが出来たのは、静香の両親が健在だったからだ。もともと、静香のことは甘やかし放題だった親である。昴に対しても、娘を妊娠させたと責め立てて結婚を承諾させたものの、彼がまだ学生であったことから、少なからぬ負い目も覚えていた。その為に、彼らは昊の世話を自主的に、ほとんど全部、請け負ったのだ。孫可愛さもあったかもしれない。
 まともな親ならば、自分の子供が祖父母に独占される状態を善しとはしない。だが、自身が子供のままで子供を持ってしまった静香と昴は、その状況をこれ幸いと受け入れた。育児は祖父母に任せ、二人は昊をペットのように気紛れに、自分の都合のいい時だけ可愛がった。
 祖母がクモ膜下出血で急死したのは、昊が小学校四年生の時だ。親から育児放棄ネグレクトされ、祖父母の世話で大きくなった彼は、年齢よりもずっとしっかり者で自分のことは自分で出来る男の子に育っていた。だから、静香の兄たちは妹夫婦が全く親にならないままであることを見抜ずに過ごしてしまった。祖母が亡くなって間もなく、祖父は認知症を発症した。子供の世話さえ出来なかった静香に、認知症の父親の介護など出来るわけがなかった。静香から泣きつかれた兄たちは父を介護施設に入れることにした。この時も彼らは老母がいなくなった実家が荒みきっていることに気付かなかった。いや、気が付きはしていたが、静香が認知症の父親の世話に追われ、他のことに手が回らなかったからだと思い込んでいた。
 祖父がいなくなり、両親と昊だけの生活。破綻しなかったのは、昊がそれなりに大きくなっており、静香は最低限の家事さえしていれば良かったからだ。昊は両親を単なる同居人と割り切っていて、愛情を求めなかった。学校には友達もいたし、目をかけてくれる先生もいた。偶に会う伯父たちは昊を可愛がってくれた。だから、両親に期待さえしなければ、平穏に暮らせると、たった十歳にして昊は悟りきってしまったのだ。昊と両親の一見は平穏な、けれども本質的にはとても危うい生活は、膠着状態のまま五年が経過し、そこで変化した。
 静香が織姫を産んだのである。
 昊を祖父母に育てさせた静香と昴にとって、子供は自分の身を飾るアクセサリーのようなものだった。実際、昊はしっかり者で成績も良かったから、静香や昴の友人や上司は「いい子だ」と彼を誉めそやした。そして、昊に対する高評価は親である静香たちへの称賛に直結していた。息子としてではなく、アクセサリーとしての昊に満足していた二人は、新しいアクセサリーとして第二子を欲しがり、織姫を産んだのだ。
 だが、彼らは育児の現実を知らなかった。産まれたばかりの乳幼児は傍から見ている分には可愛いが、実際に世話をする身になってみれば、ひたすら手が掛かるばかりの代物だ。お腹が空いたと泣き、お尻が気持ち悪いと愚図り、ただ寝転がっている以外に何ひとつ出来ない赤ん坊は世話をしなければ生きていけないということを、理屈では分かっていても実感として理解していなかった。
 結局のところ、二人が欲しかったのは見栄えのいい装身具であって、手の掛かる子供ではなかったのだ。当然のように、彼らは織姫も育児放棄した。乳が張って苦しいことがあったからか、静香は授乳だけは行った。だが、それ以外の世話は一切しなかった。織姫を育てたのは、実質的に昊である。朝起きて、真っ先に織姫のおむつを替える。学校の教師には母親が産後鬱で臥せっていると嘘の言い訳をして、昼休みに家に戻る許可を取って、おむつを替え、粉ミルクを飲ませてやった。沐浴も、泣いていたらあやすのも、昊の役割だった。夜泣きして煩いと、織姫を殴ろうとする父親から妹を庇い、彼女が泣き止むまで公園のブランコで夜を過ごしたこともある。彼の成績ならば、もっと上のレベルの進学校も狙えた。けれども、家から遠い高校では妹の世話が出来ないからと、家から一番近い中堅程度の高校に進学を決めた。
 その頃の彼はまだ、希望を持っていた。織姫がしゃべったり、よちよち歩きをするようになったら、俗に言う「可愛い盛り」になれば、両親も織姫をもっと構うようになるのではないかと。
 けれども、両親は変わらなかった。娘の面倒はすべて息子に任せ、自分たちの楽しみの為だけに遊び歩いた。
 昊は高校二年生の時に両親に見切りをつけた。そして、この時、初めて、彼は伯父たちに自分の家の問題を相談したのだ。甥に打ち明けられてようやく育児放棄を知った伯父たちは慌てて妹夫婦に説教したり、育児をするよう説得したりしたが、遅きに失した。
「織姫が腹いせに虐待されるから、説教は止めてくれ」
と甥に泣きつかれる結果に終わったのだ。昊の高校を卒業したら家を出て働く、織姫は自分が育てるという決意は固かった。出来る限り迷惑はかけないようにするから、就職の世話やアパートを借りる際の保証人などの援助をお願いしたいと頭を下げられて、伯父たちは自分たちの至らなさを責めながら頷くしかなかった。
 昊が織姫を連れて家を出てから四年後、父親の昴は胃癌で亡くなった。夫を亡くし、息子にも見限られた静香は淋しさから身を持ち崩した。アルコール依存症に陥り、サラ金に手を出したのだ。今度は、完全に破綻する前に兄たちが気付くことが出来た。彼らは実家の家や土地を処分して借金を清算し、妹をアルコール依存症の更生施設に入れた。けれども、厚生施設からは退院したものの、結局、静香は立ち直ることができなかった。兄たちの監視の目を逃れて逃げ出した静香は、そのまま失踪し、為に昊が事故死した時にも報せられなかった。

 母親だ、と言われてもどうしても実感が湧かない。まるで赤の他人だった。
 昊に言わせれば、「親としても、人としても最低だった」という人だ。
 けれども、織姫はこの女性から産まれたのだ。
「警察からの連絡で、迎えに行った時にはもう手遅れだった」
と静香の長兄である伯父は織姫に語った。
 失踪した静香は場末の酒場で酌婦のようなことをしながら、再び、アルコールに溺れる生活を送っていたらしい。荒んだ生活から肝硬変が進行し、路上に倒れていたところを発見されたのが四ヶ月前。警察が静香の身元を特定し、長兄に連絡したのが三ヶ月前。そして、
「織姫に報せるべきか悩んだ」
と伯父たちは言った。
 織姫の伯父たちは静香が昊と織姫に対して育児放棄という名の虐待を行ったのは、自分たちと今は亡き両親が彼女を甘やかし放題にして育てたからだと責任を感じていた。
 赤の他人も同然の静香の現状を報せても織姫も不愉快な思いをするだけだ、と主張する二番目の伯父の意見。しかし、血縁であるのはまぎれもない事実で、一切報せないのはどうかという三番目の伯父の意見。伯父たちとその妻である伯母たちは侃々諤々と議論をし、そして、事実だけを伝えること。会う、会わないは織姫の判断に任せ、それについて一切織姫に意見しないことという結論を出した。

 末期の肝硬変。
 顔には肝硬変特有の黄疸が現れている。もう長くはない、というよりもいつ死んでもおかしくはないらしい。
「お母さん」
 織姫はそっと静香の手を取った。
 血の繋がった肉親である。会えば、何かしら感情が動くかと思っていた。けれども、何の感慨も湧いてこない。チューブに繋がれた姿を見て気の毒だと胸は痛むが、それは肉親の情ではない。難病に侵された人のドキュメンタリーとか、事故で人が大怪我をしたというニュースに接した時と同じ、単なる同情だ。
 恨みの感情もなかった。亡くなった兄の昊は両親から育児放棄されたことも、同様に織姫を育児放棄し、時に暴力に訴える虐待を行ったことも記憶していたから、両親に対しては強い憎しみの感情を抱いていたと思う。けれども、物心つく前に兄によって助け出された織姫は、具体的に虐待されたことを覚えていない。ただ、兄から聞かされた話を事実として受け止めていただけだ。
 織姫の「双天帰盾」を「神の領域を侵す能力」と評したのは藍染だった。同じことは、浦原喜助や夜一からも指摘された。
「虚との闘いで傷を負った黒崎さんや、お友達を癒すのは構いません。けれども、人間が生きていく営みの中で発生する病や事故にまで干渉することは、それこそ、世界の秩序を乱す行為となります」
と尸魂界の卯ノ花烈からは釘を刺された。
 それでも、もし、八年の時を遡れるなら。兄が事故に遭う瞬間に立ち会えるのなら。譬え、世界の秩序を乱してでも兄を助けたいと織姫は思う。
 けれど、母親だという女性に対して、そんな強い感情は起こらなかった。ただ、病に侵され死にかけている人に対する憐憫から、織姫は手を握り呼び掛けた。
「お母さん」
と。実感を伴わないままに。
 静香は身動ぎひとつしないまま、ただ、涙を流し続けていた。

 野辺送りを済ませ、アパートに戻ると、一護が待っていた。
「ごめん、勝手に入らせて貰った」
と言った彼は葬式に参列してくれた時に着用していたスーツではなく、普段着のセーターとジーンズだった。おそらく、一度、家に戻って着替えて来たのだろう。
「親父から、今日は井上の傍にいてやれって言われてさ」
「そうなの…? ありがとう」
「これ、遊子から。今日は疲れていて食事の用意なんかできないだろうからって」
と一護は大きめの弁当箱を差し出した。
「一応、野菜しか使ってない精進料理だって、言っていた」
「ありがとう。遊子ちゃんにも後で、お礼の電話を入れなきゃ」
「俺から伝えておく。今日は気を遣わないでいい。疲れただろう?」
 織姫が見舞ってから、丁度、一週間後、静香は息を引き取った。容体が急変したと伯父から連絡があって、駆けつけたが最期の瞬間には間に合わず、静香は息を引き取った後だった。
「ただ…ね」
 着替えを終え、一護と向かい合って遊子の作ってくれた食事を口にしながら、織姫は言った。
「魂葬には間に合ったんだ」
「そうか…」
「あたしは見覚えがない人だったけど、死神さんの方はあたしのことを知っていたみたい。病室に来たあたしを見て、びっくりした顔をしていたよ。伯父さんたちにはお母さんの幽霊も死神さんも見えないから、お話しするわけにはいかなかったけど、伯父さんたちとあたしの会話であたしのお母さんだって分かったんだね。魂葬する前にあたしに会釈してくれて、すごく丁寧に魂葬して下さった」
「…そうか。良かったな」
と一護は呟いた。
 もうずいぶん前だが、一護は魂葬された魂が流魂街のどこに流れ着くのかを死神がコントロールすることが出来るものなのかと、恋次に尋ねたことがある。
「いや。死神の誰も、自分が魂葬した魂魄が流魂街のどこに流れ着くかなんて知らねえし、予想も出来ねえ」
というのが恋次の答えだった。
「ただ、な。昔っから、死神の間で囁かれている噂はあるぜ」
 霊力の高い死神に魂葬された魂魄は、番号の若い治安の良い場所に流れ着く。また、同じ死神が行った魂葬であっても、心を込めた丁寧な魂葬と、おざなりな魂葬では流れ着く場所が異なる。丁重に魂葬された魂魄ほど、安全で豊かな地区に辿り着ける確率が高い。
 それが噂の全容で、
「柴田だっけ? おまえが魂葬したガキ。あれが潤林安に流れ着いたことからしても、まるで根拠のない噂ってわけでもないのかもな」
 インコのシバタのことは、恋次はルキアから聞いたそうだ。代行とはいえ隊長級の霊力を持つ一護である。もちろん、柴田少年の境遇には同情して、魂葬はとびっきり気合を込めて行った自覚がある。そうして、少年の魂魄は西流魂街の一番街区に流れ着いた。偶然かもしれないが、古くから死神の間に言い習わされている噂と照らし合わせると、さもありなんと恋次は考えたようだ。
 だとすると、織姫の母親は少しはましな場所に流れ着けるのかもしれない。魂葬を行ったのは現世駐在の死神だろうから、霊力はそこそこといったところだろう。だが、織姫の目から見ても丁寧だったと感じるくらいの魂葬だったのだ。一桁の街区とはいかなくても、それなりに治安のいい地区に流れ着くのではないだろうか。
「そういや、お母さんのお骨は?」
「一番上の伯父さんが引き取って下さったの。うちにはお兄ちゃんの位牌があるから…。伯父さんがね、お兄ちゃんはお母さんたちを恨んでいたから一緒にいるのはお兄ちゃんが嫌だろうって…」
「そっか…」
「引き取っても良かったんだけど…。もうただのお骨だから…」
 魂魄が魂葬され、尸魂界に送られた以上、静香の遺体は抜け殻でしかない。荼毘に付された後の骨も、織姫のいうようにただの骨だ。昊の位牌と並んでいたところで、やはり一護によって尸魂界に送られた昊が文句を言うはずもない。
「黒崎くん…」
「何だ?」
「あたし、薄情なのかな?」
「何で?」
「お母さんが死んだのに、全然、悲しくないの」
と織姫はぽつりと呟いた。
「知らない女の人が死んだみたい…。可哀そうだなって思うけど、悲しくないの」
 一護は無言で箸を置いた。立ち上がり、織姫の向かいからすぐ隣に移動すると、彼女が持っていた箸を取り上げて卓に置いた。
「黒崎くん?」
 一護は織姫を抱きしめた。
「昊さんが恨んでいたからって、井上まで心を殺すことない」
「え…?」
「会いたかったんだろう?」
「…」
「母親に甘えたかったんじゃないのか?」
「…」
「昊さんは俺が魂葬した。もうここにはいない。昊さんに遠慮することなんてないんだ」
「…くろ…さき…くん…」
 幼稚な精神年齢のままに大人になり、母親になってしまったという女性だ。もし、元気な頃に会えたとしても、愛しては貰えなかったろう。昊のいうように、アクセサリーとして気紛れに可愛がられるだけだったに違いない。それでも、幼い頃、織姫は母親に会いたかった。周りにいる当たり前に母親がいて甘えられる子供たちが羨ましくてならなかった。それを口にすれば、兄が苦しむことを幼いながらに織姫は理解していた。そして、織姫を虐待する親から救い出してくれた兄の真心を踏みにじることも分かっていた。それ故、母親を慕う心も、会いたいと望む感情も蓋をして、鍵をかけてしまった。
 しかし。
「悲しいと思ったって、それは昊さんを裏切ることじゃないんだ」
 一護は言った。
「…悲しくなんてなかったよ…」
と織姫は弱々しく反論したが、一護は織姫を抱きしめる腕に力を込めただけだった。
「…お母さんはあたしのこと、全然構ってくれなくて…」
 やがて、織姫は呟いた。
「おむつも、お風呂も、離乳食も、みんな、お兄ちゃんがしてくれて…」
「…ああ」
「お父さんは、夜泣きして煩いからってあたしを殴ろうとして…。助けてくれたのはお兄ちゃんで…」
「そうだったな…」
「お兄ちゃん…、大学も行かずにあたしを育ててくれて…」
「知ってる…。昊さんは立派だった」
「…だから、あたしは…」
「井上…。それでも、おまえを産んでくれた人だ」
と一護は織姫を遮った。
「昊さんの言う通り、『毒親』って奴だったんだろう。井上を連れて逃げた昊さんは正しかったと思うし、井上を虐待したことも許せない。だけど…。だけどな、井上。おまえを産んでくれた。その一点だけは俺は感謝しているよ」
 腕の中で、織姫が大きく震えた。やがて、一護は胸元に水気を感じた。
 泣きじゃくるわけでもなく静かに涙を流す織姫を、一護はただ抱きしめ続けた。

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2013.11.20